14.運命が変わった日(***視点)
学校から帰ってきて夕食の支度をしようと台所に立った時、その知らせが舞い込んできた。
ドンドン!と扉が叩かれ、僕は濡れた手を布巾で拭きながら玄関に向かった。
「よかった、帰ってたか! おまえの親父さんが……!」
大工である父の元で仕事をしている若い衆の1人だった。
「足場から落ちちまって、今、診療所に担ぎ込まれたところだ! とりあえず一緒に来い、身内はおまえだけだろ!」
母は早くに亡くなっている。僕と父は2人暮らしだった。
取るものも取りあえず、僕は彼と一緒に玄関を出た。当時住んでいたのは、集合住宅の3階にある、あまり広くはない部屋だった。階段を駆け下りながら、僕は、神様、と心の中で祈った。
(神様、神様……父が死んでしまっては、僕は一人きりになってしまいます。神様……)
仕事の前後、父はよく、技術を司る第3の聖人カスタ・トナに祈っていた。事故が起きませんように。良い仕事ができますように。自分の技術が少しでも誰かの幸いになれますように。
けれど、こんな時にどの聖人に祈ればいいのかはわからない。だから僕は、神様とだけ繰り返した。
そして、診療所で僕を待っていたのは、知らない人間に生まれ変わった父だった。
他にも怪我があるからと、ひと月ほど入院することになったのは、僕にとっては幸いだった。父にとってもそうだったかもしれない。
戸惑いと混乱。
僕が父の病室に面会に行くたびに、それは大きくなった。
「なんで俺がいきなり、15歳の子持ちなんだよ! たいして歳なんて変わんねえよ! 俺だってまだ19だ! 魂の生まれ変わりって、なんだよそれ!?」
父はそう叫んだ。
足を怪我していなければ、病室を走って出て行ってしまったかもしれない。
僕は混乱したまま父の……いや、父だった人の着替えなどを届けていたが、その足も鈍りがちになり、そのうち、看護師に荷物を渡すだけになった。
――父は事故で死んでしまったのだ。体は生きていても、父だった魂はもうこの世にいない。父の魂の代わりに入った、新しい魂の持ち主は僕と親子になろうとはしないだろう。
稀人、という現象があることは知っていた。稀人たちの知識によって、技術が進んでいることも知っていた。父は、稀人になった。……いや、稀人のための依り代となった。
父は死んでしまったのに、父はいなくなってはいない。そのことをどう飲み込めばいいのか、僕にはわからなかった。
ある日、いつものように父の着替えを診療所に届けに行くと、看護師が複雑そうな表情を見せて言った。
「あの……もうすぐお父さんは退院なんだけれど、どうします? 他の荷物もあるだろうから、将来はどうあれ、一旦は元の家に戻ることになると思うのだけど……」
19歳だという見知らぬ男と同じ家に住むのか。
季節は春の初めから、春の盛りへと移る頃だった。
最初に診療所に駆けつけた日、「父さん」と呼びかけると怪訝な顔をされた。それ以来、父さんとは呼んでいない。何度か顔を合わせたけれど、こちらは呼びかける言葉を持たず、向こうも時々僕を見ては顔をしかめるだけだった。
それでも、稀人は体の記憶を取り込むという。彼の中にも、父の記憶はあるのだろう。ただ、それがあったとしても、19歳の青年が15歳の僕を自分の子どもだと思うだろうか。
考えておきます、と看護師には返事をして、僕は家に戻った。
――生活は、どうなるのだろうか。
父は大工の棟梁として、それなりの稼ぎはあった。男2人の暮らしでは贅沢といってもたかが知れているから、父は稼ぎの何割かを貯蓄していたし、それは僕の進学費用にしようと言ってくれていた。
回復術師になりたいと思っていた。今年の秋には高等院に進む予定で、そこで回復術を専攻したあと、卒業後は医術院に進めたらいいと思っていた。
「もっと稼いで、学費くらいは貯めといてやるからな」
父はそう言っていた。
いつか俺が怪我したらおまえが治してくれな、と笑った。
僕はまだ回復術を使えない。
退院の日、僕は久しぶりに父だった男と顔を合わせた。
男は僕をちらりと見て、抑揚のない声で呟いた。
「久しぶりだな。名前……なんだっけ」
怒鳴り散らすことはもうなくなっていたけれど、彼は不機嫌そうだった。
「……ジェレミア。父さ……いや、あなたの名前はライモンドだけど……なんて呼べばいいかな」
「俺はトシカズって名前だったんだ。大学の友達と……野郎ばっかり4人集まって、スノボに行く途中だった。現地でナンパしようぜ、なんて馬鹿みたいな話をしててさ……わかんねぇよな、こんな話されたって」
困ったように笑う男の顔は、確かに父の顔なのに、僕が初めて見る顔だった。
稀人とはどういうものか、今の自分がどういう状態なのか、診療所の職員から説明は受けたのだろう。
「……トシカズさん、って呼んだほうがいい?」
「いや、ライモンドって名前も覚えてるよ。1ヶ月入院してる間にいろいろと思い出した。おまえは……ジェレミアは俺の息子なんだろ? 知ってるんだ。知ってんだけど……いや、そりゃ俺だって童貞じゃねえよ? だから、赤ん坊連れた女が現れて『あなたの子よ』なんて言われる可能性はゼロじゃねえけどさ。――でも気がついたら自分が42歳で、15歳の息子がいるって言われて、はいそうですかってわけにゃいかねえだろうよ。だから……ライモンドでいいけど、ただ、父さんとは呼ばないでくれ」
ライモンドは、父の顔をしてそう言った。
行く当てもないし、こちらの生活にはまだ不自由だからとライモンドは僕と父が住んでいた部屋に来ることに同意した。
ライモンドは、杖を使えば歩けるようだが、右足が不自由なままだ。地道なリハビリで少しマシにはなるらしいが、杖を手放せるようになるには時間がかかるだろうと言われている。
そして、僕とライモンドはぎこちなく共同生活を始めた。
父の記憶から一般常識は学んでいるようだったが、魔道具や生活魔法を見るたびに、ライモンドは子どものように喜んだ。市場へ買い物に出たり、外で食事をとるたびに、味噌や醤油があることに驚き、米がまずいと文句を言った。
他愛もないことで喜んだり驚いたりするライモンドを見るたびに、僕は父がもういないという事実を突きつけられた。
何日かかけて、街の見物が終わるとライモンドはあまり外に出なくなった。杖を使いながら、3階まで階段を上り下りするのは苦痛だと言うのがその理由だ。
食事の用意はたいてい僕がしたし、学校の帰りに店で出来合いのものを買って帰ることもあった。
「なぁ、酒も買ってきてくれよ。こないだ出かけた時に飲んだエールは美味かったな」
ライモンドの要求に合わせて、時折はエールやワインを買って帰ることもあった。
ライモンドが入院中に、稀人の世話人だという人間が病室を訪れて、稀人の手続きをしてくれたらしく、生活費の補助としていくらかの収入はある。けれどそれは、稀人本人のための生活費であって、家族を養うことは想定されていない金額だった。
ある晩、酒を飲みながらライモンドがぼそぼそと呟くように言った。
「日本はこことはまるで違う世界でさ……ガキの頃、こういうおとぎ話みたいな本を読んだよ。ある日いきなり、剣と魔法の世界に連れて行かれるんだ。そしてそこでは大きな冒険が待ってる。――冒険ってな。ハッ! 笑わせる。四十過ぎの体に入って、しかも片方の足はろくに動かねぇときた」
ぐびり、と飲む酒はいつしかエールやワインではなく、強い蒸留酒になっていた。最初はエールが美味いと飲んでいたのに、そのうち、もっと強い酒を買ってこいと要求するようになったのだ。
酒を飲むたび、ライモンドはニホンという国の話をするようになった。
「メシも日本のほうが美味いし、トイレや風呂だって日本のほうが綺麗で快適だ。服だって、こっちのは何もかもダセェ。俺は日本では結構、ファッションに気をつかってたんだぜ? そりゃハイブランドに手が出るほど金持ちじゃなかったけどよ。バイトして買った革ジャンは結構かっこよかったんだけどな……」
なんでこんなとこに来ちまったんだ、とライモンドは吐き捨てるように言う。
「稀人は……知識を生かして何かの技術提供をしたり、飲食店のメニューに協力することもあるみたいだけど」
僕がそう言うと、ライモンドは、はっ!と笑った。
「三流大学の経済学部に潜り込んだだけの俺が、何の技術を提供できるってんだ。飲食店のメニュー? 俺はカレーと焼きそばしか作れねぇよ。カレーだって、ルーの箱に書いてある通りに作るだけだ。俺だって食いたいモンはある。でも、その作り方を知らねぇんだ。……そうだよ、俺は……何も知らねぇんだ……!」
「でも、いつまでもこのままじゃ……」
「働けって言うのかよ。そんで、おまえを養えって言うのか? そりゃおまえは、この体の持ち主の息子かもしんねえけどよ。俺にとっちゃ、少し前に初めて会った外国人のガキだよ! 面倒見る義理なんてねえんだよ!」
ライモンドはそう言って、強い蒸留酒の入ったゴブレットを、だん!とテーブルに叩きつける。酒の滴がテーブルのあちこちに染みを作った。
「……もう寝るわ」
ゴブレットに残った蒸留酒を飲み干して、ライモンドは寝室に向かった。
……彼にとっては確かにそうだろう。見も知らぬ子どもの面倒を見る義理などない。けれど、だとしたらそれは僕の側からも同じことだ。体は確かに父のもので、見も知らぬとは言えないけれど、中に入っている魂は、僕とはまるで関係のない人間だ。
稀人になるということは、元の魂の死を意味している。例えば父の体がもう一度死に瀕したとしても、元の魂が戻ってくることはない。
以前の父は、普段の食事の時には、技術を司る聖人に祈りを捧げていた。自分が食事に不自由しないのはカスタ・トナのおかげだからと言って。狩人の友人からイノシシを分けてもらった時には山の聖人に祈りを捧げたし、好物だったヒラメのいいのが手に入った時には海の聖人に祈りを捧げた。
けれど、今のライモンドの口から、聖人の名前が出ることはない。
その日以来、ライモンドは常に深酒をするようになったし、僕も最低限の会話しかしなくなった。すでに僕はライモンドのために酒を買ってくることはなくなっていたが、僕が学校に行っている間に、ライモンドも外出はするのだろう。その時に酒を買い込んできているようで、ちらりと覗いた寝室にはきつい蒸留酒の瓶ばかりが並んでいた。
季節は夏を迎えようとしていて、僕は高等院への入学試験を受けた。ここ最近の環境の変化で、本来の勉強時間は確保できていなかったが、なんとか合格することができた。
高等院には寮がある。遠方から来る学生のためのものだが、申請すればオスロン市内の学生でも入居することができる。僕はもちろん、入居の申請をした。
高等院へ通うめどが立つと、僕はこれからの生活の準備を始めた。
彼の言葉を借りれば、僕はあの酔っ払いを養う義理などないのだ。
僕はまず、学校の書類手続きに必要だからと嘘をついて、魔石にライモンドの魔力を込めさせた。これが必要なのは学校ではなく、銀行の手続きだ。
銀行では魔力で口座を管理する。本来は本人が出向いて、その場で魔力を識別してもらうのだが、高齢者や病人だとそれも難しいので、魔石を持った代理人が出向いても問題はない。
僕は、銀行で父が貯めていた金をおろすことにした。入金記録を見せてもらい、父の魂が死んでしまったあの日より前の金額を全ておろして、僕の口座に移動させた。
父の事故があった日から今日までの生活は、もともと父からまとめて預かっていた生活費と、父の職場から出た見舞金でまかなっていた。
父の口座には、事故の日の後にも入出金の記録がある。これは稀人への生活補助金が入金されているのと、ライモンドが酒を買うために時々おろしていたものだろう。僕は、そちらには手を付けずにおいた。
寮の入居可能日が近づくと、僕は自分の荷物をまとめ始めた。話を切り出すのは、ライモンドの機嫌の良さそうな時を狙う。機嫌が悪い時に話しかけると、怒鳴られるようになっていたからだ。
「ライモンドさん……僕、秋から高等院に進むことになったから」
ある日の夕飯時、僕はそう切り出した。
「あ? ああ……そんなこと言ってたな。大学みてぇなもんだろ」
相変わらず酒の杯を手にしてはいるが、まだそれほど酔っていないようだ。
「うん。それで高等院には寮があるから、僕はそっちに引っ越すことにした」
「はぁ? なんだおめぇ、そんな……いきなり。俺のメシや生活はどうすんだよ」
ライモンドの機嫌が降下していく。
「稀人には生活の援助金があるでしょ? それでなんとかしてよ。僕は……父さんと約束したんだ。高等院に進んで回復術師になる」
僕がきっぱりとそう告げると、ライモンドは口元を歪めて笑った。
「……はぁん、なるほどな。俺から逃げようってわけだ」
そんなことないよ、と否定したほうが穏やかな話し合いになったかもしれない。
けれど、僕は。
「うん、そうだね」
そう言った。
「てめぇ、ジェレミア、クソ生意気なツラァしやがって! てめぇみたいなガキが家を出てどうやって生活してくってんだ!」
ごんごん、とライモンドは酒の入ったゴブレットでテーブルを叩く。ピューター製のゴブレットは、父が作ったテーブルにへこみを作った。
「まるであなたが僕を養ってるかのような言い方じゃないか。僕には父さんが残してくれたお金がある! 僕は……僕はもう、あなたとは一緒に暮らせないよ!」
「あぁ!? てめぇ、俺の口座から金盗みやがったのかよ!」
「あなたの口座じゃない、あれは父さんの口座だ!」
ライモンドが、テーブル越しに僕のシャツをつかんだ。
テーブルの上にのっていた酒杯や、シチューの器ががたがたと揺れて、その中身がテーブルの上にこぼれる。
「てめぇ!!」
ライモンドはすごんで見せる。もともと父さんは頑丈な体つきで力も強かったが、ここ最近は酒浸りの毎日だ。あの事故の日以来、リハビリさえまともにしていない体では、僕をねじ伏せることはできない。
僕は、ライモンドの手を思い切り払った。
手を払われた勢いで、ライモンドがテーブルの上に倒れ込む。シチューの皿がひっくり返り、中身はもう救出不可能なほどにこぼれてしまった。
「3日後にはここを出るから」
それだけ告げて、僕は自分の寝室へと向かった。
「クソが!」
テーブルががたつく音と、食器が割れる音がしていたけれど、僕は振り返らなかった。
--------
「教主様、お時間です」
部屋まで呼びに来た側仕えに頷いて、私は安楽椅子から立ち上がった。
25年……正確には26年前か。
あれきり、ライモンドには会っていない。年齢を考えればもう死んでいても不思議はないだろう。
思えば、あれも可哀想な男だったのかもしれない。
自分が40歳を過ぎた頃になって、やっとそう思うようになった。
ただ、それでもやはり……あの時、父が稀人にならなければ、と思うことはやめられなかった。
稀人は終わりの象徴だ。あの日、私の平和な生活を終わらせたように。
けれど、稀人は聖人などではない。




