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第10章

冬の陽はうすく澄み、京の石畳を白磁のように光らせていた。

浅葱の羽織は光を受けて水面のごとく瞬き、二つの影を細く長く、往来の流れへと引き伸ばす。店先の桶には薄氷が張り、炭の匂いと味噌の湯気が軒の間を渡る。行き交う人々の草履が、乾いた拍子で路地を刻むたび、朝の告知の残響が古賀隼人の胸奥でわずかに鳴った。


「――いやぁ、組長の座から降りると、こんなに気持ちが楽になるんですね」

沖田総司は、冬の陽を映したような笑みを浮かべた。

「いっそのこと、このまま組長の座を譲りましょうか?」


古賀は小さく肩をすくめ、苦笑をこぼす。

「勘弁してください……沖田さん」

言葉は白い息となってほどける。顔色は冴えない。朝一番、局長と副長の前で受け取った大役の重みが、体温の底を冷えさせている。


沖田は、そんな古賀の色を見て、くすりと目尻を和らげた。

「冗談ですよ。……ただ、剣を置くと剣筋が鈍るのは確かですね。いくら病のためとはいえ、それは強く思います」


鞘に添えた指先が、かすかに木を鳴らす。暖簾が風にゆれ、日向と日陰の境が足元を渡る。古賀は励ましの言葉を探し、口を開きかけ――


「でも朝、隊士にも申した通りです」

沖田は歩調を緩めず、穏やかな声で続けた。

「私の剣筋は、古賀さん――あなたに勝てないが、同時に負けぬとも思っています。故に、心配ご無用ですよ」


その笑みには虚勢の翳りがない。陽だまりのようにあたたかく、まっすぐだった。

古賀は胸の内で、ぎゅっと拳を握る。――やはり、この人は幕末随一の剣豪だ。勝ち負けを飾る言葉に酔わず、剣の芯だけを見据えている。


角を曲がると、数人の子どもたちがこちらを見つけ、ぱっと顔を輝かせた。

「沖田さーん!」

幼い声が澄んだ冬空を渡り、細い腕が大きく振られる。


沖田は足を止め、ふっと微笑んだ。

「やあ」

陽の光に透けるような白い手を、子どもたちへと優しく振り返す。

その仕草は剣を握る武士ではなく、町に生きる一人の兄のように穏やかだった。


子どもたちは嬉しそうに跳ね、声を揃えて名を呼んだ。

古賀はその光景を横で見ながら、胸が熱くなるのを抑えられなかった。

――この人の背を、守らねばならない。

会津の雪、祖母の涙、池田屋の炎。そのすべての記憶が、いま優しく手を振る剣豪の姿に重なっていく。


沖田は子どもたちにもう一度手を振ると、再び歩き出した。

「……いいものですね」

そう呟いた横顔は、陽に照らされ澄みきっていた。


笑い声が冬空を渡り、遠ざかっていく。古賀はその背中を見つめながら、視線の先の白い布を捉えた。墨書の「療治」。町医者の暖簾が、風に合わせて淡く呼吸している。


(剣を振るうために、いまは剣を置いていただく――それが最善の道だ)

胸の奥で言葉が結ばれる。祖母の涙、会津の雪、池田屋の火。すべての景が静かに重なって、ひとつの誓いに収束していく。


「沖田さん」

古賀は歩調を合わせ、声音を低く整えた。

「こちらになります。早く入りましょう。冷えは敵ですから」


「はい!」

沖田は素直に頷き、目を細める。

「ちなみに――心配ご無用と申し上げましたが、あなたが傍にいてくれるなら、なお安心です」


古賀は喉の奥で短く笑い、息を深く吸った。冬の光は高まり、浅葱の羽織はいっそう鮮やかに冴え渡る。二人の影は並んで延び、白い暖簾の前でぴたりと止まった。


古賀がそっと手を添え、布を押し上げる。

冷たい外気が背から離れ、薬草の香と湯気の温みが二人を包んだ。棚に並ぶ陶の壺、湯の口から落ちる一滴の音。外の喧騒が遠のくほど、古賀の決意は静かに輪郭を濃くしていく。


(必ず守る。あなたの剣も、笑顔も、そして――一番隊の誇りも)


古賀は横顔を一度だけ見た。

沖田総司の瞳は、変わらず澄んでいる。

その澄明の奥底で、微かな咳の気配が光を波立たせた。だからこそ、いま、この一歩を。


冬の光は白くやわらぎ、町医者の暖簾の白を透かした。

墨で「療治」と記された布が微かに呼吸し、薬草と煎じ湯の甘い湯気が廊下に漂う。古賀隼人は沖田総司と並んで土間を上がり、畳の端に膝を揃えた。


老医は痩せた指で脈を計り、舌を見せさせ、胸背に耳をあてる古法の聴診を行った。

「……胸の奥に熱が籠っておる。――労咳の気があるやもしれぬ」

柔らかな声だが、長年の見立てが滲んでいた。


古賀は屯所を出発する直前、沖田総司の身体の状態を確かめるべく問診と触診を実施していた。

医療機器がない幕末において問診と触診でどこまで正確に測れるかは未知数ではあったが何もしないよりは、と自分を言い聞かせていた。


古賀は沖田の呼吸を追い、胸郭の上下差と呼吸数を数える――1分間でやや速い。鎖骨上窩はわずかに削げ、肩甲間部の動きが浅い。

古賀は自ら打診(指で軽く弾き、音の響きで肺の中身を推す)を頭の中でなぞる。上肺野に軽い濁音があるなら、浸潤。聴き取れれば微細断続性ラ音(捻髪音)――現代で言うapical crackles。

視診では体重減少と軽い貧血様の蒼白、それに微熱の火照りが頬にかすか。問診で確認すべきは夜間の寝汗、食思不振、咳の持続、血痰の既往、胸痛。古賀は頭の中で箇条を並べ、静かに問いを差し挟んだ。


「沖田さん、夜分に汗は?」

沖田は小さく頷く。

「少し、衣が湿るほどに」

「食は?」

「入りますが、量は落ちました」

「咳はどれほど続いておりますか」

「……ここ一月、抜けきらず」


肺結核。

古賀は胸の内で診断名を静かに置く。だがこの時代にその語はない。ここでは労咳、痰の病だ。病因(菌)も薬(抗結核薬)も、まだ古賀達の手には届かない。


老医は薬箱を開き、紙包みをゆっくりと並べる。

「痰を切るには杏仁、胸の熱を冷ますには石膏や知母。咳を鎮め、気を整えるには甘草。から咳が続く折は麦門冬湯を煎じてやるのがよい。体の力が落ちておるなら、人参・黄耆・当帰で養う」

彼は一つひとつの包に触れながら続けた。

「いずれも根治の薬にあらず。要は養生よ。寒を避け、無理をせず、食を調え、静かに過ごすこと。これが命を支える」


古賀は深く頷く。対症療法と安静――この時代で取りうる最善。

現代の自分なら、安静・栄養・新鮮な空気と日光・感染予防を基礎に、出血時の止血管理、脱水と低栄養の補正、合併症の監視を設計する。ここでは、その骨格だけでも実行しなければならない。


沖田総司を死の運命から救うに辺り考え出した答えが以下にあたる。


安静の確保:前線の任から一時外し、稽古も中止。発熱時は完全休息。階段の昇降や全力疾走も避ける。


栄養:白米偏重を改め、魚(干物でも可)・豆腐・味噌・卵・胡麻・大根や芋を増やす。汁物は油揚げ・葱・根菜でたんぱくと微量栄養素を補う。甘味は過ぎず、酒は厳に控える。


空気と日光:窓を定時に開けて換気、日向での座位を増やす。寝所は湿りと煙を遠ざけ、火鉢の煤を減らす。


感染予防(時代風の理屈で):咳の際は手拭いで口鼻を覆う習慣を徹底。寝具は天日干し、茶で湯洗い。器は別に。理由は「悪い気を払うため」と説明する(瘴気の語で通す)。


喀血時の対応:安静臥位、上体を少し起こし、冷罨法を胸に。水分は少量ずつ。動かさず、声を抑え、無理な咳払いは禁忌。


古賀は老医に向き直る。

「先生、養生の要は寒と過労を避けること、清い風を入れること――その三つ、違いありませんね」

「左様。飯を疎かにせず、心を乱さぬことも肝要じゃ」

「承知しました。煎じ薬は、痰を切るものを」

老医は頷き、紙包みに墨で小さく記す。「杏仁・桔梗・貝母、少々」「麦門冬湯、夜」――古賀は成分を心で現代語に置き換え、鎮咳去痰・清熱・滋陰と要点を記憶に刻む。


沖田は穏やかに微笑んだ。

「私には、少々贅沢すぎる手当です」

古賀は首を振る。

「贅沢ではありません。剣を振るう日のための、今の刃研ぎです」


病は人から人へ移る。

その一言を、この時代のままでは語れない。だから古賀は言い換える。

「沖田さん、夜は寝具を日向に。咳の折は手拭いを。これは“悪い気”を払う作法だと、皆にも示しましょう」

沖田は「なるほど」と頷く。理由が義に適うなら、彼はためらわない。


老医は包みを差し出した。

「朝夕の飯後に煎じ、温いうちに。十日続けて様子を見るがよい。寒を避けよ」

古賀は深く礼をした。

「有難うございます。――先生、もう一つ。胸を打つ咳が出て、紅のものが混じったら」

「動かすな。寝かせ、静かに。冷たい布を胸に当てよ」

古賀は目を伏せ、短く息をついた。喀血の初動――この時代でも通じる。


冬の陽は斜めに傾き、町家の甍を金の縁取りでなぞっていた。

露地に落ちる影は細く長く、浅葱の羽織だけが水面のように明るい。薬草の香がまだ袖に残り、煎じ湯の温みが遠い背中を追いかけてくる。


「――事態が、好転するかもしれませんね」

沖田総司が、不意に笑った。

「刀を振るう日々は、案外近いのかもしれない」


古賀は横顔を見て、すぐ頷いた。

「ええ、きっと近いはずです。気持ちは、体を引き上げますから」

言葉は白い息となって空に溶ける。表面は波立たぬ微笑。

だが胸の底では、冷たい石が動かなかった。


――ハードルは、一ミリも下がっていない。

今日の養生も、煎じ薬も、換気も、手拭いも。

どれも正しい。だが、それらは運命の大河に投げ込む小石でしかない。

流れはまだ、深く、速い。あの夜の火、あの名の重さ――池田屋は、変わらず前方に横たわっている。


「古賀さん?」

沖田が首を傾げる。

「顔色がすぐれませんが……寒いですか」


「少し、風が強いだけです」

古賀は穏やかに返し、歩幅を合わせた。

(あなたの楽観を、私は支える。前へ向く心は、病にも効く。――だからこそ、私が現実を担ぐ)


決して、前線には立たせない。

剣を研ぐことは許しても、抜かせはしない。

一番隊の先頭に立つのは、いまや自分だ。

檄を飛ばし、采配を振るい、刃が交わる寸前で風向きを変える。

永倉の胆力を楯に、斎藤の間合いで隙を断ち、二・三番隊の動線を編み直す。

沖田の役目は――観、聴き、最小の言葉で大勢を整える「心臓」へ。

血を送り、熱を配り、しかし自らは裂けない場所に。


(剣豪の手から柄を奪うのではない。剣豪の剣に、もう一つの鞘を与えるのだ)


通りの角で、朝に手を振ってくれた子どもらが、まだ遊んでいた。

沖田は気づくと、やわらかく手を振った。

その掌の白さが陽を弾き、笑い声が風に乗って遠ざかる。

古賀はその手を見て、胸の奥で誓いを締め直す。


――この掌に、血の熱を戻さない。

この笑みに、咳の影を落とさない。

前線は私が受け持つ。あなたは、一歩うしろで光の方角を指してくれればいい。


「古賀さん」

「はい」

「さっき先生が仰った“静かな暮らし”というのは、案外、悪くないのかもしれません」

沖田は冗談めかして目を細めた。

「しばし、刃を鞘に納めて――その代わり、心を磨く。どうでしょう?」


「最上です」

古賀は答え、遠くの比叡の白を見た。

(最上だ。だから私は、あなたの鞘であり続ける)


石畳が二人の足裏で乾いた音を返す。

陽は高く、浅葱は澄み、町医者の暖簾はもう背後で小さな白へと縮んだ。

始まりにすぎない――その自覚だけが、古賀の歩みを確かな重みで前へ押した。

運命の水脈に投げ込んだ最初の小石が、わずかな渦をつくる。

次の小石を、さらに次の小石を。

歴史という河床を、少しずつ、少しずつ削り替えていくために。


古賀は浅葱の袖を押さえ、息を整える。

(絶対に、あなたを前線には出さない。必ずだ)


その誓いだけが、冬の光よりも強く、胸の内で燃えていた。


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