第11章
寺の山門は冬の陽に乾き、梵鐘の縁だけが鈍く光っていた。
土方が手配したその寺に、沖田総司は一人で向かった。門前で一度だけ振り返り、浅く笑って会釈し――それきり背を見せる。風が袂を鳴らし、白い息が瓦の上でほどけた。
古賀隼人は途中で別れ、壬生の屯所へ戻った。
夕刻。屯所の道場には、冷たい空気が張りつめていた。
畳の匂いは重く、板戸を開けるたびに夜風が音を立てる。
「……呼ばれたから来たまでだ」
「組長だなんて、俺はまだ認めちゃいねえ」
一番隊の五人――鴇田弥三郎、榊原数馬、葛西与兵衛、久世要、井口虎松。
皆、浅葱の羽織を乱し気味に着込み、渋々と腰を下ろしていた。
視線には露骨な反発が宿っている。今朝の広間で、古賀の組長就任を真っ向から拒んだのは彼ら自身だったのだ。
畳の中央に進み出た古賀隼人は、黙して五人を見渡した。
視線を受けた隊士たちは、挑むように目を返す。
――今朝。
「沖田組長より劣る古賀に、一番隊は任せられぬ!」
そう叫んだ声が、まだ耳に残っていた。
医学生としての古賀隼人は、あの時、素直にうなずいた。
そのとおりだ。俺は沖田さんには及ばない。
理屈も事実も理解している。
だが――剣士としての古賀隼人は違った。
劣るだと? 侮辱だ。俺の剣を見ずに口を開くとは。
血潮の奥から煮えたぎるものが噴き上がり、喉の奥を灼いた。
はっきり言えば――ブチギレていた。
静寂。
道場の壁が軋む音すら耳に刺さる。
古賀の眼差しは氷のように冷え、五人を順に射抜いた。
「……来たな」
声は低く、刃の背で畳をなぞるように響いた。
鴇田が鼻を鳴らし、井口が腕を組む。
葛西と榊原は表情を崩さず、久世だけが沈黙のまま、影のように座している。
古賀の胸には、二つの己がせめぎ合っていた。
未来を知る医学生としての己は、怒りを押し殺せと囁く。
だが剣士としての己は、拳を震わせ、ただ一言を求めていた。
――見せてやる。
俺が一番隊組長に選ばれた意味を。
その決意が、道場の空気をさらに張りつめさせた。
吐息ひとつでさえ、刃が交わる前の呼吸のように重たく響く。
道場の空気は凍りついていた。
五人の浅葱の羽織が、闇に沈む焔のようにじっと動かない。
その静寂を、古賀隼人の声が破った。
「……笑わせるな」
五人の眉が動く。
古賀の口元は、皮肉にも鋭い弧を描いていた。
「俺が沖田さんに劣るだと? ああ、もう一人の俺は、そう思ったさ。だが――剣士としての俺は違う。言わせてもらうぞ。お前たちの目は節穴だ」
道場の空気が爆ぜた。
鴇田が舌打ちし、榊原が拳を握り、井口が立ち上がる。葛西の目には怒気が灯り、久世でさえ冷たい瞳を細めた。
だが古賀は構わず続けた。
「なら――試してみろ」
古賀は畳を蹴って一歩前へ。足音が木霊し、影が壁を揺らす。
道場の空気は張り詰め、畳の目が冷たく光っていた。
古賀隼人の挑発は、最後の一文で刃に変わる。
「――全員で来い。精鋭と謳うなら、俺に一太刀でも当ててみろ」
沈黙が一拍。
次の瞬間、怒りは一斉に声になった。
鴇田弥三郎が立ち上がり、畳を踏み鳴らす。
「舌先三寸で座を得たつもりか、借り物の組長! まずはてめぇの口から黙らせてやる!」
井口虎松が鼻で笑い、肩で竹刀を打った。
「精鋭を名乗る俺たちに一太刀でもだと? ――言うじゃねぇか、口だけの侍。お前の骨、ここで叩き折る」
榊原数馬は低く、しかし怒りを抑えきれない声音で。
「隊を玩具にするな。先で斬らず根で退かす――それが一番隊の槍だ。根ごとお前を退ける」
葛西与兵衛は静かに帯を締め直し、目だけが鋭く光る。
「刀は道具だ。抜くより落とす――お前の刀も、誇りも、十手ひとつで落ちる」
久世要は口角だけをわずかに引き、薄く笑った。
「影は息をする、数はもう出ている。五で十分だ、古賀――お前の影は軽い」
罵声が重なり、怒気は一気に燃え上がった。
古賀はその熱を真正面から受け止め、逆に高く笑う。
「上等だ。――精鋭の名、いまここで証してみろ!」
五人の堪忍袋が裂けた音が、確かに聞こえた気がした。
鴇田が一歩、井口が二歩、榊原・葛西・久世が扇状に広がる。
竹刀がそれぞれの手で正眼に立ち、乾いた木の響きが道場の梁に跳ね返る。
「かかれッ!」
怒声が重なり、五筋の影が一斉に古賀へ――。
古賀は半歩、静かに左にずらした。
笑いは消え、眼だけが凍てつく。
(罵りは受けた。――ならば、剣で答える)
畳を裂く風鳴り。
最初の一打が、闇の芯を叩いた。
竹刀が打ち鳴らされ、五人の精鋭が一斉に古賀へと襲いかかった。
その動きは獣の群れのように激しく、怒気をはらんだ迫力が道場を揺らした。
だが――古賀隼人の眼差しは氷のように冷ややかだった。
最初に飛び込んだのは鴇田弥三郎。
鋭い面打ちが頭上から振り下ろされる。
古賀は一歩も退かず、竹刀の柄頭を突き上げるように当てて弾いた。
「ぐっ……!」
衝撃が鴇田の胸を突き、膝が沈む。
そこへすかさず井口虎松が胴を狙って横薙ぎに竹刀を振るう。
だが古賀は振り返ることなく、体を半身にずらしただけ。
井口の竹刀はわずかに届かず、空を切った。
「馬鹿な……!」井口が息を呑む。
背後から榊原数馬の突きが迫る。
竹刀の先が古賀の背を貫かんとするが、古賀は上半身を少しひねり、ほんの数寸だけ角度を変えた。
突き出された竹刀は古賀の体を逸れ、そのまま柱にぶつかって「カンッ」と音を立てる。
榊原は自分の腕が痺れるのを感じた。
葛西与兵衛は機を逃さず、竹刀で古賀の手元を絡め取ろうとする。
だが古賀は一瞬だけ握りを緩め、竹刀を葛西の軌道から抜け出させた。
そして逆に竹刀の切っ先を葛西の喉元へ寸止めで突き付ける。
「……っ!」葛西の体が凍り付く。
最後に久世要が死角から横打ちを放つ。
古賀は振り返りもしない。ただ畳を「ドンッ」と強く踏んだ。
その一拍の響きに久世は反応し、わずかに動きが遅れる。
その刹那には、すでに古賀の竹刀が自分の攻撃線を封じていた。
一瞬、一瞬。
五人の猛攻は確かに速く、力強かった。
だが古賀の動きはそれ以上に正確で、一切の無駄がない。
怒りで燃えているはずの表情の下で、剣筋は寸分も乱れなかった。
「どうした――これが一番隊の精鋭か!」
古賀の声が道場に轟いた。
鴇田の面は弾かれ、井口の胴は空を切り、榊原の突きは柱に逸れ、葛西の絡めは外され、久世の影打ちは止められた。
わずか数呼吸の間に、五人の攻撃はすべて潰されていた。
汗を流し、肩で息をする五人。
その中央でただ一人、古賀隼人は姿勢を崩さず、呼吸も乱れず、竹刀を正眼に構えたまま立っていた。
「俺に触れもできずに、“沖田さんより劣る”とは――よく言えたものだ」
冷たく言い放つその声に、五人の心はざわめき、誰一人言い返すことができなかった。
「……今度はこちらからいくぞ」
低い声と共に、古賀が一歩を踏み出した。
その瞬間、五人の隊士たちは息を呑み、一斉に竹刀を構える。
だが、古賀の眼に映る彼らの動きは――まるで時が鈍く流れるように、遅かった。
最初に狙いを定めたのは鴇田弥三郎。
面に構えたその瞬間には、すでに古賀の竹刀が胸元へと突き入れられていた。
「ぐっ……!」
鴇田の体が大きく後ろにのけ反り、畳へと崩れ落ちる。
すかさず左側の井口虎松へと身を返す。
井口が胴を狙って振り下ろした刃を、古賀は半身でかわし、そのまま胴を横から打ち据える。
「がはっ!」井口が竹刀を取り落とし、苦悶の声を漏らして倒れ込む。
榊原数馬の突きが飛び込んできた。
だが古賀はそれをわずかに身体を捻って外すと、逆に竹刀を肩口へ叩き込む。
榊原は呻き声を上げて崩れ落ちた。
葛西与兵衛は冷静さを保ち、古賀の竹刀を絡め取ろうと迫る。
だが古賀の動きは速すぎた。
竹刀を下からすくい上げるように弾き飛ばし、そのまま突きで葛西の喉元に寸止め。
葛西の顔が苦痛と恐怖に歪み、その場に膝をつく。
残るは久世要。
死角を狙って滑り込むように振り抜いた一撃――
しかし古賀は背を見せることなく、振り向きざまに足拍子を一つ畳に打ち、相手の間合いを完全に封じた。
その瞬間、久世の竹刀は空を切り、古賀の竹刀が脇腹へ一撃を叩き込んでいた。
「くっ……!」
すべてはほんの一瞬の出来事だった。
気がつけば、道場の床には五人の隊士が倒れ伏し、苦悶の表情を浮かべている。
肩で息をし、呻き声を漏らす者もいる。
だが古賀だけは、正眼に竹刀を構えたまま、呼吸一つ乱れていなかった。
「……精鋭と謳われたお前たちが、この程度か」
冷徹な声が、道場の静寂を切り裂いた。