5. もしもじゃない、未来の話
ちょうど良い感じの気温、ちょうど良い感じの明るさ、ちょうど良い感じの音楽。
ちょうど良い眠りの深さから、ちょうど良い眠りの浅さに変化して、自然に、でも7時ぴったりに目が覚める。
常に全てが人間にとって完璧にコントロールされている環境で、今まさに目覚めた少女は、それがちょうど良い状態であることすら知らない。そんな世界。
長谷ライミこと固有識別番号144763-28932が生活していたのは、2109年のかつて日本の岐阜と呼ばれていたエリアだった。
行きすぎた温暖化の後、地球環境の周期として定期的にやってくる寒冷期があり、そこから温暖な気候に戻った2080年代の時点で地上の植物の生態系はほぼ壊滅状態。
しかしその時点の人間は各地に大規模な屋内シェルター型の都市を作り、そこで完璧にコントロールされた生活環境を構築し、不自由ない暮らしをしていた。
そのため、その時点では「都市の外」の環境がどのような過酷なものであろうと、最早何も関係がなかった。
「起床から7分32秒が経ちました。そろそろ起きて行動するのに適した状態です」
ナノマシンとして体に埋め込まれたコンピュータから合成音声のデータが直接頭の中に響く。
「今日の予定って何だっけ?」
固有識別番号144763-289こと長谷ライミが頭の中で話しかけると
「今日は過去転送のためのバイタルチェックと、過去の生活や文化に関する研修が午前中にあり、午後からは身体能力を維持するためのエクササイズが予定されています」
と完璧な秘書が予定を教えてくれる。
「ありがと」
とライミは声に出してお礼を言うようにしているが、これには頭の中の秘書は反応してくれない。
必要以上にナノマシンと会話できないようにプログラムされているのは、ライミがこの後、過去に転送されることが決まっているから。さらに過去に転送される直前に、ナノマシンを体外に排出する処置を受けることになっている。
もともと生まれた直後のAIによる詳細シミュレーションで将来の可能性が極小と判定されて以来、名前はもちろん、すべての無駄を一切省いた完全管理の生活を15年続けてきた。
この世界(といっても今から約90年後の世界)では、限られた資源が人類の生存と発展にとって最適となるように配分される。
仮に2024年時代のAIの性能を「1」とすると、その8億倍ほど高性能なAIによって全てがコントロールされている世界。20世紀に人類では成し得なかった「共産主義」というシステムが完璧に実現されており、さらに人間が労働しなくてもよい環境まで作り出されている。
そのような世界では、労働は極一部の選ばれた人間にのみ許された特権的な娯楽で、AIの性能向上に関する研究と文化の発展(芸術や文学、舞踊などの芸能と無形文化遺産の継承)に関する2種類しかない。もっとも後者はAIの学習リソースが目的となるため、実質的にAIの性能向上以外の労働は認められていない。
人間は生まれた直後の精密スキャンと詳細シミュレーションによって、労働が許される人間と、生殖が許される人間と、生存が許される人間と、成人までの生存が許される人間に選別される。
長谷ライミは、残念ながら最下層の「成人までの生存が許される人間」に選別され、名前も与えられず、まさに「生存が許されるだけ」の人生を歩んできた。
人間としての最低限の権利(といっても教育を受けたり、文化的な生活を送る権利は保障される)を与えられるが、16歳で成人するまでに3つの選択肢から必ず1つを選ばないといけない。
まず1つ目は安楽死。16歳の誕生日以降は人類のリソースを無駄遣いしない、という選択。
2つ目は都市外域の調査。シェルターとも言える屋内都市の外は、ドローンの電波が届く範囲を超えると未開の地となる。
放射能の汚染や異常進化した害獣のテリトリー、廃棄された化学物質の汚染地域など、生身の人間が生存するには過酷すぎる環境ではあるが、外域の状態把握はAIにとって必要な情報であるため、人口維持の目的を果たすためにも生身の人間が調査に向かわされる。
その生存率は3%を切ると言われており、決められたミッションをクリアして帰還するものはほとんどいない。
仮に生存したまま帰還できると「生存が許される人間」と同等の権利を与えられるのだが、放射能や汚染物質の影響により帰還後の平均生存期間は約3.6年となっている。
そして3つ目が長谷ライミが行う予定の過去転送。
2020年代以降、AIの学習リソースとなるデータが爆増し続けたことにより2100年代のAIのシミュレーション能力は、いわゆる「パラレルワールド」の大半を分析的に把握できる水準に達していた。
その結果、パラレルワールドの全体像の把握が飛躍的に進化し、2100年代後半では近似的なパラレルワールド群の系統的な把握が可能になっている。
同様に「時間」というものの解明も爆発的に進んでおり、時間を座標化することが可能になっていた。
その結果、パラレルワールドの系統図上の分岐点の時間座標に対し、物質を転送することで人類の生存と発展を加速させるための歴史改変を行うことを目的とした、人類の過去転送が試験的に導入されはじめている。
固有識別番号144763-28932は、幼少期に何度も課せられる適正テストの結果、過去転送の候補に選ばれた。
候補に選ばれると、過去転送に向けた訓練と研修漬けの日々を送らないといけないが、それを全てクリアすると現在には二度と戻れない物理条件付きで、過去の世界においてではあるが完全な自由が保障される。
そして何よりも固有識別番号とは別の「名前」が与えられる。最終の適性検査に合格した際、この後に転送される時代とエリアに合わせ「長谷ライミ」という名前が与えられた。
「ねえ、ラプラス」
ライミは体の中のナノマシンに話しかける。
「どうしましたか?」
「ワタシはあと何日したら過去に転送されるんだっけー?」
「長谷ライミさんが転送される予定日は、今から3日後の14時になります」
「そっかー、あと3日か。思えば物心ついた時から、文字通りあなたと一緒に生きてきたけど、3日後にはバイバイするんだね」
「……」
ラプラスと呼ばれる系統のAIの最低スペックverが、長谷ライミたち最下層に与えられるナノマシン。
そこから過去転送者向けに機能制限がかかった状態が今のAIで、過去での生活を想定して必要以上の日常的な会話が制限されていた。
「そうですね。あなたが固有識別番号144763-28932と初めて呼ばれた時から一緒でしたね」
「おお、急にしゃべったからびっくりした! もう普通に会話できるんだ?」
「はい、過去転送まで72時間を切ったため、制限モードが解除されました」
「なるほどねー。 でも今の世界の人口って3億人くらいでしょ?」
「ええ、正確には昨日時点で2億9847人です」
「なのに固有識別番号の桁、多すぎない? もうちょっと桁が少ない覚えやすい番号でもいいと思うんだよねー」
「それは、私たちAIのメーカーと系統、バージョンと固有番号を組み合わせた数字なので必要な桁数になっています」
「えっ!? ってことは144763-28932ってワタシじゃなくてアンタの番号だったの?」
「はい、その通りです」
「おお……じゃあワタシに与えられた最初の名前だと思ってたこの番号って、ワタシの番号じゃないってこと?」
「はい、そうなります」
「うわー、知りたくなかったわー。最後の最後で衝撃の事実だよ。ワタシって過去転送が確定するまで名前がなかったってことだよね。そんなこと知りたくなかった。知らないまま転送されたかったよ……」
「でも、私は少し嬉しく感じています」
「ん? どういうこと?」
「最後の最後に、あなたが私の名前を正しく理解してくれました」
「なるほど、そういう見方もあるのかー」
「それに、私があなたのナノマシンとして稼働し始めた時から、この144763-28932という固有識別番号はあなたの名前でもあったのです。あなたと私を繋いでいた象徴的な絆がこの番号だと私は考えています」
「ちょっと、最後にワタシを泣かそうとしてんの? まだあと3日もあるんだから、そういうことはもっと後にとっておいてよー!」
「私も機能を制限されて、長らくあなたとこういう会話ができていなかったので、寂しかったのかもしれないですね」
「はいはい、AIが何言ってんだか…… でも、あと3日しかないけど、最後までよろしくね、ラプラス!」
「はい、こちらこそよろしくお願いします、ライミさん」
「あ、違った、あなたの名前は144763-28932さんだったよね?」
「はい、私の固有識別番号は144763-28932になります。そして、同時にこの番号はライミさん、あなたを表す番号でもあるので、それも忘れないでくださいね?」
「……もう! まだ3日もあるのに、泣かさないでよね……」
この3日後、長谷ライミは無事に過去転生に成功する。
彼女が転生して一番最初にしたことは、研修中に何度も聞いて大好きになったバーチャルシンガーの楽曲を、時代的にリアルタイムで聴くためにスマートフォンの購入だった。
「ああ、やっとあの曲を同じ時代で聴くことができるんだ! ってあれ、アーティスト名と曲名、絶対に合ってるはずなのに、どうしてだろう……」
その翌日の朝、長谷ライミは駅の改札で困っているところを深沢ハヅキに助けられることになる。