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「とりあえず、じゃあ、お疲れ様でした〜!」
「かんぱーい!」と、おきまりの台詞を交わし、グラスをくっ付けた。
定食屋というので、お酒は飲まずご飯を食べるだけかと思っていたが、店員のお先に飲み物お伺いしますとの言葉に彼女は、「じゃあ、とりあえず生で!」と答えていたので、それにつられるように僕も「生で。」と答えていた。
彼女はお酒を飲みながら、メニュー表とにらめっこしている。かれこれ五分くらいはにらめっこしている気がする。これを世間では優柔不断というのかもしれないと思った。
僕は最近魚を食べていなかったので、煮魚の定食で、さっき居酒屋に行ったからご飯は少なめにしようとメニュー表を一通り眺めたあとすぐに決まった。
彼女はまだメニュー表のから揚げ定食とチキン南蛮定食を行き来している目はそのままで、すみません。いつもなかなか決められなくて・・・と小さな声で呟きながら、そういえばと続けて口にした。
「アキさんって本名、何なんですか?」
僕は、アプリの名前をアキにしている。
親がつけてくれた名前から来たあだ名で、近からず遠からずといったところだろうか。
苗字が珍しく幼い頃から周囲に過剰に反応されてきたせいか自分の名前にも関わらず、フルネームに未だに苦手意識を持っている。
仕事関係の人とも繋がっているLINEでさえもアキで設定している。まだ注意されたことがないから、注意されるまでは今のままにしておきたいという気持ちでいる。
だから僕は自分の人生において長い間付き合うことにならないと思えば、適当にはぐらかして今まで凌いできたし、これからもそのスタンスで居たいと思っている。
目の前にいる彼女のことは嫌いではないし、むしろ好きという感情の方が強いが、今はまだ探りの期間だから教えたくはなかった。
「うーん、言わなきゃ駄目ですか?」
少し困ったような、それでいて不機嫌そうな表情を作って彼女に向けてみた。これで諦めてくれないだろうか。
「教えて欲しいです。せっかくこうして仲良くなれたので、知っておきたいと思うんです。それに犯罪者じゃない限り名前教えたって困ることなんてないじゃないですか!」
と彼女は人間関係を構築する上で必要な嬢だと言わんばかりに、僕の期待を見事に裏切ってくれた。悪い意味で。
どうにかこうにか逃げ切りたい僕は、一か八かでこう聞いてみた。
「じゃあ、ユキさんも教えてくれるなら僕も教えます。」と。
彼女はユキという名前でアプリをやっていた。
女の子ということもあり、そのまま”雪”という名前なんだろうな。肌も白いし、雰囲気も落ち着いているので冬生まれなのかなと無駄な読みをしていた。
彼女はあれだけ僕の名前を知りたがっていたのに、いざ自分の名前を聞かれると口をもごもごさせてしまった。
「いや・・・、うーん・・・。私はそうですねえ・・・。」
その様子を見て彼女が僕にさっきぶつけた言葉をそのまま送った。
「え、もしかしてユキさん犯罪者なんですか。だから名前言えないんじゃ・・・。」
「えっ!!そんなわけないじゃないですか!真っ当に人生歩んで来てますよ!」と何故か爆笑していた。
笑いが落ち着いた頃、彼女の気持ちも落ち着いたのか店員にすみませーんと声をかけ、僕に何を頼むのか聞き、一緒に注文を済ませた。
名前のくだりのせいか、料理が来るまで道中の会話のテンションは嘘だったかのようにしんみりしていた。
もしかして犯罪者じゃないけど、僕は彼女の地雷を踏んでしまったのではないかと、持ち前のネガティブ思考が炸裂し、先程までの楽しい気持ちが一瞬でどこかに吹き飛んでいってしまった。
向かいに座っている彼女は、気まずい雰囲気をどうにかしようと当たりを見渡していて話題を探しているようだった。
そんな中店員が、お待たせしました〜と来た時は救いの手だ!とホッと肩を撫で下ろした。
袋に入った薄っぺらいおしぼりを開き、念入りに手を拭き、割り箸を割った。
僕は真っ二つに綺麗に割れ、彼女は左側が細く、右側が太くなっており失敗していた。
その時、あの・・・と小さな声が聞こえた。
「さっき私の名前答えられなかったので、ちゃんとお答えしようと思います。」とバランスの悪い割り箸をお盆の上に置いた。
「勿論犯罪者ではないんですけど、何と無く本名知られるのって照れ臭いじゃないですか・・・。
えっと、本名は・・・。」
彼女は何かの覚悟を決めたかのような真剣な表情で、その雰囲気に僕も思わず生唾を吞み込んでしまった。
「本名は、櫻井有希と言います。
漢字は難しい方の櫻に井戸の井。有り無しの有に、希望の希です。」
名乗った後、数秒真っ直ぐに僕を見つめ、すぐに表情を崩した。
「あ〜、こんな真面目に名前を言うなんて、バイトの面接ぶりくらいですよ!」と笑った。
「てっきり僕、ユキって聞いたときは、空から降る方の雪だと思ってました。」
「それよく言われますね。あと、私冬生まれじゃないんですよね。」
「え!色白で落ち着いているので、冬生まれだと思ってました。」
「残念でした、秋生まれです!偏見はよくないですよ〜。」とまたおちゃらけて笑った。
お互い名前を言ったこと、名前を聞いたことで満足したのか、それからは運ばれて来た料理を無我夢中に食べた。
それくらい美味しかったし、久々に他人の手料理を温かい状態で食べられる有り難さや、嬉しさをひしひしと感じていた。それは彼女も同じようだった。
食事を終え、お酒を飲み終わった後で、僕はちょっとした罪悪感が胸の何処かにあった。
彼女に名前を聞いておいて、言わせておいて、僕は言わずにこのまま帰ってしまっていいのだろうか。
きっと彼女は言いたくなかったのに、無理に言わせてしまったのではないか、そう思っていた。
余程深刻な表情をしていたのか、彼女僕の顔を覗いて、言った。
「あ、もしかして相手に聞いておきながら、自分は本名答えてないって悩んでますか?気にしなくていいですよ。私は言っても大丈夫かなって思ったので、言っただけですし。誰にも触れて欲しくないところもあると思いますし、言いたくなったらまた教えてもらえたら嬉しいです!」
その場では、彼女の優しさに甘えて、「ありがとうございます・・・。」とだけ答えるのが精一杯だった。
会計を済ませ、外に出たところ、辺りはキャッチの人々は散らばるように数人立っており、道ゆく人に気だるそうに声をかけていた。
もうそんな時間かとスマホで時間を確認したら二十三時だった。そもそも会うのも遅かったしこんなものかと思いながら、彼女が利用する改札まで見送ることにした。
歩いて五分程度で改札の前までやって来た。
「じゃあ、今日はありがとうございました。また機会があればご飯行きましょうね!」と言い手を振り改札に
向かっていく彼女の手を引き、ギリギリ聞こえるくらいの声量で言った。
「あ、の、僕の、僕の名前は、八尋章弘って言います。」
僕の名前を聞いた瞬間、一瞬目を見開いたように見えたが、すぐに笑顔になり、
「そうなんですね、珍しい苗字ですね!教えてくれてありがとうございます。じゃあ、また!」と手を振って改札のへ流れていく人の群れに飲み込まれていった。
その時、改札を通った彼女が「やっぱりそうだったんだ・・・。」と呟いていたことは知らずに。
彼女はどういう目的でアプリをやっているかは知らない。ただ、好きなものの話をしながらご飯を食べ、何事もなく各々自宅に帰る。そういう関係であり続けたいなとは僕は思っていた。
このアプリで直接会ったのは、彼女だけではない。過去何人か会ったことがあるが、どの人も結局続かずで、終わって行った。
そもそも話も合わなかった人、性格が合わなかった人、待ち合わせ場所で見かけた時写真と実物との差がありすぎて帰ったことも幾度かあった。そんな中でも、彼女との関係はこれから先もずっと続いて欲しいと思った。