19.ひとりの夜(リナ視点)
ベルさんとアロイさんが出かけていったので、あたしはアロイさんが読んでいいと言ってくれた本を、いくつか読むことにした。本を読むのは好きだ。もともと日本にいる時も好きだったし、この体ではできることも限られているから、せめて本だけでも読みたいと思う。
召喚術の初歩みたいな本を半分だけ読んだところで、少し眠くなった。出かける前にアロイさんが、明かりの魔道具のスイッチを教えてくれたので、明かりを消して眠ることにする。
明かりを消しても、カーテンが引かれていない窓からは月明かりが差し込んでいた。ちょうどソファの上にのれば、窓から月が見える。
満月にちょっと足りない月は、日本で見ていたのと同じ月に見える。多分、同じなんだろう。それはセロさんとアロイさんが説明してくれた。
日本にいる時は、暗い部屋はこわかった。マンションの部屋は月明かりなんて入ってこないし、入ってきたとしても、月だけで明るいと感じたことなんてなかった。
でも、この体は夜になってもぼんやりと暗がりが見える。昼間ほどじゃないけれど、今夜みたいに月明かりがある日なら、全然こわくない。
そう、こわくはない。
ただ、さみしいだけ。
ここにはお父さんもお母さんもいない。モモもいない。前のおじさんのところにいた時には、他の犬や猫が同じ部屋にいた。ベルさんと一緒に住み始めてからは、ベルさんは泊まりで出かけることはなかったし、寝る時には寝室の扉を少しだけ開けていてくれたから、さみしくなったらベッドに潜り込むこともできた。
暗いのはこわくないけれど、夜は……やっぱりこわい。
どうしてこんなことになってしまったんだろうって、ずうっとぐるぐる考えてしまうから。稀人の話を聞いて、そんなこともあるんだなぁと思ったけれど、なんであたしだけ、犬の体に入ってしまったんだろうって考えてしまうから。
眠ろう。眠って、朝になればそんなことは考えなくなる。そういうことから目をそらして、魔法がある世界なんてすごいね!って、本を読んでいればいい。それに、朝になったらきっとベルさんたちが帰ってくる。
ベルさんは優しい。アロイさんやセロさんも優しい。本当ならベルさんも混乱しているんだと思うのに、どうしたら元に戻れるのか考えてくれているし、普段の生活で、あたしがなるべく不自由しないように、あれこれ気を配ってくれる。あたしの体でお風呂とかトイレに入られるのはちょっといやだったけど、あたしはベルさんを、優しい親戚のお兄さんだと思うことにして、お風呂とトイレは許してあげることにした。
アロイさんとセロさんの、日本での話も少しだけ聞いた。アロイさんはまだ若かったのに病気で死んでしまったんだって言っていた。「だから“2度目”は病気を治す側にまわりたいんだ」って、少し恥ずかしそうに笑っていた。
セロさんは交通事故だって言っていたし、セロさんのこっちでの体のほうも、事故みたいなものだったみたい。「せっかくこの体は生きてんだから、“こいつ”の続きを、代わりに生きてやろうと思ってる」って、堂々と言った。
アロイさんは自分の“2度目”で、セロさんは体のほうの続きなんだね。
“1度目”が終わった記憶のないあたしは、もしも元の体に戻れたら、どんな風にここで生きるんだろう。あの2人のように、ちゃんと顔を上げていられたらいいな。
そんなことを考えていたら、いつの間にか眠っていたみたいで、気がついたら朝だった。普段ならベルさんの朝ご飯から一口もらうところだけれど、よそのお宅でそんなことをするわけにはいかないから、あたしは昨日読んでいた本を窓際に運んで、ひなたぼっこしながら続きを読むことにした。
しばらく経って――多分、お昼前だと思う――アロイさんのお母さんが部屋に入ってきた。ピンク色のジュースのようなものが入ったサラダボウルを持ってきて、あたしの横に置いてくれる。
「使い魔さんは食事がいらないって聞いたけど、これ、よかったら飲んでね。さっきアロイから通信があったのよ。無事に魔獣を仕留めたんですって。今すぐは無理だけど、もう少ししたら帰るって言ってたわ。山の中にいるようだから、戻るのは夕方かしらね」
いい毛並みね、とあたしの頭を撫でてくれて、お母さんは部屋を出て行った。
置いていってくれたジュースを舐めてみると、オレンジとイチゴを合わせたような味がした。これが何のジュースなのか、今度聞いてみようと思った。
……魔獣?
お母さんの言葉を思い出して、少しドキリとした。
無事にって言ってたけど、魔獣って怖いものなんじゃないの? ベルさんのところで読んだなかに、怖い魔獣がたくさん出てくる本があった。
今度聞いてみよう、なんて……“今度”なんて本当にくるの?
昨日の夜、セロさんから連絡があって、アロイさんがてきぱきと支度をして、ベルさんはいつものようにちょっとあわあわしてて。気がつけば、今はそばに誰もいない。
今回は無事だったみたいだけど……もしも誰も帰ってこなかったら? あたしが1人で生きていくことになったら? こんな、犬の体でどうすればいいの?
窓からの光が急に陰ったような気がして、あたしは顔を上げた。太陽はそのままだったけれど、窓の外からこちらを覗いている人がいる。
「キャン!」
びっくりして声を上げてしまった。
コンコン、とその人は窓を軽く叩いた。
あ……この人、昨日の夕方、ベルさんが見て驚いてた人だ。背が高くてきれいな女の人だなと思っていたら、ベルさんが目に見えてびくつき始めたから覚えていた。
確かその後、この部屋でアロイさんとベルさんが話していて……昔、ベルさんが付き合っていた女の人だって……。
――今の事態をどうにかするには最適な人物なんじゃないのかい?
――彼女以上の人材はいないと思うよ。
「アオン!」
思わず、窓に飛びついていた。鍵がかかっていたけれど、外し方は知っている。
鍵を外した窓を、あたしは内側から押し開いた。
「あら、歓迎されているみたい?」
意外、と言うように、その女の人は笑った。私の毛並みを軽く撫でて、確信したように話を続ける。
「ねぇ、あなた、ベルナールの使い魔でしょう? 魔力を感じるもの。行方不明のはずのベルナールがどうして使い魔を街に残しているの? しかもどうして本人と意識が繋がっていないの? ……この首輪、彼が作った魔道具よね。話せるんでしょ?」
あたしは、後ろ脚で首輪に1度触れた。カチャ、と爪が音を立てる。
「あ、あの。“アネイラの魔女”さん、ですか?」
「やっぱり話せるのね。そうよ、でもその呼び方は少し物騒だから、フェデリカって呼んでくれる? あなたは?」
ベルさんは、なんだかこの女の人を怖い人のように話していたけれど、あたしにはそうは思えなかった。最初にあたしを撫でた指先も優しかったし、それに、声が少しお母さんに似ている。
「リナって言います」
「そう、リナちゃんね。ベルナールのこと、知ってるんでしょう? どういうことなのか、話を聞かせてもらえる? ひょっとしたら、力になれるかもしれないわ」
外では喋らないほうがいいっていうアロイさんの忠告を思い出したのは、名乗った後だったけれど、フェデリカさんは何かいろいろと知っているようで、特に驚いてはいなかった。
ぴょんと窓枠を飛び越えて、あたしはフェデリカさんについていった。




