第2話 天使を抱えて涙する
突然の里菜の日本語に戸惑う俺。暫く思考停止。次をどう切り出せば良いものやら。
里菜は、キョトンした顔で見つめてきた。
綺麗で大きな瞳、ますます言葉を失ってしまう。
「あ、あの…先に名乗るのが、れ、礼儀かと思って……」
う、うんっ。そ、そうだな……。違う、違うぞーっ! 今、聞きたいのは、そこじゃないっ! 少し天然入ってんのかな?
「ちょ、ちょっとタンマ。君、日本語いけるの? いや、それ以前に日本人?」
「あ~、ややこしいんですが元々は、イタリア近くの島の出です。今は仕事で東京に暮らしています。国籍も移したので、名前も日本の呼び方に変えたんです」
俺の指摘に里菜は、とてもイタリア出身とは思えぬくらいの流暢な日本語で答える。
ただ声とは裏腹に態度が少々ぎこちない。
「あ…いや、まあ、良いんだけどさ。驚いたってだけなんだ。で、一体こんな所で何やってんの?」
彼女は、少し間を空けてから、余程疲れているのか、破棄のない声で語り始めた。
「ええと……流された、って表現が正しいのか分かりませんが、昨晩此方の海岸で気がついて。取り合えず身が隠せそうな所となると、この神社だったのです」
「なるほど…まあ、確かにここら辺には、コンビニもないし、一応廃線駅の成れの果てがあるにはあるけど……って、えっ?」
「………?」
「な、流された!? 今、そう言った?」
「え? あ、はい…」
「…………」
流された? 漂流? えっ……。
「な、何だって? ひょっとして昨日ニュースでやってたフェリーから落ちた女性って、君の事!?」
「ふぇ? あ、あ〜、は、はい…」
俺は感情の高ぶりに任せ、つい大声を上げてしまった。
確かに言われてみれば、彼女の髪も衣服もボロボロである。
「だ、大丈夫か? 怪我とか?」
大変不幸な話だ。無愛想な俺でさえ、これは何とかしたくなる。
「あ、はい。それは問題ありません。此処まで自力で上がって来ましたから……」
「そ、そっか。それは良かった。ちょ、ちょっとそこで待ってな。何かか拭くもの持ってく…」
「ちょっとーっ、友紀ぃー、聞こえてないのぉーっ!」
岩山の下から姉貴の声がする事に気づく。
どうやらとっくの昔に、シーグラス探索は終わっていた様だ。
既に何度も呼び掛けていたらしい。
「おっ、姉貴。ちょうど良かったっ! そのデカいバッグにタオル入ってるよな?」
「あっ? あるけど何なの?」
「良かで早く上がって来いっ! こっちは大変なんだよっ!」
「…ハァ? もう、一体なんなの?」
姉貴は大袈裟に頭を捻ってから、ゆっくりと上がって来る。大きい荷物を持ったうえでの階段もどき。時間がかかるのは仕方がない。
「ハァハァ……もうっ、一体何なのよ~」
3分程かけてようやく上がって来た姉貴。俺の指先が差す、賽銭箱のさらに奥を覗く。
「えっ……う、嘘…」
「ど、どうも……」
驚いて言葉を失う姉貴に対し、小さく返事をする里菜。
「えっえっ!? か、可愛いっ! まるで”天女様”みたい~!」
「はいっ?」
首を傾げる里菜を他所に、姉貴は勝手に盛り上がった。
「いやいや、そうじゃなくて……彼女はな、フェリーから落ちて此処に流されて来たんだよっ!」
「えっ!? そ、そうなの? フェリーって『根占』から『指宿』に出てるやつかしら?」
「えっと……あ、はい。そ、そうです」
大騒ぎする俺等とは対照的に、里菜はとても歯切れが悪い。
「だ、大丈夫? 動けるかしら?」
「あ、はい。大丈夫なのですが、見た目がご覧の有り様で…」
「あ、そうそう、ちょっと待ってね」
姉貴は、バスタオルを取り出すと、精一杯手を伸ばして、里菜に預けた。
「取り合えずそれで良く身体を拭いて…あ、後は…友紀、アンタその子をおぶって降りて来なさい」
「はっ!?」
「体育大でしょ? 漢見せんねっ! そげな格好の女の子を表で歩かせるつもり?」
「あーっ、分かったよ。やりゃあいいんだろっ」
俺は腹を括る事に決めた。先ずは神社に入る罪について、神様の許しを得るべく、深々と頭を下げる。そして中に入った。
「ちょっとごめんな」
次に里菜を丁寧にバスタオルで包む。彼女に触れない訳にはいかないので、人助けをするというのに、なんか悪い気がしてならない。
だけど、俺がやるしかないのだ。
覚悟を決めて、背中と腰の辺りを抱きかかえた。俗にいうお姫様抱っこってヤツだ。
「えっ、えっ、ちょ、ほ、本当に大丈夫ですから…」
「いいから、いいから、此奴鍛えてるから任せんね」
俺の代わりに勝手に返事をする姉貴。それは別に構わない。
何故姉貴の言う通りに背負わなかったか。だって背中にその……当たるではないか。それよりは、いくらかマシ…?
んっ…いや、前後の差だけで、やっぱり密着するのは変わりがないんだが。
それに見た目の恥ずかしさなら、むしろ此方に軍配が上がるかも知れない。
さて、問題はここからだ。慣れた俺でも流石に人を抱えて降りた事はない。
ましてや、こんなにも綺麗な子を……。
これは流石に慎重にならざるを得ない。いや、分かりきっていた事だ。
「友紀さんって、お優しい方なんですね」
俺に抱かれた里菜が、そう言ってクスリッと笑うと、身体を俺に預けてきた。
少し照れながら、此方を上目遣いで見ている。
て、天使だ……な、なんて愛らしいんだ。
「い、いや。そ、それは姉貴が…」
「で、でもこんな傾斜…頼まれても引き受けませんよ、普通は」
う、うん、確かにそうだ。特に普段の俺なら絶対に断る依頼だ。
「わぁ……」
「んっ?」
「き、綺麗ですね…夜は暗いし必死だったので、気がつきませんでした」
少し心に余裕が出来たのか、里菜は、階段の下の景色を見て、その瞳を輝かせている。
俺もちょっと歩みを止めて、見飽きている筈の所に視線を移した。
他の海の磯とは、ちょっと異なる茶色い岩肌。それを削って出来た階段には、白くて太いロープを手すり代わりに張ってある。
階段の下には、ほんの数十mの砂の架け橋が、道路まで伸びている。
真ん中まで濡れているのは、この砂の橋が、満潮時には僅かながらも海の下になる事を示している。
その左右には透き通った、これも他の海とはちょっと違った水色の水を湛えている。今日の波は特に穏やかで、中を泳ぐ小魚すら見える気がする。
野鳥達のさえずりも、美しさに華を添えてくれた。
こんなに綺麗だった? いや、俺は前から知っていた。此処は俺に取って特別な場所…。けれど余りに当たり前すぎて、完全に忘れていた。
いや、この荒平だけじゃない……。
俺はもう、この鹿屋に埋もれている事に絶望していた。
だからこの街で祭りを見ても心は踊らず、花火を見ても心に花は咲かなくなっていた。
俺は再び里菜に目を移す。彼女は本当に嬉しそうだ。この天使の笑顔が、俺の閉ざした心を開いてくれたのだろうか?
ただ、俺は同時にもう一つの事を思い出してしまう。今の彼女の様に、まだ小さな俺を抱いて守って冷たくなってしまったあの人の事を。
あの人が俺をこの地で生んでくれたから、この出会いがある。でも、その当人がこの世にはいないのだ。
俺のサッカーにしたってそうだ。体育大の特待生。響きは良いが、所詮地元の体育大止まり。本当は、もっと上で活躍する俺を見て欲しかったのに。
「そ、そうでしたか。友紀さんもお母様を亡くされていたのですね……」
俺は気がつけば、里菜の頬に自分の涙を落していた。里菜との出会いに感動している涙なのか、それとも未だに晴れない心の闇か、ちょっと良く分からない。
それ以前に、俺は里菜のこの言葉の不自然さに気がつけなかった。
「な、何でもない。何でもないんだ」
俺は涙を拭うと、後は気持ちを切り替えて、階段を降り切って、鳥居をくぐると、そのまま駐車場まで里菜を連れていった。
途中、誰にもすれ違わなかったのは、不幸中の幸いだった。もし見られていたら、騒ぎになっていたかも知れない。
そろそろ午後4時、夕暮れが近づいていた。