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第31戦・人生最大の選択

前回のあらすじ

ロザリクシア、育った孤児院を訪問。

 ピンク色に灯るルームランプ、窓ひとつない部屋。ガラス越しの浴室は丸見えで、破廉恥極まりない。そして、二つ並んだ枕の隣には意味深なティッシュ。少し息苦しさを感じながらも、魔王は丸いベッドのふちに腰かけていた。


「……ここは、どこだ」


 魔王は自分がなぜこの部屋にいるのか、まったく覚えていない。ここに入る前の出来事も、その理由もさっぱりであった。ただ部屋に閉じこめられたというのであれば、それは別段問題ではない。

 どんな部屋であろうとも破壊して、脱出できるだけの力を魔王は持っている。ただ問題なのが……目の前にバスタオル一枚だけを身体に巻いた大臣がいることだ。


 大臣の白い髪は少し濡れて光を反射し、上気した肌が火照っているように見える。唇はテラテラと濡れて、こちらを見る視線は熱い。ちょうど、お風呂から上がったところであるように見える。


 今から行為に及ぶ一歩手前といった状況のために、魔王の思考は纏まらずに混乱したままだった。


「大臣よ。ひとつ聞きたいのだが、何故、われはここにいる?」

「お忘れですか?」


 質問を質問で返すな、と言いたいところだが、女性の口から出るこの言葉はずるい。何も覚えていない魔王は、「ごめん、覚えていない」と、喉元からせり上がる台詞をぐっと飲みこんだ。


「……ここで何をするのだ?」

「それは、『ナニ』をする以外にあるというのですか?」


 再び質問に質問を返されて、言葉にきゅうする魔王は苦虫を噛み潰したような顔をした。つまりは、『致す』ということであり、それは魔王にとって受け入れがたいことだ。


「マジで?」

「マジです」


 魔王は苦い思いで顔を歪めた。狭い密室にベッドが一つ、男女が二人。何も起こらない訳が――いや、起こしてはならない。


 魔王はこう考える。

 男と女というのは、お互いをよく知り、関係を深め、好き合って、初めてその先に行けるのだ。こういうことは、了承しあった上で行われるべき行為である。


 そう考えて、魔王はふと気付く。大臣は信を置く者として与えた地位であり、同じまつりごとをするという深い関係である。それに加えて、大臣はどうやら、こちらを好いているようなそぶりまで見せる。

 つまり、魔王が大臣に対して「好き」だと言えば、『致す』条件が揃ってしまう。つまりは、魔王の意思次第で『致して』いいのである。


「申し訳ないが、家庭の事情により、こういったことはNGだ。結婚前にすることじゃない」


 大臣の向ける真っ直ぐな視線を、魔王は真っ向から受け入れてなお否定した。


「……死んだ父上の遺言のようなものだ」


 魔王は先代魔王である父の名を口にした。死者の名を出すというのは、生半可な覚悟で出来ることではない。


「そうですね。前魔王は浮気をしたせいで亡くなったと、私も聞き及んでいます」


 大臣の言葉からも、魔王が嘘を並べているわけではないと分かる。それを知ってもなお、大臣は熱い視線を向けてくるのだ。魔王も相当な覚悟がいることである。


「ならば、大臣も理解しているだろう。さあ、早く服に着替えて部屋を出るぞ」


 立ち上がろうとする魔王の肩を、大臣が押さえつけてくる。その力強さに魔王は気圧された。


「お父上のことは、事故みたいなものです。魔王様が気に病むことはありません」

「いや、マジで怖いんだけど!?」


 やけに強い力で魔王は押さえつけられると、そのまま大臣に押し倒されるかたちになる。目の前にはバスタオルに巻かれた胸の谷間が迫ってきて、魔王はつい生唾を呑みこんでしまった。

 いくら父親のことがあったとはいえ、魔王も男の子。そういったことに、まったく興味がないわけではなく、むしろ健全な男子として積極的に行きたい気持ちもある。


「いや、ダメだ。結婚する相手ではないと、認められん!」


 かぶりを振って、魔王は自らの煩悩を振り払う。その合間にも、バスタオルから覗く大臣の白い太腿が、細い二の腕が、視界に入って魔王を誘惑してくる。いつもは豆腐より柔らかいメンタルを、木綿豆腐まで硬くして抗う。


「それは、私とは結婚できないということですか?」


 こちらを見つめる大臣の紫の瞳が涙で濡れていく。震えた声は嗚咽が混じる。

 女性の涙は女の武器。それに揺さぶられない男性などいる筈もなく、魔王もその例に漏れるわけもなく――


「いや、そういう意味ではないぞ?」


 視線を逸らして難を逃れる。視線を合わせ続ければ確実に心は奪われることだろう。男ともあろうものが情けなくも逃げ出したのである。


「それなら、キスだけでも……」


 ゆっくりと近づく顔と、みずみずしい唇が迫ってくる。あと、ほんの少しで唇と唇が接触しそうなまで近づいていた。


 ここにきて、魔王の心が揺れた。このままにしていれば、大臣の唇が触れることだろう。それくらいなら、問題ないのではないかと。

 既に勇者とキスを交わしてしまっている。ならば、キスだけならばしてしまってもいいのではないか。それで人間関係がどうこうなるわけでもない――筈である。


 魔王は身体を強ばらせて大臣の唇が来るのを待った。このまま待っていれば、それで終わる。その後は、ドス黒い欲情が雪崩の如く押し寄せ、なし崩し的に行為に及んでしまうだろう。


「だ、ダメだ! 何かわからんけど、この一線だけはダメだッ!」


 大臣の身体を押し返すと、意外と簡単に離すことができた。魔王が思っていたよりも、その力は弱かったようだ。

 魔王は大臣を引き離すことができて、安堵の溜息を吐いた。


「このヘタレがぁッ! キスのひとつもできんのかぁッ!」


 ゼロ距離から放たれる大臣の拳が魔王の顎を砕く。頭蓋骨まで揺れるその一撃は確実に魔王の意識を刈りとった。



 気付けば、見慣れた白い天井が視線の先にあった。昔に黒から白に張り替えた壁紙である。部屋まで真っ黒だと寝坊しやすいことに気付いてからは、壁は白色にしていた。

 魔王はすぐさま上体を起こして辺りを見回した。もしも、ピンク色の部屋が夢ならば、自室に大臣はいないはずである。


「おはようございます。魔王様」

「うおッ!」


 隣から聞こえた声に、魔王の身体が跳ねた。視線を向けると、やはりそこには大臣の姿があった。

 しかし、その姿はバスタオル一枚ではなく、いつものスーツを着込んでいる。やはり夢だったのだと、魔王は胸を撫で下ろした。


「それで……その女の子は?」


 大臣は黒い羽根と尻尾の生えた十代くらいの女子を抱きかかえていた。一瞬、自分の子かと魔王は身構えてしまうが、どうやらそうではないらしい。


「彼女はサキュバス。魔王様に夢を見させていました」


 なるほど、サキュバスなら夢を操ることくらいはできるだろう。それで、大臣はあんな夢を見させたのだと、そう魔王は納得した――


「――するかッ! なんて夢を見させてるんだッ!」


 先程までの悪夢を思い返すと、怒りがふつふつと湧いてくる。あんな窮地に立たされたのは、久方ぶりであった。


「? 私はどのような夢を見ていたかは知りませんが……何があったのですか?」


 大臣が見せる心配そうな顔が、何の夢を見せていたのか知らないことの証明だった。

 サキュバスを使ってまで、どうしてあんな夢を見せたのか、その理由はわからない。だが、悪意があるわけではなさそうだ。


「まぁ、その、なんだ……大臣はもっと自分を大切にした方がいい」


 大臣は魔王の言葉の意味が解らず首を傾げている。その様子は夢で見た大臣とは別人であった。

 大臣はあのようなことをする女性ではない。ただ、ちょっと背伸びがしたかっただけなのだろう。


「そう急ぐ必要はないさ。あと、イタズラはほどほどにな」


 急に反応が薄くなってつまらなさそうにしている大臣を見て、魔王はぽつりと呟いた。

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