27.魂の輪郭を定める魔法
「さて、じゃあ……まずは、あなたたちを元に戻すための下準備から始めましょうか」
そう言ってフェデリカは、持ってきていた書類ケースから羊皮紙の束を取り出した。
植物性の紙が安く出回るようになったけれど、魔法陣だけは今も羊皮紙だ。植物性の紙に魔法陣を書いて試したこともあるけれど、術式が全て発動する前に紙のほうが燃え尽きてしまった。だから魔法陣を書くのは羊皮紙か、獣皮紙……大きい魔法を試すなら魔獣の皮で作った獣皮紙を使う。
フェデリカはソファから立ち上がると、魔法陣を書いた羊皮紙を床に置いた。3枚だ。……3枚? 私とモモの分もあるのか。
フェデリカがリナに向けて声をかける。
「じゃあまずは……リナちゃん、モモをこちらに呼んでくれる? そして魔法陣の上に座らせて」
「はぁい。モモー、こっち来て」
リナの声に、暖炉の前で寝ていたモモがゆっくりと起き上がる。あくびをしながら、それでもリナの言うことには逆らわず、四つん這いでリナの近くまで歩いてきた。
リナもソファからぴょんと飛び降りると、フェデリカが広げた魔法陣の近くへ行く。
そのまま、リナはモモを魔法陣へ誘導した。
「モモ、この上に……そうそう、そこでお座り! ちょっと待っててね。ステイだよ」
フェデリカが魔法陣の前にひざまずく。私もフェデリカの背後から魔法陣をのぞいてみたけれど、半分くらいしか意味がわからなかった。書いてある単語は読み取れても、なぜそこが繋がる?というようなところで予想外の単語が出てきたり、あるいは全く知らない単語が出てきたりする。
フェデリカが魔法陣に手をかざすと、魔法陣に書かれている文字のひとつひとつが淡く光り始めた。座っているモモを取り囲むように、光る文字は連なって円を描き、それはやがてらせん状に昇り始めた。フェデリカには何らかの反応が感じられるのか、小さな声で大丈夫そうね、と呟いた。
「モモは違う体に入ってしまっているけれど、もともとは正しく呼ばれた使い魔だから、あまり無理はかかっていないわ」
らせん状にぐるぐると巡った文字は、やがてほどけるように形を失い、光の粒を残して消えていった。残された光の粒はしばらくモモのまわりをめぐっていたが、それもゆっくりと消えていく。キラキラと、何かがこぼれ落ちるように光が消えていく様は、春の日の雨のようだと思った。
「きれいな魔法だ……」
思わず、そう呟いていた。
「魂に触るんだもの。きれいなほうがいいでしょう?」
ふふ、とフェデリカが笑った。その顔もきれいだった。
ちなみに、魔法陣が発動したあとの羊皮紙は、ちょうど文字が書かれていた場所に穴が空くように羊皮紙が“消えて”いた。びっしりと術式が書かれていたので、羊皮紙はもう形を保てないほどだ。持ち上げるとぼろぼろに崩れて、切れ端の山になってしまった。
次はリナの番だ。
「リナちゃん、ここに座ってくれる? 大丈夫よ、痛くないし、怖くないから」
フェデリカに手招きされて、リナは魔法陣の上に座った。少しきょろきょろと落ち着きがなかったが、座ってしまったら覚悟を決めたようで、ぎゅっと目を閉じて鼻先を上げた。
「うん、お願いします!」
先ほどと同じように光る文字がリナの体を包んだ。らせん状に巡る文字は、モモの時とは違って、あちこちで不規則に明滅する。フェデリカが少しだけ眉を寄せた。
「【……頬にあたたかな和毛、甘く香る薄闇、眠りの霧……】」
光る文字が消えるのに合わせるように、フェデリカがささやくように詠唱する。リナの鼻の上に白い霧がふわりと浮かんだ。リナは、鼻の上にぎゅっと皺を寄せて目を閉じていたけれど、その皺がゆるんだ。上げていた鼻先が下がり、座ったまま、かくりと頭が下がる。
「セロさん、リナちゃんを客間に運んでくださる? 魔法は少し深めにかけてあるから、動かしても起きないわ」
「わかった」
フェデリカが何かに気づいたことに、セロもアロイも、そして私も気づいていた。リナの耳に入らないところで話をするつもりなのだろう。
モモはお腹が空いたのか、アロイに肉とパンをせがんでいた。
リナを客間のベッドに寝かせてきたセロが戻ると、フェデリカは私をじっと見つめた。
「あなたたちがこうなって、ちょうど2ヶ月くらいだったかしら?」
「うん、そのくらいだよ。……フェデリカ、リナの魂がどうかしたの?」
私の問いに、フェデリカは少し迷うように視線をそらしたけれど、すぐに覚悟を決めたのか、もう一度私を見る。
「少し、欠けているわ」
「え、それは……大丈夫なの? どんな影響が出るんだ?」
私の問いに、フェデリカは少し難しい顔をする。
「欠けている程度によるわね。今までにわたしが実験で遭遇した事例で言うと、例えば大きく欠けてしまった魂は、だいたい会話が成立しなかったわ。理性を失っているか、記憶を失っているかのどちらかよ。だから、リナちゃんがこちらに来る寸前のことを思い出せないというのは、そのせいかもしれない」
「欠けている部分を元に戻せたりは……しない?」
「しないわね」
期待を込めた私の言葉は、あっさり否定された。
「ちょっといいかな」
講義中の生徒のように、手を挙げたのはアロイだ。フェデリカと私が振り向いたのを見て、先を続ける。
「そもそもリナを帰還させることはできるの? もしもリナが向こうで死んでいなかったらの話だけど」
「それは……難しいわ。というより、現時点ではできない、と言ったほうがいいわね」
フェデリカの回答に、だろうな、と肩をすくめたのはセロだ。
「だとしたら、こっちに来る寸前の記憶なんか、忘れていてもいいんじゃねえの? 向こうで死んだ可能性のほうが高いんだ。自分が死ぬ瞬間の記憶なんてないほうがいいだろ。たったの13歳だぞ」
「僕は最近やっと、病院の夢を見なくなったけど、セロはまだ夢に見るんじゃない?」
「……たまにな」
アロイの言葉に肩をすくめるセロを見て、私はまた考えなしの発言をしてしまったことを知る。魂を――記憶を補完できないか、というのは、ひょっとしたらリナに自分の死の瞬間を思い出させることになるかもしれないのだ。
「ベルナールが反省しているところ、悪いけれど……」
フェデリカがそっと口を開く。どうして私がひっそり反省していることがバレたのか。
「な、なんだよ、別に反省とかそういうんじゃなくて……」
「記憶は戻るかもしれないわ」
「へぁっ!?」
「変な声出さないでよ。……さっきの魔法は、魂の輪郭を定める魔法と言ったけれど、魂を薄い繭のようなもので包む魔法なのよ。今の時点では、ふわりと網がかかった感じね。これから3日くらいかけて、ゆっくりとその網が繭のように育っていくの。その繭で包むことで、肉体から切り離してもこの世界に存在できるようにするのよ。魂そのものを元には戻せないけれど、育った繭が魂の傷にも入り込むことで、それを埋めるかもしれないわ。だから完全にとは言わないけれど、この魔法でいくつかの記憶が繋がる可能性はある。リナちゃんを先に寝かせたのはこれを言うためでもあったの」
フェデリカは、一旦言葉を切って、私とセロ、アロイを順に見る。小さく微笑んで再び口を開いた。
「ベルナールだけじゃ心もとないと思ったけれど、セロさんとアロイさんもいるなら大丈夫よね。3人とも、リナちゃんの保護者みたいだわ。――今日から3日の内に、リナちゃんはこちらに来る寸前のことを思い出すかもしれない。そしてそれは、ひょっとしたら彼女にとっては衝撃的な出来事かもしれない」
なるほど、と頷いているセロとアロイを見ながら、私は少し不安だった。私自身でさえ乗り越えたことがないものを、13歳の少女が直面するかもしれないとフェデリカは言っているのだ。
「リナちゃんの、心を守ってちょうだい」
それはとんでもない重責ではないだろうか。
「さて、じゃあベルナール、あなたの魂にも魔法をかけるわよ。そこに座って」
「へぅゎっ!? は、はい!」
リナの心を守れという大きな課題に緊張していたせいか、変な声が出た。
私が魔法陣の上に座り、フェデリカが魔力を込める。
「アロイさん、さっきの……リナちゃんを帰還させられないかという話だけれど」
「うん?」
アロイが返事をする。
「イーゴレの魔法陣で呼んだものだから、あの魔法陣の効果を逆再生できれば、わずかに可能性はあるかもしれない。けれど、あの魔法陣で人間を呼べること自体が、不測の事態なのよ。……こういうの、あなたたちはバグって言うんだったかしら」
魔法陣に魔力を込めながら、別の話題を口にしていて大丈夫なのか。
私の不安とは裏腹に、魔法陣は正常に起動したようで、さっきと同じように光る文字が回り始めた。リナの時と違って、不規則な明滅もない。
「なるほど、バグでたまたま出てしまった結果なら、逆再生できたとしても、正しく元に戻るとは限らないね。バグにバグを重ねるような結果になるなら、目も当てられない」
アロイが眉を寄せて言う。
「その通りよ。だから、現時点ではできないの。ひょっとしたら何年か後にできるようになるかもしれないけれど、死んでこちらに来るはずの稀人たちを、“戻す”研究には意味がないから、今のところ積み重ねは何もないわ。――ベルナール、あなた、妙にこの体に馴染んでいるわね。うっかり魂が肉体に融合しかけてるわよ。だから、早くわたしを呼べばよかったのに、まさかこれほどなんて……」
「やっぱりな」
とセロが呟いたが、それはリナを戻せないという部分に反応したのか、私がこの体に馴染んでいることに反応したのかはわからない。
「ベル、気をつけろよ。魂なんてのは肉体に引きずられるもんだ。もともと魂と肉体はそれぞれに影響しあってる。入れ物の影響を受けない魂なんてない」
後者だったようだ。セロの言葉には妙に説得力がある。
「まぁ、僕らもそうだったしね。子どもの体に入って、精神性まで子どもになってしまわないように、当時はなかなか気力を要したよ」
アロイが笑う。でも、セロは年齢が少し若くなったくらいの変化じゃないのか。
「まぁ、子どもに引きずられるよりは、性別が変わるほうがまだ乗り越えやすいのかもしれねえな」
…………ん?
「そんなわけないよ、性別が変わるって相当のことだと思うよ、セロ。以前の世界では性同一性障害とかあったじゃないか。魂と肉体の性別が違うっていうのはそういうことに近いと思うんだけど、そういう不調って出なかったの?」
……んん?? ん?
「もともと、その肉体に適合しやすい魂が引っ張られてるのかもしれないよな。俺はずいぶん体に引きずられたと思うけど、まぁそういうもんかと思えば、どうということもなかった」
「それでいて妙に残っている女性としての知識や気配りが、街の女性たちに受けているっていうのは、男としてはちょっとずるいと思っちゃうね」
「ちょっと待ったーーーっ! もうだめ! もう聞き逃せない!」
我慢できずに私が声を上げると、フェデリカににらまれた。
「ベルナール、あまり動かないでよ。それに、わたしの目の前でそんな大声あげないで」
「ご、ごめん。でも聞き逃せない会話がすぐそこで!」
私がアロイとセロのほうに目をやると、2人ともきょとんとした顔でこちらを見ていた。
「……あれ、ベルは知らなかったっけ?」
予想外だというような顔でアロイが呟く。
「ひょっとしたら言ってなかったかもな。まぁそういうことだ。あまり言いふらすなよ」
セロの言葉に、ハッとする。
「そ、そうだよね。もちろん言いふらすことはないけど、そういうプライベートなことは……」
「中身が女だってわかったらモテなくなるかもしんねえし」
「え、ちょ!? そういう!?」
「日本では仕事漬けだったし、この体も俺が入る前は、人付き合いが苦手で山に籠もっていたようなもんだったから、ちょっと人生楽しんでみようと思ってんだ」
「セロの場合、引きずられてるっていうより、魂のほうが体を引っ張ってる感じだよね」
アロイが笑いながら言う。それには頷かざるを得ない。
魂と肉体が影響し合うって……こういうのもあるの!?
その衝撃的な事実に気を取られているうちに、私にかけられていた魔法はいつの間にか終わっていた。
「あぉん!」
その時、アロイの足もとでモモが鳴き声をあげた。さっきまでは肉とパンを食べていたはずだが、皿はもう空になっている。となると、今度は水を要求しているのかもしれない。
同じように考えたのか、アロイがボウルに水を入れて、モモに差し出している。犬が水を飲むときは舌ですくうように飲むのが普通だが、人間の舌でそれはなかなか難しい。モモは私の――ベルナールの体に入って以来、いろんな試行錯誤をしてきたのだろう。今は、舌ですくうことはせず、唇を直接水面につけて水を吸うという技術を手に入れている。
その様子を見ながら、アロイが思い出したように口を開いた。
「そういえば……ベルと、リナの召喚主は同じタイミングで魔法陣を使ったんだよね? じゃあモモが召喚されたのも同じタイミングだろう? そしてモモの魂には何の問題もないなら、モモは何か知ってるんじゃないのかな?」
「だからって、犬に事情を聞くわけにも……いや、聞けるのか?」
セロがこちらを見る。そうだ。動物の言葉がわかる魔法陣があれば。今から急いで作ってみようか。
「その魔法陣なら持ってるわよ」
フェデリカが、書類ケースから羊皮紙を1枚取り出した。




