13.ティモの決意
「あまり大きくはないな。親離れしたばかりの若熊だろう」
ティモがけつまずいた盛り土の周囲で、妖精の光を頼りに足跡を確認したセロが言う。
「セロ、どうする? 禁猟期でもグレートベアだけは別だろう?」
アロイの問いにセロは頷いた。
「こいつは人里の近くにくれば人を襲うからな。……とはいえ、こんな時間にこんな面子じゃグレートベア狩りは無理だ。ただ、この“おやつ”の持ち主がここに戻ってきたら、ティモの匂いに気づいて威嚇行動には出るかもな」
「い、威嚇? オレ、何されちゃうんスか!」
「匂いを辿られて、目に見えるところまで来たら視線で圧をかけられるだけだ。実際にかっぱらったわけじゃねえから、襲われることは……ないといいな」
そう言いながらセロはちらりと、私とアロイを見た。
「な、なんだよ、私は今回はまだ何もしてないじゃないか」
「いや、俺とティモだけなら襲われることはないと思うが、ほどよい大きさで柔らかそうな餌もいるなぁと思って」
「心外だなぁ、僕は最近少し身長も伸びてきたんだけど?」
アロイがくすくすと笑う。
つまり、一番美味しそうなのは私だ。
「……川原に降りよう」
私はそう切り出した。今いる草むらから獣道を下れば石の多い川原に出る。
「そうだな。ここじゃ天馬も出しにくい。川原で天馬を出すことにして、その前に……」
そう言って、セロがアロイを見た。アロイが頷く。
「僕も川原のほうが都合がいいよ。草むらでは浄化しにくいからね。……匂いまで消えるような、ちょっと本気の浄化を見せてあげるよ。ちょうど素材も今、手元にあることだしね」
ふふ、とアロイが笑って、クスナの実を入れた袋を掲げてみせた。
念のため、全員に暗視の魔法をかけてから、獣道を辿って私たちは川原へ降りた。
最後に降りてきたセロが私を見る。
「まだ来てはいないが、森の中で枝を踏む音は聞こえた。念のため、この道を塞ぐように壁を立ててくれ」
「わかった。【我らを守る水晶、折り重なる魔力、月光の盾】――こんなものかな」
私が立てた魔力の壁は、以前、馬車が襲われた時に立てたものと同じだけれど、今回は時間に余裕があったので、透明度の高い壁を立てられた。幅は獣道を大きくはみ出して、手を広げた大人2人分、厚みは私のこぶしくらいのサイズだ。高さはセロの身長とほぼ同じくらいだと思う。
「ティモ、そのへんに座って。さっき転んだ時にいろいろ汚れてるから、ついでに浄化しちゃうよ」
アロイは川原の少し平らになっているあたりで、クスナの実を石の上に置いている。移動しながら全部で4つ。夜の闇の中で淡く光るクスナの実を頂点とした四角形を作っている。四角形の大きさは、ちょうどさっき設営したテントの床くらいの大きさか。
「ついでだから、セロとベルもこの四角の中に入ってくれる? 足もと……そうだな、地面からセロの膝くらいの高さを目安に全体を浄化して滅菌する。【天より借りし清めの水、浄めの風、全ての穢れを払う光】」
さ、と静かな音を立てて足もとに水の気配が現れた。とはいえ、押し流すような水の流れではなく、濃い霧のような気配だ。重苦しくはない。少し足もとが湿ったかもしれないと思った次の瞬間には爽やかな風が吹き抜ける。それも着ている服をはためかせるほどではなく、ふわりと空気が動く感触。
最後に、クスナの実で区切った四角の形で地面が淡く光り、その光がじわじわと上昇してくる。先ほどアロイが言ったように、ちょうどセロの膝くらいの高さまで光が上がると、そのあとは夜の空気に溶けていくように霧散した。魔力を使い果たしたクスナの実がその場で崩れるように消えていく。
アロイに言われて、地面にあぐらをかいていたティモの服はすっかりきれいになっていた。
「ほわぁー……すご……っ」
泥だらけだったズボンがまるで新品のようになっているのを見て、ティモが感嘆の声を漏らす。
そのとき、私が立てた魔力の壁の向こうから、ガサガサと茂みを揺らす音がした。
「来たぞ。天馬を出して乗れ」
セロに言われて、私は天馬に飛び乗った。今日はこうやって天馬への乗り降りや、野外活動があるので、男の子のような格好をしている。のような、というか、実はアロイのお下がりだ。アロイが成長して着られなくなった服を譲ってもらったので、女の子らしさはないが、生地は丈夫で上質なものだ。
アロイも天馬を出して、ティモを後ろに乗せる。セロも天馬に乗ったが、まだ飛び上がってはいない。
「美味しそうな順に上に行け」
不本意ながら、私は一番先に上空に天馬を駆けさせた。すぐにアロイも続く。
アロイの天馬が飛び上がった直後に、どしん!と大きな音がした。魔力の壁に大きな塊が体当たりしてきたのだ。セロは少し距離をとるように、天馬を川の流れの中に進ませた。
「ベル、壁を解除してくれ」
セロに言われて壁を消すと、暗視の魔法と妖精の光で熊の姿がはっきりと見えた。四つん這いになった状態でセロの胸くらいの体高がある。基本は黒い毛の熊だが、毛先はやや銀色を帯びていて、妖精の光と月明かりに輪郭がほんのりと光っていた。
「うわ、大きいな……」
私が思わずそう漏らすと、アロイも頷いた。
「あれで若熊だって言うんだからね。成体ならあとふた回りは大きい」
「うへぇ……あんなのに襲われたら、また死んじゃうっスね」
アロイの後ろでティモが言う。
ふ、とアロイが頬を緩めた。
「ナイス稀人ジョーク」
「えっ?」
アロイの言葉の意味をとらえ損ねたようで、ティモが首を傾げる。意図して言ったことではなかったようだ。
グレートベアはアロイが浄化した地面をフンフンと鼻を鳴らして嗅ぎまわり、しばらく迷うように右往左往してから、くるりと体の向きを変えて、獣道を戻っていった。
セロはそれを確認してから天馬を宙に駆けさせた。上空でセロの天馬とアロイの天馬が鼻を並べる。
「わりとすぐ諦めたようでよかったな。アロイの魔法が効いたか」
「あれは手術室で使うような魔法だよ。本当はクスナの実じゃなくて、調整済みの魔石を天井の隅にも配して8個使うんだ。今日のは上質だったからね。代用できてよかった」
「あそこで匂いが消えたと思い知らせないと、しつこく匂いを探られるからな。あいつらは地面だけじゃなく、空中の匂いも嗅ぎつける」
言いながら、セロはアロイの後ろに乗るティモに目を向けた。
「もう同じの見かけても、二度と触らないっス!」
野営地に戻ってきた私たちは、周囲に異常が無いのを確かめてから、少し休憩することにした。川沿いを戻ってくる途中で適度に乾いた流木も拾ってきたので、せっかくだから焚き火もすることにした。
調理の時は魔石コンロのほうが手軽だし、火力も安定するから便利だけれど、焚き火の炎の明るさと暖かさはまた格別の趣がある。
焚き火のすぐ隣ではアロイが魔石コンロを出して琺瑯製のポットに水と茶葉を入れている。それを見て思い出した。
「そういえばセロ、湯沸かしカップの試作品はどうだった? フェデリカにも色違いで同じ物を渡したけど」
ああ、とセロも気づいたように、自分の荷物から例のカップを取り出した。
「受け取ってから何度か使ってみたよ。性能自体に文句はないな。ただ、容量は増やさなくていいんだが、底の面積がもう少し広いほうが安定するように思う。あと、俺はこの容量でいいけど、女性ならもう少し小さくてもいいんじゃねえか?」
「なるほどね。じゃあそのあたりを改良して製品版を作ってみようかな。セロ、狩人のおじさんたちにも見せて感想聞いてみてよ」
私が言うと、セロは笑って頷いた。
「予約もとってきてやるよ」
アロイがカップにお茶を注いで配る。それを受け取って、ティモはカップの中を見つめながらため息をついた。
「なに? ティモはお茶嫌いだった?」
アロイが聞くと、ティモは首を振る。
「あ、いえ。そうじゃないんス。なんっつーか、オレ……めっちゃ役立たずだなって思って」
ティモはわかりやすく落ち込んでいた。
同じようにアロイからカップを受け取ったセロが首を傾げる。
「っつーか……おまえが役立つ場面なんかあったか」
「うっ! そ、そうっスよね、やっぱり……」
ティモはセロの言葉の意味を誤解している。
「ティモ、違うよ。今、セロが言ったのは、役割分担の話だ。たとえば、私とアロイに妖精を飛ばすことはできない。そして私とセロに、匂いまで消すような浄化魔法は使えない。そして、セロやアロイが使えない暗視魔法や魔力の壁は私が得意とするところだ。それで言うなら、君は昼間、アナグマの突進を盾で止めたじゃないか」
私がそう言ったのを聞いて、アロイも頷いた。
「それぞれがそれぞれの得意とする場面で役立てばいい。そもそも、君はこうやって野外で活動するのは初めてだろう。みんな、初めての時はそんなものだよ」
「そうだよ、私だってグレートベアのおやつに突っ込んじゃったことはあるよ」
そう言って慰めると、セロが笑った。
「ベルは初めての時だけじゃなかったよな。何回やった? 確か、つい2年前にもやってたな」
「4回くらいしかやってないよ!」
私の反論に、アロイが「多いよ」と呟く。
笑い合う私たちを見て、ティモは小さく笑った。
「みなさん、仲いいんスね。……オレ、こんなんでやっていけんのかな。……あの、セロさんとアロイさんは、こっちに来て何年くらいっスか。オレ、何年ぐらい経てばこっちに馴染めるっスか。あの、こっちの体の記憶とか、そういうのも含めて」
「僕は8年……もうすぐ9年かな。僕の場合は、かなり幼い子どもの体に入ってしまったからね。元の体が持っている記憶とのすりあわせみたいな作業はほとんど必要なかった。そのせいでむしろ馴染みやすかったのかもしれない。ティモの状況に近いのはセロのほうじゃないかな?」
言いながら、アロイがセロのほうを見る。
その視線を受けてセロが肩をすくめた。
「俺は5年半ぐらいだけど、俺の場合は山の中で1人でいる時だったし、そのあとも山小屋で1人の時間を長く過ごしたからな。周囲の人間の反応を気にしたり、何かを急かされることもなかった。――ティモは確か、最初に会った日に、10日くらい前に目覚めたばかりだって言ってたよな。つまり、現時点でおまえはこっちに来てからまだせいぜい1ヶ月ってとこだろ? 目覚めて1ヶ月なら、俺はまだ山小屋で1人で試行錯誤してた頃だ。おまえが今、満足に動けないって言っても焦るような時期じゃねえよ」
稀人は、こちらの体が持っている記憶も知ることができるが、私にはその実感はない。ぼんやりと、リナのニホンでの様子を思い出すことはできるが、それ以上のことはできない。おそらく、リナのほうも私の記憶や知識をうまく利用できてはいないだろう。
フェデリカによると、お互いの魂が死んでいないので、“記憶の所有権”が移っていないのだろうとのことだった。つまり、私が死ねば、ベルナールの体の記憶をリナが知ることになる。けれど、今は2人とも生きているので、お互いにふんわりとした……たとえば日常の一幕のような、そういう記憶をごくたまに覗き見ることができるだけだ。
魂が死んで、記憶の所有権とやらが移れば、稀人はこちらの体の記憶と知識を受け入れることになる。確かにアロイの場合は少し特殊だったろう。子どもの体に入ることも稀にあるらしいから、全く前例のないことではないけれど、初等院に入る前の子どもの体では、受け継げる知識もたかが知れている。家庭内のことと、近所の遊び場、同年代の子どもたちのこと……そのくらいだろうか。
その点、セロもティモも、およそ20年分に及ぶ、“自分以外の人生”を受け入れている。それは……受け入れきれるものなのだろうか。聞いてみたことはないけれど。
「オレ、まだいろいろ馴染めてないっていうか……まだ夢の中にいるみたいなんスよ」
ティモはそう言って、焚き火を見つめる。揺らめく炎が、ティモの赤茶色の髪をより赤く見せている。
冷めかけたお茶をごくりと飲み下して続けた。
「そもそも、オレ、死んだ実感なくて……。漁船の上で目覚めた時も、スタンガンでバチッとやられて、悪い組織に拉致られたのかななんて想像してたんス。でも、顔も体も変わってるし、どこを探してもスマホもないし、バイト休んじゃうなとか、ノイキャンイヤホン高かったのに拾えなかったなとか……あと、オレ、あんまり元の家族と仲良くなくて、家族の顔見なくてよくなったんだなとか……ははっ、くだらねえことばっか考えてたっス。――世話になってる漁師の親父さんたちが、稀人なら都会の冒険者ギルドに行けばいろいろ教えてもらえるって言ってくれたんス。冒険者ギルドってなんか、ゲームみたいじゃないっスか。ゲームの世界に転生したんなら、こりゃマジで夢みたいだと思って……夢なら夢で楽しもうって……」
ティモの声は時々震える。悲しそうで寂しそうで、それでも何とか笑おうとしているかのように。
ティモは今まさに、自分が死んだという事実と、20年分の“他人の人生”を消化している最中なのだろう。
稀人として目覚める前までは漁師だったというから、体の記憶と照らし合わせても、オスロンという都会での暮らしや、冒険者の仕事もまだまだ慣れていないはずだ。
21歳で、冒険者ギルドに登録してまだ半月、今日が初めての野外活動だ。何をどれだけ失敗しても、それを責める人間は私たちの中にはいないし、オスロンのギルドの中にもいないだろう。だから傭兵ギルドの師匠は、絶対に1人で行くなと言ったんだ。
私の目からは、ティモはただただ焦っているように見える。
うまくいかない、私たちから見ればごく当たり前のことに、ティモは傷ついている。
「ティモ、君さ……」
アロイがそう声をかける。ティモははい、と言って一瞬顔を上げるが、アロイに見つめられて、そっと視線をそらした。
「君、もともと人見知りで、ちょっと世間知らずだろう」
アロイがさらりとそう言った。うへぇ、とティモが声を上げる。
「な、なな、何を……いや、まぁ……そう、マジでそうっス。なんでわかったんスか! オレ、死んだ実感ないけどほんとに生まれ変わったんならと思い切って……あと、ちょっとティモのもとの性格に引っ張ってもらって、あの日、ギルドでみなさんに話しかけたのも、めっちゃ一大決心だったっていうか!」
ティモが私に目を向ける。
「いや、私からはなんとも……ただ、ティモは悪い大人に騙されなければいいなとはいつも思っているけれど」
「うわ、オレ、騙される自信あるっス!」
私だって店をやっているから接客はそれなりにこなしているが、そもそもあまり社交的とは言えない。社交的というなら一番社交的なのはセロだ。
ちらりとセロを見ると、セロはアロイに同意しているようだ。
「人見知りっつーか、コミュニケーション下手だなとは思ってた。妙に自信なさげだしな。あと、こじらせてんなとは思ってたぜ?」
「こ、ここじらせてるって、何をっスか!?」
ティモの問いかけに、セロはこともなげに答えた。
「だっておまえ、あの日、『守ってみたい』って言ったろ。『守りたい』じゃなくて。それは今まで誰かや何かを守った経験がないからだろ? そんで、スポーツや武道をやってたわけでもない、かといって、勉強に自信があったわけでもない。自分から『頭悪いんで』ってのはだいたい全てにおいて自信がないヤツの言うことだ。なのに誰かを守ることに憧れてる。そんなの、何か夢見てるか、こじらせてるかのどっちかじゃねえか」
うわ、容赦ない。容赦ないけど……多分、私も似たようなことは考えていた。ティモの自信のなさがどこかいびつだと思っていて、それが今、セロの言葉で腑に落ちた感じがするのだ。
焚き火に短めの流木を1本放り込みながらアロイが口を開く。
「ティモはあまり視線があわないからね。人見知りの特徴だ。別に、だからどうというわけじゃないよ。ただ幸い、僕らに対しては少し慣れてきたようだから、わからないことは僕らに聞いてくれればいい。世間知らずな部分はそれで改善していくと思うよ。あと……ひょっとしたら無意識なのかもしれないけど、君自身はちゃんと自分が1度死んだことをわかってるんじゃないのかな」
「……え、そうっスか? でもオレ……」
「だってさっきグレートベアを見て、『また死んじゃうっスね』って言ったじゃないか」
アロイはそう言って笑った。
よく聞く稀人ジョークだ。過去に1度死んだことをジョークにできるなんて、稀人は肝が据わった人が多いと、私は密かに思っていた。
「そう、っスかね……」
考え込むティモにアロイが言う。
「ここはゲームの世界じゃない。3ヶ月でストーリーをクリアしなくてもいいんだ。3ヶ月ならせいぜいチュートリアルかな。年単位で考えないと、気持ちばかりが先走ることになるよ。……僕とセロはこう見えて中身は30代後半だし、ベルだってこんな見た目だけど30過ぎなんだ。君が隠そうとしてることや、君自身が気づいてないことだってわりとバレバレなのは、さっきのやりとりでわかったろう? 言い方は悪いけれど、20歳を過ぎたばかりの若造が何を失敗しようと、多少役立たずだろうと、僕たちは気にしないよ。僕らは少なくとも君よりは世間とやらを知っているからね。新人なんてそんなものなんだ。1年後、2年後、今より少しだけ役立つようになっていればそれでいい」
「あ、でも明日、力仕事はやらせるぜ? 役に立てよ」
そう言ってセロが笑った。
「だからさ、ティモ」
手元のお茶を飲み干して、私はティモに微笑みかけた。
「君は思っていたよりうまくいかない自分に、いらだったり傷ついたりしているかもしれない。生まれ変わったはずなのにと思っているかもしれない。私はゲームのことはよく知らないけれど、君はゲームならもっと上手くできたのにと思ってるかもしれない。でもこれは現実なんだから、上手くいかないのはよくあることで、君はひとつずつ何かを手に入れていければ、それでいいんだと思うよ。今は、今のままの君で許されてるんだってことを、君はまず知るべきだ」
「はい……はいっ!! あざっス! とりあえず、明日は今日より役に立つっス!」
ティモの決意表明の声が、夜の山間に響いた。




