16.夕映え
午後になってから、私たちは野営地を引き払い、天馬に乗って移動した。
近くの川に沿って、上流へと向かう。昨夜、グレートベアに出くわしたあたりを通り過ぎたが、グレートベアの姿は上空からでは見えなかった。
私が求める胡蝶草は水場に近い日陰に群生することが多い。川の上流か、近くに小さな湖でもあれば、付近の森の下生えとして小さな薄紅色の花を咲かせる。
私は全くもってうろ覚えなのだが、セロはこの付近に何度か魔獣退治で訪れているらしい。胡蝶草が生えている場所に心当たりがあると言って先導してくれた。私もそれに同行したことがあるはずなのに、ほとんど覚えていない。こうやって、天馬に乗って見下ろしていればまだうっすらとわかるが、下に降りてしまうと完全にお手上げだ。
私は森の中に入ると方角を見失いがちだし、街なかの景色なら覚えられるが、周囲に自然物しかない状況では自分の位置さえあやふやになる。
結局、私はセロの案内で、森に入ってすぐ胡蝶草を見つけた。近くには湧き水が溜まる池みたいなところがあって、そのそばにケナガイタチの巣もあるようだ。こちらはティモの練習にちょうどよいらしい。
森の中の湧き水というのは、野生動物たちの水飲み場になることも多い。もちろん、水が必要なのは魔獣も同じだ。森自体はあまり大きなものではないので、大型の魔獣はいないだろう。つまり、それも含めて初心者戦士の練習にはもってこいだ。
「アロイ、あの岩場の陰……多分、ケナガイタチの巣がある。ティモについててやってくれ」
「了解。――セロは?」
頷きながらアロイがセロに問う。
「さっき、ケナガイタチが走り抜けていく音をいくつか聞いた。多分、巣はひとつじゃねえだろうから、別の巣を探して俺はそっちを狩るよ」
「じゃ、各自、夕食までにひと仕事だね」
セロとアロイの会話を聞いて、私もひそかに気合いを入れた。
足もとの花を採集するだけなので、私が一番先に作業を終えるだろう。
この森に入る前に天馬を下ろした草むらを野営地にすることに決めてある。一足先に作業を終えたら、私がテントを設営するのだ。そして、私もこう見えてそれなりにベテランの冒険者であることをティモに見せるのだ。
胡蝶草は花の部分を煮て使う。だから量をとらなければ、実際に使う時にはずいぶんと目減りしてしまうのだ。私は野営用のズボンをはいているのをいいことに、四つん這いになってぷちんぷちんと急いで花を摘み始めた。
時折、背後でティモが「うわぁ!」とか「針が! 毛針が飛んでくるっス!」と叫んでいるのが聞こえる。合間にアロイが「そっちに行ったよ」とか「かすり傷で騒がないで」と言ってるのも聞こえる。
小さいとはいえ森の中なので少し薄暗く感じるが、見上げてみると、木立の合間に見える空はまだ青い。
私は地面を這いずりまわって、ぷちぷちと手当たり次第に薄紅色の花を摘んだ。
そしてようやく、持ってきた袋がいっぱいになる。私は満足して立ち上がった。
さっきの草むらに戻る。テントを立ててお茶でも……と思っていたら、目の前にはきちんとテントが設営されていて、周囲にはコーヒーの匂いが漂っていた。
「なんだ、遅かったじゃん、ベル。今、様子見に行こうかと思ってたところだ」
「セロ! なんでこんなに早いのさ! ケナガイタチは?」
何を言っているんだという顔をして、セロが顎をくいと斜め下に動かす。そこにはケナガイタチの細長い体が4匹ほど積まれていた。
くそう、まさか花を摘むよりイタチを仕留めるほうが早いなんて……!
ややあって、ティモとアロイも戻ってきた。ティモの手にはイタチが3匹。そのうちの1匹はセロが獲ったものよりも一回り大きかった。大きいのを含めて2匹は刀傷だったからティモが仕留めたものだろうけれど、もう1匹は首の一部に焦げた痕跡がある。アロイの魔法で仕留めたのだろう。
「うへぇ……ケナガイタチってのは、針を飛ばしてくるんスね……」
まいった、という顔の割に、ティモの声には達成感があった。
昨日のアナグマは、結局私とセロとで仕留めたから、最後まで1人で仕留めたのは今回のイタチが初めてということになる。
「大騒ぎはしていたけど、動きは悪くなかったよ。昨日よりは緊張してなかったみたいだし」
かすり傷も全部治したからね、とアロイが笑う。
「今更かもしんねえけど、生き物を殺す感覚は大丈夫だったか」
コーヒーを注いだカップをティモとアロイにも渡しながらセロが聞いた。
「あ、はい。ちょっと……最初は正直ビビったっスけど、魚やアザラシと同じだと思えば……」
ティモの答えを聞いて、それならいいとセロが笑う。
そういえば、アナグマの解体について感想を聞いた時も、ティモは似たようなことを言っていた。その時にセロは、ニホンと違ってユラルはまだ狩猟文化があるから、と言っていたように思う。
「ニホンでは狩猟文化はもう廃れてるの?」
私がそう聞くと、セロは少し困ったように笑った。
「――禁猟期っていうのはさ、稀人が決めたんだぜ? その前まではせいぜい、なるべく雄を獲るとか、子どもを連れた雌は獲らないとか、そのくらいのマナーしかなかった」
「春から初夏にかけてが禁猟期だよね?」
「ああ。多くの野生生物が子育てをする時期だからな。――日本では牧畜の効率が良くなったことで狩猟で肉を獲る必要がなくなった。と同時に、野生生物が少なくなったことで、狩猟だけでは肉をまかなえなくなったんだ。……野生動物なんてのは、人間の手が入れば簡単に絶滅する。それも、食うために絶滅させちまったんならある意味しょうがねえとは思うけど、だいたいは毛皮目当てだったりもしたからな」
セロの言葉はとても残念そうだった。
弱い種が絶滅していくのは仕方がないことではあるだろうけど、実際にそれを“知っている”稀人たちが、今いる種を絶滅させないようにと考えていることは知らなかった。
私の向かいでアロイも頷いている。
「といっても、このケナガイタチも主に毛皮目当てなんだけどね。あとは魔結晶かな。残念ながらケナガイタチの肉は、食べるにはちょっと臭すぎる。魔獣は本来の野生生物たちの生息域を脅かす存在だから、禁猟という話が出ていないのはわかるけど……魔獣を含めた生態系が今後どうなっていくのかは、僕たちにもわからない」
それに、とアロイはコーヒーを飲みながら続けた。
「豊かさ、というものをどこに求めるかという問題もある。技術が進めば人の生活は経済的に豊かになる。医術が進めば命を落とす人間は減り、人間は増えていく。人口が増えれば住む場所を求めて山を削り、道を繋ぎ、国が繁栄していく。それは紛れもなく豊かさだと思うよ。――とはいえ、国の面積というのは限られているから、野生動物の数は減るだろう。毛皮目当てや角目当てみたいな乱獲がなくても、生息域が狭まればそれだけで絶滅する種だってある」
だろうな、とセロも頷いた。
「でもたとえばアロイが、目の前の病人や怪我人を助けようとしている時に、国の繁栄を考えているわけじゃねえように、俺だって目の前の鹿を射る時に山の豊かさだの自然保護だのを考えてるわけじゃねえ。でも、だからこそ禁猟期みたいな取り決めがあるのは……いや、ちょっと違うな。そう取り決めようと稀人が言い出して、ユラル人が合意した、そうやって意見を合わせたって事実があるのは……なんていうか、俺たちとは違う未来にたどり着けそうな気がするんだ」
俺たち、とセロは言った。ニホンのことだろう。
以前、九聖教の演説を聞いたときに、セロは演説の内容に反感を抱いていないようだった。そういえばアロイも、九聖教が主張するニホンへの非難はだいたいその通りだと肯定していたように思う。
――ユラルよりも技術が進んだ国。人口も多く、都市化も進み、魔法がないにも関わらず魔法のように科学が進んでいる国。
私はニホンのことをただ漠然とそうとらえていたけれど、それだけとは限らないのかもしれないと思った。
ただ、だからと言って九聖教が主張するような、稀人たちの技術が我々を終末に導く、なんていう説には納得がいかないけれど。
「あの……」
ぽつりと呟いた声は意外にも注目を浴びてしまったようで、セロもアロイもティモも私のほうを見た。
「あ、いや。その……ニホンは、どこかで失敗した国なの?」
聞きたいことがそんなにまとまっていたわけではなかったけれど、結局私はそれだけを聞いた。
私の質問に、3人は目を見合わせた。
「え、オレはわかんないっス。……えっと、少子化、とか?」
「日本に限らねぇけど、地球温暖化とか異常気象とか?」
ティモとセロが疑問形で言葉を交わす。アロイも首を傾げた。
「環境汚染、災害、資源の枯渇……問題はあるよね。ただ、いつどこで失敗したのかと言われれば、それは答えられないよ。例えば国家間の争いのようなものは、もちろん無ければよかった。戦争なんて最悪の手段だ。けど、それ以外のものは“あのときこうすれば良かった”なんていう問題ではないように思う。――でもそうか、確かにそう考えるなら、セロの気持ちはわかるね。正解かどうかはわからないけれど、ユラルは日本とは違う選択肢を選べるかもしれないんだ」
アロイがどことなく納得したような顔でセロを見る。
「え、じゃあ私たちが、稀人の技術を求めすぎるのはよくないってこと?」
私は思わずそう問いかけていた。
アロイは小さく笑って首を振る。
「いや、そうじゃないよ、ベル。どちらにしろ、技術に精通した稀人ばかりでもないから、技術の発展には限りがある。それに、今言ったばかりじゃないか。正解かどうかはわからないんだ。それは多分、誰にもね。ただ、セロが言ったのは、稀人の知識は抑止力にもなり得るってことなんだよ。ユラルの人たちは推進力として捉えることのほうが多いけど、それでも、稀人とユラル人が話し合って禁猟期を決めたように、抑止力が生まれたのは……稀人側としては嬉しいってことさ」
稀人が本当に第10の聖人なのだとしたら……そしてそれが司るものが本当に終わりなのだとしたら。
昨夜、いくつかの派生があるという話をして、魂の生まれ変わりという単語にアロイは稀人を連想すると言ったけれど、私はむしろ再生という言葉こそ稀人にふさわしいのかもしれないと思った。
稀人の技術を欲する我々は、自ら終わりへと向かうのかもしれない。けれど、そんな私たちを引き留めて、再生への道を示してくれるのもまた稀人なのだ。
「晩ご飯はさ、昼のアナグマの肉をシチューにしようよ。いくつか野菜や干した茸を持ってきてるし、ちょっとそれに入れたいものもあるんだ」
魔石コンロを取り出しながらアロイが言う。もちろん、反対意見は出なかった。
空を見上げると、まだ明るいが陽は傾きかけている。
アナグマの肉と、アロイが持ってきた野菜を適当に切って、干し茸とともに鍋にいれ、スパイスと小麦粉をまぶして炒める。そこにセロが水を出して入れた。
「あ、妖精入りの水……」
私が呟くと、セロが笑った。
「すぐ消えるよ。……ほら」
馴染ませるように鍋の中身をスプーンで大きくかき混ぜると、水の妖精である半透明の小さな人魚は、すぅっと消えていった。
妖精の出汁とか出ないんスか、とティモが聞いて、出るかもなとセロが笑った。
「ベル、圧力魔法をかけてくれる?」
鍋に蓋をしながら、アロイが私に言う。
「あれ、何か入れるんじゃなかったの? 先に圧力かけちゃっていいの?」
「うん、入れたいものは最後に入れるから」
そう答えるアロイに頷いて、私は鍋の中にごくごく軽く圧力魔法をかけた。
これは、魔獣を倒す時に中から背骨を折ったり、内臓を潰したりする魔法の応用だ。セロが妖精魔法を省力化しているのを見て、実は私もまねをしてみたのだ。効果範囲を狭く限定して、及ぼす力もできるだけ小さくする。鍋ごと潰してしまわないように、ごく軽くぎゅっと押さえるイメージだ。
「……ん、よし。うまくできた気がする」
そう言って、私は鍋の蓋を開けてみた。スプーンで中身をつつくと、アナグマの肉はほろほろと崩れる手前になっているし、一緒に入れた根菜類も柔らかく煮えている。
このやり方を覚えてから、煮込み料理が格段に楽になった。
「そして、これだよ」
アロイが自分の荷物から丸い筒のようなブリキ缶を取り出した。
「3日くらい前にできたばかりの試作品でね。……あ、僕が作ったわけじゃないよ? 父が経営している工場の試作品だ。これが美味しく食べられるようなら、製作用の魔道具を大型化したいって言う話でさ」
鍋の中に、アロイがブリキ缶の中身を入れていく。ざらざらと白い粒が出てきた。
「……お米?」
私の問いにアロイが頷く。
「え、今から生米入れるんスか?」
ティモがそう言うが、セロは鍋の中身をじっと見つめている。
「これ……アルファ米か?」
「セロ、正解。一度蒸した米の水分を魔法で飛ばしたものらしいよ。おとといの夜、父と2人で少し試食したけどまぁまぁだった。君たちにも試食してもらいたくて」
アロイは鍋の中を軽くかき混ぜた。白い粒がシチューに馴染んでふっくらとしてくる。
「もう少し馴染ませれば、温かいリゾットのできあがりだ。乾燥させてるから軽いし、湿気さえ防げれば保存も利く。冒険者や行商人の携帯食として売れるんじゃないかっていう目算なんだけど」
取り分けて配られたリゾットを早速口に運んだティモが声を上げる。
「うわ、これ美味いっスね! 漁師にも売れるっスよ! 船の上で温かいメシ食えるってことっスもん!」
ティモが絶賛する。セロも一口食べて頷いた。
「うん、悪くないな。なにより手軽だ。それに、時間がない時はお湯をかけるだけで白飯が食えるんだろ?」
私も口に運んでみて、驚いた。干し飯という、炊飯して乾燥させただけのものは食べたことがあるが、それよりもふっくらと美味しく、甘みさえ感じる。
「これも……稀人の技術?」
私の問いにアロイが微笑んだ。
「稀人の知識だけど、技術はユラル人の魔法だよ。魔法陣を使って素早く乾燥させたらしいけど、僕には専門外だし、詳しいことは聞いていない」
私は、さっきの話がまだ気になっていた。
「……稀人たちの目から見て、ユラルは……この世界はまだ豊かかな」
ふ、とセロが小さく笑う。
「そうだな。ユラルには、日本では絶滅しちまったオオカミがまだいる。生態系に魔獣が混ざってるから、日本と同じってわけにはいかねぇけど、このあたりにいるオオカミはユラルの固有種だと聞いた。もう少し北のほうに行けば、一回り大きなオオカミもいる。おそらく、日本で言うニホンオオカミとエゾオオカミだ。……生態系の多様性が豊かさとイコールかどうかはわかんねぇけどさ」
言いながら、セロは周囲をぐるりと見渡して、最後に空を見上げた。
なんとなく、言葉の続きを待ったが、セロはその先は言わなかった。
ユラルでは、人の住まない山間部も多い。大きな街がいくつかあって、その周囲に、例えばティモの出身である漁村のような、小さな集落が点在している。それらを繋ぐ道は険しい山を迂回して作られているから、いわゆる人跡未踏の地という場所もまだまだたくさんある。このあたりも、採集に訪れる人間はいるから、人跡未踏というわけではないけれど、人の住む土地でないことは確かだ。
ユラル人がまだまだ開発不足と感じるそれらを、稀人たちは守るべきものとして捉えているのだろうか。
リゾットが入ったカップで手を温めながら、私はアルファ米という新しい技術を見つめていた。これは、便利だ。ユラルでの米の利用法がまたひとつ増えた。保存性に優れているということは備蓄できるということだ。アロイの言うように冒険者や行商人に売れるだろうけれど、不作の年や災害の時にも役立つ。
過去の稀人たちによる農業改革は飢える人間を確実に減らした、とフェデリカも言っていた。この技術もそのひとつになるだろう。
「ベル、下ばかり見ないで、上を見てごらんよ」
アロイに言われてふと顔を上げる。セロもアロイもティモも、空を見上げていた。
今まさに沈もうとしている陽が周囲を橙色に染めている。薄くたなびいている雲が、橙色のグラデーションに変化を与えていて美しかった。東の空は青みを帯びているが、それはすでに昼の青さではなく、夜の始まりと言える柔らかな青紫色だった。
――美しいと思った。
街にいても同じ色合いは見るが、ここでは周囲に建物がない分、どこかおそろしくなるほどの広がりを感じた。
「きれいっスね」
ティモが呟いた。
技術や医術の発展という豊かさもある。物流が滞らず、不作の年があっても飢えることがないのも豊かさだろう。そしてこの美しい空の下、自分たちで獲った獣の肉を食べるのも豊かさだろう。
あと何十年か……100年、200年かもしれないが、いつか私たちの国もニホンに追いつくだろう。そのとき、私たちの手の中にいったいどんな豊かさが残っているだろうか。
稀人の知識は、私たちに豊かさを与えてくれて、同時に取りこぼしそうになる別の豊かさを留めてくれるのかもしれない。
私たちはまだ失ったことがない。だから、その大切さは本当にはわかっていないのかもしれない。けれど、稀人たちはきっと失ったことがあるのだ。
それはきっと、命と同じだ。大事なものだとわかってはいるけれど、私たちは失った経験がない。稀人たちは一度失って、それでも今、ここでこうして生きている。
「なんだ、ベル。難しい顔して」
セロが私のカップにリゾットのお代わりを入れながら言う。
「……九聖教の人たちもここにいればよかったのに、と思っただけだよ」
セロが言った、違う未来。アロイが言った、抑止力。九聖教の人々にこそ聞かせたい言葉だった。
「え、でもこのリゾット、4人分しかないっスよ!?」
ティモが叫ぶように言って、私とアロイ、セロは大きな声で笑い合った。
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