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第32戦・魔界で野宿

前回のあらすじ

魔王、淫らな夢を見る。

 小石を弾きながら街道を進む馬車の一群。その目的地までにはまだ距離があるというのに、日は沈みこれ以上の進行は難しくなっていく。馬車はその車輪を止めて、御者たちは野営の準備を始めだした。

 キャラバンの中の馬車に勇者一行は乗り込み、次の目的地を目指していた。野営を始めた一団に合わせて一行も馬車から降りる。

 小さな賢者アンネはその辺りを歩く御者にひとつ訊ねた。


「次の街までは一日で到着するはずじゃ。どうしてこんなところに止まるのじゃ?」


 荷物を運ぶ御者は、荷を一度地面に降ろすと額の汗を拭った。


「知らないのかい? この馬車たちは鉱石を満載してるのさ。だから、ちょっと時間がかかってしまってね。すまないね」


 御者は子供に向けるような笑顔でアンネの問いに答えた。

 目的地である「スロース」の街では製鉄工場が複数ある。そこで使う大量の燃料や鉱物を、この馬車は運んでいるのだ。その関係上、どうしても時間がかかってしまう。

 返答に納得したのか、アンネは頭を下げると仲間の方へと歩いて行った。パーティーにそのことを伝えると、勇者一行も野営の準備を始めた。



 予定外の野営をすることになったが、御者たちが食料を分けてくれたことで一行は腹を満たすことができた。食事が終わった後、各々に空いた時間を過ごしはじめた。


 馬車の陰に潜むようにして、エルフのナディスは俯いて座っていた。

 辺りから聞こえてくる声から、数多くの人がいることが分かる。魔界にいるのだから、彼らは当然魔族である。ナディスにとってそのような環境で、野宿をするということは久しくなかったことだ。


「くそ……こんなところで野宿なんて」


 魔族に囲まれた状況でナディスは思い出す。


 焼野原になったエルフの里。そこに残っていた魔族を皆殺しにした後、死体が転がるその場所で野営をしていた。殺された同胞を弔うために、里を離れることができなかった。

 仲間全員を埋葬するには三日かかった。その間、常に魔族の死体と共にあった。忌々しいこの肉塊を消し去りたかったが、それより先に仲間の遺体を安らかに眠らせたかった。

 さらに数日、魔族の死体を焼き払い、里の後片付けもあらかた終わった。すると、今まで気付かなかった血文字が浮かび上がってきた。地面に染み込んだ血が空気と触れ合い、黒い文字を形作っていた。


『DDD』


 里のすべてを使った血文字は、『D』の文字が三つ。その意味は解らないが、里を焼いた者が残したに違いない。そうでなければ、このような大規模なことはできないだろう。


 過去を思い出していたら、掌を強く握っていた。ナディスの白い肌は、掌だけ内出血したかのように黒ずんでいた。

 久しく忘れていたこの感情。


『魔族が憎い』『同胞の仇』


 魔界に来たというのに、それを忘れていたのは、あの阿保な魔王のせいだ。魔界に来てすぐ返り討ちに遭い、その後もちょっかいを出してきた。その様が、どこか間抜けで、可笑しくて敵中にいるとは思えなかった。


「私はどうかしている。どうして『憎しみ』を感じなかった!」


 ナディスは拳を地面に叩きつけた。

 忘れるな同胞の痛みを、無念を、無力を。

 この魔界に、必ず仇はいる。それを打倒せなければ、勇者と共に魔界に来た意味がない。

 整った美しい顔が、今は怒りに歪んでいた。



 ハナコは夜空を見上げる。

 夜の暗闇よりさらに黒い夜空には、緑の星々が煌めき、禍々しいほど赤い月が浮かんでいる。異世界にほんとは全く違う夜空。今日はそれがやけに胸を焦がす。


「どうしたハナコ? こんなところで。料理はまだあるんだぞ?」


 肉の串を両手に持ったジューディアがハナコに話しかけてくる。そこで、自分がボーっとしていたことにハナコは気付く。焼けた肉のいい香りが漂ってくるが、今は食指が動かなかった。

 左手に持っていた肉を一口齧ってから、ジューディアはハナコの隣に立った。


「今日はあまり食が進んでいなかったが、何かあったのか? 俺でよければ話を聞くぞ」


 遠くを見つめたままのハナコは、肉の串を取ることもせずに、ただ立ち尽くしていた。


「……異世界にほんのことを、思い出してた」


 ぽつりと、ハナコは呟いた。


 異世界にほん、ハナコが高校生として生活していた頃の世界。

 こちらの世界に召喚されてしばらく経つが、今日のように思い返すのは初めてのことかもしれない。

 先日、魔界動物園で昔のことを魔王に語ってから、感傷的になっているのだろう。

 昔は父親と食事をして、学校に通って、友人とお喋りして、帰宅途中で買い食いしたりして、剣を持って戦うような危険なことは一切なかった。学友とのいざこざはあったにせよ、実に平和な毎日だった。


「帰りたいのか? 異世界にほんは、こちらの世界とまったく違うと聞く。実は辛かったりするのか?」

「うーん、よく分からない」


 虚空を見つめながらハナコは答える。

 曖昧なのは、ジューディアに気を使ったわけではなく、本当に自分自身でも分からないのだ。どちらの生活も充実しているし、問題という問題もない。ただ、回答をするのに充分な理由がないだけである。


「みんなと一緒にいて楽しいし、嫌なわけじゃないけど……でも、別れた人たちは今ごろ何をしてるのかな」


 詮無いことだと、ハナコも理解している。

 目の前にいない人が何をしているかなんて、日本にいたときだってわからなかった。ただ、長い時間会っていないということを思い出しただけだ。魔王とのデートがなければ、こんな感傷的になることもなかっただろう。それは、決して悪いことではない。周りの人に心配させるのは、悪いことではあるが。


「みんなはあたしのことを忘れてしまったりするのかな?」

「それは流石に思い込みが過ぎるだろう。ハナコはみんなのことを憶えているのだろう?」

「んー、でも、なかには忘れちゃった人がいたのかも」


 自分の記憶にあるもの以外の人間も当然いるだろう。皆の記憶で、そのうちの一人に自分が含まれているのではないかと、それが気にかかるところであった。

 このままこの世界にいたら、誰もが自分を忘れてしまうのではないか。自分の居場所がなくなってしまうのではないか。


「大丈夫だ、みんな憶えているさ。俺は絶対にハナコを忘れない。異世界にほんのみんなもきっと同じだ」


 ジューディアはハナコが召喚されたときから、ずっと行動を共にしてきた。ハナコという強烈な個性を持つ人間のことなど、忘れろと言われても絶対に忘れられない。つまりは、日本でも同じということなのだ。


「もしも、帰れる機会があったら――あたしはどっちを選ぶのかな」


 日本か、この世界かのどちらか。

 帰ることができないのだから、もしもの話になってしまうだろうが、それでも気になってしまった。自分はどちらを選ぶのだろうか、いくら考えても答えは出ない。

 すっと目の前に肉の串が差し出された。その主は当然、隣にいるジューディアだ。


「考え事で肉を食べないなんて、ハナコらしくないぞ。今はいっぱいメシを食え。悩むなんていつでもできるからな」


 こちらを不安を拭い去るかのように、ジューディアはいかつい顔でウィンクしてくる。ゴリラには不釣り合いな可愛らしさが気持ち悪かった。その気遣いは素直に嬉しかったので、ハナコは微笑みながら肉の串を受け取った。

 帰れる機会があれば、その時に考えればいい。その結論に至ったハナコは肉にかぶりついた。

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