14.山小屋のコーヒー
私はエルクのほうを見た。セロの矢が胸元に突き刺さっているのが見える。エルクは棹立ちになり、ブフゥッと大きく息を吐き出すと、山頂方面に顔を向け、体をひねるようにして一歩を踏み出した。ダメージは浅そうだ、と思った瞬間、その踏み出した前脚に土の塊が盛り上がるようにしてまとわりつく。セロの土妖精の魔法だ。
それを確認して、私もアロイが降りていった道を降り始める。谷底に降りきる寸前、大きな岩があったので私はその上に降りた。ここからならエルクに魔法が届く。アロイと狩人たちは岩よりもさらに降りて、谷底に到着している。怪我人にもたどり着いたようだ。
そういえば、谷と聞いていたが水音はしない。私が登った岩は、渓流にありがちな大きな岩だし、周囲には他にもゴロゴロと岩はあるけれど、どうやらここは涸れ沢らしい。
「【不可視なる鎖、重き大地の戒め、獣を捕らえる軛たれ】」
エルクが足もとの土塊を蹴り飛ばそうとする直前に私の魔法が届く。動きを鈍らせる魔法だ。自分に魔法がかけられたことを理解したのだろう、エルクは私の存在に気づいたようだ。だが、振り向く前にセロからの矢が今度は首に刺さる。やはりセロのほうを敵と見定めたのか、エルクは足もとの土塊を蹴り壊し、やや鈍重な動きながらも上流に向かって涸れ沢を駆けだした。3本目の矢は外れる。
エルゴリンエルクは魔法は使わない。やつの遠距離攻撃といえば、毒の唾液を吐き出すものだ。これが意外に飛ぶ。
「ブフゥオッ!!」
エルクが唾液を前方に飛ばす。飛んでいく唾液も青く光っているのは、それが瘴気の塊だからだろう。やつが唾液を吐き出した瞬間にセロが木の陰に隠れたのが見えた。いい勘をしている。
「【紅蓮の炎、滅殺の炎、竜の息吹たる炎】!」
「【光弾】!」
私の手元から赤黒い炎の球が走るのとほぼ同時に、背後にいたアロイからも魔法が飛んだ。どうやら怪我人の手当ては終わったらしい。
「グゥオオゥ!」
2発の魔法が同時に着弾したことでエルクは足を止めた。
「ブシュルッ!」
振り返って、今度はこちらに向かって唾液をばらまいたが、届かない。私のいる岩よりもずいぶんと手前の砂利の上にビシャッと唾液が飛び散り、燐光のような青い光が薄れる頃には、砂利が黒く変色しているのが見えた。
その時、私とアロイを見るために振り向いていたエルクの後頭部に、セロが操る炎の妖精が体当たりした。
「グォオッ!」
前方に向き直る。カカッと蹄を鳴らし、駆けだそうとした瞬間、セロの放った矢がエルクの左目を貫いた。
「グフゥオオッ!」
エルクは平衡感覚を失ったように、身をよじりながら動き回る。接近戦を挑んでいなくてよかった。
「ベル、もう一度、捕縛の魔法を試して」
私の隣に走り寄ってきたアロイが言う。言い終わると同時に次の光弾を撃った。
「了解。それが効けばあとは一方的にやれそうだね」
しばらくの後、エルゴリンエルクはやっと動かなくなった。さっきまで私が陣取っていた岩の上に、3人で登って死体を見下ろす。
「どうだ、フラグ回収しなかったろ?」
得意げに言うセロに、アロイは肩をすくめた。
「いや、一瞬危なかったね。あいつが最後のあがきで走り出した時、君は油断して近づこうとしてたろ」
「うわ、余計なとこまで見てやがる」
「ヒーラーはいつでも全体を見ているものさ」
エルクの死体からは、まだ毒が漏れ出ているので近づけない。3人とも岩の上にいるのは、そこにいれば毒が届かないからだ。
「……魔力が全部結晶になるまで待つしかねぇか」
半分ほどに減ってしまった矢筒の中身を数えながらセロが呟く。
「売って現金化してから分ける? それとも素材のままで欲しいものはあるかい?」
アロイが私とセロに聞く。
私は手を挙げた。
「私は脾臓と肝臓が欲しいな。脾臓は毒の素になるし、肝臓は逆に毒消しの素になるんだ」
「俺は角が1本欲しい。武器向けの素材だっつーから、新しい短剣にしようと思う」
「了解。じゃああとで解体するときにそれはとっておこう。残りは全部売って分けるよ。ついでに冒険者ギルドに恩を売っておこう。収穫祭の最中に、人里近くに出た魔獣を倒したんだって言ってね」
どっちも高く売れそうだ、とアロイが笑った。
「まだ真夜中か」
月が中天にあるのを仰ぎ見ながらセロが言う。暗視の魔法はまだ効果が残っているけれど、それを抜きにしても、月が真上に昇ってきたのでさっきよりも周囲は明るい。
「あいつの魔力が結晶化するには朝までかかりそうだな。……ここから少し登ったあたりに俺の拠点がある。小さい山小屋だがひととおりの設備はあるから休憩できるぜ?」
セロの提案にアロイが頷く。
「それはいいね。じゃあベル、あのエルクに簡易結界でも張っておいてくれる? こんなところ誰も来やしないだろうけど、これで誰かに持っていかれてもつまらない」
「ちょうど持ってるよ。店を出る時に、手当たり次第に魔結晶をポーチに放り込んできたんだ」
ポーチの中をごそごそと探し、目的のものを見つける。薄緑色の魔結晶だ。
魔結晶に魔力を通し、エルクの体に投げつける。ちょうど腹の上にのった。
エルクの腹の上で魔結晶がほろほろと崩れて円形の魔法陣が浮かび上がった。その魔法陣はふわりと半球状に広がり、エルクの体をすっぽり覆って、さらにもう少し余裕があるくらいの結界となる。薄緑色の半透明の結界が月明かりを受ける様はなかなかに美しかった。
セロの案内で山小屋へと移動した。丸太を組んで作った家だ。
セロは小屋だと言うけれど、中に案内されてみれば、明かりも暖炉も揃っているし、台所はもちろん、風呂まであった。確かにあまり広くはない。水場をのぞけば、居間と寝室しかない。でも、快適そうな家だった。
「腹減ったな。明日、街に卸そうと思ってた鹿があるから焼いちまうか」
おまえらも食うだろ、と問われたので、私とアロイは同時に、もちろん!と言った。
「収穫祭の間はこっちを拠点にするつもりだったから、食料はあるんだ」
セロはそう言って、鹿肉と玉ねぎを串に刺して焼いたものと、ライ麦パンとチーズを軽く炙って出してくれた。料理をしている間に、暖炉にも火を入れてくれる。私とアロイは、玄関先に積んである薪を取ってきただけだった。
鹿肉の串を手に取りながら、アロイが笑う。
「こんな真夜中の晩餐っていうのも悪くないね。この鹿肉も美味しいよ。ずいぶんと脂がのってる」
同感だった。焼きたての美味しさもあるが、脂ののり具合と、少しレアな焼き加減で肉汁したたる感じがたまらない。まぶしてあるハーブと、少しきつめに振った岩塩も美味しい。
肉を頬張っているので言葉にはできないが、うんうん、うんうん、と私が頷きながら食べる様を見てセロには伝わったらしい。
「秋は冬に備えて動物たちの肉に脂がのるからな。日本では、鹿肉の脂はあまり美味しくないなんて言われてたが、こっちの鹿は結構美味い。ほんとならもっと寒くなって雪が降る直前のほうが美味いんだが、昨日獲ったこいつは丸々と太っていて、無性に美味そうに見えた。当たりだったな」
食後に、いいものがあると言って、セロは鍋で湯を沸かし始めた。湯が沸くまでの間に、棚から小さめのすり鉢とすりこぎを取り出し、すり鉢の中にざらざらと黒い豆を入れた。独特の香りが漂う。
「コーヒーか!」
アロイが叫ぶように言った。それを聞いて私も思い出した。数年前に取引が始まった国から輸入されるようになった嗜好品だ。黒くなるまで焙煎したものを細かくすりつぶして、布で漉して飲む。
「へぇ、これがコーヒーの豆か。開店準備中に取引先で飲ませてもらったことはあるけど、豆の状態を見るのは初めてだよ」
私がそう言うと、アロイも頷いた。
「僕もこちらで見かけるのは初めてだ。子どもの体に入ったせいか、あまり飲みたいと思っていなかったけど、こうやって香りを感じると懐かしいよ。うわ、ほんとに懐かしいな。早く飲みたい。セロ、こっちってネルドリップ? ペーパーはないだろう?」
それともサイフォンかな、とアロイが子どものようにはしゃいでいる。いや、見た目はもちろん子どもなんだけど。
「最近やっと、街の中でもコーヒーを出す店が増えてきたな。俺は大陸南部と付き合いのある行商人に頼んで、いつも売ってもらってる。こっちでの主流はネルドリップだ。一番シンプルで美味い。だけど、俺はこの小屋に来たら、山小屋のコーヒーを飲むことにしてる」
ゴリゴリとすり鉢で豆を潰しながらセロがにやりと笑う。
「山小屋のって……」
アロイが聞き返そうとした瞬間、セロはすり鉢の中身を鍋の中に直接ぶちまけた。
え、私が知ってる淹れ方と違う。以前に取引先で飲んだ時、そこの店主はもっと慎重に扱っていたように思う。
「セロ、コーヒーってそうやって淹れるんだっけ?」
私が慌てて聞くと、セロは何も言わず、沸騰した鍋の中身をぐるぐるとすりこぎで混ぜ始めた。まるで私が魔法薬を作る時みたいだ。
「そうか……トルココーヒー?」
アロイが自信なさげに聞く。初めて聞く単語だ。
「正解。布も紙も金属メッシュも使わない、一番ワイルドな煮出しコーヒーだ」
鍋を火から下ろすと、沸騰がおさまった鍋の中で、コーヒーの細かい粉がゆっくりと下に落ちていく。セロはそれを静かに3つのカップに注ぎ分けた。
「なるべくカップを揺らさないで上澄みだけを飲む。カップを揺らしすぎると口ん中が粉っぽくなるぜ」
言われた通り、静かにカップを持ってそっと上澄みをすするようにして飲んでみる。普段飲んでいるお茶にはない、強烈な香りと苦みが入ってくる。
「うわ、苦……あ、でも後味はすっきりとして……うん、以前飲んだのより美味しい気がする」
飲みくだした後、口の中に残るコクは意外とまろやかで美味しい。
そう評した私の隣で、アロイも口をつけた。
「ああ、懐かしい味がする。これ、残業帰りに夜中のバーガー屋で飲む、ちょっと煮詰まったコーヒーの味がする」
アロイの評価はよくわからないものだったが、セロには通じたらしい。
「わかる! コーヒーメーカーの中でちょっと忘れられてて、1杯分だけ残ってるアレの味がするよな」
「焙煎度が中途半端なのもいいね」
「豆そのものも選別が甘いから、雑味が多いのもたまんないだろ」
セロとアロイの評価は褒めているようには聞こえない。けれど、2人とも、なんだかそれがかけがえのない美味であるかのような表情で話す。
「この家って夏の拠点? セロは街でも部屋を借りてるだろう?」
家の中を見回しながらアロイが尋ねる。
「ああ。とはいえ、冒険者稼業を始めてから、ここを使うのは狩りの時くらいなんだけどな。だから、拠点ってより別荘みたいなもんか」
「それにしては家具や魔道具もいろいろ揃ってるね」
私が言うと、セロは肩をすくめた。
「半分は、独り立ちする時に父親から引き継いだんだ」
なるほど、と頷いた時、セロの懐で鈴のような音が鳴った。通信の魔道具だ。
『セロか。グエンだ。こっちは街道沿いの牧場までたどり着いた。事情を話したら休ませてもらえることになった』
名前に聞き覚えはなかったが、漏れ聞こえる声には覚えがある。あのひげもじゃの声だ。
「こっちも無事にエルクは仕留めた。今は俺の小屋で休憩中だ」
『無事なら何よりだ。あー……お嬢ちゃん2人に伝えてくれ。ありがとう、おかげで助かったってな』
「目の前にいるから2人にも聞こえてるよ」
『ばっ! 馬鹿、おまえ! もういい、じゃあな!』
照れたような怒鳴り声を最後に、通信は切れた。
「2人とも、ありがとうだってよ」
ガキみてえな照れ方しやがって、とセロが笑う。
「いいね、なんだか可愛い反応だった。そういえばアロイは、“お嬢ちゃん”を訂正しなかったの?」
私の問いに、アロイが頷く。
「うん、まぁ特に支障もなかったし」
そのままコーヒーをすすっていたアロイが、ふと思い出したように顔を上げた。
「そうだ、セロ。僕、重大な発見をしたかもしれないんだけど、聞いてくれる?」
真剣な表情でアロイはセロを見つめ、そしてちらりと私のほうも見た。




