6.鮭のオニギリ
「リナ!?」
叫んだのは私だったが、セロとアロイも似たような声は上げていた。
黒い犬=リナは私たち3人の顔を順に見つめる。
「なんで、あたしの名前知ってるの? ここはどこ!? 気がついたら犬の体になってて……もう! やっと話が通じるーっ!!」
リナが伏せの体勢をとる。鼻をすんすんと鳴らしているが、すぐに勢いよく起き上がった。
「くやしい! すっごく泣いてやろうと思ったのに、犬の体じゃ上手く泣けない! ねえ、教えてよ、なんでこんなことになってるの? これってどういうこと!?」
再びお座りの姿勢になったリナが、床に座り込んだままの私にぐいと顔を近づけてくる。
私が問い詰められる形となっているが、リナの言葉の後半は私が言いたいことでもある。これってどういうこと?
「え、えっと……どこから説明したらいいかな」
困り切った私がセロとアロイを見上げると、2人は揃って肩をすくめた。
「まぁ、もう夕方になる。店は早じまいってことにしようよ」
アロイはそう言って入り口に閉店の札をかけると、扉の内鍵をかけてガラス戸にカーテンを引いた。まるでこの店の主のようにてきぱきとした動きだった。
「んじゃ俺は夕食を何か見繕って買ってくる。ベル、おまえの魔力でできた使い魔は食事できるのか?」
セロもさっと立ち上がり、勝手口のほうへと向かう。
「使い魔に食事は必要ないけど、でも食べることはできるよ。普通の犬猫のように食べちゃいけないものもない。味覚もあるから、多分リナにはニホン風の食べ物のほうがいいだろう。あ、財布。これ使って」
立ち上がってカウンターの奥から私は自分の財布を取り出した。そのままセロに放り投げる。
「了解。お茶でも淹れといてくれ」
魔法陣に乗ったままだと、リナ自身の魂から魔力を消費するため、セロが戻ってくるまでは魔法陣から降りてもらい、2人と1匹で店の奥の生活空間へ移動した。
見た目はどうあれ、私の中身は32歳・独身男のひとり暮らしだ。台所にろくなものはなかったけれど、アロイが甘いミルクティーを作ってくれた。リナには多分そのほうが良いだろうからと。少し冷ましてから、大きめのサラダボウルに入れてリナの前に出す。リナは時折、こちらを見上げながら、ぺちょりぺちょりとミルクティーを舐め始めた。
*****
「どういうことか、教えてもらえるの?」
少し時間をおいたことでリナも落ち着いたらしい。ソファに敷いた魔法陣の上に座って、目の前のテーブルに前脚をかける。
テーブルの上にはセロが調達してきた夕食が並んでいる。以前にも買ってきたカラアゲやカレー味のクロケット――稀人たちが言うにはコロッケ、ポテトサラダ、アツヤキタマゴに何種類ものオニギリ。私にはなんだか不思議な組み合わせのように思えるけれど、どのメニューも稀人たちには人気の品だ。
「なんでこんなお弁当みたいなメニューなのよ。なんで厚焼き玉子やおにぎりまであるの! ねぇ、ここはどこなの?」
「リナ、とりあえず自己紹介するよ。私はベルナール。今はこの……君の姿になってしまってるから女性風にベルと呼ばれてる。こっちの金髪がセロ、ブラウンの髪がアロイ。セロとアロイは君と同郷だ」
「……同郷? 日本人っていうこと? そんな風に見えない」
平均的なニホン人は黒髪と黒い瞳だと聞いたことはある。そう聞けば確かに、淡い金髪と緑の瞳のセロや、明るいブラウンの髪にはしばみ色の瞳のアロイはニホン人には見えないのだろう。
「とりあえず、ひとつずつ説明していくけれど、まず一番最初に聞いて欲しいのは、私は君に体を返せるものなら今すぐにでも返したいと思っていること。今のこの状況は、実は私たちにもよくわからないもので、どうしたら私と君がそれぞれの体に戻れるのかは何ひとつわかってないんだ。それに、君が犬の姿で現れたのも……なんていうか、予想外だった」
そう、予想外だったんだ。だって、リナの魂が犬の体に入っているってことは、私の体はいったいどこにあるのか……。
「異世界転生、ってわかるかい?」
アロイがリナに尋ねる。リナがふるふると首を振った。
「僕とセロは日本で普通に生活していた日本人だ。2人とも日本で死んでしまって、魂だけがこちらに来た。そして、魂を失ったこっちの体に入り込んで定着、つまり転生してしまった。これはこの世界には時々見られる現象でね。僕らのことは稀人と呼ばれる。魂の記憶と体の記憶、両方を持つから、この世界ではなかなか重宝されているよ」
「稀人って、たくさんいるの?」
「この街だけでも何人もいるよ。だからほら、この料理は稀人たちがこっちで広めたものだ。こういう味は久しぶりだろう?」
こういう味、とアロイはテーブルの上を示した。
「そうだね。カラアゲとコロッケで揚げ物かぶってるし、コロッケとポテサラはじゃがいもがかぶってるし……こんなの、お母さんが……作る、お弁当、みたい……」
リナの声が震えた。
「ねぇ、転生したってことは、あたしももう死んじゃったの……?」
「リナの場合は死んでいない可能性のほうが高いな。だって、体がそこにあるじゃん」
いくつかあるオニギリの中からひとつを皿にとり、リナの前に置きながらセロが言う。ただし、と付け加えた。
「ただし、死んでいないからといって戻れるかどうかはわからない。いや、勘違いするなよ? 絶対に戻れないと言ってるわけじゃない。ただ、今のところ戻る方法を見つけたやつはいない」
「セロ、それは今言わなくてもいいんじゃないか?」
私の発した言葉にセロは首を振った。
「こっちから言わなくても、どうせすぐ聞かれることだ。変にごまかせるわけもねえだろ」
「まぁ、期待させるよりいいかもね」
アロイも頷いている。
リナがゆっくりとオニギリにかじりついた。中からはサーモンを焼いてほぐした身が出てくる。力なく、それでもオニギリを咀嚼する。
「鮭のおにぎり……お米がちょっとぱさぱさ」
「米は改良に時間がかかるからな。まだ発展途上だ。でも海苔は上出来だろ?」
セロの言葉にリナは答えず、代わりに別のことを口にした。
「あたし……もう、お父さんとお母さんに会えないの? モモにも会えない? 異世界? 転生? ……なにそれ。来月の連休には長野のおばあちゃんちに行こうって言ってたんだよ? 中学生になったからスマホ買ってくれるってお父さんが言ってたのに。学校だってあるのに! トモちゃんと同じクラスになれて嬉しかったのに! なんでカラアゲの匂いがお母さんのと同じなの! なんで……食べなくていい体なのに、お父さんとお母さんとモモにもう会えないのに、お米がぱさぱさなのに……おにぎりがこんなに美味しいの……っ!」
おそらくは思いつくままにいろいろと口走って、そして最後に、ばん!と前脚をテーブルに叩きつける。
「この魔法陣、魔力っていうのを消費するんだっけ……。ちょっと……近所迷惑だったらごめんね」
そう言って、リナはソファの魔法陣の上から降りた。窓際に行って、西の空に沈みかける夕日を見つめる。
クゥン、と鳴いて顎を上げる。ゆっくりと口を開いた。
「クゥォォーー……ン」
悲しげな鳴き声だった。
「アォォーン……」
私があの日想像したように、黒く、ふさふさの毛並みを持った大きな犬。けれどこんなに悲しげに鳴く姿は想像していなかった。
たまにどこかで耳にするような、犬の遠吠え。今まではどこからか聞こえてきても特に気にしたことはなかった。けれど、目の前の黒い犬が発する遠吠えは、とても悲しく聞こえた。
「13歳の女の子が直面する現実としては厳しいんじゃないかな……」
悲しい遠吠えを聞きながら、そう言ってみる。
「家族にもう会えないというのは、年齢に関係なく悲しいものだし、厳しいものだと思うよ。僕たちだってそれについて何も感じなかったわけじゃない」
アロイが小さく答えた。隣でセロも頷く。
「リナは使い魔の体だから実感しなかったかもしれないが、どんなに絶望しようと悲しかろうと、生きてりゃ腹は減る。そしてメシを食えば自分が生きてるってことを実感するんだ。誰だってそうだろ? それを実感してもらうためにこのメニューにしたんだ。……好き嫌いはあれど、おにぎりを食ったことのない日本人なんていねぇ」
――私はこの世界でずっと生きているけれど、セロもアロイも、他の稀人たちも、ニホンにいる家族と死に別れてここにいる。リナが今感じているいろいろな感情は、私は感じたことのないもので、セロとアロイは乗り越えてきているものだ。
「とはいえ、彼女はまだ大人じゃないからね。配慮はしてあげたほうがいいかも」
アロイがそう言いながらコロッケに手を伸ばす。その隣でセロがちらりと、ソファの上に残された魔法陣を見た。
「まぁ、そう心配することもないかもしれないぜ? 魔力を気にして魔法陣から降りたってことは、意外と冷静に後先考えてる。まだガキかもしれないが、それでも女だ。それなりに現実的なところもありそうだな」
ひとしきり遠吠えをして、リナはソファに戻ってきた。あらためて魔法陣の上に座り直す。
「うるさくしてごめんなさい。犬の体じゃ泣けなくて、前のおじさんのところにいる時に遠吠えを試してみたら、泣いた時みたいにすっきりしたから……」
伏し目がちに言うリナに、アロイが頷いた。
「気にしなくていいよ、気持ちはわかるから。僕らも日本に家族を残してきた。稀人はみんなそうだ」
「あの、リナ……大丈夫? その、君の年頃で家族を失うのは……」
なんとなく言いよどんでしまう。
けれどリナは存外にしっかりした声を出した。
「ありがとう、大丈夫。あたしも、こっちにきてしばらく経ってるから、わからないなりになんとなく想像してたの。今までと違う世界だなぁとか、ひょっとしたらもう家に帰れないのかなぁって」
「リナがこっちに来たのは1ヶ月前ってことで合ってるか? ちょうどベルがこうなったのが1ヶ月前なんだけど」
セロの問いにリナは首を傾げる。
「うーん、なんか気がついたら目に映る世界が違ってて。こっちに来るちょっと前のことってはっきり思い出せないんだよね。こっちで目が覚めてもしばらくぼうっとしてて、食事も出たり出なかったりだったから、何日経ったのかわかんない。でも、少なくとも10日以上は経ってると思う」
使い魔に食事は必要ない。能力の底上げをするために、魔力回復薬のゼリーみたいなものを食べさせることはあるけれど、基本的に使い魔の魔力は睡眠によって回復させるだけだ。
「とにかく、あたしは……えっと、体と魂が別々に転生しちゃったってこと?」
「転生したというよりも、私が召喚してしまったんだろうと思うけど、でもなんとか! なんとか君に体を返せるようにがんばってみるから!」
ぐ、と拳を握ってリナに宣言する。
「うん、よろしくね」
私の召喚がきっかけなんだから、もっと怒られたりなじられたりするのかと思っていた。むしろそうしてもいいと思っていた。
さっき遠吠えをする前には感情が昂ぶっていたようだけれど、その時でさえ、「あなたのせいで」とは言わなかった。ただ家族や友人と会えないことを、あり得たはずの未来を失ったことを嘆いていた。いい子なんだな、と思った。
「ねぇ、セロさんとアロイさん?」
「僕のこともセロのことも呼び捨てで構わないよ」
「年上の人を呼び捨てにしたことなんてないよ」
そう言われてセロもアロイも面食らったようだ。小さく笑いながらアロイが言う。
「おっと、それは失礼。で? 僕たちに何か質問?」
「うん、あのね、この世界のことを教えてほしい。2人とも日本人なんでしょう? 日本とここがどう違うのか、教えてほしいの。だってあたしもこの世界で生きていかなくちゃいけないんでしょう?」
いい子だし、強い子だと思った。