第4話 晩秋に咲く朝顔の花
「ああ、聞こえちょっど。リビングにおっで上がってこんねーっ」
少ししゃがれた元気な声が返って来た。俺と姉貴は遠慮せずにズカズカと上がってゆく。
「お、お邪魔致します…」
俺に抱えられた里菜は、子猫の様におとなしい声で家に上がる事を伝えた。
リビングには、背もたれの大きい如何にも座り心地が良さそうな座椅子に、ばあちゃんが腰かけている。
座っているとはいえ、その背中は丸くなく、部屋着も常に洒落た物を羽織る拘りを持っている。今日は藍染の着物だ。
白髪もあるが、後ろで結った黒髪は未だに健在。さっきの声量に至っては、俺なんかより余程大きい。
大変元気で気取ったばあちゃんである。
『園田晴香』71歳。夫と小さな自動車整備工場を二人だけで立ち上げた。
やがて従業員に親父とその弟。最近では地元の機械科を卒業した俺の悪友『仮屋園孝則』も加え、祖父が亡くなる2年程前迄は、店の経理・事務を担当した。
丼勘定であった祖父の代わりに、一人で会社の資金運用に紛争したやり手であった。
祖父が亡くなると社長職は親父に譲り、自分はそのまま隠居生活を始めて今に至る。
未だに小さな工場だが、普通の整備士なら匙を投げる仕事を、むしろ一手に引き受けるので、お客さん、同業者共にそれなりに名が通っている。
しかしこのばあちゃん、辞めてしまった本職よりも、遥かに秀でている特技があるのだ。
「おぉ、貴女が船から落ちよった娘さんねぇー。本当に良か女性じゃ」
「………?」
ばあちゃんのバリンバリンの鹿児島弁に目を丸くする里菜。当然のリアクションに俺は少し吹きそうになった。
だが、俺は後に知る。彼女は何を言っているのかが、判らなくて驚いた訳ではなかった事を。
「風呂は、そっちの奥やっで早く入ってこんね。ゆっちゃん、連れて行ってあげんね」
ゆっちゃんとは、俺がこの人の孫になった時からの呼び名だ。正直気に入ってはいないが、逆らう気は微塵もない。
俺は里菜を脱衣所まで連れてゆくと、後は風呂場の蓋を開けて、簡単な指示をしてからリビングに戻った。
「あっ! 里菜ちゃん! 私も一緒に入るっ!」
「えっ……」
「ね、良いでしょ?」
姉貴は同意を求めている割に、返事を待たず脱衣所に入る。ピシャリと扉を閉めてしまった。言ったら聞かない女である。
たいして大きな風呂ではないのだが。いや、それこそ姉貴の思う壺なのかも知れない。
気になる。二人は、どうしてる事だろう。
「あ、ゆっちゃん。そこにタオルと取り合えず浴衣を用意したから、持っていきやんせ」
「えっ? あ、うんっ、分かった」
ナイスだ、ばあちゃん。もう脱衣は済んで浴室に入っている事だろう。
俺は言われた通りにそれらを運び、先ずは脱衣所の前で聞き耳を立てる。
うん、もう入っている様だ。
「ゴクッ…」
息を飲み、そっと脱衣所の扉を開ける。そこには脱ぎ散らかした姉貴の服と、丁寧に折り畳まれた里菜のバスタオルと、ボロボロになってしまった衣服があった。
二人の性格の差がハッキリ出てて、実に痛々しい……。
いや、この件に関しては、着替えを持ってくる使命にかこつけて、洗濯機の影に忍んでいる俺の方が、余程痛々しい。
「ご、ごめんねぇ~。どうしても裸のお付き合いがしたくって。それに背中とか見えない所に怪我でもあったらいけないでしょ?」
「は、はぁ…いえ、違うんです。嫌がってる訳じゃないんです」
「んっ?」
2人の会話が聞こえてくる。里菜は何を気にしているのだろうか。
「あ、あの、まさか初対面の方に、こんなにも親切にして頂けている事が、本当に申し訳なくて……私、さっきも言った通り、イタリアでも身寄りがいなくなって、東京に越して来ても友達の一人も出来なくて…」
「そっか、寂しかったんやね。それで一人旅かあ。ん……って事は、里菜ちゃんってフリー?」
おっと、いきなり確信突いてくる! いや、だからといって、どうとなるものでも無いが。
「あ、はい。今はフリーです。正直寂しいですね……」
「歳聞いても良いかな? あ、私は23。友紀の2つ上ね」
「あ、じゃあ私、友紀さんと同い年ですね」
「21? 若いなぁ……綺麗だし羨ましいわ」
「え、2つしか変わらないじゃないですか……」
暫くとりとめのない会話が続いた。俺は罪悪感の塊だが、その場を離れる事が出来ない。
洗い合いでもしてるのだろうか……。今、この瞬間だけでも、女になりたい。
「あ、じゃあ私、先に上がります……」
えっ? わ、わ、うわっ! や、ヤバいっ!
ガラガラと音を立てて、浴室の扉が開く。
「あっ……」
里菜が固まる。逃げ遅れた俺としっかり目が合ってしまった。
「きゃあぁぁぁっ!!」
「ご、ごめっ……」
「こんのクソガキゃあぁぁーっ!!」
浴室と脱衣所が修羅場と化す。でも俺は、しっかり全てを拝んでしまった。
美しい銀髪から滴る雫が、穢れのない白い肌を流れてゆく。
なんて尊い美しさだろう。芸術家が裸婦像を描く気持ちが解る気がした。
などと鑑賞……じゃなくて感動に浸っている場合じゃない。
俺は転げる様に脱衣所を飛び出した。
「ご、ごめんっ! ホントにごめんっ! あ、そこに浴衣があるから、取り合えずそれに着替えてくれっ!」
ようやく本来の任務完了。バタバタとリビングに逃げ込んだ。
ばあちゃんは、結果を予見してたのか。落ち着いた顔で、茶と駄菓子を出してくれた。
いつになく、お茶がしぶい……。
「全くもう、呆れたやつだっ! ごめんね、里菜ちゃん…」
「あ、はい。もう大丈夫ですから…」
結局二人は、ほぼ同時にリビングに帰って来た。共に浴衣を着ている。
姉貴のは紫のアサガオ、里菜の方は青のアサガオが描かれていた。
晩秋には似合わない取り合わせ。けれどもいつ見ても女性の浴衣は魅力に溢れている。
特に里菜は美しい事この上ない。欧風の顔立ちに和物の衣装。
姉貴が"天女"と言った事を思い出す。正に絶妙だと認めるしかない。
ばあちゃんが、二人にも茶を薦める。姉貴と里菜は軽く会釈してから、用意された座布団に腰を下ろしてそれらを頂く。
里菜が、ふと壁に貼られたカレンダーを見る。
固まって、暫く絶句してしまった。
噴煙を上げる桜島の写真に、”2018・KAGOSHIMA”と書いてある。
─え…2018年? ハァー…場所どころか時間すら、かすってもいないのね。
んっ? 何だ、今の声? 明らかに里菜の声だと感じたのだが、彼女はお茶を飲みつつ談笑している。
かと思いきや、里菜の動きがまたも固まった。その視線の先にあるもの、モノクロの小さな写真。侍とその家族が写っている。
―嗚呼…そ、そういう事なの!? あの侍、間違いなくあの方に違いないっ! わ、私は来るべくして此処に流されて来たんだ……。
また聞こえる筈のない声が頭に響いた。やはり里菜は喋っていない。
その代わり、彼女は目を潤ませて、大粒の涙を流し始めた。
「ど、どうしたの里菜ちゃん!?」
「だ、大丈夫かい?」
里菜のこの感情変化。姉貴とばあちゃんも流石に気がつき慌てふためく。
ばあちゃんは、泣き崩れる里菜を優しく抱いて、背中を擦った。
「そうか、そうか…安心せんね。沢山泣いてしまいなさい。大変辛か、思いをしやったね」
「うわぁぁぁぁっ!」
嗚呼……俺も小さかった頃は、ああやってばあちゃんの胸を借りて泣いたなあ……。
「今日はゆっちゃんも、瑠里ちゃんも泊まっていかんね。健司には、ばあちゃんが連絡すっで」
「うん……」
「だな、そうさせて貰おう」
ばあちゃんの一見押し売りの優しさ。だけどその穏やかな声は、里菜だけでなく、今日の出来事に揺らいだ俺と姉貴の心も癒してくれた。
それにしても里菜のあの声。絶対に空耳なんかじゃない。
彼女は何を間違えたのか? さらに家の御先祖様の写真に何を感じたのだろう…。