聖女ルチアは平凡な幸せを何よりも望む〜後ろ盾となってきたという事実を捨て去られて拾われ聖女として人々を癒やして困っている者を助ける日々を送るが向こうの国政はぐちゃぐちゃになっていったので予想通り〜
「聖女ルチア、お前との婚約を破棄する!」
王子の声が、王城の謁見室に響き渡った。
心臓は、まるで氷で締め付けられるかのように冷え切っていく。
目の前には、見慣れた王子の顔。
隣には、彼が最近寵愛しているという、きらびやかなドレスをまとった公爵令嬢が立つ。
「お前は本日をもって王城を去れ。二度とこの国の敷居をまたぐことは許さない」
王子の言葉は容赦なかった。
この5年間、この国の公務のほとんどを一人でこなしたのに。
彼の後ろ盾となってきた、という事実を、まるでゴミのように捨て去ろうとしている。
この国は、いずれ立ち行かなくなるだろう。
微調整というのは、日頃やっているからこそ上手く回る。
つらつらと訴える気力すら、残っていなかった。
アホらしい。
王城を追い出され、実家へと向かった。
そこで待っていたのは、更なる絶望。
「婚約破棄された娘など、我が家には不要だ。出て行け」
父の冷酷な言葉に、母と妹はただ顔を伏せるばかり。
居場所は、どこにもなかった。
元々希薄だった関係。
途方に暮れ、あてもなく街をさまよった。
前世で現代人だった記憶を持つ自身。
この世界に来てから聖女としての力に目覚め、平民ながらも王子に見初められた。
力も、記憶も、何の役にも立たない。
夕暮れ時、道端で力なく座り込んでいた。
目の前を通り過ぎる人々のざわめきが、遠いBGMのように聞こえる。
一人の男性が前に立ち止まった。
影が体を覆う。
「もし、そちら様、何かお困りですか?」
顔を上げると、そこにいたのは見覚えのある顔。
少し離れた国、エルトリア王国の第二王子であるルーク様の側近。
アダーベル。
数ヶ月前、公務で隣国を訪れた際に一度だけ顔を合わせたことがあった。
ほんの少し。
彼はあの時も、落ち着いた物腰で、平民の聖女にも丁寧に接してくれた。
「私、婚約を破棄され、家も追われてしまいまして」
掠れた声で現状を話すと、アダーベルは静かに話を聞いてくれた。
誰かに言いたい。
彼は何も言わず、ただじっと目を見ていた。
瞳には、憐憫ではなく、純粋な心配と、頼りになる光が宿っているように感じた。
「よろしければ、我々と共にエルトリアへ来ませんか?ルーク様も、貴女様のような聖女を必要とされています」
彼の言葉に、救いの手を差し伸べられたような気がした。
行く当てもないそれは、唯一の光。
彼に案内されるまま、馬車に乗り込む。
馬車の窓から、見慣れた街が遠ざかっていく。
息を吐く。
深く深く。
もう二度と、ここに戻ることはないだろう。
エルトリア王国までの道のりは、決して楽ではなかった。
長旅の疲れや、これまでの出来事のショックで、何度も倒れそうになった。
アダーベルは常に気遣ってくれる。
「ルチア様、少し休憩を取りましょうか。顔色があまり良くありません」
そう言って、彼は馬車を止めさせ、日陰で休ませてくれた。
喉の渇きを訴えれば、すぐに水筒を差し出してくれたし。
食事の際には、好みをさりげなく聞いて、それに合わせてくれた。
気遣いは、押しつけがましくなく、自然と心に染み渡っていく。
現代人としての記憶があるから、この世界の人間関係にどこか一歩引いてしまうところがあったけれど。
彼の優しさには、素直に甘えることができた。
(助かる)
エルトリア王国に到着し、ルーク第二王子に謁見した。
彼は穏やかながらも芯のある瞳で見つめ、事情を全て聞き入れてくれた。聖女としての力を振るう場所を与えてくれる。
そういえば、聖女の給料は破格だ。
家族達はそれがなくなるからこそ、用済み扱いであそこまでやったのかも。
エルトリアでの生活は、穏やかだった。
聖女として、人々を癒やし、困っている者を助ける日々を送る。
アダーベルは、常に傍にいてくれた。
ある日、聖女としての公務で、貧しい村を訪れる。
疫病が蔓延し、多くの人々が苦しんでいた。
うめき声が酷い。
力だけではどうにもならない状況に、焦りと無力感を覚えた。
時、アダーベルが隣に立つ。
「ルチア様、焦ることはありません。できることから、一つずつです」
彼は肩にそっと手を置き、静かに微笑んだ。
温かい手に、どれほど救われたか分からない。
彼は、村人たちのために必要な物資の手配や、衛生環境の改善について、具体的な指示をテキパキと出してくれた。
冷静な判断力と行動力に、何度も助けられる。
他にもある。
別の日、エルトリアの図書室で、この国の歴史について調べていた。
パラパラとめくる。
ふと、隣の席にアダーベルが座っていることに気づいた。
同じように、古い書物を開いていたのだ。
「アダーベル様も、歴史がお好きなんですか?」
尋ねると、彼は少しはにかんだように笑った。
「ええ。この国の未来を考える上で、過去を知ることは不可欠ですから。ルチア様も、熱心に勉強されていますね」
彼はそう言って、読んでいた本のページをちらりと見て、内容についていくつか質問をしてきた。
笑う。
現代人の感覚で質問に答えると、彼は目を輝かせ、興味深そうに耳を傾けてくれた。
「へえ、そういう考え方もあるんですね!」
「それは実に面白い視点だ」
と、意見を尊重し、積極的に議論を深めようとしてくれた。
前世の知識が、この世界で初めて肯定的に受け入れられた瞬間だ。
彼の知的好奇心と、話を真剣に聞いてくれる姿勢に、徐々に心を開いていった。
元々開いていたけれど。
彼の存在は、かけがえのないものになっていった。
疲れていると、さりげなく甘いお菓子を差し入れてくれたり。
仕事で悩んでいる時には、的確なアドバイスをくれたり。
彼の細やかな気遣いが、いつしか当たり前の温かいものとなっていた。
ある日のこと。
アダーベルと二人きりで庭を散歩している時。
彼は不意に足を止め、向き直った。
「ルチア様。いえ、ルチア。貴女に、言いたいことがある」
彼の言葉に、心臓が大きく跳ねた。
このシチュエーション。
夕焼けに染まる彼の横顔が、いつもよりもずっと真剣に見えた。
「私は、貴女を愛しています。私の妻になっていただけませんか?」
アダーベルのまっすぐな瞳に、心は震える。
婚約破棄され、全てを失った存在に、再び愛を告げてくれる人がいるなんて。
前世の記憶を持つ心は、恋愛に対して少しだけ冷めていた部分があったけれど、彼の真剣な言葉は、心を深く揺さぶった。
本当は冷めていたなかったらしい。
優しさに触れて、少しずつ前を向けるように。
彼がいてくれたから、再び笑うことができたのだ。
彼となら、きっと新たな幸せを築ける。
そう確信した。
彼の差し出す手を取る。
「はい、喜んで」
夕焼けの中、二人の影が寄り添い、エルトリアの穏やかな風が包み込んだ。
アダーベルからの求婚を受け入れてから数ヶ月後。
エルトリア王国では現聖女と第二王子の側近の婚礼が執り行われることになった。
派手なことが苦手な私と、堅実なアダーベルの意向もあり、式はごく親しい者たちだけを招いて行われる。
それでも、聖女の婚礼ということもあり、国内は祝福ムードに包まれていた。
エルトリア王国の、伝統的な白いウェディングドレスに身を包んでいた。
純白の生地に繊細な刺繍が施され、ベールは顔を優しく覆っている。
鏡に映る自分を見て、思わず胸が高鳴った。
前世の記憶を持つ私にとって、この結婚は、まるで夢のような出来事。
まさか、異世界で、こんなにも深く愛し、愛される人に出会えるなんて。
元婚約者は初めから不満そうな態度であったから、落差がわかる。
式が始まる直前、控え室にアダーベルが顔を見せた。
彼は紺色の燕尾服に身を包み、いつも以上に精悍に見える。
「ルチア。とても美しい」
彼の瞳が、まっすぐに捉える。
優しい眼差しに、頬は自然と熱くなった。
「アダーベル様も、とても素敵です」
彼の手が、頬にそっと触れる。
温かさに、不安が溶けていくようだ。
「さあ、行きましょう。私の愛しい妻」
彼の言葉に、深く頷いた。
エルトリア王国の神殿は、色とりどりの花で飾られ、柔らかな光が差し込んでいた。
聖歌隊の美しい歌声が響き渡る中、私はアダーベル様と腕を組み、ゆっくりと祭壇へと進み。
列席者の温かい拍手が、包み込む。
祭壇の前には、ルーク第二王子が立っていた。
彼が、二人の結婚の誓いを執り行ってくれるのだ。
「ルチア、あなたはアダーベルを夫とし、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しい時も、彼を愛し、敬い、慈しむことを誓いますか?」
声が、神殿に響き渡る。
「はい、誓います」
次に、ルーク第二王子はアダーベルに問いかけた。
「アダーベル、あなたはルチアを妻とし、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、彼女を愛し、敬い、慈しむことを誓いますか?」
アダーベルの力強い声が、神殿に響き渡る。
「はい、誓います」
指輪を交換した。
アダーベル様の指には、シンプルな銀の指輪が。
左手の薬指には、彼の瞳の色にも似た、深い青の宝石が輝く指輪がはめられた。
「これで、あなたたちは夫婦となりました。ここにいる全ての人々が、あなたたちの新たな門出を祝福します」
ルーク第二王子の言葉と共に、神殿中に拍手が沸き起こった。
アダーベル様は手を取り、そっと引き寄せると、額に口付けた。
瞬間、この世界で本当に幸せになれると確信。
式が終わった後、ささやかな披露宴が開かれた。
エルトリアの伝統料理が並べられ、賑やかな音楽が流れる中、列席者からの祝福を受ける。
ルーク第二王子は、温かい言葉をかけてくれた。
「アダーベル、ルチア。二人なら、きっと素晴らしい家庭を築くことができるだろう。このエルトリア王国を、共に支えていってほしい」
アダーベルの隣で、にこやかに微笑んだ。
彼の隣にいることが、今の私にとって一番の幸せだ。
披露宴の途中、アダーベルが耳元で囁いた。
「ルチア、疲れていないか?無理はしないでくれ」
彼の優しい気遣いに、私は首を横に振った。
「大丈夫です。こんなに嬉しい日、疲れるなんてありません」
彼は満足そうに微笑み、手を握りしめた。
温かい手に、彼との未来を思い描く。
夜になり、二人の新しい住まいへと戻った。
暖炉には火が灯り、部屋は温かい光に包まれている。
ドレスから着替え、普段着に着替えた。
アダーベルも身軽な服装になり、ソファに座ってこちらを待っていた。
「今日まで、本当に色々なことがあった」
呟くと、アダーベルは隣に座り、肩を抱き寄せた。
「ああ、そうだな。だが、これからは私たち二人で、新しい日々を築いていくんだ」
彼の言葉は、私の心を安らかにした。
もう、一人ではない。
この人を支え、共に生きていくことができる。
窓の外を見れば、満月が優しく輝いていた。
彼の肩に頭を預け、そっと目を閉じた。
「アダーベル様、私、幸せです」
彼の腕の中で、私は確かな幸福を噛みしめていた。
新しい人生が、今、ここから始まる。
聖女として、そしてアダーベルの妻として。
結婚してからの日々は、これまでの嵐のような人生とは打って変わり、穏やかで温かいものだった。
エルトリア王国の公務は相変わらず忙しかったけれど、アダーベルが常に隣にいてくれる安心感は、何物にも代えがたい。
朝は、アダーベルが淹れてくれるハーブティーの香りで目覚める。
彼は毎朝、私よりも少し早く起きて、キッチンに立ってくれるのだ。
「ルチア、よく眠れたかい?」
淹れたての温かいお茶を差し出す彼の笑顔は、一日の始まりを幸せなものにしてくれた。
前世の記憶を持つ身としては、こんな風に男性に尽くしてもらうこと自体が初めてで、少し照れくさいけれど、彼の優しさが心に沁みる。
ホッとした。
公務に出かける前は、玄関で彼に見送られる。
「気をつけて行ってらっしゃい。何か困ったことがあったら、すぐに連絡を」
まるで恋人のような言葉に、思わずくすっと笑ってしまう。
彼は真面目な顔で「何かあったら、すぐに駆けつけるから」と言い、私の髪をそっと撫でてくれる。
執務室での公務中も、アダーベルは気にかけてくれた。
疲れていると、さりげなく甘いお菓子と温かい紅茶を持ってきてくれたり、難しい書類に目を通していると、隣に座って一緒に考えてくれたりする。
「ここは、こう解釈することもできますね。ルチア様のお考えはいかがです?」
彼の的確なアドバイスと、私の意見を尊重してくれる姿勢は、公務の大きな助けになった。
知識を元に、この世界の常識とは少し違う提案をしても、彼は決して頭ごなしに否定せず、真剣に耳を傾けてくれる。
「なるほど、それは面白い視点だ。試してみる価値は十分にあります」
そう言って、意見を積極的に採用してくれる彼の姿に、何度も救われてきた。
前の国では、一ミリも意見など聞いてもらえなかったから。
夜は、二人で食卓を囲む。
エルトリアの料理は素朴だけれど、素材の味がしっかりとしていて美味しかった。
食事中は、日の出来事を話したり、たわいもない話をしたり。
ある日のこと。
仕事で少し落ち込んでいると、アダーベルは食後、突然庭に誘った。
満月が輝く夜空の下、彼は手を取り、ままゆっくりと踊り始めるではないか。
「気分転換にどうかなと思って。昔、宮廷の舞踏会で練習したんだ」
ぎこちないけれど、彼のリードに合わせて体を動かすうちに、心は少しずつ軽くなっていった。
月の光に照らされた彼の横顔が、とても優しくて、思わず抱きしめたくなる。
「ありがとう、アダーベル。あなたといると、どんなことでも乗り越えられる気がする」
寝室では、彼が髪を優しく梳かしてくれたり、一日の出来事を話しながら、話に耳を傾けてくれたりする。
「ルチア、今日は少し疲れただろう?無理しすぎないでくれ」
ベッドに入ると、彼はいつも腕の中に抱きしめてくれる。
温かい腕の中で、私は安らかな眠りにつくことができた。
彼の胸に耳を当てると、彼の穏やかな心臓の音が聞こえる。
この音を聞いていると、どんな不安も消え去っていくようだった。
「おやすみ、私の聖女様」
毎晩、彼の甘い囁きが耳に届く。
新聞に、祖国の記事が載っていたのをぼんやり回想。
やはり、国政はぐちゃぐちゃになっていたので、予想通り。
それだけ。
歯車には、油を差していかないといけない。
メンテナンスとは、人にも必要なのだ。
彼の腕の中で、満ち足りた幸福を感じていた。
週末には、二人で街へ出かけたり、近くの森を散歩したりもする。私が以前の国ではできなかった、当たり前の日常を、こうして与えてくれた。
「この花、綺麗だね。ルチアに似合っている」
そう言って、道端に咲いていた小さな花を摘んで、髪に飾ってくれたりもする。
そんな彼の何気ない言動一つ一つが、温かく満たされていく。
「アダーベル、私、本当にあなたと結婚できてよかった」
そう呟くと、彼は少し驚いたような顔をした後、嬉しそうに微笑み、手をぎゅっと握り返してくれた。
「私もだ、ルチア。君と出会えて、本当に良かった」
彼の言葉は、何よりも確かな幸福の証。
この穏やかで、甘く、そして温かい日常が、これからもずっと続いていくことを願わずにはいられない。
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