第7話 甘い天使の唇
翌朝、里菜は誰よりも遅く起きてきた。時計は朝の9時を指していた。余程溜まった疲れがあったのだろう。
「おはよっ、里菜ちゃんっ」
「お、おはようございます。すっかり寝坊してしまいました…」
「いやいや、ゆっくり眠れた様で何よりだよ」
俺も全くその通りだと思う。里菜が思い詰めた己の心を、俺達と交わる事で、少しでも溶けてゆくものが、あるのだとしたら嬉しい限りだ。
朝食と朝の準備を済ませると、俺は姉貴と里菜より、少しだけ先に外へ出て、エンジンの暖機を始めた。
そこへばあちゃんがやって来る。
「ゆっちゃん、今日も家に帰って来るがいい」
「え…いや、里菜はともかく俺達まで…」
「気になるんだよ、里菜の事。お前も感じているんだろ?」
いつになく真面目な顔で耳打ちしてくる。俺が里菜に感じる違和感。ばあちゃんも感じていたらしい。
「だからさ、ちょっと見てやろうと思ってね」
と、言われた所で姉貴と里菜も現れた。ばあちゃんは、俺に向かって頷いた。俺も同じ動作で返した。
昨日と同じ位置に俺達は着座する。空は秋晴れ、今日も絶好のオープンカー日和であった。
食べ切れない程のお菓子と飲み物を渡される。
俺は静かにアクセルを踏む。皆でばあちゃんに手を振った。
ばあちゃんと古江港に別れを告げて、国道220号線をひたすら北上する。
里菜のいる左側には、ひたすらに海が広がり、対向車線側には、崩落しやすいシラス台地※の壁をコンクリートで塗り固めたものが鎮座する。
※火山噴出物からなる台地。水はけが良すぎて土砂災害を起こしやすい。鹿児島本土の実に52%を占めている。
暫く進むと地元である鹿屋市が終わり、垂水市に入る。
チラホラと店も見かけるが、特にここらで気になるものと言えば、100本近いアコウ並木※と、小さな港がいくつも連なり始める所ではなかろうか。
※クワ科の半常緑高木。巨木になると、まるで細い無数の木が、絡まり合って幹を成している様に見える。
里菜はその手のものを見つける度に反応し、笑顔になりつつ指を差す。自分等、地元民にとっては、正直言って気にもならない所だ。
だが、外から来る人にしてみれば、こうも違うものなのか。
此方まで新しい発見をした様な気分になり、中々に楽しい。
荒平の時もそうだった。里菜と共にいると、これまでどうでも良かったもの、全てに色が映えるのを感じずにはいられない。
でもこれって恋なのだろうか? こんな俺にも2年前には彼女がいた。勿論好きだった…多分。
しかし無償に全てを捧げられるのが、愛だとするのなら、それはちょっと異なる気がする。
途中、鹿児島市に渡る垂水フェリーターミナル入口の看板が見えてくる。
これは正直、今の里菜には見せたくないなと思ったのだが、意外と薄い反応だった。
「ところで瑠里さん。今から向かおうとしている所って、桜島ですよね? 見えてるあの山がそうですね。島…ですよね。と、いう事は船にでも乗って渡るのですか? それとも橋が架かっているのでしょうか?」
「へへぇー、それはお楽しみって事で」
車は垂水の街を過ぎ、ヤシの木が等間隔に植えられている場所までやって来た。目指す桜島はもうすぐだ。
んっ!? なんだこれ? 俺の脳裏に突如奇妙な光景が浮ぶ。左にそれれば目指す桜島なのだが、俺はあえてハンドルをきらずに直進する。
「ど、どうしたの友紀? そっちじゃないでしょ?」
「あ、ああ、勿論判ってる。ただ、たった今、どうも事故があった様だ。通行止めになるらしい。だから道の駅で暫く時間を潰す事にするよ」
「じ、事故? そんな電光掲示板あったかしら……」
そうなのだ。確かにそんな表示はなかった。ついでに言えば、この車にはナビもなく、俺はスマホで道路情報を調べた訳でもない。ラジオだって聞いてはいないのだ。
だけど俺は確かに見た。桜島の南側、複数台の衝突事故の映像を。
サッカーをやってる連中は、フィールドを上から見ろってよく言われる。
いわゆる”バードアイ”って奴だ。
けれど、これはそんなレベルじゃない。まるで違う星……月から此方を見ている様な……。俺は頭がおかしくなったのだろうか。
……って言うか、そもそもなるらしいって言った? それだと見えてるの意味すら変わるぞ。
とにかく車を『道の駅・たるみず』に入れる。西側にある桜島を一望出来る海沿いの大きな足湯が特に名物だ。
俺は早速、靴下を脱いで、足湯に浸かる。それを見た里菜は、少し驚いている様だ。
「んっ? どうした? こっちで一緒に浸かりなよ。ひょっとして足湯は初めてか?」
「は、はい……そうですね」
「ま、やってみりゃ判るって」
里菜も俺を真似てみた。約1分後といった所か。彼女の顔がとろけた様に崩れてしまう。
「こ、これは……気持ちぃぃ~。足だけお風呂に入れるのが、こんなにいいものだなんて。しかも目の前には、綺麗な海と桜島……な、なんて贅沢な」
「だろっ? ここは俺も大好きなんだ。足湯もだけど、何より桜島だ。見ろよこの雄々しさ。富士山って直に見たことねえから知らないけど、どんだけ言われようが、この迫力には敵わねえと思う」
俺はいつになく雄弁になって桜島を指す。里菜も釣られて指の先を見つめる。里菜はどう感じているのだろう。
そして里菜は、飛沫が上がらない程度に白く綺麗な足をばたつかせた。
大人っぽさと子供っぽさが、同居している姿が何とも言えず愛らしい。
そこにニヤニヤしながら、姉貴がやって来た。晩秋には合わない物を持っている。
「そこのお二人様。名物のソフトクリームは、如何でございましょうか?」
晩秋とはいえ、足湯で火照ったこの身体。ソフトクリームは、堪らなく欲をくすぐる。オレンジ色と白のミックスが2つ。濃い緑と白のミックスが1つの計3つだ。
「里菜、ここはお先にどうぞ」
「あ、ありがとう。ええと、じゃあそちらの緑の方を」
「鹿児島緑茶ミックスですね。ありがとうございます、素敵なお嬢様」
「俺は、枇杷のミックスだな。あいがとな姉貴」
「とんでもございませぬ。お気に召して頂き、この瑠里。光栄の極でございますれば…」
さっきから姉貴は何かを演じている様な口調なのだが、微妙過ぎて正直良く判らない。どこぞのイケてる執事様……辺りだろうか。
「ところでさっき店員さんに聞いてきたんだけど、確かに2台の正面衝突と、それに巻き込まれた1台の玉突き事故があったばかりみたいね」
「………!?」
「こりゃあ撤去するまで暫くかかりそうよ。まあ、ちょうど昼時だから、ここで海鮮丼でも食べてゆっくりしましょ。じゃ、また後で。私ちょっとこの辺回ってくるから…」
そう言って姉貴は何処かへ消えてしまった。それにしても驚いた。姉貴からの事故報告。まさに俺がみたビジョンそのものだった。
「うーっ! 緑茶の苦みと甘みが口の中に広がって、さいっこうに美味っ!」
里菜の食レポに、俺の意識は奪われる。気がつけば淡いピンクの唇に付着したクリームを…いや、違うな。見ているのはむしろピンクの方だ。
「友紀さん?」
「は、はいっ!?」
「あのう、もし良かったら少しだけ取りかえっこしませんか?」
俺はまたも気持ちを見透かされたのかと思い、大変ドギマギした。さらに里菜のこの提案だ。可愛い子と食事をシェアするというリア充な行為。
やっぱり見透かされたのではなかろうか……。
「お、おぅ……」
「じゃあ……はい、どうぞ」
互いのソフトクリームを入れ替える。たったそれだけの事なのにこの胸の高鳴り。俺…多分、顔が赤い。
里菜も火照って見えるのは、足湯のせいか、それとも似た様な想いなのか。
そして俺は里菜の小さな口に寄せられる食いかけの枇杷ソフトに釘付けとなる。
「あ、あっまーいっ! ちゃんと枇杷の味がしますね。って言うか枇杷って千葉県のイメージがありました」
「そ、そう、なんだ。ま、まあ、何処にでもありそうだよな…」
物凄く不謹慎だが、枇杷のイメージなぞどうでも良かった。今度は俺の手に渡った緑茶ソフトよ、君の出番だ。
……うんっ、そう…だよね。もう緑茶も枇杷も関係ない。味なんて頭に入って来ないさっ!
「楽しい……。本当に楽しくて幸せですね。ずっとこんな時間が続けばいいのに」
「あ、う、うんっ。そ、そうだな」
俺はその場の雰囲気って奴に全てを委ねて、里菜の肩を掴んで寄せてしまった。彼女は逆らう事なく、その身体を預けてきた。
ずっとこんな時間が続けば……。心の声が聴けずとも、その想いは重なり合った。