9.船の上(ティモ視点)
「おい、ティモ! 大丈夫か!」
荒々しくも心配げな大声と潮の匂い。
目の前は、遮るもののない青空。
どくん。
ひときわ大きく感じた鼓動がひとつ。
胸元が波打ったかのような錯覚に、驚いた。
「……あれ? オレ……」
日曜日の昼過ぎ、バイト先に向かう途中だった。
なのにひっくり返って空を見上げている。潮の匂い? まさか。海から遠い街とは言わないけど、潮の匂いを感じるほど近くもない。
「う、わっ! 揺れてる!?」
オレが寝転がっていたのは船の上だった。
「ティモ! 目が覚めたか!」
顔を覗きこんできたのは、よく日焼けした顔に無精ひげのおっさんだった。
「おいティモ、大丈夫か。おまえ、さっき心臓止まってたぞ」
無精ひげのおっさんの後ろから声をかけてきたのも、これまた無精ひげのおっさんだった。最初のおっさんが黒髪で、次のおっさんが白髪交じりのごま塩頭だ。2人とも似たような年代だと思うけど、白髪がぱらついてる分、ごま塩のおっさんのほうが年上に見える。
「……ティモ? え、なんスか。オレ、バイト行く途中で……」
起き上がる。船はどうやら小さな漁船のようで、あたりには小魚も散らばっているし、魚がかかったままの漁網もオレの足もとあたりに固まっている。
潮の匂いも、魚の生臭い匂いも、船の揺れも、何もかもが気持ち悪い。
座ったままあたりを見回そうとすると、さっき鼓動を感じた胸元がズキズキと痛んだ。どこかに強く打ち付けたような痛みだ。
「おい、ティモ?」
「……なんスか、それ。名前っスか? オレ、ヒロキって言います。コウダヒロキっス」
気がついたら漁船の上で……これって、犯罪に巻き込まれて拉致されたとかだろうか。
「叔父貴……」
黒髪のおっさんが、ごま塩頭のおっさんを振り返った。なんでそんな、悲しそうな声なんだろう。こんな海の上まで拉致されて、悲しいのはオレのほうだ。
「あぁ……そうか、稀人か……。ティモ……」
ごま塩のおっさんも辛そうに目を伏せる。
「とりあえず、一旦、陸に戻りましょうや。今日の漁はこれまでだ」
黒髪のおっさんがそう言って、ごま塩のおっさんも頷いた。
よく「おまえは空気が読めない」と家族にも、数少ない友人にも言われていた。周囲の状況をオモンパカル、というやつがオレにはどうにも苦手だ。パカルってなんだろうといつも思っている。
でも、目の前にいる2人のおっさんがやけに悲しそうで、これではまるで通夜か葬式だというのはなんとなくわかった。
けれど、オレはオレで、それ以上おっさんたちのことを考えられる状況じゃない。さっきまでそこそこ賑やかな交差点を渡っていて……いや、それなりに高性能のノイズキャンセルイヤホンをしていたから、賑やかそうだなと思っていただけで、実際のざわめきは聞いていないけど。
……そうだ。すれ違う人がなんだか恐ろしいものを見るような目でオレの後ろのほうを見た気がする。オレに何か恐ろしい霊でもくっついているのかな、なんて考えた直後に……そうだ、悲鳴だ。イヤホンの性能を上回るほどに甲高い悲鳴が聞こえた。
立ち止まってイヤホンを外そうとした。左耳のイヤホンを外したタイミングで、さらにいろんな悲鳴が聞こえてきて、びっくりしてイヤホンを取り落とした。
やべぇ、と思って道路に落ちたイヤホンを拾おうと腰をかがめた。
そこに影が覆いかぶさった。
誰かがすぐ近くにいたのかと思って姿勢はそのまま、視線だけを斜め後ろに向けると、そこには馬鹿みたいにでかいサバイバルナイフを振りかぶった若い男がいた。オレと同じくらいの年齢に見えた。オレも時々バイトをクビになったりして、それなりに追い詰められていたけれど、それよりもっと追い詰められてる顔をしていた。
血走ったそいつの目と、オレの目が合った。
あ、これ、ヤられるやつ。
――走馬灯というやつが見えたかどうかよくわからない。オレは走馬灯がどんなものか知らなかった。
でも、家族の顔は浮かんだ。厳しい父親と、甘かったり冷たかったりする母親、オレに無関心な弟。弟は出来がよくて、オレは出来が悪かった。大学にも落ちた。浪人する気力もなくて、適当な専門学校に入ったけど、それも長続きしなくて、長期欠席の末に退学した。最初はただぷらぷらしていたけど、そのうちバイトを始めた。父親と母親と弟の視線が怖かったからだ。
そっか、これで終わりか。ギラつくサバイバルナイフを見た時に、そう思ったのを覚えている。これまでを振り返って、何か思い残すことがあるような人生でもなかったなと思った。
でも、そう……強いて言うなら、まだ何もしていないっていうことだけが心残りだったかもしれない。
一連の光景と、自分がそう考えたことを覚えている。今、思い出した。
でも、自分の意識が途切れる前に見た光景と、漁船が結びつかない。
オレ……生きてたのか。てっきり死んだと思った。
襲われたけど、実は殺されてなくて、スタンガンか何かで気絶させられて船に運ばれたのかもしれない。おっさんたちは運び屋のようには見えないけど、そもそもオレは運び屋がどんな見た目をしているのか知らないから、やっぱり運び屋なのかもしれない。
そうだ。きっとそうだ。どうやってかわからないけど、オレは死ななかったんだ。
「あの……オレ、拉致られたんスか」
今日はバイトに行けないと連絡できるだろうか。少なくとも着替えさせられてるみたいで、オレは覚えのない服を着ている。オレのスマホはどこにあるんだろう。いや、それどころじゃないかもしれない。命の心配があるか、そうでなくとも二度と家には帰れないのかもしれない。
じゃあ、死ななかったと言って喜んでもいられないのか。
2人とも、一瞬、お互いに目を見合わせただけでオレの問いには答えてくれなかった。
「ティモは……いくつだった?」
ごま塩のおっさんがそう聞いて、黒髪のおっさんが「21です」と答えた。
オレも21だけど……どういうこと?
少し経って、陸に着いたらしく、船から下りるように促される。
揺れる船の上で立ち上がるのが恐ろしくて、オレは少し震えながら、四つん這いになってどうにかこうにか桟橋の上に移動した。
昔、海で溺れたことがあって、オレは海も苦手だし船も苦手だ。生臭い潮の匂いも気持ちが悪い。
そんな風に思っているオレを、おっさんたちはなんとも言えない表情で見下ろしていた。
「ここはアッタイ村だ。これからおまえを、こいつの……網元の家に連れて行く。ちょうど今日は巡回の回復術師が来る日だ。少し診てもらおうな」
ごま塩のおっさんがぶっきらぼうにそう呟く。こいつ、と指さされた黒髪のおっさんは、なんだか嫌そうに首を振った。
「いや、叔父貴、まだわかんねえじゃねえか。気絶したあとでちょっと混乱してるだけかもしんねえしよぉ。だって、ティモはまだ21だぜ? 稼いで船買って独立するんだって言って……こんなの、ティモが可哀想じゃねえか。親父さんもお袋さんも早くに亡くしてんのによ、ティモまでこんな……」
ひょっとして……ティモって、オレのこと?
「心臓震盪という症状があります。心臓の真上に衝撃を受けて、鼓動の波がその衝撃とちょうど打ち消しあうようにして、鼓動が止まるんだそうです。彼も一度心臓が止まったんですよね? それで胸を叩いたら意識が戻ったと?」
小綺麗な格好をした白髪のじいさんが、オレの体を診察して、後ろに控えていたおっさん2人にそう聞く。黒髪のおっさんのほうが頷いた。
「そうです。網を引き上げた時に、コブザメがかかってましてね。ほら、頭に固いコブのあるヤツですよ。あれに胸をぶん殴られてるのが見えて、そのあとにすっ転びやがったから、巻き上げる網を止めて様子を見にいったら……あの、心臓が止まってて……う……ぐっ……ほっぺた叩いても、大声で呼んでも動かなくて……心臓マッサージってやつもやったんですが動かなくて……チクショウ!って胸を殴りつけたら、少しして心臓が動き始めて……なのに、こんな……」
黒髪のおっさんが涙ぐみながら話してるのはオレのことか? それとも……ティモのことか?
「そして、君のほうは?」
白髪のじいさんが今度はオレに向かってそう聞く。
「えっと……バイト先に向かう途中で、あの、通り魔だと思うんスけど、でっかいサバイバルナイフで多分斬りかかられて……そのくらいしか覚えてないっス。でもオレは今生きてるってことは、その状況からは助かったんだと思うんスよね。気づいたら船に乗せられてたから、スタンガンで気絶させられたのかなって思ってるんスけど……サバイバルナイフからスタンガンまでの記憶がないっス」
そう答えたら、黒髪のおっさんとごま塩のおっさんが、2人揃ってため息をついた。
「あぁ……サバイバ、ナントカか……」
「バイトサキ……スタンガン? ……やっぱりか」
2人で口々にそう呟いてる。
「そうですか。……あなたは、ニホン人ですか?」
白髪のじいさんに聞かれた。
「そうですけど、それがなんスか?」
オレのその言葉が決定打であったかのように、白髪のじいさんは大きく頷いた。そして最初からいた2人のおっさんたちは揃って打ちひしがれるように息を吐き出した。
白髪のじいさんが帰ったあと、オレは今いる家の中を見回してみた。そもそもここはどこなんだろう。船を下りて、この家まで来る途中の風景は、小さな港町みたいな感じだった。でも、ごま塩頭のおっさんは、ここはナントカ村だと言っていた。ということは、港町というより漁村なのかもしれない。
「なぁ、ティモ……ああ、いや、ヒロキだっけ?」
黒髪のおっさんがぼそりと声をかけてきた。
「……はい」
何かが、おかしい気がする。何もかもが違っているような気がする。
たとえば、オレは普通に受け答えしているけど、多分これ、日本語じゃない気がする。でも、オレが普通に話そうと思うと、その日本語じゃない言葉が出てくる。
まるで世界がぐるんと変わったかのようだ。
なんだか、とんでもないことが起こっているような気がする。
「おまえは稀人に……いや、こう言われてもわかんねぇか。おまえは、ニホンで死んだんだよ。ナントカ言うやつで斬りかかられたって言ったろう? 多分、それだ。そんで、こっちに……なんて言うんだ、生まれ変わったってのとはちょっと違う。ティモの体に、ヒロキの魂が入ったんだ」
黒髪のおっさんがわけのわからないことを言う。
日本で死んだって? オレが?
「……は?」
「ニホンにはそういうのないのか? 魂の入れ替わりみたいなやつだ」
いや、そうじゃなくて……オレが死んだって?
「え。いや、なんスか、それ!?」
なんだそれ。助かったんじゃなかったのか。サバイバルナイフからスタンガンまでの記憶がないのは……そんなものはもともとなかったから?
……何かがおかしい、何もかもが違ってる、そんな思いが一層強くなる。
なんて言うんだっけ、こういう気持ち。わーっと無性に焦る気持ちと、何かに追いたてられるような気持ちで、パニックになる寸前の。ショーソー感?
――でも心のどこかで納得している。
だって、さっきから見てるオレの腕は、以前のようなヒョロい腕じゃない。筋肉質でたくましく、日焼けしている。腕に生えているいくらかの毛は以前のように黒くなくて、赤茶色のような色合いだ。
何もかもが……世界が、変わったんだ。しかもオレごと。
そうだとしたら、説明がつく。そう思ってしまう。
ヒロキ、と名乗ったそのときは、自分の名前はそれしかないと思っていた。
でも、この家に連れてこられて、医者のような白髪のじいさんに診察されている間に、ティモと呼ばれることに不自然さを感じなくなっていた。
「あの……鏡、見せてもらっていいっスか」
腕が、足がたくましい。一度は止まったという心臓のあたり……胸板も厚い。腹を触ってみると、服の上からでも腹筋が割れているのがわかる。バイト先への通勤と、品出しくらいしかしていなかったオレの貧弱な体とは大違いだ。
ごま塩のおっさんが、隣の部屋から鏡を持ってきてくれた。
受け取って、覗き込む。
……ああ。ティモの顔だ。
知らないはずの記憶がそう告げる。
貧弱で少し青白い不健康そうな顔はそこになく、日焼けしてたくましく、少しえらが張っているけれど、男らしい顔があった。髪の毛は濃い赤茶色で、触ると潮で少しべたついているけれど、猫っ毛だったオレとは違って、ぴんぴんとはねている硬い髪だった。
鏡を持っている指も太い。ずんぐりした指というわけではないけれど、肉体労働をして分厚くなった手だ。
オレがこんな手を持って、こんな体だったら、多少の出来の悪さも気にせずに肉体労働で稼げただろうか。家族に後ろめたい気持ちを持たずに済んだだろうか。
……いや、別にオレは病弱だったわけでもない。ただ体を鍛えていなかっただけだ。勝手にコンプレックスを持って、勝手にひねくれていた。
「オレ……死んだんスか……」
魂がどうのとかはわからないけど、オレの体はオレじゃない。
死んだ……そっか、死んだのか……。
最初、てっきり死んだかと思ったら生きてたっぽくて、でも拉致とかやべーな、と思ってたら、やっぱりおまえは死んだんだって言われて……。
もうぐちゃぐちゃだ。
「……そうだな。おまえの体は死んだ。ティモの魂も死んだ。でも、ティモの体とおまえの魂は生きている」
ごま塩頭のおっさんがそう言う。ぶっきらぼうだけど、冷たい感じはしない。
オレは正直まだいろいろと飲み込めてない。オレの中のショーソー感はまだ、胸の中でざわざわとしている。
でも、オレが覚えているオレはどうやら死んだらしい。
日本では、オレの葬式がされるってことかな。誰か来るのかな。家族は……泣いてくれるかな。バイト先の店長くらいは来てくれるかな。同僚は……来ないだろうな。オレは社交的なほうじゃないし、ひょっとしたら、「あいつ、暗くてうぜー」とか思われてたかもしれないし。でも高校の同級生、コバとカズヤだけは来てほしいな。
死んだんだとしたら……家族に、もう会わなくていい。――いや、違う、会えないんだ。
もう弟と比べられないし、父親に怒られることもないし、母親のキンキンした声を聞くこともない。
オレは、ほっとしているのか、それとも悲しいのかはわからない。ただ、見知らぬ世界にたった1人で放り出されたことだけはわかる。
寂しいというのはこういうことなのかもしれないと思った。
でも、もしそうだとしたら、オレが覚えているオレも、ひょっとしたらずっと寂しかったのかもしれない。ふわふわと心細いような、何かにつかまりたくなるような気持ち。今だけに限らず、ずっとそんな気持ちでいたような気がする。
将来の展望なんてなくて、バイトもいつまで続くかわからなくて、家族の気持ちすらパカルことができなくて。
「ティモ……おまえも混乱してるだろう。部屋で少し休め」
ごま塩のおっさんがそう言ってくれる。気遣ってくれている。
「オレ……あの、この体……ティモの体、使ってていいんスか。だってティモの部屋で休むって、そういうことっスよね? オレがティモで……いいんスか」
「いいんだ。おまえは稀人になったんだ。……そういうものだから」
腕を組んだごま塩のおっさんがそう頷いた。
無愛想で、しかめ面なのに、嫌な感じはしない。
オモンパカられてる感じがする。
それは、オレの中のティモがそう感じているからなのかもしれない。
ショーソー感は少しだけ薄れた気がした。
何かにつかまりたくなるような気持ち……オレは、オレの中のティモにつかまってもいいんだろうか。
そうやって、過去のオレを誰も知らないこの世界で、やり直してもいいんだろうか。
「いいんだ」
オレの心の中の言葉に返事をするかのように、ごま塩のおっさんがもう一度呟いた。




