第1章
月は薄雲を透かし、蒼白な光を庭に降り注いでいた。
その下で、背高く伸びたタチアオイが揺れ、花弁は月の光に赤黒い影を落としている。まるで過去に流れた無数の血を、その姿に映しているかのようであった。
花の傍を、一匹の蝶が静かに舞う。
その羽ばたきは優雅でありながらも、どこか痛ましく、燃え尽きてゆく命が最後に見せる美しさのようであった。
――それは、悲劇を象徴する光景だった。
花は血を吸い、蝶は儚く散る。
月明かりはただ静かに照らし、地上に落ちた数多の命を悼むように、淡い光を注ぎ続けていた。
その庭を見つめながら、幼い隼人は縁側に膝を揃え、祖母・邦子の声に耳を傾けていた。
祖母は決まって、夜が深まると会津の記憶を語り始める。
「……あのとき、会津は地獄じゃった」
低く震える声。
「鶴ヶ城は炎に包まれ、食も水も尽き、女子どもまでもが命を絶った。白虎隊の若者たちは、わずか十六、十七で自らの胸を突いた……」
祖母の言葉に合わせるように、タチアオイの影が長く伸び、蝶はふわりと舞い上がり、やがて夜空に溶ける。
その姿は、飯盛山で果てた少年たちの魂が月へ昇る幻のようであった。
邦子は隼人の小さな手を握りしめる。
その掌の皺には、敗れた会津の無念が宿っているかのようであった。
「隼人や……忘れるでないぞ。あの時、誰も会津を助けちゃくれんかった。生まれが会津であるというだけで、武士も町人も女子も、みな地獄へ落とされたんじゃ」
その言葉は呪いのように幼い隼人の胸に焼きついた。
そして祖母は、ときに新選組のことをも語った。
「会津を支えた新選組もまた、悲惨な末路を辿ったんじゃ。池田屋では勇を示したが、やがて幕府は瓦解し、近藤は斬られ、土方は北の大地で散った。皆、義を信じて戦い抜いた末に、無残な死を遂げたんじゃよ」
隼人は胸を締めつけられるように感じた。
――なぜ、義に生きた者が報われぬのか。
――なぜ、会津も新選組も、ただ滅びのために運命づけられていたのか。
夜風が吹き抜け、花は静かに揺れる。
月下に漂う蝶は、彼にとって二度と忘れ得ぬ象徴となった。
それは会津の血の記憶であり、また新選組の無惨な結末の予兆でもあった。
その夜の情景は、隼人の心に永遠の刻印を残した。
やがて彼は医の道を志し、人を救う術を求めることとなる。
しかし運命は、彼を再び月下のタチアオイの下へと導き――幕末の京都、壬生狼の群れのただ中へと送り込むのである。
祖母・邦子の声は、幼い隼人にとって夜の祈りのようなものだった。
その震える言葉は、月下のタチアオイと蝶の姿とともに、彼の心に深く沈み、決して消えることはなかった。
――なぜ、義を信じた者が報われぬのか。
――なぜ、会津も新選組も、滅びのためだけに生かされたのか。
問いは幼い胸に刺さり、そのまま成長とともに形を変えていった。
いつしか隼人は、ただ悔しさに泣く子どもではなく、「救いたい」と願う青年へと育っていた。
彼は医の道を選んだ。
戦に散った命、病に倒れた命、誰にも顧みられぬまま消えた命――そのすべてを救いたいと願ったからだ。
祖母の涙を、もう二度と繰り返さぬために。
だが、現実は理想ほどに甘くはなかった。
実習で向き合ったのは、救えぬ命の数々であった。
処置を尽くしても息絶える患者、間に合わなかった救急、病院の冷たい白光の下で運ばれる白布。
隼人はそのたび、あの夜の蝶を思い出した。
――羽ばたきは美しくも、命は脆く散る。
それが歴史であり、人の定めなのだろうか。
彼は抗うように勉学に打ち込み、身体を削るように実習に臨んだ。
だが、その執念にも似た歩みの根底には、いつも祖母の声があった。
「誰も会津を助けちゃくれんかった……」
その言葉が耳に焼きつき、胸を灼き続ける。
会津の悲劇だけではない。新選組もまた、滅びの運命に飲み込まれた。
義を信じ、刃を振るい、血を流し尽くしてなお報われなかった者たち。
――もしも、歴史を変えられるのなら。
――もしも、あの滅びを回避できるのなら。
隼人は幾度も心の奥でそう呟いた。
それは祈りにも似ていた。叶うはずもない夢想。
けれど、彼の魂はすでに歴史に縛られていた。
そして、その祈りに応えるかのように――運命は彼を、あの夜の蝶が舞い消えた時代へと引き戻してゆく。
それは唐突に訪れた。
救急搬送された患者の処置に奔走していた隼人は、白光の灯る無機質な病院の廊下でふいに足元の感覚を失った。
轟音が遠ざかり、心臓の鼓動が薄れていく。
まるで蝶が羽を閉じるように、意識は闇に吸い込まれていった。
――暗闇の中、月が浮かんでいた。
その下には、あの夜と同じタチアオイの花。血に濡れたような影を落とし、一匹の蝶が儚く舞う。
その羽ばたきに導かれるように、隼人は歩き出す。
「隼人や……忘れるでないぞ」
祖母の声が、再び耳に響いた。
「会津は誰も救ってはくれんかった……」
蝶が夜空を裂き、闇の奥へ消える。
その刹那、世界は反転した。
――耳を打ったのは、刀の抜き打つ鋭い音。
――鼻を突いたのは、血と汗と土の匂い。
――視界を埋めたのは、灯籠の光に照らされる京の路地。
気づけば隼人は、浅葱色の羽織をまとい、腰には刀を帯びていた。
両の手には生々しい血が滴っている。
足元には、斬り伏せられた浪士が呻き声をあげて転がっていた。
「……何をしている、古賀!」
鋭い叱咤が背を打った。振り返ると、そこにはひとりの男が立っていた。
黒々とした瞳、鋭い輪郭、唇の端には冷ややかな威圧。
彼の顔を、隼人は歴史書の中で幾度となく見たことがある。
――土方歳三。
さらにその傍らには、華奢でありながらも凛とした剣気を放つ若き剣士がいた。
白い肌に整った面差し、そして鋭い眼差しは、敵を射抜くほどに冴えている。
その姿は、まさしく剣の天才と謳われた青年そのものだった。
――沖田総司。
そして、隊の中心で堂々と立ち、敵の群れに睨みを利かせる大柄の男がいた。
その眼差しは真直ぐで澄み、声は胸を打つほどに強い。
――近藤勇。
新選組。
その名を呼ぶよりも先に、隼人の胸に戦慄が走った。
会津を支え、そして共に滅びへと向かった者たち。
祖母の声に幾度となく刻まれた、悲劇の象徴。
だが今、彼らは生きて目の前に立っている。
血の匂いに満ちた夜の京都で、隼人は己の名を呼ばれるのを聞いた。
「古賀隼人! 剣を握れ!」
その声は、ただの叱咤ではなかった。
――剣を握れ。
その言葉は血煙を裂くように鋭く、隼人の耳に焼きついた。
それは、ひとりの新選組隊士として命を賭して生きることを強いる、避けられぬ号令だった。
同時に、それは未来へ向けられた鎖でもあった。
会津の惨劇、新選組の末路。
祖母が涙ながらに語った記憶が、刹那に脳裏を駆け抜ける。
あの声を聞いた瞬間から、隼人はもはや傍観者ではいられなかった。
彼は義のために滅びへと歩む群れの中へと投げ込まれ、共にその流れを泳がねばならぬ存在となったのだ。
――これはただの戦ではない。
――これは、運命そのものとの闘いである。
絶望的な未来へ続く歴史の大河。
その奔流は、幾千の命を呑み込み、会津を血に沈め、新選組を滅ぼしていく。
古賀隼人は、その大河に突き落とされた。
だが同時に、その声は彼に選択を迫っていた。
流れに呑まれるか、抗い、歴史を裂くか。
剣を握れ――
それは隼人の魂に刻まれた、運命の号令だった。