29.卵ケーキ
翌朝、私が朝食の支度を始める頃になっても、リナは眠ったままだった。眠りのきっかけはフェデリカの魔法だったけれど、途中から通常の睡眠になっていることは魔力の流れで確認していた。それでも、いつもより眠っている時間が長いことに不安を感じ始めた頃、床を歩くカチャカチャという足音が聞こえてきた。
「おはよう。なんか、たくさん寝ちゃったぁ」
黒い犬――リナがキッチンをのぞき込みながら、いつもの調子で言う。
よかった、ちゃんと目覚めたみたいだ。
「おはよう。よく眠れたようだね」
「うん、昨日の夜、フェデリカさんの魔法陣の上に乗ったのは覚えてるんだけど、途中で寝ちゃったみたい?」
「そうだね。その後も私たちはいろいろ話していたから、リナが途中で起きたら可哀想だと思って、セロに客間のベッドまで運んでもらったんだ」
話しながら、リナの視線や口調に気をつけていたが、特に変わりはないようだった。今のリナの体は犬なので、顔色や表情がわからないのが困る。
「あ、ねぇそれ、朝ご飯? また味見させてもらってもいい?」
「いいよ。今日はね、昨日あまった平パンを、卵とミルクとバターで甘くトーストしたやつ」
ちょうどフライパンから皿に移したばかりのそれを見せる。
2枚目の平パンをフライパンに入れて焼き始めると、リナがスンスンと鼻を鳴らした。
「バターのいい匂い。フレンチトーストだね」
「セロもそれ言ってたなぁ。ニホンではフレンチトーストって言うのか。こっちでは卵ケーキって言うよ。平パンでやる卵ケーキが一番美味しいんだ」
2枚目も焼き上げると、それを皿にのせて、テーブルに運ぶ。私は昨日のスープも温め直してカップに注いだが、リナは卵ケーキだけでいいと言った。
「そういえばモモは? まだ寝てる?」
我ながらうまく焼けたと思いながら、卵ケーキを食べる。リナは食事のいらない体だが、ベルナールの体は食事が必要だ。
聞いてみると、リナはハフハフと卵ケーキを冷まして食べつつ、頷いた。
「うん、まだ寝てる。いつの間にかあたしが寝てる横に潜り込んできてたみたい」
もしも、眠ってる途中で何かを思いだして、夜中に1人で飛び起きるのは辛いだろうと思って、昨夜、モモを客間に行かせた。結果的についさっきまでリナは起きなかったようだが、フェデリカによると、魂が繭で包まれるまで3日だという。……あと2晩か。
「最近は朝晩冷え込むようになってきたからさ、今夜は3人一緒に寝てみない?」
そう提案してみる。
「そっか、あたしは暑いとか寒いとかあまり感じないけど、もう秋だもんね。いいよ、ベルさんのベッドなら3人で寝られそう!」
少し広めのベッドは、少女の体になってから持て余し気味だったけれど、こんな時はちょうどよかった、と思う。
「そうだ、リナ。話しておかなきゃいけないことがあるんだ」
リナが卵ケーキを食べ終わった頃を見計らって、そう切り出してみる。
「なぁに?」
「君がこちらに呼び出されてしまった経緯は、昨夜、フェデリカが説明してくれた通りで、いろいろな要因が絡み合ってるんだけどさ」
「うん、混ざっちゃったってやつよね。覚えてるよ」
「私たちの魂を入れ替えて、それぞれの体に戻れたとしても、やっぱり、君がニホンへ帰るのは難しいみたいなんだ」
もしもあの召喚を“なかったこと”にできたとしても、リナが召喚されたタイミングにそのまま戻してしまっては、リナはすぐに死んでしまう。
「あー……そっかぁ。――うん、わかった」
少し気落ちしたような声を出したが、リナはすぐに了承してくれた。
「……リナ? 大丈夫? がっかりしたんじゃない?」
「それはそうだけど、うん、でも大丈夫。ここに初めて来た日にも、セロさんが言ってたじゃない? 戻れるかはわからない、って。みんな優しいのにさ、きっと戻れるよって言う人は誰もいなかったから……だから、わかってた。もうお父さんとお母さんには会えないんだって。でも、モモに会えたよ! ほんとにそれは予想外で、すっごく嬉しい!」
それは本心からの言葉のようで、私は少し安心した。
「そうかぁ。じゃあモモが使い魔として呼ばれたのはいいことかもね。なにせ、使い魔の体だと寿命が関係ないんだ。だから、リナはモモとずっと一緒にいられるよ」
「ほんと!? モモはいつかあたしより先に死んじゃうんだって少し考えてたから、それも嬉しい! そうだ、あたし、モモを起こしてくるね。ベルさんは朝ご飯作ってあげて!」
リナが、ぴょんと椅子から飛び降りる。客間へと向かうリナの尻尾が、ぶんぶんと揺れていた。
例えば、リナがこんな召喚に巻き込まれずに、ニホンにいたままで、そして例の事故から運良く救出されていたら、リナは両親とモモをいっぺんに亡くしたことを乗り越えなくてはいけなかった。もちろん他にも親しい身内や友人はいただろう。だから、この世界に呼んでしまった……少なくとも召喚の魔力の大部分は私が担ってしまったというのは、申し訳なく思う。でも、もしあの時、モモが召喚に巻き込まなかったら、リナは今頃どんな絶望の中にいたのかと思うと、それも心が痛む。
今は犬の姿だから少女らしい笑顔は見られないけれど、それでもああやって、嬉しそうに話す姿は無邪気で愛らしいと思う。
(それに、両親に会えないという事実は、ニホンでもこちらでも同じなんだ)
リナが巻き込まれた2つの事故――クルマの事故と召喚事故――はどちらも気の毒ではあるが、ひょっとしたら、少しでもマシな選択肢にいるのかもしれない。そう思ってしまうのは、私がその召喚に関わった当事者だからか。
(そもそも、リナにとっては選択でも何でもなかった)
リナの両親のことは、リナ本人が思い出すことがあれば、その時に伝えようと、あの場にいたみんなで話した。できれば、もっと大人になってから、と。
今だって、リナは普通に笑い声をあげるけれど、そしてモモは一緒にいてくれるけれど、ここはニホンとは遠く離れた場所だ。手紙すら届かない。ここで暮らさざるを得ないことに、私が見ていないところで静かに泣いているかもしれない。13歳というのは幼子ではないけれど、親から離れて何もかも上手くできるほど大人でもない。
モモの分の卵ケーキが焼き上がる頃、リナがモモを連れて戻ってきた。
「モモったら、寝ぼけてあたしに抱きつくんだよ。ベルさんの体おっきいから重たいのに!」
モモが食べやすいように、ケーキは小さく切ってボウルに入れる。
「あぉーん」
リナに謝っているかのようなモモの目の前に、そのボウルを置いてやると、嬉しそうに、おん!と叫んで顔を突っ込んだ。
成人男性が床に座って、ボウルに直接顔を突っ込んでものを食べる様子は、何やら尋常ではないように見えるが、これはもうしょうがない。そしてその様子を、黒い犬が座って見守っているのも不思議だが、これもしょうがない。
「ねぇ、ベルさん。あたし、元の体に戻っても……ここに住んでいていいの? あの、だって、日本に帰れないってことはずっとこっちの世界にいるっていうことだから、あの……」
モモの隣で顔を上げて、リナが口を開く。少し不安そうに。
私は笑って、リナの前にしゃがみこんだ。視線を合わせて、リナの頭を撫でる。
「もちろん。私たちはもう家族のようなものだよ。私はそんなにお金持ちではないけど、リナに不自由させないくらいには稼いでいるから大丈夫。あ、でもアロイの家のお母さんも女の子を欲しがっていたようなんだ。向こうのほうが断然お金持ちだけど、リナはどっちがいい?」
そう聞くと、リナはふふっと笑った。
「……客間をあたしの部屋にしていいなら、ベルさんの家がいい」
「じゃあ、今はベッドしかないから机と衣装箪笥を入れないとね」
「ねぇ、元の体に戻ったら、あたしも魔法使えるようになる?」
安心したのか、リナが少しはしゃいだ声を出す。
「この体に魔力袋があるから使えると思うよ。魔力の扱い方は私が教えてもいいし、学校に通ってもいい」
魔力の扱いだけなら私も教えられる。その他のことも学びたいと思えば、学校もあるし私塾もある。
「あたしね、ベルさんが作ってた魔結晶を作ってみたい。ぷにぷにしてて面白かったし、いろんな形にできるって言ってたでしょう? 可愛い形作ってみたい!」
「おっと、じゃあ店の売り物にできるように、リナを店の従業員として育ててあげよう。生産性が上がれば店の利益も上がるよ!」
それはちょっと本音だったりする。
「あ、そうだ。聞きたかったの。なんか、オレンジとイチゴを合わせたような味がするピンク色のジュースを、アロイさんのおうちでごちそうになったんだけど、あれって何の果物?」
リナが言う果物には覚えがあった。
「大陸の南で採れる、サイベリーっていう果物かな。ユラルでは採れなくて、輸入するしかない果物だね。だからあまりたくさんは売ってないよ」
「ふぅん、じゃあ売ってても高いの?」
おいしかったのに、とリナが呟く。
「そうだね、他の果物よりは高いかなぁ」
「アロイさんちでたっぷりジュースにしていたのは、お金持ちだから?」
「そう! お金持ちだから!」
くすくすと、私たちは笑い合った。
リナが楽しくはしゃぐなら、私も一緒にはしゃごう。リナが少しでも、こちらに来てよかったと思ってくれればいい。
それから2晩、リナが事故の記憶を思い出すことはなかった。




