55.推し
マンションの階段を駆け上がっていきます。今の所階下の方が騒がしくないですが外を見たらまだ路地周辺を駆け回っています。このマンションに誰もいないとも限りませんしまだまだ油断はできません。
「はぁ、はぁ」
陽菜葵さんを抱っこしてる栗香さんが息を切らしつつあります。かなり上ったのでさすがに負担をかけ過ぎました。
「栗香さん。陽菜葵さんを下ろしてください」
私が言うと陽菜葵さんを下ろしてくれました。彼女はというと放心した様子で綺麗な人形のようにさえ思ってしまいます。ピクリとも動きません。
「雪月さんは屋上へ行って逃げ道がないか探してください。栗香さんは下や周囲から敵が来ないか見張りをお願いします」
指示を送ると2人は何も言わず一目散に動いてくれました。
残されるは私と陽菜葵さんですが、彼女をこのままにするわけにはいきません。桜姫の指示からすれば彼女も標的にされているのですから。
「陽菜葵さん。私の声が分かりますか?」
返事はない。それでも続けなくては。
「陽菜葵さん目を覚ましてください」
肩を揺すった。すると彼女は私の手を払いのけて睨みつけてきます。
どうやら意識はあるようです。
「陽菜葵さん、ここにいては助かりません。協力して脱出しましょう」
「は? 何言ってんの? 頭おかしいの?」
彼女からすればそう映ってもおかしくはないかもしれませんね。さっきまで敵だったのに助けようとして協力を求めてるのですから。
「今は揉めてる時間はありません。この場を切り抜ける為に力を貸してください」
「どうでもいい。勝手にすれば?」
そう言って陽菜葵さんは階段の端に寄って座り込みます。
「早く行けよ。別に助けなんて頼んでないんだが?」
完全にいじけてしまったようですがそれでもこのまま放っておけません。
「行けって言ってるんだろうが!」
怒りを露わにするもそれでも行けない。彼女を放っていけば全て無になる。
陽菜葵さんはイライラしているようでしたが不意にスマホを取り出しました。
「そうだ。姫様にここを教えちゃおっか。そうしたらお前ら全員終わりだな」
私の方を見て不敵に笑います。彼女ならそうするかもしれない。けれどスマホを取り上げるような真似をしては結局不信感を増すだけ。私がすべきはそうじゃない。
「分かりませんね。そこまでして桜姫に執着して何が得られるというのですか。あの場で見た桜姫こそが本性ですよ。彼女はあなたを殺そうとしたんですよ?」
「お前が、お前が姫様を語るなっ! 何も知らない癖に。ヒナのこと、何も知らない癖にっ!」
静かなマンションに彼女の怒声が響く。本来なら今すぐにでも口を塞ぎたい所でしたがそうしては何も解決しない。何も寄り添えない。
「あなたと桜姫の関係を教えてくれませんか? それを聞いた上で私は答えを出します。その答えに納得できなかったら桜姫に連絡して私達を好きにすればいい」
正直これは博打だ。彼女の心理からすれば今でも桜姫に縋る可能性がある。けれどこのままだと何も見えないし、前に進めない。どこかで危ない橋を渡らなければいけない。
「あは。いいの? あの大事な友達も皆死んじゃうよ?」
「構いません。元より彼女らも覚悟の上で私に付いて来てますから」
その言葉を聞いて陽菜葵さんは怪訝な表情になります。娘には私の勝手に付き合わせますが、それはいつものことですし、きっと私の考えを尊重してくれる。
陽菜葵さんは少し間をあけてからポツポツ語り出します。
「姫様はヒナの推しだよ。世界で一番の推し」
「あの。腰を折って悪いのですが推しってなんですか?」
彼女は何度もその言葉を使うけれど時代遅れのおばあちゃんにはさっぱりです。
「推しは推しだよ。ヒナは誰よりも姫様を推してる。だから東京にまで来たんだから」
「……純粋な疑問なのですが両親は何も言わなかったのですか?」
前に学校を辞めて東京へ来たと話してました。そんな大事な決断を両親が簡単に許すとは思えません。
「何も言わんが? そもそもヒナがいなくなったのも気付いてないんじゃない?」
「どういう意味ですか?」
「どうもこうも、あいつらヒナのこと何も見ない。見えてない? よく喧嘩してるの見た。なんかね、ヒナのあいつらの子供じゃないみたい。それで親父は切れてたし、ばぁはヒスってた。よく結婚したなって思ったよ」
なんというか私の知らぬドロドロを幼い頃から経験してるようです。何も言葉が出ません。
「でさ。ばぁがいつからか狂ったみたいでさ、ヒナなんかいらない。お前がいたから不幸になったとか言ってくんの。いや知らんがって話だよ。勝手に産んでこれ。くそでしょ?」
陽菜葵さんが同意を求めるように鼻で笑いながら言ってきます。私には何も言えませんでした。
「それで学校を辞めて出たわけですか」
「それも理由だけど。ヒナ、学校でも居場所なかったし。魔女たんもヒナ見て思ったでしょ。こいつ面倒くさいなって。ヒナも分かってる。でも時々自分でも制御できなくなる」
それは感情的になるのを言ってるのでしょうか。確かに彼女は急に怒ったり情緒不安定な所もあります。でも、今の話を聞く限りではそれは彼女のせいではなく、そういう環境にいたからだと思ってしまいます。
「皆ヒナを頭おかしい奴って言っていじめてさ。それである時、男子からも色々嫌なことされそうになって、それから学校にも行きたくなくなってた」
聞いているだけで彼女の人生があまりにも過酷であったというのが伺えます。
「でもね、そんなヒナにも唯一の癒しがあった」
「それが桜姫の配信ですか」
「うん。何度も死にたいって思ったけど、姫様の声聞いたら元気でる。コメ拾ってくれた時は心臓出そうになった。姫様にDM送ったけどその時も親身になってくれたの」
色々分からない用語はありますがとにかく陽菜葵さんにとって桜姫さんは絶望の中の女神だったのでしょう。助けてくれる人が誰もいなかった中で桜姫の言葉は何よりも信頼できたのかもしれません。だからここまで依存しているのですか。
「それで桜姫が東京にいると知って出たのですか?」
「知らん。姫様は住んでる所ボカしてたから。だから人が多い東京にいるかもって思っただけ」
なんという行動力。いや、それだけ桜姫という存在だけが唯一の拠り所だったのでしょうか。
「東京に行ったと言いますが、あなた1人で生活できたのですか?」
こんな小さい子で言ったら悪いですが頭もよくないですし上手く生きていけるとは思えません。
「ヒナが行った時は結構荒れてた。だから……盗みとか悪い事沢山した」
それで食いつないだのですか。それには私も似たようなのをしてるので咎める権利はありませんね。
「皆東京から逃げようとしてた。でもヒナは逃げなかった。姫様に会いたかったから。だから死体から武器を奪って何とか戦った」
それがあの戦いの秘策ですか。淡々と言ってますけどあれだけ戦えるようになってるのですから相当な修羅場をくぐり抜けてるでしょう。それも全部桜姫に会うという理由だけで。
執念を通り越して、別の何かがあったのか。
「でも手がかりも何もなくて。もう諦めようとしてた。それであのおっさんに出会った。最初は殺してやろうって思ったけど、ヒナに興味あるって近付いてキモかったけど姫様に会わせるって言ったのに」
そこからは私の知るストーリーに繋がるわけですか。そう考えると彼女はある意味不運かもしれません。後少し待っていれば私が桜姫と対峙して東京へと帰還して自ずと会えたのですから。いや、逆に幸運ですかね。
「はい。全部言ったよ? 魔女たんの答えを聞かせて欲しいんだが?」
陽菜葵さんが私を睨んで言ってきます。これだけの苦難を乗り越えて、桜姫に捨てられても尚縋ろうとする。いいや、きっとこの子にはそれしかないからそれ以外が分からない。
親からの愛も、友人からの友情も、何もかも知らないまま育った。だから歪んだ愛だけが残って、それが生きる意味になっている。
「それでも私は桜姫の所へ行くべきではないと思います。彼女の所へ行けば今度こそあなたは死ぬ」
「はい、残念。ヒナは推しの為に命捨てる覚悟あるから。じゃあ電話するね」
「だったらなぜあの時弾を外したのですか?」
スマホを叩こうとする彼女の指が止まる。
「彼女の為に死ぬ覚悟があるなら、どうして緋水を飲まなかったのですか?」
「それは……」
これには陽菜葵さんも明確な答えが分かっていないようです。でも彼女の過去を聞いて尚更分かりました。やはりあの時の彼女の行動こそが真実だったと。
「本当はあなたも生きたいと願っている」
「ヒナが? 何言ってるの! ヒナは姫様の為ならなんでもする! 死ぬの何て怖くない!」
それが強がりでしかないのは私は知っています。
「ならどうしてあの時手を伸ばしたのですか」
妖怪の山で風に飛ばされて地面に落ちそうな時、確かに彼女は私に向かって手を伸ばした。
陽菜葵さんは言葉をつまらせる。本当は彼女も願っていたはず。
「私にはあなたがこう言ってるように見えましたよ。助けて、って」
それはあの山中だけでなく、桜姫と共にいた時の彼女も含めて。その助けは命を意味するのではなく、彼女を縛るあらゆる呪縛に対しても。彼女自身もきっとそれを理解していなかったのかもしれません。けれど生死をかけた状況で無意識にそれを望んだ。
「かっ、勝手なこと言わないで! ヒナはお前なんかに助けて欲しいなんて思ってない! お前が勝手にした!」
そうです。全部私が勝手にしたこと。恩を返せなんて思わない。
「私が嫌いなら今すぐ電話すればいい。何も邪魔はしません」
本当に私が嫌いなら昔話なんてせずにすぐに電話すればよかった。或いは別の方法で桜姫に連絡する手段もあったはず。けどこの子はそれをしなかった。
桜姫はスマホの画面を触ろうとしてましたが指が震えてます。そしてスマホを階段の下へと投げてしまいました。
「もう、知らない。好きにして」
丸くなって顔を足元に埋めてしまいます。この子もまた救われるべき1人でした。
「じゃあ好きにします」
そっと彼女のそばに寄りかかって抱きしめました。状況を理解できなかった彼女が顔をあげます。その目は真っ赤に滲んでいました。
「やめろ、触るな!」
嫌と言われても離れない。この子には誰よりも温もりが必要だったから。
「やめて、やめてよ! ヒナはもう1人になりたいの! 邪魔しないで!」
ワンワンと泣く彼女を強く抱きしめます。愛情も優しさも知らないならそれを分け与えてあげればいい。人にはそれができるから。
「今までよく頑張りましたね。私はあなたの味方です」
そう言って背中を擦ります。陽菜葵さんは目から滝のようにボロボロで涙を流し続けて私の胸に収まります。本当は心の中で誰でもいいから助けて欲しいと思っていた。でも人の醜さを誰よりも知っていたから言葉にできなかった。結果、表面上の関係しか作れず桜姫にすがってしまう。
「あの時、桜姫の緋水を拒みましたよね。あなたは誰よりも勇気ある子だと、私はそう思います」
本当に大切で大事な人なら、それを否定するのはかなり勇気がいるでしょう。最悪嫌われる覚悟だって必要です。陽菜葵さんはあれだけ桜姫に慕っていたのに最後の最後に抵抗した。私はそれを尊敬する。
それからも陽菜葵さんは泣き続けていました。やはり年頃の女の子が溜め込むのはいけないと思いますね。
それから暫くして陽菜葵さんは唐突に私のそばを離れました。それで階段を下りて落ちたスマホを拾います。
「陽菜葵さん」
私が声をかけると彼女は戻ってきました。顔はまだ赤いですがそれでも普段通りを振る舞おうとしてるのが分かります。
「電話なんてしない。面倒になった」
踊り場の柵に手を置いて街の方を見ています。
「これからどうしますか?」
「これだけやっといてヒナを置いていくつもり? 許さんし」
と言ってくれます。
「いいんですか? 私に来ると言うのはあなたが世界で一番推してる人と戦うんですよ?」
「今日で卒業する。それに宇宙で一番の推しができたから」
思わず口元が緩みそうになります。それなら何も問題ありませんね。
私が彼女の手を取ると陽菜葵さんは嬉しそうに笑うのでした。