35.パンの香り
「え。あ……ごめんなさい?」
勢いこんで店に来て、私がいる作業スペースのカーテンをがばりと開けた瞬間に告白してきたティモに、私はそう返した。
「ぐ……っ! やっぱり……っ!!」
ティモはその場に膝をつき、そのままがっくりと両手も床について全身で失望をあらわにする。
ティモの後からのんびりと追いかけてきたアロイとセロが、ティモのその姿勢を見て全てを悟ったように2人で頷いている。
「なに? どういうこと?」
私が首を傾げていると、セロは作業スペースの壁にかけてあったモモのリードを手に取って、ティモに渡した。
「ティモ、モモの散歩に行って頭冷やしてこい」
「……ウッス」
ティモは素直に頷いて、モモの首輪にリードを取り付ける。散歩と聞いたモモは、ワフッと嬉しそうな声をあげた。
うなだれたまま、モモを連れて店を出て行くティモを見送って、セロがテーブルの上に紙袋を2つ置いた。袋からはパンの香りが漂っている。
「おまえがメシ食ってない疑惑があったから買ってきた。こっちがカレーパンとサンドイッチ。作りたてだからこっちを先に食え。で、こっちの袋は適当に平パンとかコーンブレッドとか入ってるから、今日の夜とか明日の朝にでも」
「あぁ、ありがと。そうだ、お昼を食べてなかったんだった。助かるよ」
私は椅子から立ち上がって、作業スペースにある小さな魔石コンロでお湯を沸かし始めた。
「で、さっきのティモのあれは何だったの?」
2人に聞くと、苦笑しつつアロイが答えてくれた。
「好きだとか、付き合って欲しいって言われたよね? ティモいわく、自分のそういう感情に気がついたのが、生まれてこのかた初めてだったそうだよ。それでせっかくだからその気持ちを伝えたいと思ったそうだ」
「いやいやいや……今は私の体がこういう状況だし、そうじゃなくたって私とティモに可能性がないってことは君たちならわかるじゃないか。私の答えも想像ついてたんだろうから、止めてあげてよ」
「止められなかったんだよ」
アロイがそう言って微笑んだ。からかうような笑みではなく、どことなく優しそうな笑みだ。
「君たち2人がいて止められないなんてことがあるか」
ティモが力尽くで大暴れでもしたなら、それは止められないかもしれないけれど。
私がポットと茶葉を取り出して、お茶を入れる準備をしていると、椅子に座ったセロが私の背中に、ベルナール、と呼びかけてきた。
「なに?」
「おまえさ、やまない雨とか明けない夜があることを知ってるか?」
「ニホンの話? ユラルでももう少ししたら夏前の長雨の季節だけど……そういうことではなく?」
ティーポットを持ったまま振り返ると、セロは小さく笑って柔らかそうな金髪をかき上げた。
「ティモに言われたんだ。やまない雨はないかもしれないが、雨がやむ前に死んじまうことはあるってな。……金言だと思ったよ。それを聞いたら俺もアロイも何も言えなかった」
ティーカップを出して、ポットから3人分のお茶を注ぐ。
「……そっか。そう言われてみればそうかもね。私は君たちと違って実感してるわけではないけれど」
カップを受け取りながらアロイが口を開く。
「それで止められなかったってのもあるけど……僕としては、ティモのアレは刷り込みみたいなものだと思うんだよね」
「刷り込み……あの、鳥の雛が動くものの後をついていくってやつ?」
私が尋ねると、そうそうとアロイは頷いた。
「ティモにとって、他人からの好意や自分の感情がわかるっていうのは、初めてのことだったんだ」
「そんなわけ……」
そう言いかけて私は、クラクストン家に泊まった夜に、ティモが泣いたことを思い出した。
セロも自分の分のカップを引き寄せて口を開く。
「そんなわけねえと思うだろ? それがそうでもないんだ。多分、ユラルでもそういう人間は少なからずいるんだろうけど、精神医学ってやつは発展が遅いからな。日本でだって充分に発展していたとは言えない。日本でのティモを直接は知らねえから、滅多なことも言えねえけどさ。環境のせいなのか、本人の性質だったのか、どちらにしろ、日本でのティモは他人の感情に疎くて、人との距離感をはかれない奴だった」
パカれない、とティモは言っていた。そのことか。
我が家の安い紅茶を口に運びながら、アロイがセロのあとを引き継ぐ。
「こちらのティモの体はそういう方面に何の問題もなかったんだろう。だからティモは、こちらに来てからあらためていろんなことに気がついて、他人から好意が向けられること、他人に受け入れられること――自分がそこにいていいことに気がついたんだ。そんなティモが初めて、自分から好意を持ったことにも気がついて、それを相手に伝えたいと宣言した。ベル、君なら止められる?」
「しかもあいつ、おっさんでもいいって言ったからな」
ぼそりと呟くようにセロが言う。
「告白のあとの成否はともかく……そしてその相手が私だったこともさておくとして、まぁそういう事情なら私でも止められないかもね」
しょうがないか、と私も苦笑した。
「ティモにとっては初恋ってやつだろうよ。それなら真っ正直に告白できただけでもラッキーだ。まぁだいたいそういうのは、こっちで言う初等院くらいの頃までに済ませるもんだろうけどな」
セロの言葉にアロイも笑う。
「そうだね。初めて異性を意識する、相手に少しだけ特別な感情を抱く。淡い恋心ってやつだ。中身が30歳をとっくに超えている僕らにとっては懐かしくも気恥ずかしい心持ちだね」
見た目が15歳の――いや、もう16歳になったんだったか――アロイがそう言うとなんだか違和感があるけれど、まぁでもそういうものだろう。
自分はどうだったか……。
初等院の2年か3年くらいの頃、近所のパン屋のお姉さんがおそらく初恋だった。その家の娘だったわけではなく、住み込みで働いていたはずだ。初等院への行き帰りにパン屋の前を通ると、店前の掃除をしていたり、カウンターで接客をしていたりした。少しでも接点が欲しくて、パン屋へのお使いは積極的に行っていた記憶がある。
(当時はまだ、カレーパンなんてなかったけどね)
淡い思い出と結びつく匂いが、紙袋から漂っている。
私はセロに勧められたカレーパンに手を伸ばす。揚げたてだったようで、触るとまだ温かかった。
「そういえば、もろもろの後処理ってもう終わってんのか?」
セロが思い出したように口を開いた。視線の先はアロイだ。
「ああ、そうか。ベルとティモには報告したけど、セロに報告してなかったね」
アロイが答えた。一昨日、アロイの家を訪れた時、ここ数日はセロが家族と過ごしていたから、連絡を控えていたと言っていた。
アロイは紅茶を一口飲んで続ける。
「ブリュノー商会は今、解体の真っ最中だよ。それなりに大きな商会だったからね、商工会ギルドも大忙しだろう。九聖教のほうは、九聖教としての団体は解体された。なにせ教主が捕縛されたわけだからね。ただ、九聖教の元になった集会自体は止められるような性質のものじゃない」
九聖教の元になったのは、家族が稀人になってしまったという事実を悲しむ人々の集まりだ。本来は宗教色のないものだったけれど、第10の聖人が稀人であるという説と相まって、聖人を否定するための宗教という、逆説的なものになってしまった。九聖教以外にも似たような集まりはいくつかあって、九聖教が解体されたことで、元々九聖教に所属していた人々は、それぞれ考え方の近い他の集団に吸収されていったと聞いている。
ジェレミアが教主になったのは2年前で、教主としては3代目だった。教主になってからの年数が短いので、ジェレミアに心酔している者は九聖教の中でも一部だと聞いた。その一部が、今回の一連の騒動を起こしていたという。
「先代教主はジェレミアよりは穏やかで……まぁ、それでも稀人否定派であることは変わりないんだけどさ、先代の元に集う、旧九聖教の集団もまだ存在はしているよ。そして、ジェレミアがまだ若いこと、代替わりしてさほど年数が経ってないことから、先代が黒幕じゃないかっていう説もあるから……まぁ、どちらにしろしばらくはオスロン警備隊に監視されるだろうね」
アロイの説明の、そのあたりは私もよく知らないところだ。ひょっとしたら説明されたのかもしれないけれど、最近の私は魔道具の改良や水晶玉の魔法陣を調べることに夢中で、よく覚えていなかった。
「教主――ジェレミアはどうなるんだ?」
セロの問いに、アロイが頷く。
「教主も含めて、あの屋敷にいた人間たちは投獄されたよ。雇われて手伝ったごろつきみたいな奴らは北の開拓地で強制労働になるだろうけど、教主とあの魔術師はどうなるのかな。まだ結論は出てないと思う」
教主と、幹部らしき魔術師は首謀者ということになるんだろう。何年か投獄されて、その後やっぱり強制労働でもさせられるのか、それとも投獄が長引くのか、こういう場合にどう裁かれるのか、私はあまり詳しくない。
紅茶のカップの縁を、指でなぞりながらセロが口を開く。
「俺はさ、稀人を好まない奴らがいるってのも知ってるし、特定の集まりが稀人憎しで団結してるのも、まぁそいつらの好きにすりゃいいんだけど。ただ、今回のことで……なんつぅか、まぁ、遺恨が残らなきゃいいな。そういう心配事はあるにはあるが、とりあえず一段落ってことか」
セロの言葉に、そうだね、とアロイが応える。遺恨のことに対してか、一段落という言葉に対してかはわからないけれど……多分、両方への同意だろう。
「こっちは一段落として、ベルのほうは? 今は水晶玉に取りかかってるんだろう?」
アロイが私のほうを向いてそう言った。
「ああ、うん。湯沸かしカップはもう設計図と新しい試作品をスコットさんに渡したし、エリクサーの分析結果もアロイに渡したから、一昨日からずっと水晶玉に描かれてる魔法陣を調べていたよ」
私はカレーパンを食べ終えて、油で汚れた手を“浄化”で洗ってから、ほら、と作業スペースにあった大きな紙をテーブルに移動させた。紙の中央に、水晶玉の一番中心にあった魔法陣を描いて、その周りに別の層にある魔法陣を描き入れていこうと思っている。まだまだ途中だ。
「ほら、って言われても俺にはわかんねぇけど……おまえも魂のあれこれについては専門じゃねえだろ? 水晶玉のまんま、フェデリカに渡したほうが話は早いんじゃねえの?」
セロの言葉はもっともだ。
もっともではあるが。
「……だって、そのまま渡したら私が何もわからなかったみたいじゃないか」
くだらない見栄だと言われてもいい。魔法陣の丸写しだけでもいいから、私自身の成果としてフェデリカに渡したかった。
「フェデリカとリナがオスロンに戻ってくるのっていつだっけ?」
アロイに問われて、私は先日届いたフェデリカからの手紙を思い出す。
「えっと、あと7日かな。次の次の便に乗ってくるはずだから」
「で、その作業は7日の内に間に合いそうなのか?」
セロにそう聞かれて、う、と言葉に詰まってしまう。
魔法を発動させない、試験用の魔力を少しずつ水晶玉に流して、魔力が走る光の軌跡を追いながらそれを紙に描き写していく作業だ。しかも、球体の中心から外側に向かって何層にも立体的に重なり合っている。作業は遅々として進まない。
消費する魔力はさほど大きなものではないけれど、自分の知らない魔法陣を読み取るのは神経を使うし、単純に目も疲れる。
「ま、間に合うよ!」
そう言ってはみたものの、間に合えばいいなぁという希望に過ぎない。
あと7日を不眠不休でいけるものなら……。
「――最低限、メシは食えよ。あと、風呂にも入れよ」
「睡眠時間もね。寝ないで作業して倒れたら、結局、時間をロスするだけなんだから」
私の考えを読んだかのように、セロとアロイに釘を刺される。
魔導院時代、試験前や研究が佳境に入った時に、よくフェデリカに言われていたことでもあった。
「うーん、エリクサーが本当に体力と魔力を全回復してくれるものならよかったのに」
分析用のサンプルとしてもらった数本のエリクサーがまだ残っている。
私は、作業机の上にある薄青いガラスの小瓶を、ちょっと恨めしそうに見つめてしまった。実際、作業中に疲れた時、ちょっとした期待を込めて1本飲んでみたが、気休め以上のものにはならなかった。
「まぁ、根を詰めて作業して倒れたら倒れたで、フェデリカに提供する話題のひとつにはなるな」
セロが言う。そしてアロイもそれに続ける。
「そうだね。ティモに告白されたことも含めてね」
「へぅわっ!!!? いや、そ、そそそれはちょっとっ!?」
「倒れなかったら、いろんなことを言わないでいてあげるよ。もちろんリナにも」
アロイがにっこりと笑った。
「言っとくが、明日以降の差し入れは期待するなよ。俺は明日から魔獣退治の仕事を受けてる。何日かかかる予定だ」
そう言ったセロに続けて、アロイも頷いた。
「僕のほうも、明日からは医術院の受験に向けて書類と論文を用意する予定だよ。造血の魔結晶についてはデータをまとめているけれど、ついでにエリクサーの件もまとめようと思ってね」
うぅ……。
2人の差し入れが期待できないということは、適度に自分で買い出しに行かねばならないということだ。そして近所とはいえ外に出るのだから、最低限の身だしなみは整えなくてはならない。――いや、そもそも店は一応開けてあるので、やっぱり身ぎれいにしておく必要がある。
リナに早く帰ってきてほしい。でも、リナが帰ってくるということはフェデリカが来るということでもある。
んん、悩ましい!
「……なんか変な顔芸みたいなのしてるな、こいつ」
「どうせ、リナが帰ってくれば店番してもらえるから時間がとれるのにとか、でもリナが帰ってきたらフェデリカも来るから時間が確保できても意味がないとか考えてるんじゃないの?」
私の顔って、そんなに丸わかりっ!??
誤字修正(20250419)




