第6話 道の半ばじゃないですか
ばあちゃんの質問に箸を休め、里菜は暫く黙り込む。何か気まずい事でもあるのだろうか。
「あ、あの、私…。ひ、1人が嫌で、本当に何も考えずに、此処まで来てしまったのです…」
「なるほどね、つまり何も決まっちょらん。何ならこのまま何処にも帰らんで良か。東京どころか、この世にさえもか」
「「えっ!?」」
ばあちゃんが里菜の台詞を先読みする。そして深い溜息を吐いた。俺と姉貴は、耳を疑う。
「そ、そう…なんです。べ、別に死のうと思って船に乗った訳じゃなかった。でも、綺麗な海に吸い込まれそうになって、気がつけば……」
またも泣き虫里菜に戻ってしまった。俺は自殺をしようと思った事はないので、心境が判らない。自殺とは、”さあ死のう”と思い立って、するものだとばかり思っていた。
だが弱り切った心を投げ出したいと思うのは、ほんのふとした気持ちの揺らぎだけで充分なのかも知れない。
ばあちゃんが、里菜の両肩に手を置いた。泣き腫らした青い瞳を真っ直ぐに、瞬き一つせずに見つめる。
「里菜ちゃん、誰も貴女の声を聞いてはくれん。そいは本当に辛か事じゃ。逃げるのは、いくらでん良か。じゃっどん、死を逃げ場所にしては駄目」
「は、はぃ……ご、ごめんなさい…」
「良か、良かよ。もう謝らんで。もう二度とせんこつじゃ」
ばあちゃんは、何度も里菜の頭を撫でてから、ハンカチで涙を拭くと、落ち着く様にお茶を勧めた。
里菜は人心地ついてから、今後を話し始めた。まず会社にすら黙って出てきてしまったので、自分の置かれた状態を伝え、休みが貰えるか伺ってみる。
そしてどう転んでも一度は、東京に戻る事だ。
正直寂しいとは思う。けれども、そこまで落ち込んだ自分を顧みつつ、前に踏み出そうとしているのだから、応援しない訳にはいかない。
「まあ、此方にいられるのは、会社次第ですが、せいぜい1週間位ではないかと」
「………」
「1週間か。ばあちゃん、頼めるか?」
今の里菜は、財布もスマホも持ってはいない。頼れるのは、俺等だけだ。だが、肝心の俺の家はというと、ろくに片付いてすらおらず、とても眠れたものではない。
それに何だろう。親父殿には大変悪いが、酔っ払いのアレと、今の里菜が絡む姿をちょっと想像したくない。
「アタシは1週間どころか、ずっとおっても構いやせんよ」
「あ、ありがとうございますっ!」
ドヤ顔で応えるばあちゃんを、里菜は思わず抱きしめてしまう。満面の笑みで感謝の意を伝えるのだった。
「うーん、あと1週間かあ。帰りは、何とかお金を工面して飛行機よね? あとせいぜい5日ってとこかあ……。あるっちゃあ、あるけど」
「何の話だ?」
「何の話って、思い出作りしたいじゃない? 私達3人の」
ああ、確かにそうだな。ところでそこは私達なのね。ま、まあいいけどさ。
「あっ、言っておくが、その思い出作りとやら。俺に金の工面を期待すんなよ。車のガソリン代さえ、カツカツなんだからなっ」
「えぇ~っ、ケチ臭いなあ…」
「いや、姉貴こそ就職してるだろうが」
「まだ社会人1年目なんですぅぅ。ようやく試用期間が終わったばかりなんだから……」
嗚呼…悲しきかな。数奇な運命で巡り合えた人と、遊びに行く工面すら出来ない兄弟とは。
「ほぃっ、好きに使いな。里菜ちゃんの交通費だって賄える筈だ」
ばあちゃんが、財布ごと俺に渡してきた。
俺と姉貴は、驚愕しながら財布を開く。えっ? えっ? 諭吉先生が何十人も出てくるのだがっ!?
「あ、アタシの手取り2ヶ月よりもある……」
「ば、ばあちゃんっ! これホントに良いのかっ?」
「い、いけませんよ。こ、こんなに……」
姉貴の計算が実に生々しい。里菜が慌てて割って入り、断りを入れようとする。
「良か。どうせそん位なら、またあの議員さん辺り相手に占いすれば、一気貰えっで」
「で、でも晴香さま……」
「里菜ちゃん、私はね、好きでやってるんだ。金襴の契り※という言葉がある。貴女とは、最早この孫達と同じ位、親密な仲でありたいと思っているんだ」
※極めて親密な交わりのこと。その美しさは薫り高い蘭のようであるとの意から。
突如ばあちゃんの訛りが消えて、とても穏やかな表情で此方を見ている。本当にこの人は底が知れない。
「よ、よおしっ、じゃあ後は目的地だ。里菜ちゃんは、山派? 海派? わざわざ田舎に来たのだから、市内で遊ぼうとは思わんよね?」
「いや姉貴よ、鹿児島で観光と言えば、鹿児島市は欠かせんだろうが。天文館とか特にな。軍資金は問題ないんだ」
「えっと……賑やかな所は苦手なので。山か海かは、お任せします」
金が手に入った途端に、明日の予定を埋めようとする俺達。凄まじい手の平返しだ。ワチャワチャしてたら、寝る時間がやって来る。
年寄りの就寝時間は早いのだ。午後10時には、リビングのちゃぶ台を避けて、4人皆で川の字になる。
ただでさえ早過ぎる就寝。その上、俺の隣には浴衣に戻った里菜が寝ている。な、何故? せめてここは姉貴じゃないのか?
こんなの眠れる訳がなかろう……。
「ゆ、友紀さん……もう、寝られましたか?」
「い、いや。里菜もか」
里菜に対して背中を向けて横になっていた俺。その背中に呟き程の声が聞こえる。
「も、もし宜しければ、少しお話しませんか?」
「あ、ああ、いいよ」
「あ、あのう……出来れば」
「んっ?」
「こ、此方を向いて頂けないでしょうか」
里菜のお願いが、俺の背中にどうしようもなく突き刺さる。女の子から頼まれたのだ。断るのは沽券に関わる。
俺は、出来るだけ平静を装いつつ、里菜の方へ身体の向きを変えた。
「……っ!」
里菜と目が合ってしまった。向こうも少し恥ずかしそうだ。布団の下には、先程も見た朝顔柄の浴衣を着た里菜がいるのだ。
そう言えば、服こそ手に入ったが、替えの下着は、あったのだろうか。
まさか今、履いてない……いやいや、そういう邪な考えは捨てろ。
「あ、あの……。さっきの私の心の声、聞こえたのですよね?」
「………っ!?」
里菜の質問に俺の邪念は吹き飛んだ。そうだ、確かに俺は彼女の声なき声を聞いた。心を入れ替え、真剣な面持ちになる。
「そのお顔、当たりの様ですね。私が此方のご先祖様の顔を見て思った事です。私、あの方を知っているのです。だから鹿児島訛りが懐かしかった。それに友紀さん…」
「…………」
「貴方のお母さまへの想いを、私も聴いてしまいました…」
母さんへの想い……。
「そうか、荒平で里菜を降ろした時のあの言葉かっ!?」
俺はあの時、自分に対する考えにふけってしまい、里菜の言葉を受け取れなかった。
ようやく今になって、違和感が湧いてくる。
「里菜、君は一体……」
「ごめんなさい、自分の事はもうちょっと落ち着いてから、改めて必ず説明します。友紀さん、貴方は自分の頑張りが、大好きなお母さまに伝わらない事を大変悔んでいますね?」
「頑張り……確かに頑張っているつもりだ。でも、俺の夢。プロサッカー選手になって、日本代表になる。いずれは世界でプレイしたい」
「…………」
「その夢を叶えた俺を母さんには見て貰いたかった。でも、仮に母さんが生きていたとしても、その夢を見せられる自信が今の俺にはないんだ」
そうなのだ。だから腐ってしまった俺は、学問の神様に祈るだけで最早満足してしまっている。実際にすべき努力を怠って。
「でも、子供の頃、必死になって鳥居に向かって幾度も石を投げて、ようやく載った時の喜び。その想いは本物ですよね?」
嗚呼……言われるまでもない。それは俺自身の夢だ。母さんは関係ない。
けれども、駄目なんだっ! 今の俺は中途半端、夢に届く未来が見えないっ!
俺は心の中で鬱憤を叫ぶ。すると里菜は、此方に身を寄せて、俺の左胸に手の平を置いた。里菜の火照った身体が伝わって来る。
「中途半端……。言わば道半ばですよね? 良いではないですか。後はその道をゆっくり行くのか、精一杯駆けるのか。それだけの事ですよ」
里菜はそう言うと、そのまま目を閉じ、健やかな寝息を立てた。
「里菜……」
耳元で聞こえる彼女の寝息と置かれた手。落ち着かずに眠れなかった筈の俺。
しかし何故かとても安らかで心地良くなってしまい、彼女の手の平の上に、さらに自分の手も置いて、気がつくと夢の中へ落ちていた。