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お祓い屋 京助  作者: 浮子 京
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事 みつる時


{ 事 みつる時 }


二つ坂の長、根岸与一の指揮の元、葛城家の準備は着々と進んでいた。

 すっかり日の落ちた広い庭に、所々かがり火が焚かれ、何処にも暗闇が見当たらない程に、隅々まで明るく照らしている。そこへ、大きな酒樽を幾つも積んだトラックが止まり、岸部を中心とした大勢の男達が、積荷の樽を手際よく降ろしていた。

 奥座敷の大広間へと運び込まれた酒樽は、これまた大きなかめの中へと、移し替えられた。酒で満たされたかめは、既に十は超えている。

 かめから溢れ出る酒の香が充満する大広間の中で、先程到着したばかりの物見衆の一団が、祈祷の準備をする姿があった。

正面床の間近くに広く結界が張られ、その中に拠り(よりどころ)が設けられた。その直ぐ横には、護摩焚に使う木切れが、山のように積み上げられている。

当の本人里美の姿は、奥座敷から少し離れた部屋の中で、母、孝子に添い寝され、未だ目覚めることの無いまま、静かに眠っているのだった。

葛城家の皆が、手分けして動いている中、幸三を含む重鎮達は、土間付の台所がある、すぐ横の上がり間に集まり、事の成り行きを見守りながら、座り込んでいた。

「その昔、一体、この月夜野でなにが起こったのか?」久義が唐突に切り出した。

「此の地、月夜野の歴史は相当古いと言われているからのう」佐治が付け足すと、すかさず、彰子が尋ねた。

「東方の佐治さんは、何か聞いてはおらんですか、他にも何か書き記された物等は無いのですか?」

「うむ、古い文献や書物は、確かに残ってはいる。じゃが、今回同様、まともに読める奴がおらん。精々読めて今回の書物かのう、それでも僅か六百年前の物だしなあ。それよりも遥かに古い」

「では、その古い書物なるものは、何処に?」

「言満神社に仕舞われておる筈じゃが・・・滅多な事では出さんからなあ、それに、言い伝えでは、その書物は後々に付き、写経のように模写され、奉納されてきたと聞く。元々の原本が何処に隠されたかは、わしも知らん」

「神社のお守り役である東方が解らんのでは、他の者が解る筈も無い」久義が溜息をつきながら言った。

「しかしながら、口伝されている事柄と、今回の事象は余りにも、違いすぎておらんですか?」彰子が皆に訴えた。

「そこなんじゃ、わしもそれが腑に落ちん」頷きながら、幸三も同調する。

「何故、守り神である竜神様がこのような事をなさるのか・・・もしかしたら、此の月夜野の歴史の中で、いつの頃かに、捏造があったのでは?」

 誰も今まで、思っても見ない事であった。今回の事象は、彰子の言うように、とてつもなく根が深いのではないのだろうか。皆は、あらためて事の重大さを感じていた。と、同時に、はたして此処にいる者達だけで、事の解決を導けるのか、各々の頭の中に不安がよぎるのだった。

 そのすぐ横の台所では、活気に満ちた言葉が飛び交っていた。葛城家の女衆による、夕げの支度が始まったのだ。

 大きな鍋やら釜やらが所狭しと置かれ、茶碗や湯呑、盆の中には山のように積まれた箸が入り、まるで大宴会でも始まるが如くの勢いである。

 玄関を入った横の、土間を上がる畳敷きの広間には、長テーブルが幾つも置かれ、一仕事終わった男達が腰を降ろし、茶を飲んでいる。そこに、菓子を山ほど入れた大きな盆を持ち込み、皆を労う美佐江の姿もあった。

 そんな大騒ぎの中、おかしなエンジン音を響かせながら、かがり火の焚かれた庭の中へと、一台の車が入って来た。その車は申し訳無さそうに庭の真ん中を通り過ぎると、隅っこの少し暗くなった塀の前で止まった。そして、右側のドアが開くと、ふらふら人が降りて来る。

 何やらぶつぶつと言いながら、その人影は玄関先まで来ると、蚊の鳴くような声で言うのだった。

「ただいま・・・今、帰ったよぉ」 葛城圭子、只今到着!

 尚、暗がりに止めた車の中では、おでこの右に大きなタンコブが出来た中年男が、ハンドルにもたれながら、うずくまっていた・・・

「なぁーに? 何が始まっているの、賑やかだねぇ」きょろきょろと辺りを見回しながら、何事が起こっているのか見当もつかず、ぼけーっとその場に立ち竦む圭子だった。

「あらまあ、いつ来たの」菓子盆を脇に抱えた美佐江が、ぼーっと玄関先から中を覗いている圭子を見つけ、驚いた。

「うん、今、着いた。ねえ、どうしたの? 大勢集まっちゃったりして、お祭りの準備か何か?」

「いいから、早く中に入りなさい。そんな所におったら、皆さんの邪魔になるけん」そう言うと、圭子の腕を掴み、台所の方へと引っ張り込む。

「ちょ、ちょっとぉ。何よう、痛いじゃん」訳の分らないまま、引っ張り込まれた事に驚きながら、勝手知ったる台所へと着くと、そこには、見慣れた顔がいた。

「おお、圭子、来たのか」すぐに見つけた幸三が声を掛けると、それに気付いた他の者達も一斉に、圭子の方へと視線を向けた。

「圭ちゃん、来よったか。連絡が行ったんかえ?」彰子が懐かしそうに声を掛けた。

「え! 何・・・彰子ねえさん来てたの。あれ、おじさん達もいるじゃん」

「今度の事は気の毒になぁ、心配じゃろうが、気はしっかり持つんじゃぞ。わしらが、必ず何とかするけんな」佐治がそう言うと、皆も深く頷くのだった。

「何があったの? 東方のおじさんまで、それに、南条の久おじさんも。ねえ」

「圭子は何も知らなんだ。伝えておらんから」幸三はそう言うと、不思議そうな顔をしながら、みんなを見ている圭子の前に立ち、両肩に手を置くと、事の成り行きを大まかに話した。

「何て事! それで、里美は助かるの、絶対、絶対助かるの?」最早、絶叫に近かった。

「助けて見せますとも。今、一族の総力を挙げて、事に当たっておるんよ。その力、知らん筈はないでしょ」力強く言い放った彰子の言葉に、只々泣きながら頷く圭子だった。

 そのやり取りが聞こえたのだろう、奥の座敷から孝子が現れた。

「圭子・・・ごめんね、黙っとって、ごめんね」溢れる涙が、足元まで濡らす勢いで噴き出している。

「おねえちゃん・・・」抱き合ったまま、その場に二人崩れた。

 その光景を静かに見守った彰子が、天を仰ぎ、言い放った。

「この事象・・・治まらねば、例え神でも許しはしませんぞ」

 その場に、彰子の歯ぎしりの音が聞こえた・・・

 暫くの後、未だ止まることのない涙を拭うこともなく、孝子が里美の元へと戻っていった。

 大分、落ち着きを取り戻した圭子は、台所の隅に置かれた椅子に腰かけ、うな垂れたまま、その場を行ったり来たりしている人達をボーっと見ている。

 何かを忘れているような、何だろうと思いながら、思考回路の回復を待つのだった。


 トントン、トントン、小さく叩かれた窓の向こうに、手ぬぐいを握りしめ、にこりと笑う一人の男が立っている。京助はすぐに窓を下げた。

「ご苦労様です。申し訳ないんですが、車の移動をお願いしてもよろしいですかねぇ」

 やたら丁寧な言葉に恐縮した京助が、つい、車から降りて深く頭を下げる。

「いやいや、ご丁寧に。私はこの屋敷に努めさせてもらってる、岸部と云うもんです」

「あ、俺、いや私、雨宮と言います。圭子さんの付き添で・・・」

「そうでしたか。それはそれは、では、早ように中へお入り下さい」

「あの、車は何処へ移したらよいですか?」辺りを見回しながら尋ねた。

「向こうに大きな楠木が見えるでしょ。そこに来客用の駐車場が有りますけん、そこまで宜しいですかねえ」

 その男の指差す方向に目をやると、成る程立派な大木が、かがり火に照らされ、暗闇の中映し出されていた。

「ああ、それと、キーは付けっぱなしで置いて下さい。何かあった時にすぐ動かせるので、皆さんにお願いしてるんですよ。貴重品だけは、御持ち下さい」

 そう言われ、快く返事をすると、言われた場所までアルピナを運んだ。

「ほう、結構停めてあるな。しかし広い屋敷だな、まるで時代劇に出てくる代官屋敷みたいだ。圭子の奴、良いとこのお嬢ってのは、まんざら嘘でも無いって訳か」

 感心しながら、先に停めてある車の横へと慎重に入れた。サイドミラーを折りたたむと、エンジンを切る。左手に停めてある車に気を遣いながら、少し窮屈そうに運転席から降りると、静かにドアを閉めた。

 狭い空間から脱出しようとした時だった。隣の車に見覚えがある。

「グリーンメタのジャガー・・・まさかな」すかさずナンバーを確認する。

「品川か・・・あの時の奴かもな」そう、ここに来る途中寄った富士川のサービスエリア。そこにいた、虫唾の走る嫌な奴。

「何でそいつが。まさか、圭子の姉の旦那ってか?」京助の体が、武者震いした。その時だった。

「そいつは・・・本物かあ?」突然後ろから声がした。すぐに振り向いた京助の目の前にいたのは、紛れもない、あの時の奴。頭を掻いている左手には、嫌味なほど金ぴかの腕時計が見える。嫌な再開に、京助のアドレナリンが叫んだ・・・敵だ。それと・・・

(こいつは只者じゃあない。ここまで近づいたと云うのに、何の気配も感じなかった)

「それとも、よく出来たコピーかあ?」今度はポケットに手を突っ込んで、クックックと、そいつが笑った。

「さあ・・・どっちだと思う」京助の、右の眉がピクリと上がる。

「この手の型は人気がイマイチだったからな。確かにコピーは少ないわな」

「言いにくい事をはっきり言うねぇ。この型はMの方が人気だったがね」

「まあ、俺にはどっちも同じだけどな。で、どうなのよ」

「期待を裏切って悪いな・・・F4だよ」アルピナの型式だ。

「へぇー、本物かぁ。この手で白は珍しいな」この男、相当アルピナに詳しい。

「ところで、おたくは、ここの縁者かぁ?」話を変えてきた。

「いいや、訳ありってやつさ。来たくも無かった」京助はこいつの横柄なものの言い方に、益々敵対心が芽生えるのだった。そんな事はお構いなしに、この男はずけずけと、尚も言う。

「ほう、あかの他人か。なら、気も楽だな。高みの見物ってとこか」

 京助には、この男の言っている事が理解できなかった。

「今から何が始まるんだ? まるで何かの儀式みたいだな」思った事を聞いてみる。

「その通り、儀式だよ。それも、とんでもない儀式だ。あんたらのような者には、到底解らないだろうがな」それが何なのか聞こうとした時だった。

「与一さん、根岸与一さん。物見衆の皆さんがお呼びで御座います」

「ああ、わかった。すぐに行く」そう言うと、面倒くさそうに呼ばれた方へと歩き始めた。

(ムナクソ悪い野郎だ)京助の右手が強く握りこぶしを作った。

(一体、あいつは何者なんだ)

「あのー、あめ、えーと」背後から呼ばれた。先程の、岸部と云うものだった。

「雨宮です。雨宮京助」振り向きながら答える。

「あ、すいません。あ・め・みやさんでしたねえ。ささ、どうぞ屋敷のほうへ」

 何かのついでだったのだろう、男の落ち着きのない仕草が、急ぎの用が他にあることを示している。

「気遣いは無用です。少々荷物があるものですから、後ほど伺います。そこの正面玄関からで良いのですか?それとも、裏口の方が」こんな時は必ず裏口と相場は決まっている。京助は百も承知していた。

「はい。今、取り込んどるもんで、申し訳ないんですが、裏口の方からお願いします」やはり、思った通りだった。

(それにしても何だ、この物々しさは)自然と眉間にしわが寄る。

「で、裏口はどこから?」

「そこの玄関脇を、そうそう、右側ですけん。そこんところを、奥へ入ったとこに引き戸が有るんで、そこが裏口になります」

 玄関脇の両側にかがり火が焚かれ、その周りで数人の男達が忙しく動き回っている。その右方向に、母屋と、竹で編まれた垣根の間に、奥へと続く路地のような道らしきものが、此処からでも見えた。

「私はまだ仕事があるんで、これで」そう言うと、深々と頭を下げ、一目散に屋敷の方へと走り去る岸部だった。

「忙しい男だな」高揚している神経をなだめる様に、大きく息を吸うと、静かにゆっくりと吐いた。そして、持前の好奇心よろしく、目に映る物を観察するのである。

 一通り見回した後、枯山水のような庭に呆れながら、溜息をひとつ吐く。

(気になるな、あいつは何を言ってたんだ)先程の、与一の言葉が妙に引っ掛かる。

(まあ、そのうち分かるだろう)そう思いながら、アルピナの後部座席に詰め込まれた荷物と、信玄餅の入った土産袋を引きずり出し、暗がりの広がる裏口へと向かった。

 丸みを帯びた白い玉石が敷き詰められた庭先に出ると、大きな大理石の飛び石が玄関先へと続いている。その途中で右に折れ、母屋と竹垣の間を左奥へと進んだ。

 暫く進むと、先の左手に明かりが見える。引き戸が開いていた。

(ここのことか)荷物を抱え直すと、その裏口に向かって声を掛けた。

「こんばんわ」少しだけ張った声にも係わらず、中の喧騒に負けているのだろう、誰一人気付かないようだ。

 仕方なく、もう一度声を掛けようと、裏口を覗き込んだ時だった。京助の目の前に何かが飛び込んで来た。

 持ち前の反射神経で、するりと(かわ)すと、飛び込んで来たその物体が、鈍い音と共に、京助の足元へと倒れ込む。

ガゴン!

「あん、ゲエ・・・うう・・・うううん!」

 その、おかしなうめき声で、倒れ込んだ物体が人だと分かった。

「大丈夫・・・ですか?」心配して声を掛けると、倒れた人物は、両手でおでこの辺りを押さえながら、立ち上がろうとしている。

裏口の引き戸から、体半分、勢いよく外へと飛び出した格好の、その者の姿は、外の暗がりのせいで、上半身が良く見えなかった。

京助が手を貸そうと、しゃがみかけた時だった。その者が、いきなり上半身を起こした。京助の顎が、その起き上がった人物の後頭部と、激しくクラッシュした。後ろ向きで飛ばされた体が、竹垣の餌食となり、案山子(かかし)のようにぶら下がっている。

思いもよらず、後頭部に一撃を食らってしまった人物は、おでこも押さえ、後ろも押さえで、苦悶しながら、その場にもう一度倒れ込んだ。

その様子を洗い場で見ていた美佐江が、慌てて裏口へと駆けつけたのだが、あまりにもベタなコントを見たようで、思わず笑ってしまうのだった。

「あっははは・・・大丈夫かえ、そちらさんも」一応、京助の様子も気に掛けてくれたらしい。

 美佐江の笑い声で、その場にいた者達が、何事が起ったのかと慌てて駆け寄ってきた。

「圭ちゃん大丈夫? ほら、立てる?」一人の女性が抱き起すと、情けない格好で起き上がる圭子だった。

「まったく、あんたは、考えなしで飛び出すもんで。気を付けんといかんよ」

 美佐江に言われた圭子は、おでこと頭の後ろを押さえながら、

「だって、人が居るなんて思わなかったもん」そう言うと、何処のどいつだと云う顔をして、暗がりの中へと目を凝らす。

 すると、細めた目の先に見つけた物は、信玄餅の入った紙袋だった。と、云うことは、そこの暗がりで、竹垣に案山子のようにぶら下がっている奴は。

「京助、あんた何してんのよ! ばっかじゃない」圭子の声が、ヒステリックに響いた。

 その声で、我に返った京助は、自分が今置かれている状況を、即座に理解するのだった。

「痛ってえ・・・何なんだよ、いきなり」顎を押さえながら、竹垣から体を離すと、体裁悪そうに身なりを直し、周りの人達にペコリと頭を下げ、

「とんだ挨拶になりました。わたくし、雨宮京助と言います。夜分にお騒がせいたしました」一通りの挨拶をするのだった。

「何カッコ付けてんのよう。入るなら入るで、声ぐらい掛けてよね。もう!」

 怒り心頭の圭子の声に、周りを取り巻く女性陣から、その場でさらし者にされた京助だった。

 既に、声を掛けた事など、言い訳のネタにしかならないだろう。

「おいおい圭子。勇ましいな、何事が起こった」たまらず幸三が声を掛けた。

「そうですよ。皆さんもお出でなのだから、いい加減になさいよ」美佐江も嗜める。

「そんな所におらんで、中に入りなさいよ」見かねた幸三が、助け舟をだした。

「では、失礼します」もう一度、頭を下げると、京助は荷物を抱え込み、中へと入る。眼光鋭いこの男が圭子の父親であることは、すぐに分かった。

 その様子を、上がり間で見ていた彰子が、圭子に向かって尋ねた。

「その方は圭ちゃんの、ええ人かえ?」その言葉に、この場に居た全員の視線が、再び京助に注がれる。当の本人は、きょとんとしながら、その場に立ち竦んでいた。

「ちょっとお。冗談はやめてよねぇ、そんな訳ないじゃん。ただのアシスタントだよ」

「あらあら、それはごめんなさいね。ただ、ええ感じだったもんでねえ」

 屈託なく微笑みながら、彰子は、二人に目を向けている。

 驚いたのは京助だ。いつから、こいつのアシスタントになったんだと言う顔をしながら、信じられん事を言う女だと思い、まじまじと圭子の顔を覗き込んだ。

「まあまあ、それはご苦労さまです。圭子の母で御座います、お疲れになったでしょう。ささ、お上がり下さいな。今、お茶を御持ちしますけん」美佐江が労いながら、皆が座る上がり間の隅に案内する。その丁寧な接待に感服しながら、一体、誰に似たんだあいつは、と、思うのだった。

 ひょんな事から、葛城の重鎮たちが居並ぶ、上がり間の末席に座る事となった京助だったが、この場に座る者達の只ならぬ気配に、一人圧倒されていた。何かしらの、とてつもない力を感じるのだ。特に、中程に座る和服を着た女性。

先程、(ええ人かえ?)と尋ねた人物だ。着物の上から、辻が花のような羽織を纏い、長い髪を後ろで結ぶ彼女から発せられる気は、とても常人とは思えないほどの波動を感じる。もし、もしもだが、白狐が人間の女に化けたなら、このような顔立ちになるのでは、と、感じさせるほどの妖艶さをも漂わせていた。

 すると、その女性が、おもむろに立ち上がり、すすーと、京助の隣に席を代え座ったのだった。

「お初ですな。葛城彰子と申します。よろしゅうに」

 突然の彼女の行動に驚きながらも、何故か胸の辺りが熱くなり、脈打つ鼓動も、聞こえてしまいそうな程高鳴った。何処か懐かしさを感じながら、まるで

心が、柔らかな雲に包まれたようで、京助の顔は自然と穏やかになるのだった。

「雨宮・・・京助どのと言いましたか。はるばる御苦労様でした。随分山の中で、さぞや驚かれたでしょう」そう言いながら、美佐江が持ち運んだ湯呑を受け取ると、その茶を京助に手渡す。

 受け取った茶を一口飲むと、満を持して尋ねた。

「何やら賑やかですが・・・いえ、聞くなと言うなら聞きはしませんが」

「ほほう。やはり、あんたさんは賢い。それだけではありませんな。なんぞ、訳ありの御人かとお見受けしますが、まあ、それこそ聞くなと言えば聞きはしませぬが」・・・ずばり。

 京助は、全身の神経を鷲づかみされた如くに、身震いした。

(この人には、嘘や隠し事は一切通じない)

「何もありませんよ。私は只のアシスタントですから」分かっていながら、とぼけて見せた。すると、すすーっと彰子が近づき、京助の顔近くまで来ると、静かな口調で言うのだった。

「通じませぬなぁ・・・まあ、よろし、そう云う事に。さてと、何処からお話し致しましょうか」そう言うと、ここに至る経緯を話して聞かせるのだった。

「はあ・・・そう云う事でしたか。にわかには信じられん事ですが、有りっちゃ、有りですか。目に映る物だけが真実とは限りませんからねえ」湯呑を掴むと、ふたくち、みくちと、茶をすすった。

 その落ち着き払った京助の仕草に感嘆しながら、彰子が言う。

「やはり、驚きもしませぬか・・・あんたさんを包み込んでいる光の束が、幾つもの修羅場をくぐって来た事を訴えておる様で、それも、ここ半年位から」

 またしても見抜かれた・・・

 そんなやり取りを遠巻きに見ていた圭子が、二人に近づいて来た。

「ねえ、何はなしてんの。彰子ねえちゃんも、変なこと言わないでよ」

「はいはい。では、退散しましょ」すっと立ち上がると、元の場所へと座り直すのだった。

「何の話、してたのさ」物凄く気になるらしい。彰子を追い出した席にドカっと座ると、嫌~な尋問が始まる。やれやれと思いながら、盆に入った菓子をひとつ、摘まんだ。

「皆様方! 御仕度が出来たそうなんで、大広間の方へお出で下さいませ」

 声を張り上げ、岸部が皆に知らせた。

 待っていたぞと言わんばかりに、全員揃って、何やら支度が整ったと云う大広間に向かって行く。

 御一行様の様子を横目でみながら、又ひとつ、菓子を摘まむ京助だった。

 あいつ・・・そう、与一とか云う奴の言う通り、あかの他人である者には、何ら係わりの無い事なのだ。

 少し遅れて美佐江と圭子も続いた。残された京助は正座から足を崩し、あぐらをかくと、奥の台所へと視線を向けた。

 手伝いの女だろう、一人こちらを向きながら立っている。直ぐに声を掛ける。

「すいません。茶を頂けますか」すると、その女が慌てた様子で、

「あ、はい。今お持ちします」慣れた運びで茶の湯の準備を始めるのだった。

全てが整った大広間では、葛城一族揃って座り、その前方に二つ坂の物見衆、そして、上座の祈祷処に、事の全てを任された二つ坂の長、根岸与一が鎮座した。

 白装束に着替えた与一が、護摩焚きの準備が出来た事を皆に伝えると、始まりの合図を送る。

「皆、祈りは同じ。では、始まりといたします」

 儀式に(のっと)り、重ねられた護摩木に油が注がれると、柔らかな炎が上がる。

いよいよ、いつ終わるとも知れない戦いが、今、此処に始まった。

 葛城彰子に、今回の事象について大筋は聞いたものの、京助の頭の中は未だ半信半疑の渦がグルグルと巻いている。

確かに兄、恭二が残した起こり得るで在ろう、数多の事象についてのレポートの中に、{留まる死念は時を知らず}と、出て来てはいる。要は、そこで起こった残存死念にまつわる事象は、過去も未来も含め、時間と云う概念には(とら)われず、その場に留まり漂うと云う事なのだろう。

 しかし・・・もしも、何らかの残された死念がその場に漂っていたとしても、そんな簡単に姿を変える事が出来てしまうのか・・・まして、龍に成ったと言う。ひと飲みでは理解しがたい事象だ。おまけに、そいつが祟りのように人の体に形として現すとは・・・

 京助は、かって経験したこと事の無いこの事象について、異常な興味が湧くと共に、恐怖も感じていたのだった。

「あの~、お待たせしました」真剣な顔つきだったのだろう、申し訳なさそうに、先程の女が茶を持ち京助の前に立っていた。それに気付くと、背を正し、にこりと微笑みながら、その女が持ち運んだ盆の上から、茶の入った湯呑を受け取った。すると、その女が、

「大広間の方には行かなくても宜しいんですか?」胸の前で抱えた盆をぎゅっと握り、少し下がりながら細い声で言った。

「ええ、いいんです。アシスタントで着いて来ただけですから」そう言うと、手にした湯呑の茶を一口すすった。

先程も感じたのだが、さすが茶処、甘味と渋みのバランスがこのうえなく絶妙で・・・勿論入れ方もあるのだろうが、後から広がる茶葉の香ばしい香りが、含んだ口中から鼻に抜けると、何とも言えず心が和むのだった。またひとつ、菓子を頬張った。

 その様子をうれしそうに見ながら、女は一礼すると台所の奥の暗がりへと、

消えて行った。

 軽い疲労感が目の奥を刺激する。睡魔の言いなりとなった瞼がゆっくりと閉じてゆく、と、京助は眠りに落ちた。

 どれ位経ったのだろうか、壁にもたれた背が少しの痛みを感じ、目が覚めた。

 時を同じくして、奥の大広間からだろう、がやがやと騒がしい声が聞こえる。

その声は、やがて京助の居る台所の上がり間へと近づいて来るのだった。

「ささ、御膳を並べんと。休みに入った者から食べて貰うようにせんとな」

先程まで此処の台所で夕げの支度をしていた女達だ。その中で、リーダー格なのだろう一人の女が、きめ細かにあれやこれやと手際良く指示をしている。

その指図通りに他の女達が、小気味良く御膳を並べてゆくのだった。

上がり間の隅っこで、一人小さくなっている京助を目ざとく見つけた女が、

御膳をひとつ抱えると、その隅っこの、くたびれた中年男の所まで運んできた。

「さあ、どうぞ召し上がって下さいな」言うなり両手を下げ、目の前に置いた。

 朱塗りの御膳が京助の前に鎮座する。その中身たるや、くたびれた男の食欲をそそる見事な物だった。

 菜の浸し物、小芋と人参と蒟蒻(こんにゃく)の炊き合わせに、こんがりと焼かれた白身の魚、多分、石持(いしもち)だろう。それと、鶏肉のフライ、牛肉と牛蒡(ごぼう)の甘辛煮等など、多彩な

食材で溢れ、もち米で炊かれたおこわには、ほんのり醤油の香ばしい匂いがしている。たまらず箸を付けたのは言うまでもない。

 ゆっくりと味わいながら、今日一日で初めてのんびりと食事が出来たと、満足するのだった。

「中の具はお揚げと湯葉です。湯葉は汲み上げです」そう言いながら、先程茶を入れてくれた女が味噌汁を持ってきた。

 ペコリと頭を下げ、その味噌汁のお椀を受け取り、御膳の横へ置くと、

「おねえさんは、ここの身内の人じゃあ無いね」女に向かって唐突に尋ねた。

 いきなり言われて面食らったのか、女がその場に立ち竦んだ。

「さっきから気になっていたんだけど・・・ここの女性陣達と、あまり話もしていない様だし、何処かよそよそしく感じたんでね。違うかな?」女の反応を伺うように、視線を定めた。

 言われた女は下を向くと、自らの両手を絡ませながら恥ずかしそうに頷いた。

 彼女にして見れば、そんな風に観察されていた事が、恥ずかしいやら、少し嬉しいやらで、言葉がすぐに出て来ない。それでもやっとなのだろう、へたしたら周りの喧騒にかき消されてしまいそうな、小さな声で答えるのだった。

「はい。月夜野の人間ではありません。此処から北へ行った処の、二つ坂と言う地区から来た者です。古い時代からこの葛城家とは縁が有るそうで、詳しくは分かりませんが」そう言うと、京助の方を見ながら後ずさりした。

 この女の素振りが、何となく気になり出す。と、京助の悪い癖が始まった。人一倍の好奇心は時に我を見失う。右の眉をピクリと持ち上げると、

「その縁と云うのが気になるねえ。今、大広間ってとこで葛城さん達とは別に、何やらごちゃごちゃとやってる連中とは、御仲間ですか?」気になった事をズバリ聞いてみた。すると・・・

「物見衆の事でしょうか? はい・・・あの人達も、二つ坂です」

「へえー。じゃあ、おねえさんも事の成り行きってのは、御存知で?」

「・・・少し・・・」この事については話たくない様だ。察した京助が話題を変える。

「では、今、大広間で儀式とやらの中心に居る人物は、知っている人ですか?」

「祈祷している人ですか?」女がおどけたように、京助を見た。

「ええ、確か・・・根岸とか」

「根岸与一ですか・・・与一は、私の兄です」京助は驚きのあまり、思わず後ろの壁にのけぞった。

 無理はない、似ても似つかない風貌なのだから。整った細見の顔からは、あの与一のような陰険さは微塵も感じられない。それどころか、少しおっとりとした感じは、不思議と安心感を抱かせる。とても妹とは思えなかった。

 未だ信じられないと云う顔で、まじまじと目の前にいる女の顔を眺めていると、感じ取ったのか照れくさそうに女が言った。

「よく言われます。少しも似てないと。でも、実の兄なんですよ」

「いえいえ、そんなつもりでは・・・しかし驚いたな、まさか妹さんとは」

 京助は聞くんじゃなかったと後悔する。何故なら、この世にまたひとつ謎が増えたからだ。

 そんなこんなで、彼女を質問攻めにしていると、支度の整った休み処が賑やかになり始めた。祈祷の途中ではあるが、何せ長丁場、大広間の連中は、代わる代わる休まねば心体が持たないのだろう。次々席に着くと、据えられた御膳を頬張るのだった。

 箸と茶碗が擦れ合う音の中、横の上がり間では、尚もしつこく聞き取り調査を行う京助の姿があった。

「では、与一さんの歳はいくつになるんですか?」

「今年、四十二になったかと。厄年だと言ってましたから」それを聞いた京助がおどけた仕草を見せた。

「えー! じゃあ、俺と同じ歳だねえ」てっきり、自分より年上だと勝手に思い込んでいた。悔しいが、それ程どっしりと落ち着いて見えたからだ。

(わからんもんだ)・・・つくづく思うのだった。

(確か・・・圭子の姉の旦那も同じ歳と言っていたな)単なる偶然だろうが、此処に厄年の男が三人。思わず、にやりと笑う。では、この女、与一の妹はいくつになるのだろうか、さすがに面と向かって聞けはしないだろう。そう心の中で思った。すると、

「十、離れているんです。三十二になります」聞きもしないのに答えたのだ。

 まるで京助が質問したが如くに。だが、言葉にはしていない。女は一瞬、

(しまった)と云うような顔をして横を向くと、

「いえ、多分聞かれるだろうと思って」何処か言い訳がましく聞こえた。

 察しが良すぎる反応に、もしやこの女、特別な力の持ち主かもしれない。

京助の眉がピクリと上がる。素早く立ち上がると、その場に立ち竦む女の所まで行き、おもむろに顔を覗き込む。

この男の突然の行動に驚き慌てた女が、視線を避けるように、横に向けた顔を更に伏せながら、少し後ずさった。

「何・・・何ですか?」そう言い放つと、眉間に寄せたしわが、目前の男の行動を非難しているが如くに、深く刻まれた。

「おねえさん、普通じゃあないよ。瞳の中が空っぽじゃないか」覗いた京助が驚いた。その言葉通り、普通、瞳の奥には幾つもの残影が記憶され、それが編み込まれた糸のように盛り上がって見える筈なのだが、この女の瞳の中には・・・それが無い。

特別な力を持ってしまった京助にも、どう云う事なのか理解できなかった。しかし、この事は、後にとんでもない事象として現れるのだが、今の二人には気付く筈もなかった。

「そんな、いきなり何を言い出すんですか。空っぽとか、一体何なんですか」

唐突に言われた女が、今にも泣き出しそうな顔でそう言うと、くるりと背を向け、足早に裏口から出て行ってしまった。

 少しやり過ぎた事を後悔しながら、元の席に戻り座り直すのだが、やはり気になるのだろう、斜め横にした顔が、苦手な数学の問題に出くわしたように、むずかしい表情に変化している。

「誰かが、何かした」頬杖を着きながら、独り言った。

 考え込む京助の記憶の螺旋が、ある記述を思い出させていた。兄、恭二の書き残した超古代書の、解読文に出てくる邪馬台国の霊主、久比里(くびり)なる者が口伝したと云う物だった。この久比里と言う者、卑弥呼亡き後の国を引き継ぐのだが、先の国王卑弥呼程の力は無かった。しかし、この者の過去を読む力は相当なものだったらしい。

 その久比里が言う。卑弥呼族が邪馬台国を完全統治する以前、この国は龍族なる者達が支配していた。その国の名は、くしくも邪龍推(やまたい)(こく)と呼ばれた。

 この者たちが使う言葉の中に、特殊な発音の言葉があったと云う。その言葉こそ、今、まさに京助が好むと好まざる関係なく、背負わされた力の事なのだ。

(うら)(こと)(たま)(いにしえ)より時の神官によって封印されし、破壊の言霊。

ひとたび発すれば、邪悪をまとった巨大な龍となって、敵とされた者達に容赦なく襲い掛り、全てを滅ぼす。歴史上最悪な代物。勿論、全ての者が使えた訳ではない。邪悪な精神が強ければ強い程、言霊の龍は巨大化する。しかし、それが反対なら、この龍は邪悪を喰らい、この世を浄化するのだ。

後者はまさしく、卑弥呼が受け継いだ力だった。そして、時は恐ろしく流れ、何の因果か、卑弥呼の遺言として京助が受け継ぐ事となった。更に、この裏言の霊は八つ有り、五つは封印され、今、京助の左手に在る。

残り三つは、行方知らずらしい。何といい加減な事か。だから、疑う。

此の地に現れた龍が、もしかしたら裏言の龍ではないかと。そんな事になったら、とんでもない事になるだろう。此の地は全て地図から消え去ってしまう。

京助の額に嫌な脂汗が滲んだ。

「やっぱり、来るんじゃなかった。まあ、きっと此の地にも、何とかする奴らがいるんだろうけど」腕組みをしたまま壁にもたれ、静かに目を閉じた。

隣では相変わらず、入れ替わり立ち代わり、忙しなく人の動きが感じられる。

既に時は真夜中を過ぎ、開け放たれた裏戸の向こうは、白々とした朝の気配が漂い始めていた。

 京助の頭の中に何かが閃いた。すっと立ち上がり、土間に脱いだ靴を突っ掛け、トントンとつま先で蹴りながら、まだ薄暗い外へと裏口から出た。

 表の庭先まで来ると、先程出て行った女の姿を探す。

 玄関前の焚かれたかがり火に照らされて、数人の男達に交じり、その女が、抱え込んだ薪の束を運ぶ姿が見て取れた。

 急ぎ近づくと、近寄る気配をわざと感じさせながら、少し斜め後ろから静かに声を掛けた。

「さっきは、すまなかった。悪い冗談さ・・・許して貰えないかな」そう言うと、ペコリと頭を下げた。

 気配は感じていたものの、突然言われた女は予想外に驚いたのだろう、抱えていた薪をその場にバラバラと落としてしまった。

慌てて(かが)み、腕からこぼれ落ちた薪を拾いながら、こうなった事に非難する視線を京助に投げた。

まともに睨まれた京助は、急いで足元に散らばった薪を拾い、それを手渡しながら、もう一度頭を下げるのだった。

「そんな事を言いに来たんですか。もう気にしてませんから」女はそう言うと、

手渡された薪を受け取り、足早に此の場を離れようとするのだが、焦っているのだろう、抱え方の悪い薪が、またまた女のあまい脇からこぼれ落ちた。

「あ!」と、云う顔をしながら再び屈むと、足元のひとつを掴んだ。と、同時に、京助もそのひとつを掴んでいたのだった。

 二人立ち上がると、目と目が合った。京助は照れくさそうに頭を掻きながら、にこりと微笑むと、掴んでいる薪の手をゆっくりと放した。

 その仕草に好感を持ったのだろうか、薪を受け取った女も微笑むのだった。

 薪運びを手伝いながら、京助お得意の人間観察に入る。

ここまで来ると、最早、悪趣味に近い。

 身長は圭子と同じ位、160近くか。圭子より少しだけふくよかなスタイルだが、決して太っていると云う訳では無い。パツンと張ったスリムなジーパンは、腰のあたりで綺麗にくびれ、インした白い七分袖のTシャツが、そのくびれの上から細見の黒いベルトで絞められていた。ふっくらと持ち上がった胸が、彼女のスタイルと嫌味なくマッチしている。つまり、ナイスなボディなのだ。

 肩よりほんの少し上でカットされた髪は、色白の顔立ちと、ぷくりとした唇に良く似合っていた。しかし・・・どこか寂しげな雰囲気と線の細さが、京助の心を何故か締め付けるのだった。

「雨宮京助といいます」今更とは思ったが。

「きみこ・・・根岸君子と言います」はにかみながら答えた彼女の表情が、まるで少女のように赤らんでいた。

 きめ細かい仕草といい、物腰の柔らかさといい、あの尖った圭子とは大違いだ。とても同じ歳とは思えない。まるで、大人と子供位の差がある。と、京助の観察日記は締めくくられた。ただ、何故、圭子と比べるのかは、京助も気付いてはいない。

 どんよりと曇った空が、朝の光を拒んでいる。この広い屋敷の中に漂う、重苦しい閉塞感が、只ならぬ事態を呼び込んだ元凶を探そうと、もがいているようだった。その闇は、忙しなく動き回る男達の足元に、影さえも映さない。

「やけに静かになったけど」

 母屋を振り向き、京助が呟いた。先程まで、祈祷しているであろう屋敷の中の恐ろしく張りつめた覇気が、此の場所にまでも確実な緊張感を持って届けられていたのだが・・・

「多分、祝詞替(のりとが)えだと思います」同じように振り返りながら、君子が言った。

「祝詞・・・替え?」初めて聞く言葉に首を傾げながら、尋ねるように君子の

顔を覗き込んだ。

「ええ・・・長引く祈祷は神経、精神、肉体までも、細かく切り刻んでゆくんです。常人を遥かに超える法力を持つ兄でも、流石に一人では・・・」

「何と・・そうなんだ。じゃあ、誰と代わると云うのかな? そんな凄い法力の持ち主である兄さんと、代われる人なんて居るのかい?」

「はい。兄と同じ頃から、修行に入った物見衆の頭だと思います。その人の力は、互角だと兄から聞いた事が」 そう言うと、照れくさそうに視線を外した。

(ははーん。この女、その物見衆の頭と云う奴に、特別な感情を抱いているのか・・・そう云う事か)

「いえ・・・そんなつもりは」間髪入れず君子が否定する。が、それとは裏腹に、両頬が真っ赤になっていた。

「やれやれ、また覗かれちまったねえ」またしても心を読まれた事に、困惑を隠せない京助だった。

(しかし・・・此の月夜野とか、二つ坂とか。ここの連中は一体何なんだ)

 京助の頭の中は、疑問符で一杯になっていた。意を決し、駄目元でこの女、君子に尋ねてみることにする。

「伺いたいんだけど、君子さんの兄、与一さんの力って、どんなものかな?」

 すると、京助の思い込みとは裏腹に、すんなりと答えが返って来た。

「兄は、その土地に隠されている悪因縁や、人の恨み、憎しみと云うその場に残され、漂う念を滅する力があるんです」先程までの表情とは違い、真剣な眼差しで、京助を見つめながら言った。

「・・・」京助は黙って小さく頷いた。

「あ・・・ごめんなさい。こんな事、信じられませんよね・・・でも、京助さんも何だか、こっち側の人のような気がしたものですから・・・つい」

(成る程、そう云う事か)

 京助は理解した。つまり、与一の力は今現在、生きてこの世に存在する人間の、悪しき念の抹殺。ある古い神道が書かれた文献に出てくる、かなり過激な呪術。

 その場に残された念・・・京助と同じような立場の人間なのか、いいや違う。決定的に違う。

「残留思念・・・かあ」呟やいた。

「え、それって・・・何です?」不思議そうな顔で君子が尋ねた。

「聞いたことあるでしょ。例えば・・・あるサラリーマンが商談に行く途中、喉の渇きをおぼえた。しかし、約束の時間に遅れそうなので、喉の渇きを潤す暇がない。

足早で向かっていると、自動販売機を見つけた。その中の飲み物の一つが、このサラリーマンの目に止まる。コーラだ。彼は迷う、飲んで行こうか、しかし、時間が無い。大好物のコーラを目の前にして、これ程残酷な事はないだろう。諦めきれずにいた。それでも彼は、コーラを振り切った。

暫くして、この自動販売機の前を、一人の若者が通りかかった。それまでは何も感じなかったのだが、突然、喉の渇きに襲われる。目の前の販売機を見つめると、何の躊躇いも無くコーラを買い、その場で一気に飲み干した。そう、飲みたくても飲めなかったサラリーマンの強い思いが、この場に漂い、後に来た若者に絡みついた。この未練たらしい念の事を、残留思念と呼ぶのさ」

 ある意味、こっちの方が怖い事も有る。

「ただ・・・それだけじゃあないよね。与一さんの力ってやつは」京助の、好奇心の好奇針がマックスを示す。

 尋ねられた君子は、困惑しながらも頷くと、

「私もそれ以上の事は解りかねます。けど・・・父は恐れていました」そう言う女のうつむいた顔が、寂しそうな表情に変わった。

 他人には分からない親子の確執、きっとそう云う事なのだろう。

 早くに両親を亡くした京助は、兄、恭二と共に、幼くして叔母の家に引き取られた。元々が子供に恵まれなかった叔母にとって、この幼い二人の男の子は、実の子供のように思えたのだろう。

連れ添いの旦那も、それはそれは可愛がってくれた。しかし、無頓着に甘えた京助と違い、恭二は確かに遠慮を見せた。

 恭二が中学生のときだった。進路を決める三者面談で、就職を希望した恭二が家に帰ると、その報告を叔母から聞いた叔父が、恭二を呼び理由を尋ねる。すると、これ以上の迷惑は掛けられないと言い放った恭二の頬を、おもいっきり引っ叩いたのである。その目には、薄っすらと涙が光っていたことを覚えている。多分、迷惑と言う言葉がこの叔父にとって、とても悲しかったのだろう。   そんな事があってから、この二人はお互い向き合う事はなかった。その後、進学するのだが。

 その叔父も、叔母も、もうこの世にはいない。

(嫌なことを思い出したもんだ)この世で、血縁者がいない寂しさを、改めて強く感じたのだった。

 気を取り直し、今度は物見衆とやらの事を尋ねる。すると、この者達には、トップシークレットが掛っているようで、どんな力を保持しているのか君子にも解らないと言う・・・ただ、その中で(かしら)となる人物はまだ歳も若いのだが、

兄、与一の信頼も厚いとのことだった。

 京助から好奇な視線を向けられていた君子だったが、今度は逆に尋ねてきた。

「先程から私の突拍子もない話を、驚きもしないで聞いていますが、どうしてです? それに、本当のお仕事は何をなさってるんですか。アシスタントと言うのは違いますよね」

 京助から発せられる何かを、感じ取っているのだろう。

「いえ・・・大した事はしてませんよ。ただの御祓い屋です」インチキ臭く答えた。

「じゃあ、兄と同じような?」

「とんでもない、そんな力はありません。真似事ですよ、真似事」

(まさか此処で、紀元前の話はできないだろう)

 何かを悟ったのだろうか、君子がそれ以上の追及を諦めてくれたようだ。

 京助は安堵した。暫しの沈黙の後、何か話掛けようとした君子の表情に、一瞬、緊張が走った。その視線の先を辿りながら、振り向いた京助の目の前に、

根岸与一が立っていた。

「よう、色男。今度は軟派かぁ?」

「兄さん! やめてよ」君子が窘めた。

 こいつの嫌味はマジで不愉快だ。少し右に傾けた顔を与一に向けると、京助はにやりと笑う。

「世の中ってやつは、面白いもんだねえ。神様も粋な事をする」

「そりゃあ、どう云う事だぁ?」与一も首を傾けながら、京助の言った言葉に反応する。

「あんたに似なくて、良かった」

「ははは・・・俺も、そう思う」京助の挑発にも動じる様子はない。が、

「手え出すんじゃあないぞぉ。こいつにゃあ、決まった奴が居るんでなあ」

「やめてよ! 何も・・・今ここで言う事ないでしょ」君子が照れくさそうに非難する。

 京助は両手を挙げ、おどけた仕草をして見せた。

「そんな事より、休まなくていいの?」君子は与一の体を気遣った。

「ああ、少し早めに上がったからな。大丈夫だ」

 心配する君子をよそに、与一の興味は、どうやら目の前の京助にあるようだ。

「なあ、あんた。ここの嬢ちゃんのお供で来たと聞いたんだが、やっぱり、マスコミ関係の人間かあ?」唐突に質問してくるのだった。

 京助は迷っていた・・・本当の処を言うべきか言わざるべきか。そして、

「いいや、マスコミとは全く関係ない。ここのお嬢ちゃんとは、ちょっとした知り合いでね。特別な関係でもないし、友人でもない。行きがかり上、ここまで来ただけさ。ただ・・・今回の事象には、少々興味はある」

 さあ、どう出る・・・与一!

「ほう、どんな興味だ・・・まあ、興味を持つのは勝手だが、余計な首は突っ込まない方がいいぞ。大怪我どころじゃあ済まないぜ、へたすりゃ命が幾つあっても足りないかもな。特に、好奇心旺盛なしろうとさんにゃあよ」言うと、顔を近づけ、にやりと笑った。

「しろうとさん・・・か。言ってくれるねえ、これでも与一さん、あんたとは商売敵かもしれないぜ」京助も、にやりと笑った。

「あっははは・・・やっぱりな、そんな事だろうとは思ったさ。でなけりゃぁ、とっくに小便ちびってらあ。俺の気、まともに受けても平気な面してやがる奴なんて、早々いないからな。ただもんじゃないな。お前、何もんだぁ?」

先程までの、とぼけた表情は既にそこには無い。目の前に立っているその男は、鋭い眼光で京助を睨みつける、一人の法力師の姿に変わっていた。

「兄さん! やめて。この人には関係ないでしょ」君子がたまらず割って入った。こうなると、与一は危険だ。

「君子さん、大丈夫ですよ。俺は何者でもない。さっきも言ったけど、ただの御祓い屋ですから、大した力も無いですよ」ここの所は、おとなしく引き下がった方が良さそうだ。

 更に与一は、その眼光鋭いままに、京助を睨みつけると、

「まあ・・・いいだろう。だが、もう一度言うぞ、首は突っ込むな。いいな」

 言い放つと、くるりと背を向け、足早にその場を離れて行った。

「京助さん、ごめんなさい。昔から祈祷を始めると気が荒立つようで。でも、

普段はとっても優しい兄なんです」

「いいんですよ、別に気になどしてませんから。それより、こっちこそ済まなかったですね。おかしな具合になってしまって」

与一の力、少しだけ垣間見た気がする京助だった。

相変わらず低く垂れこめた雲が、重苦しい風を吹かせ始め、辺りの景色を徐々に変えてゆく。

背筋に走った嫌な感覚が、京助を身構えさせる。と、突如、屋敷の奥から、絶叫とも聞こえる叫び声が、この庭先まで響き渡った。

祈祷中の奥座敷大広間で、何事か起こったらしい。

暫くして、数人の男達が慌ただしく、屋敷の外へと飛び出してきた。どうやら人を抱えているようだ。その集団は、一目散で屋敷の東側に立っている離れへと運んで行った。

「一体、何があったんでしょう」その集団を目で追っていた君子が、不安げに呟いた。

「誰か、倒れたんじゃないかな。大事がなければいいんだが」京助にも、君子の抱いた不安が移る。

 暫く様子を伺っている京助の元に、彰子が小走りで近づいて来た。

「京助どの! すぐに私と、お出でなさい」目の前にするや否や、言い放った。

「え、何か・・・あったんですか?」嫌な感覚が再び京助の背中を走る。

「とにかく、早よう!」彰子は京助の手を取ると、半ば強引に離れへと向かうのだった。

 それを見て、どうしてよいのか分からないのだろう、焦る仕草で、君子も続いて二人の後を追った。

「どうしたって云うんです」京助は、小走りで進む彰子に今一度尋ねた。

「いいから、早ように」まっすぐに見つめた先の離れに着くと、すぐに人払いをし、入り込んだ入口の戸を閉めると鍵を掛けた。

 離れの戸口まで追いかけて来たのに、中へは入れて貰えなかった君子は、仕方なく母屋の台所へと帰るしかなかった。

 明かりのついた部屋の中程に布団が敷かれ、誰か横たわっているのが見える。

その(かたわ)らには、心配そうな顔をしながら、その横たわる人物を覗き込んでいる美佐江がいた。

「圭ちゃんが、倒れなさった・・・意識が無いのですよ」彰子が、不安気な表情で京助に囁いた。

「そんな、まさかあの小悪魔が・・・いえ、圭子さんが」とても信じられないと云う顔をしている京助を見ながら、彰子が続ける。

「二人目は・・・圭ちゃんやった」

「え、何です。何の事です?」意味が分からなかった。すると、傍らにいた美佐江が口を開いた。

「彰子さんから聞いとるとは思うけど、圭子にも出たんよ・・・祈祷中に突然苦しみだして、背中が熱い熱い言うもんで見てみると、鱗のような紋が出ておった」

 念の具現化・・・そんな事が本当に在るものなのか。しかし、現実として此処に在る。

「あのう・・・その、鱗のようなものと云うのを、見せて貰えませんか」

 意を決して、京助は頼んでみた。

「そのつもりで、あんたさんに来てもろうたんよ」そう言うと、美佐江は京助を手招きし、寝ている圭子の横へと呼んだのだった。

 彰子も手伝い、圭子の白いブラウスの背を、そろりと捲りあげた。

 京助は息を呑んだ。

 銀色に鈍く光る鱗状の物が、圭子の首から背骨に沿って、薄っすらと浮かび上がっていたのだ。最早、夢物語では、なくなった。

「信じられないな・・・こんな事が起きるなんて、完全に具現化してるじゃないか」

 相当苦しんだのだろう。意識の無いまま眠りについている圭子の顔が、苦痛に歪み、歯を食いしばっている口元が、硬く閉じられている。

(一体、圭子の体に何が起きているんだ・・・千二百年前、龍に成ったと云う修験者の死念だと?)京助は、頭を抱えた。

 三人三様で言葉も無く(ふさ)ぎこんでいると、誰かが外から戸を叩きながら、大声で叫んだ。

「奥さん、彰子さん、降りました! 竜神様が降りましたよう」

 岸部だった。張り裂けんばかりに、戸の外から叫んでいる。

「ついに、ついに来ましたか」ヒステリックな青い血管が、彰子の額に幾筋も浮かび上がり、吊り上がった両の目に覇気がほとばしっている。

 さっと(ひるがえ)した身は、既に表へと飛び出していた。

「京助どの! 圭ちゃんの事、よろしゅうに頼みましたよ」そう言放つと、脇目も振らず母屋へと走り去った。

 残された美佐江と京助は、お互いの顔を見合わせながら、溜息を吐いた。

 彰子が飛び込んだ奥座敷の大広間には、計り知れない緊張が、狂気な毒々しさを持って、各々に()し掛かっていた。

 先程、祝詞替えとなって人代わりした物見衆の頭、柘植(つげ)秋芳(あきよし)なる者の法力により、結界の張られた祈祷処と、皆の居る広間とでは、振動する空気がまるで違っていた。

結界の中は凄まじい霊圧か、それとも念圧が掛っているのだろう、秋芳の短い髪が今にも、全て吹き飛ばされてしまうのではないかと思われる程、目には見えない強烈な渦が巻いているようだ。

 がっしりと、印を結んだ両の手が、その渦の振動によって引き離されそうになっている。

 バチバチバチ! 逆撫でするような嫌な音と共に、秋芳の腕に巻かれた黒い数珠が、結界の中で弾けとんだ。周りを守護する物見衆の顔から血の気が引き、苦痛に歪み始める。

「こらえろ! 今、出してはならん」秋芳が叫ぶ。その言葉に合わせるが如く、物見衆の両手が今一度、印を強く結んだ。

 ぐらり・・・意識が飛ばされたのであろう、物見衆の一人が前のめりに倒れた。その、開いた隙間目掛け、ここぞとばかり、結界の念圧が襲い掛る・・・           と、ギュイーン!金属の擦れるような音がしたかと思うと、勢いに乗り、外に出ようとした念圧が、みるみる結界の中へと押し戻された。

 倒れた男の背後に影が在る。右手を突き出し、凄まじい形相で結界に向かって気を放つ、葛城彰子の姿だった。

「物見衆! ここが・・・踏ん張りどころぞ」彰子の激が飛んだ。

「誰か! 誰か見えんか? 何か見えた者はおらんか?」幸三が叫んでいる。とてつもない何かが、そこに居る。しかし、誰の目にも映ってはいない。

 結界の中の念圧が再び勢いを増し、大嵐のようになった。

 ずず、ずずー、ずず。気を送り続ける彰子の身体が、畳を踏ん張る両足を無視し、少しずつ下がり始めた。彰子の全身から凄まじい気が放出されているにも関わらず・・・押されてゆく。

「くう・・・持たぬか」上がってゆく念圧が彰子に向かった。

「御当主様!」数人の何者かが背後から支えた。

「すまぬな、皆の者」言うと、再び態を整える彰子だった。

 後ろで支える者達は、西方当主、葛城彰子に付き従う側人(そばにん)である。彼らもまた、力の持ち主。

「物見衆の頭とやら! これが・・・竜神かえ?」結界の中で強く印を結び、必死の形相でこの念圧を(おさ)え込んでいる男に向かって、彰子が叫ぶ。

「まさに・・・これぞ、まさに竜神!」喉から絞り出すような声で、結界の中の秋芳が答えた。

 護摩祈祷の炎が、真上の天井を焦がさんばかりに跳ね上がる。うねる火柱が時折、抑え込む秋芳に戦慄を持って襲い掛りながら、何かしらの姿を整い始めていた。

「抑ええ・・・皆の衆! 形にしてはならん・・・ならんぞ」

 秋芳の絶叫が、響く。

 真っ赤な炎が所々黒ずみ始め、次第に形を成してゆく。そして、禍々(まがまが)しさを身にまとった炎がついに、この場に居る皆の願いとは裏腹に、ひとつの形となって目の前に現れたのだった。

 ぎりぎりと喰いしばった口元から、秋芳が叫んだ。

「呼んでくだされぇ・・・与一殿を・・・早く! 持たぬ」小刻みに振動する上半身が、今にも張り裂けんばかりに波打っている。

「な、何をなさります・・・いけません・・・おやめくだされ!」

 彰子を支えている男達が必死の形相で、結界の中へと今にも飛び込もうとする主の行動を制止した。

「ええい・・・離せ、離さぬか! ままでは死ぬぞ。頭が死ぬぞ!」

 振り払おうとする両の手を、がっしりと掴んだ男達が、強引に彰子の体を祈祷処の結界から遠ざけた。

「口惜しい! 我の力、届かぬと云うか」ギリっと、彰子の歯ぎしりがこの場に響く。

「与一は・・・まだか!」幸三の雄叫びにも似た叫び声が、奥座敷大広間を突き抜け、(さえぎ)る襖を激しく揺らす。

 と、同時に、白い風が俊足を持って庭先を横切り、この場へと吹き込んだ。

 急を聞き、駆けつけた与一の姿だった。

「何と! 早すぎる・・・まだ、形にしてはならん。抑え込むぞ!」

 長の号令と共に、物見衆が今一度、体制を整える。

「誰か、倒れている者を外へ!」先に倒れ、意識を無くしている物見衆の一人が、外へと出された。

「この場は、私が努めましょう」彰子が言うと、無言で与一が頷いた。

 その間にも、半身(はんみ)、龍と成った炎の化身は、新たに張り巡らされた結界から抜け出そうと、とてつもない念圧であらがっている。

 与一、彰子を筆頭に、この場に居る全ての者達が、今、再び一つとなり、目の前で起こっているとんでもない事象に、立ち向かってゆくのだった。

 その頃、京助と美佐江は、離れのソファーに腰掛け話し込んでいた。

「向こうは大丈夫なんでしょうか?」京助は、神妙な面持ちで美佐江に尋ねた。

「あれだけの術者が居るんですから、何とかなると思いますよ」落ち着いた言葉に、不安が少し取れるようだ。

「それより、すまんでしたねぇ。こんな処に来させてしまって、多分、圭子のわがままだとは思いますけんね」自分達の事情に、他人を巻き込んでしまったことを詫びるのだった。

「いえ、圭子さんも一人では不安だったんでしょう。僕は構わんですよ」

 気遣われるのは、苦手である。

「お茶でも入れましょうかねぇ」そう言うと、ここの離れにある台所へと湯を沸かしに行く美佐江だった。

 古民家を改築したのだろう。所々、今風に手が入れられ、落ち着いた空間に仕上げられている。

 突然、ひょっこり立ち上がった京助が、何を思ったのか、意識を失い横になっている圭子の傍らに座った。

 暫く圭子の顔を覗き込んでいたのだが、おもむろに左手を圭子の顔に近づけると、その頬をいきなり突っついた。

「なーに寝ちゃってるの、らしくないねぇー。やっぱり日頃の行いが出たんじゃないのぉ」そう呟くと、また、指先でツンツンと突くのだった。

 まさかとは思うが、日頃の恨みだろうか?

「お茶が入りましたよ」その言葉で我に返ると、慌てて居間に戻り、ソファーに腰を下ろした。

「まだ、目は覚めんでしょ」入れたばかりのお茶を手渡すと、残念そうに美佐江が京助の顔を見ながら呟くのだった。

「里美・・・ちゃん、でしたっけ。やっぱり、同じように?」

「ええ、でも圭子のように、いきなりじゃないんですよ。最初は熱が続いて、それからでしたんよ」

 今の時点では、まるで分からない事象に、京助は理解しようとする事をやめた。多分、頭で考える事など、この情報量では無意味なんだろうと思えたからだ。事の全ては成り行き、今までもそうだった。好むと好まざるに関係なく、事の成り行きと云うものに翻弄されて来たのだから。今までも、そして、これからも。直感で動く京助にとって、この生き方が楽なのだろう。

 直感と言えば気になる事が有る。あの根岸与一の妹、君子の事だ。彼女の目の奥を空っぽにした理由。まるで何かの入れ物にしようとしたように、見事にがらんどうだった。もし、圧縮された念を閉じ込めるとしたら、膨大な量のエネルギーが入るであろう空間が出来ている・・・元々なのか、それとも。

 もしも、何者かが、故意に造り出した物なら、相当な力を持つ者。それも、かなり・・・やばい奴。与一か? その可能性が一番高いのだが、確かめる方法が無い。

「京助さん、どないしました? 怖い顔なさって」傾げた美佐江の顔が、京助の視線を現実に引き戻した。目の前で心配そうに覗き込んでいる。

「ああ・・・何でもないですよ。昨日から色んな事が起きるんで、戸惑っちゃいますよ」

「そうでしょうねぇ。起きている事が、あまりにも現実離れしとるもんですからねぇ」そう言うと、美佐江は対面のソファーに深く腰を下した。そして、静かに話し始める。

「この特別な土地柄でしょうかねぇ。いつの頃からか、常人には無い力を持った子供達が生まれてくるようになったと、言われて居るんですよ。その力は、子々孫々まで脈々と受け継がれ、今日まで来ているのだと、先代が言うとりました。残念ながら私らには、授けて貰えなんだ様ですが・・・特に隠れ里と呼ばれる二つ坂に多く見られたそうですなぁ。里美の叔母に当たる彰子さんの御先祖さんにも、二つ坂から葛城に嫁いだお人が居ると聞いとります」

 ひとつ、溜息をつくと、ポットの湯を急須に注ぎ、軽く両手を添えて何度か回した。

「そうですか・・・」黙って聞いていた京助だったが、手の中の茶を飲み干すと、今、話してくれた美佐江の顔をじっと見つめ、

「では、その力と云うのは、一体どのようなものなんでしょうか?」神妙な顔で尋ねるのだった。

「色々とあるようで、私らにはよく分からんですが・・・ただ、二つ坂の衆は、気功師が多く、それで生業を立てる者も数居るそうで。町に下りて開業する者も居りますけん」

「他には、どんな・・・例えば、人の心の内を読めるとか?」

「さあ・・・これは主人から聞いた事で、実際には見た事も会った事もないんですがね、相手の言葉を奪うことが出来る者も居ると言いますよ」

 何と・・・最後に美佐江が言った事。まさに鏡返しではないか。

間違いない、此の土地の者に言霊使いが居る。そいつが君子の瞳の中に何やら仕掛けたに違いない。

(チッ! まずいな・・・)京助と同じ力を持つ者か?

「先程、竜神が降りたとか言ってましたよね」

「ええ、法力衆の力で此の地に呼び込んだのでしょうや」

 口元をぎゅっと締めた京助の顔から、一瞬、血の気が引いた。

「すいません・・・少し、ここを離れます。確認したい事があるので」

 言い終わるか終らないうちに、京助の体は、離れの外へと飛び出していた。

(何処だ! あの女は何処に居る)立ち止まり、全神経を集中する。

(空っぽにしたんじゃない! 入ってたんだ。何かを入れ込んであったんだ。そして・・・出した)気になる方向へと顔を向けた。

(気配はかなり薄いが、台所の辺りか)

 京助の足が母屋の裏口へと駆け出した。所々焚かれているかがり火が燃え尽きたのだろう、黒い炭の塊となって網の中で(くす)ぶっている。

 勢いよく裏口へと飛び込んだ京助の目の先に、倒れた君子の姿があった。

台所の横に置かれた水瓶の淵に、左手を引っ掛けたまま横たわっている。

君子の他には、人影は見当たらなかった。

 奥座敷の大広間からだろうか、刺々しい空気に乗り、耳鳴りがするほどの異様な音が、ここまで響いてくる。体の内から何かが突き上げる。吐きそうなる気持ちの悪さをグッとこらえると、その場に倒れている君子を抱き上げ、台所の上がり間へと体を移した。

 かなり体温が低いようだ。意識が無いにも係わらず、小刻みに全身が震えている・・・おまけに息も浅い。

(何なんだ、一体何が起きてるって云うんだ)とにかく、体を温めねば。

 備え付けられた押入れを開け、薄手の布団を見つけると、それを君子の体に掛け、静かに顔を覗き込んだ。

 しっかりと閉じた両目の片方、怪しい左目を、京助の両手の親指が半ば強引に開いた。飛んでいる意識の下で、君子の眉間にしわが寄る。

「クッ! やはりな・・・既に封印が解かれていたんだ。だから、空っぽなんだ・・・どんな物が入っていたやら」現実と京助の想像は、この後、()しくも一致を見る。

 京助の右手が怒りと共に、知らず知らずの内に、右ポケットの組み紐を握りしめていた。とにかく、この女の意識を戻さねばならないと、直感がそう叫んでいる。意識さえ戻れば、多分、この瞳の奥から飛び出している何かが、解かれた封印にもう一度戻るのではと、考えた。

 ただ、既に昏睡状態に近いこの体から、意識を取り戻すと云う事は、そう簡単にはいかないだろう。そうなると手段は一つしかない。この女の内なる魂に、直接呼びかけるしかないのだ。

「まさか、こんな形でこいつを使うとはな」

 おもむろに取り出した組み紐を両手で掴むと、シュッと、ひと伸ばしした。

 京助の口元が、言霊を練り始めると、掴んでいる組み紐が(かす)かにうねりながら、細かな振動を始める。そして、静かに開いた唇を抜け、練り上げられた言霊達が螺旋を描きながら、その組み紐の中へと吸い込まれていった。

 その先に、君子の額がある。真上に降ろされた組み紐がゆっくりと回り始めながら、魂魄を呼び覚ます。すると、今まで冷え切っていた体が、明らかに生気を戻し火照り始めた。

 小さく痙攣している上半身から、君子の魂魄の一部が離脱し始める。

 解き放たれたそれは、京助が握りしめる組み紐に絡みつき、波動となって二人の間を行き来した。そして、京助の頭の中へとフィードバックされた君子の隠された意識が、驚愕の事実を映し出すのだった。

 そのころ、時を同じくして奥座敷の大広間では、只ならぬ事態にあった。

「遅い! 廻れ、右に廻れ。出してはならんぞ」与一の怒号が、大広間全体に響き渡る。

 結界の中で暴れ回る龍と化した真っ黒な炎が、高まる念圧と共に、此の場に居る術者達の抑圧を拒んでいる。

「此処は良い! そちらに廻れ」結界ぎりぎりで事に当たる彰子が叫んだ。

 その言葉と同時に廻り込んだ物見衆の一人が、合図を送る。

 祈祷処で法術の念を送り続けていた柘植秋芳が、その合図と共に速やかに結界を抜け、外に出た。その目の前に根岸与一が控えている。

 すぐさま取って代わると、凄まじい形相で祈祷処に入り込んだ与一の足元目掛け、黒い炎が絡みついた。

「ええい! うっとおしい・・・業魔・・・滅!」気合いと共に振り払った。

 シュー! 白い水蒸気のような湯気を立て、低く伸びた炎を引きずりながら、与一の足元から離れてゆく。

 すかさず態を整え、真正面に向き直った・・・と、与一が首を傾げる。

(何故だ? 此処に降りて居るのは竜神のはず、仮にも神ではないか。何故、魔封(まふう)(ぎょう)で退く。おかしいではないか)首を傾げるのも無理はない。与一の放った神言は、この世の魔を封ずるもの、神には効く筈も無い。勿論、怒りと共に偶然放ったものだったが・・・与一の背に、冷たいものが(したた)る。

(此の場に居る化身は一体何だ・・・神ではないと云うのか)

 一瞬、集中の途切れた与一の体に、再び炎が絡みつく。素早く払った右手の袖が真っ黒な炎と共に、勢いよく燃え上がった。

「しまった・・・文吾! 我が腕・・・切り落とせ!」正面で構える文吾と呼ばれた物見衆の一人に、何の躊躇いも見せずに、言い放った。

「なりませぬぞ! ・・・皆、与一に」彰子が叫ぶと、後ろで守護していた側人達が、一斉に祈祷処に向け、気を放った。すると、みるみる間に炎が消し飛び、与一の腕から離れていった。

「やはりな・・・与一も気付いたのであろう。此処に、此の場に降りた物は、神などではないぞ」言い放った言葉と共に、彰子の血走った目が、結界の中の与一を睨みつけた。その間にも、結界の外へ出ようと、悪気と化した炎が暴れ回る。

「与一! お前は、何を降ろした!」彰子の怒号が飛んだ。


 上がり間に横たわる君子を眺めながら、持たれた背の壁に、コツン、コツンと、小さく頭を打ちつつ、京助が座っている。あぐらを掻いた右膝を、拳を握りしめた右の手がまとまりの悪いリズムで叩いていた。

 時折その手を額に付けると、溜息を吐きながら天を仰ぐ。先程から、その繰り返しが続いている。そして、一人ぽつりと、

「あって・・・良い訳が無いだろう」

 京助は、君子の魂魄から何を見たのだろう。

 暫くすると、何やら決心が付いたのだろうか、握りしめていた右の手を畳に突き立てると、おもむろに立ち上がり、君子の傍らまでゆく。

 ゆっくりと左の小指を、固く閉じた自分の唇に運ぶと、眉間に寄せたしわと共に、苦い顔をしながら我が目を静かに閉じるのだった。

 これほどまでに悩む事とは一体どんな事なのだろうか。それもその筈、今から唱える言霊の波音とは・・・禁縛の裏言霊なるものだからだ。

 この裏言の霊とは、京助の左手の指に宿る、五つの異なる波動を持つ力の事である。封印されし裏言の霊・・・最も強いとされる親指、この裏言の霊により呼び出された力は、ずばり破壊。では、右手の指は? 御存知の通り、封印、並びに創造をつかさどる善き力とされている。

 低く静かに発せられた裏言の霊が、此の場に流れる瞬時の時をループしながら、目には見えぬ文字となって、君子の開かれた空っぽの左目の奥へと、落ちていった。

 少しの時を経て、横たわる君子の体が波打った。大きく開けた口が深く息を吸い込む。と、同時に、波打つ体が跳ね上がり、寝ている畳みから数センチ浮き上がった。間髪いれず京助の両腕が、畳と浮き上がった君子の体の隙間へと侵入する。グッと掴み抱え上げると、真っ直ぐその場に立たせたのだった。

 硬直した君子の体は、支えなしでも倒れ込む気配は見せていない。

背後に回った京助の両腕が、君子の両肩にポンと置かれ、今度は自らが深く息を吸い込んだ。

(いみ)な左目に入り込んだ裏言の霊は、封印を解かれ飛び出して行った残存死念を、此処にもう一度呼び戻し、君子の左目に返すのである。

京助が君子の魂魄から覗き見た物、それは、此の場に関係するのであろう人物の、十数代前の祖先である残存死念だったのだ。今、まさに大広間で繰り広げられている激闘の主人公、竜神と呼ばれた者の正体!

君子の両肩に置かれた京助の手の平が、不気味な違和感を認識する。

「来るか! ・・・耐えろ」自らに言い聞かせると、強く身構えた。

 台所の隅に置かれた水瓶が、おかしな音と共に突然揺れ始め、吹き抜けている天井の柱の群れに向かって、いきなり水柱を上げた。

 騒乱巻き起こる大広間・・・

「ええい! 答えぬか。与一!」彰子の怒号が増々強くなる。

「落ち着いてくだされ。そんな事より・・・此の場を終息せねばならんでしょう」

 与一の言葉に守護の側人達も頷くと、危険な覇気を放つ彰子を諌めるのだった。

 此の場に降りた物が竜神ではないのなら、もう、遠慮なしで良い。

 気を入れ直した与一の法力が、目の前の悪気に向かって放たれる。

 渾身の一撃は強烈だった。

 護摩火の上に燃え立った化身の龍が、ブスブスと燻りながら、その禍々しい

形を崩してゆく・・・与一は、

「今・・・今一度、皆の力を!」そう叫ぶと、物見衆に目配せをし、再び強く印を結んだ。

 シュー! 夢と現実の隙間に流れ込む風のような音と共に、水蒸気を上げながら、結界の中の悪気が消えた。

 と、同時に、上がり間の方でも、京助に支えられた君子の体が、力なく崩れた。抱え直すと、上がり間の隅の壁に背を持たせ、踏ん張りを無くした体を静かに下すのだった。

 結界の中、祈祷処で仁王立ちする与一の元へ、物見衆の一人、文吾がよろめきながら近づく。

「長・・・御無事で」

「おお、文吾か。みんな良くやってくれた・・・一度、引いてくれ」

 言うと、未だ燻ぶる祈祷処の護摩火を消すのだった。

 それを見ていた彰子が、一度、大きく肩で息をすると、言った。

「どう云う事か、此処に居る皆が納得出来る様、話さんとな・・・与一!」

 彰子の言葉を背に、護摩火を消し結界を出た与一が、葛城の重鎮達が座る場に向き直ると、深々と頭を下げた。

「今たび、御見苦しき事態となり、真、申し訳御座いませぬ。引き降ろしの祈祷にて、此の場に降りしは、牡丹池の主では御座いませぬようで」そう言うと、今一度深く頭を下げるのだった。

「では・・・何が降りたと?」すかさず、東方の長老、佐治が詰め寄った。

「与一! ・・・答えよ」幸三もたまらず口を出す。

 此の場に集まる全員が、皆、与一の言葉を待った。

 深く息をすると、その場で正座する与一の両目が、静かに閉じた。

 水を打ったように静まり返る大広間に、時だけが、容赦なく歩みを進める。

 暫くして、閉じていた両目が、カッ、と、見開くと、此処に座る全ての人間の顔を、ひとりひとり、まじまじと見ながら、皆の問いに答えるべく、口を開いた。

「あくまで我が推測・・・これを答えとするには、いささか無理が有るかと。

しかし、無理は承知でまとめましょうや」鎮痛な面持ちで話す与一を見て、只事ではない何かを、此の場に居る誰もが感じ取り、身構えた。

「祈祷中で御座います。祝詞によって映し出される筈の、竜神の姿が見えんのです。不可解に感じ、何度も繰り返すのですが消えてしまう。いえ、正確に言うと、ビジョンが定まらない・・・まるで、何者かが邪魔をしているように感じたので御座います。まあ、急ぎ来たので、知らぬ間に疲れがあるのだろうと思い、早めに人代わりさせて頂きましたが・・・この有様。やはり、何やら別の力が、此の場を支配したのではと」

 その言葉に、誰もが顔を見合わせ、驚きを持って与一に視線を向けた。

「ならば、誰がそのような真似をしたと」幸三が問う。皆も口ぐちに尋ねるのだった・・・大広間がざわめいた。

「物見衆の頭、柘植秋芳。私に代わり祈祷したこの者に尋ねれば、何かしらの事が分かるのでは・・・この者の時に降りたのですから」そう言うと、辺りを見回し、秋芳の姿を探すのだった。

「その者は何処ぞに居る。悪気に打たれ急ぎ与一と代わり、先に出て行った者であろう?」

 与一の横に、ピタリと付き従う文吾なる者の顔を見据えて、彰子が尋ねた。

「文吾・・・秋芳は?」尋ね、文吾の方へと顔を向けた与一が、一瞬、驚きを持って跳ね上がるようにその場を離脱する。すぐさま身構えると、両手を広げ、辺りに防御を促した。

「どうした。与一!」彰子が叫んだ。

「お離れ下され! ・・・皆の衆も」そう言い放つと、与一の体がすかさず文吾の前に立ちはだかり、右手で印を結ぶのだった。

 疾風の如く整えた所作に、すぐさま彰子が反応すると、側人達も守護の態に素早く変わった。

「文吾・・・お前」与一の印を結んだ右手が、僅かに震え、唇から色が消えた。成した指先の形が崩れ、ズズー と、膝が少し落ちたかと思うと、戦意までもが落ちていった。

「どうしたと云う!」彰子も文吾を覗き込む。が、すぐに驚きの表情と共に、後ろへと飛び離れた。

「御当主様! これは・・・」後ずさった側人達を見て、彰子が叫んだ。

「構えよ!」号令と共に、右手を突き出した側人達が腰を落とし、攻撃の態勢を取る。気功砲四門、目標、目の前にいる物見衆の一人、文吾!

 これでもかと両目を見開き、にんまりと笑う口の中の舌が、チロチロと出たり入ったりしている。ギロリと見回す目頭から、ねっとりと、どす黒い血液が(したた)り落ちた。最早、先程までの文吾ではない。

「皆の衆! これ以上は我らの手には負えぬ・・・下がれ。場を離れるぞ」

 幸三の決断に、此の場に居る葛城一族が揃い、大広間から離脱した。

「何と・・・何と云う・・・事!」言葉ともつかない声が、落胆を隠しきれない与一の口からこぼれた。

「キッヒッヒッヒッヒ・・・」奇声を発した文吾が、ありったけの法力を、与一目掛けて打ち放った。

 普段なら、これ位の力など恐れるに足りないのだが、戦意を喪失している今では、致命傷にも成りかねないであろう。

 素早く彰子が動く。体をあびせ、放たれた気を避けると、すぐさま側人達が飛ばされた与一の体を支え、その場から下がった。

「何をしておるのだ与一! 死にたいか」彰子が怒鳴った。

 その間にも、ギリギリとおかしな音をたて、両足を畳にずりながら近づいて来る。

「仕方ない・・・皆、下がれ。この者、討つ!」言い放つと、彰子は術の姿勢に入った。

「待て! ・・・待ってくれ」身を起こした与一が、苦悶の顔で懇願する。

「今やらねば・・・やられるぞ!」文吾を正面に見据えた彰子が言い放った。

「わかっている。だが・・・この者、我が仲間の一人。やるなら・・・俺がやる」悲痛な声となって彰子に届く。

「ならば・・・早よう!」彰子は、ゆっくりと構えを解いた。

「与・・・いち・さ・ま・・・、こ・ろ・して・・・くださ・れ」

 にんまりと笑う文吾の喉の奥から、その表情とは正反対の、絞り出すが如くに聞こえる極悲の声。

「クッ! ・・・やはり、骸掛(むくろが)けか。さぞ、苦しかろう」

 この術を掛けられし者は、肉体の自由を奪われ、術者の意のままに操られる木偶(でく)となる・・・ギリギリと聞こえるおかしな音は、掛けられし者の、僅かに残る正気が(あらが)う、骨の軋む音なのだ。

 厄介な事に、この術は催眠のようなものでインプットされ、ある任意のキーワードで発令される。よって、その場に術者の存在は無い。

 与一の頭の中に、不吉の二文字が浮かんだ。

(この術する者、俺はたった一人しか知らない。しかし・・・その者はとうの昔に破門され、力は封印されたと聞いている)

「ええい!」

 真正面から突っ込んだ与一の体が、右に一捻(ひとひね)りしたかと思うと、目にも止まらぬ速さで文吾の後ろを取る。その瞬間、文吾の両手が、曲がる筈の無い向きで、後ろに付いた与一の頭目掛けて、振り下ろされた。

 素早く態を入れ替えると、間髪いれず、文吾の隙だらけの首に、気をため込んだ与一の手刀が、四十五度の角度で打ち込まれた。

「ぎゅえぇぇー・・・」引き千切られたバネのような声を上げると、頭から畳に崩れ落ちた。振り上げた両腕が、おかしな格好でバタリと続く。

 大広間に、与一の荒い息遣いだけが聞こえている。

 倒され、意識の無いまま横たわる物見衆の一人、文吾。唯一、この月夜野で生まれ、後に二つ坂へ来た者だった。幼い頃より特別な能力の持ち主だった文吾を、二つ坂の物見衆の一人が、養子として迎えたのだ。

 何と皮肉な運命か・・・与一の膝が、ガクリと崩れた。

 屋敷の庭で事を見守っていた男達が大広間に呼ばれ、両腕が折れた文吾を運びだし、急ぎ、葛城家お抱えの医者の元へと向かうのだった。

「殺生無くて、なにより」彰子は、まだ肩で息をしている与一を労うと、自らも息を整え与一の前に立ち、言うのだった。

「なあ、与一、お前も二つ坂の長であろうに、何故、こうなったか説明せねばなぁ」

 事の治まった大広間には、葛城一族が神妙な面持ちで戻り始めていた。

 結界を張った祈祷処の前で、幸三を筆頭に葛城家四当主が、あらためて鎮座する。

 ぐるりと見回し、揃った事を確認すると、

「皆様の問いに、今現在、お答えしかねます故、暫し、お時間を頂きたく存じます」そう言い残し、皆の視線を避けるように、大広間から出て行く与一だった。

「彰子さんや・・・何でこんな事になったんかのう」眉間に寄った深いしわが、佐治の(うれ)いを物語っていた。

 彰子は黙ったまま、荒れ散らかった祈祷処を、じっと見つめているのだった。

 その頃、台所の上がり間では、薄っすらと意識の戻り始めた君子が、うわ言のように男の名前を呼んでいる。その傍らで、京助の戸惑う視線が君子の顔を覗き込んでいた。

 先程まで、緊張が張り詰めていた奥の大広間から、殺気が消えている。

 あらためて、解き放たれた死念が君子の左目に戻った事を確認すると、京助の迷いが頭をもたげた。此の場で、この女の中の残存死念を祓って良いものだろうかと。それほど、この死念は強力なのだ。今まで祓ってきた物などとは比べものにならない位、確実に次元が違う。

 腕を組み、頭を横に傾けながら思案する。何か、何かが足りないような気がするのだ。それに、先程から呼び続ける男の名前。多分、物見衆と云う輩の、頭領の名前だろう・・・秋芳・・・会ってもいないこの男の事が、妙に引っ掛かる。ならば、答えを導き出すには、この者と会わなくてはならないだろう。足りない何かを尋ねなければ。

「君子さん、ここで休んでいて下さい。まだ、動いては駄目ですよ」

 混濁している意識の君子に伝えると、意を決っして大広間に向かう。

その途中、廊下の窓から、庭先に人影が見えた。注意深く覗き込むと、紺色のスーツに着替えた与一の姿ではないか。

何故か焦った様子で、誰かを探しているのだろうか。屋敷の広い庭をキョロキョロと見回している姿は、あの冷静沈着な男にしては、珍しい行動に見て取れた。

(何かあった!)確信した京助が、靴を片手に廊下の窓から飛び出した。

「誰を探しているんだい」

 いきなりの声に、横っ飛びに振り向く与一の右手が、印を結んでいる。

「何だ、お前・・・まだ居たのか」

「帰るに帰れなくなった。あんたのせいでな」憮然とした顔で京助が言った。

「何の事だ? 今はお前の相手などしている暇はない。とっとと帰れ」そう言うと、クルリと背を向け、来客用の駐車場へと向かった。

「おい、待てよ」呼び止める京助を完全に無視した与一の足が、速度を上げた。

「探している者は、秋芳って奴か?」その名前に、即、反応する。

「お前、何故それを」小刻みに震える唇をグッと噛み締めると、真っ赤に充血した目で、京助を睨みつけている。

「やっぱりな、物見衆の頭領だろ、その秋芳って奴は」

 ゆっくりと距離を縮めながら、近づく。

 何でこいつがそんな事を、と、云う顔で与一が一歩踏み出しながら、結んだ印を前に突きだすと、気を入れ始めた。

「よせ・・・俺はあんたとやる気はない。まあ、あんたの事は好きじゃあないけどな」そう言うと、右の眉をピクリと上げ、また一歩、近づいた。

 身構えた与一がひとつ下がる。それを見て京助は立ち止まると、

「聞きたい事がある。本当は先に、その秋芳って奴に話があるんだが、まあ、いいさ・・・あんた、知っていたか? 妹さんの事。入れ物にされていたぞ、多分、そいつだと思うけど」

「お前、何を言っている。あの二人は、心を許しあった仲だ。俺にとっても、秋芳は実の弟のように思っている」強く言い切った言葉に、何処か確信が持てない感情を、京助は感じ取った。

 今の今まで睨みつけていた視線が、一瞬、遠くに外れた。

「お前には・・・関係ない事だ。けじめは、俺が付ける」

 そう言うと、背を向け一目散に駆け出した。

 その後ろ姿に向かって、京助が叫ぶ。

「関係ないだって! 大有りなんだよ!」その言葉も無視するように、駆ける足の回転が更に上がってゆくのだった。

 一人その場に残された京助が立ち竦む中、軽いエンジン音が駐車場の方から聞こえて来る。目を凝らし見ると、パジェロらしき四駆が屋敷の門をくぐり、勢い良く外へと出て行くのが見えた。

「与一か? 何処へ行く気だ」呟くと、体は既に駐車場へと向かっていた。

 程なくして着いた京助は、アルピナに乗り込もうとドアを開けるのだが、思い直してすぐに閉めた。

(何故、あいつは自分のジャガーで出なかったんだ。もしや、こんな車じゃ行けない所か?)

 辺りを見回すと、楠木の陰にちょこんと置かれた一台のバイクが目に止まった。これだと思い近づく。

「GPZ900・・・ニンジャってやつか。へえー、リヤのスイングアームが幅広にしてあるじゃん。どうりで太いタイヤがハマってる訳だ」キーが付いている事を確認すると、低めに仕上げられたシートに跨り、エンジンを掛けた。

 珍しい黒メッキ仕上げの集合管から、カワサキらしい乾いたエンジン音が響く。グッと車体を起こし、サイドスタンドをたたむ。カツンとチェンジをローに入れ、静かにクラッチを繋ぐと、右手のアクセルを思い切りよく開け放った。

コォーン! かん高いエキゾースト音を上げ、リヤタイヤを軽く空転させながら前に進むと、直ぐにグリップしたタイヤが、駐車場のアスファルトに、見事なブラックマークを描く。

 左のつま先がセカンドに上げたところで、屋敷の門をくぐった。

(あいつ、確か右へ行ったよな)

 京助の上半身が少し右に倒れたかと思うと、フロントを持ち上げたバイクが、矢のような加速を見せ、与一の乗ったパジェロを追いかけるのだった。

「何をした・・・一体、何をした秋芳!」ハンドルを握りしめる与一の両手の血管が、今にも破裂するのではと思うほど、青白く浮かび上がっている。

 くねくねと曲がる山道が、シートに押し付けた体ごと左右に揺らし、心もとない狭い道が、忙しないハンドル操作を容赦なく要求する。動揺を隠せないのだろう、荒っぽい運転がそれを物語っていた。

 秋芳とは、与一が東京の大学へ行くまで、いつも一緒に過ごした仲だった。

きつい修行にも、二人だから耐えられたのかもしれない。四つ離れた秋芳を

実の弟のように可愛がった。

 大学を卒業した与一は、数年のサラリーマンを経験した後、大学で専攻していた地質学の知識を活かし、自ら会社を作った。先に述べた地質調査の会社だ。

 日々多忙な中でも、事あるごとに秋芳とは、連絡を取り合う関係が続いていたのである。

 そう云う二人の仲だ。どんな事が起き様が、疑う余地など在ろう筈がない。

だが・・・今回は、今回ばかりは、その気持ちが揺らぐのだった。

 嫌な現実が、与一の脳裏に侵入する・・・激しく左右に首を振ると、

「確かめなくては、奴に会い、間違いである事を確かめなくては」悲痛な叫びだった。

 京助の乗ったバイクが、峠ひとつ向こうにパジェロのテールを見つけた。

「あんな所に居やがった」言うと、前傾姿勢を更に深く取り、バイクを加速させた。

 成る程狭い。車一台分しかないような山道だ。

「これじゃ、与一のジャガーなんて、でか過ぎて曲がれやしないだろうよ」

 右の眉をピクリと上げながら、この山道の状況を理解するのだった。

 嫌になるほど続く曲がりくねった山道を、バイクに預けた京助の体が、右へ左へと小気味よく倒れながら、時折、コーナーの出口で鋭い加速を見せると、スライドする車体を強引にねじ伏せ、少しフロントを浮かせ、ひとつひとつ抜けてゆくのだった。

都会では、とてもこんな刺激的な乗り方は出来ないだろう。

 既に、京助の視界には、先に行くパジェロのシルエットが、目の前に大きく見えている。

「良し! 追いついた。さあ、逃がしはしないぜ」

 すると、視界に入ったパジェロが、いきなり減速した。一気に近づくバイクのアクセルを素早く緩めると、チェンジを落とし速度を加減した。

 少し前方に、左下へと降りる道と、そのままの峠道との分技が見える。

 先行するパジェロが、躊躇いも無く降りてゆく。京助も、近づき過ぎたバイクを少し後ろに下げると、与一が操るパジェロに続いて下へと降りた。

 気付いているのか、いないのか、前をゆく与一の反応を気にしながら、坂を降りきると、どうやらその先が行き止まりになっているようだ。

 京助の乗ったバイクの前方二十メートル位の所で、パジェロが止まる。

 慌ててバイクを木陰に隠した京助が、車から降りた与一の後を、背を屈めながら距離を置いて着いてゆく。

 途切れた道の先には、うっそうと生い茂る雑木林の中、獣道らしき(わだち)が、まだ先へと誘うように続いていた。

 多分、与一は気付いているだろう。それでも、置いた距離を保ちながら、後に続く。

(あいつは、こんな所まで来て何をするつもりなんだ)頭の中のクエスチョンマークが大きく映って見えた。

 暫く行くと、目の前が開けた。

「こ、これは!」言うと、直ぐに絶句した。京助の目の前に現れた景色こそ、

今回事象の元凶となるのであろう・・・竜神が棲むと言われる牡丹池。

 月夜野から山ひとつ越え、緑色の水面には波紋ひとつ打つ事も無く、只、静かにひっそりと此処に在る・・・そのほとりに小さな祠が立ち、横に立てられた石柱が牡丹池の名を告げていた。

「想像とは・・・えらい違うもんだな」頭の中で思い描いた姿が、完全に否定された。

 何も無い。そう、何も無いのだ。凛とした気も、尖った空気も、禍々しさの欠けらも無い・・・全てが無い。この池には・・・この世での存在が無い。

 有り得ない現実に只、立ち竦む。

(何故だ、周りの木立には、確実な息吹が感じられると云うのに、どうしてこの池だけ)京助の虚ろな目が、理解不能のチェックランプを点滅させるのだった。

 いきなり、ショートした頭に緊張が走る。先の林に人影を感じ、素早く身を屈めると、顔だけを少し上げ確認する。すると、京助の視線の先にいた者は、後をつけていた与一ではなさそうだ。

 薄手の白い羽織を纏ったその者が、祠の方へ、ゆっくりとした足取りで近づいて来る。木漏れ日がかかる横顔に日の光が反射し、白いシルエットとなって顔立ちが判別出来ない。

 おもむろに立ち止まったその者が、深く息を吸い込むと、通る声で言った。

「さすが、あにさん。直ぐに来ると思っていましたよ」

 唐突に言い放ったその男の先に、ゆらりと立ち上がった与一の姿があった。

 暫しの沈黙の後、息を整えた与一の視線が、真っ直ぐ先の人物に向かって投げられる・・・そして・・・

「秋芳・・・何故、お前が此処に居る?」神妙な顔で尋ねた。

 それを聞いた秋芳は、体半分捻ると池の辺に目をやりながら、言う。

「何を言ってるんです? 可笑しな事を言いなさる・・・此処は他でもない、牡丹池ですよ。毎年梅雨になると、この池の辺には、それは見事な牡丹の花が咲き誇る。あにさんも御存知の筈」

この男が・・・秋芳。君子が混濁する意識の中で、うわ言のように言っていた男。京助の鼓動が早くなる。

「答えよ。何故、此処に居る!」強くなる声に反応した秋芳が、首を傾げながら与一の方へと振り向き、グッと歯を食いしばった後、言うのだった。

「仕上げですよ」目の奥が、明らかにギラリと光った。

「仕上げとは・・・何の仕上げか?」問い詰める与一の右手が、硬く握られている。おそらく、無意識の内に印を作る事を嫌ったのだろう。何処かで、未だ信じようとする心があるのだろうか。

「戻れ。今すぐ葛城家に戻れ」命令的な口調ではない。まるで懇願するかのような感情の言葉に、秋芳がクックックッと、笑った。

「何が可笑しい・・・」

「何を言うのかと思えば・・・まだ、葛城家ですか」

 想定外の言葉に、与一は戸惑いを隠せなかった。

「な、何と!」

「相も変わらず律儀な事で・・・だから、何百年立とうが、いつまでたっても葛城の言いなりなんですよ。おかしいとは思いませぬか? 力では我らが圧倒しているんですよ」

 聞いた与一が呆然と立ち竦む。現実から逸脱しようとしている意識を、心底が辛うじて引き留めている。

「何てこった・・・やっぱりこの男だったのか」身を屈め、二人のやり取りを聞いていた京助が呟いた。

「秋芳・・・何があった」僅かに震える与一の声が、目の前で(はす)に構える秋芳に、愁いを持って届く。

「何があったって? 脳天気な事をおっしゃる。何も解っちゃあいないようですねえ」秋芳の呆れた風な顔が、直ぐに怒りの表情へと変わり、真っ直ぐ与一を睨みつけた。そして・・・

「ならば、教えて差し上げましょう。良うく聞きなされよ」言うと、反対側に体半分捻りながら、話始めた。

 京助は、一字一句聞き逃さないようにと、陰から身構える。

「もう、どれ位経ちましょうや。二十、いいや、二十五年・・・あにさんが東京の大学へ行きなさった年。二つ坂の初音(はつね)にある、物部(ものべ)の叔父貴の所で厄介になって居りまして、勿論、修行も兼ねてですがね。あにさんも御存知の通り、この物部と云う男の法力たるや、そりゃあ物凄いもんが有りやしてね。一端(いっぱし)にも修行してきた我らが使う力なんぞ、この男の前では赤子同然でしたわ」

 それを聞いた与一の顔色が、みるみる変わった。

「ま、まさか・・・お前!」

「察しがいいですねえ。そのまさかってとこですか」

物部(ものべ)剛座(ごうざ)! そいつは掟破りで、当時の物見衆から破門された男ではないか。全ての係わり持つこと、御法度とされた者だぞ!」

 荒くなる息を整えながら、与一が言う。

「確かに、そいつはかなりヤバイ男ですがね。そんなこたぁ百も承知でねぇ。あたしが欲しかったもんは只ひとつ・・・力ですよ。その男が持つ特別な力。

その力のせいで、追放されちまったんですよねぇ・・・二つ坂が震えあがった法術使い!」秋芳の視線が、与一を釘づけにしている。

 その通りだった。この男の言う通り、物部の剛座と云う男、とんでもなくヤバイ奴と聞く。

若い頃から桁外れの法力の持ち主で、この二つ坂の物見衆の中においても、群を抜く才能を見せた者だった。常に研究熱心で、ありとあらゆる法術を学び、それにも飽き足らず古代神の巻物まで手に入れ、何やら危ない術を習得しようとしていたらしい。

その行為は当時の物見衆の掟を逸脱するものであった。幾多の戒めにも従わず、その為、(かしら)の逆鱗に触れる事となる。それに猛反発した剛座が、怒りと共に若い物見衆の一人を、己の術中にハメた。

 悶え、苦しみながら仲間に襲い掛る若者に、皆が恐怖する。剛座をこのままにして置けば、自分達もこの者のように操られてしまうのではないか・・・危険だ。

 全ての物見衆が取り囲み、生死をかけて剛座を呪縛する。そして直ぐに、二つ坂の外れにある初音と言う地に、幽閉したのだった。

 そんな男の元で秋芳は修行したと言う。

「何の為にだ。何の為に、それほどまでの事をした」唇を噛み締め、与一は秋芳を睨みつけたまま言い放った。

「なりたかったんですよ・・・強く!」吐き捨てるように言う秋芳の右手が、天を突き刺す。

「あんたより、遥かに強く! ・・・いつもそうだった。比べられましたよねぇ、あにさんとあたしは・・・越したと思うと、いつもひとつ上に居る。だけど、不思議と悔しくはなかった。それどころか、誇らしかった。いつでもあにさんは、あたしの目標でしたからねぇ・・・あの事を知るまでは」そう言うこの男の目の中に、狂気が見える。

「知っちまったんですよ。六百年前、此の地で起きた真実ってやつを」

「お前が何を知ったか、そんな事はどうでもいい。まして、六百年も前の話なんざぁ、到底聞いておれんわ」先程の物部の剛座、その名前が出てから、与一の態度が一変したのだった。

 多分、剛座の元での修行は本当だろう。さすれば、文吾があのようになったのも頷ける。

 固く結んだ両の手が、今、ゆっくりと開いてゆく。秋芳の裏切りは、与一にとって、到底許されるものでは無い。

「残念だ・・・本当に残念! 今の今まで、俺はお前を本当の弟のように思っていた。だが・・・秋芳! この裏切りは、万死に値するぞ」開いた指先が、静かに印を結んだ。

「クックック・・・どこまでも御めでたいことで・・・もう、長の血族である根岸の時代じゃあ無いんですよ。なあ、あにさん。引導は、あたしが渡してあげますよ」秋芳は、言い終わらない内に、羽織の袖に入れていた左手を出すと、何処ぞへと合図を送る。すると、腰のあたりまで届く草むらが、風も無いのに揺れ始めた。幾筋もの揺れが、与一の足元まで伸びてくる。

「ち! 小賢(こざか)しいわ」言ったが早いか、地を蹴った与一の体が、しなやかに伸び、舞い上がる。

草むらから飛び出した無数の影が、瞬時に着地点を取り囲んだ。

 片膝を着き、ギロリと見回し愕然とする。

「お前ら!」

「そうよ、ご覧の通り物見衆よ」与一を取り囲んだ者達は、先程まで葛城家で共に祈祷していた物見衆ではないか。さすがの与一も焦りを隠せない。まして、とんでもない力を手に入れたであろう柘植秋芳が、目の前に居る。

「クッ! こりゃあ、参ったな」浅い呼吸をしながら苦笑いした。

「おい・・・笑ってる場合か!」そう言うと、たまらず京助が飛び出した。

「この状況だぞ、どうするつもりだ」与一に向かって叫んだ。すると、

「こんな時に出てきやがって、首を突っ込むなと言った筈だ」秋芳から視線を外さずに、与一が怒鳴った。

「誰だお前は・・・此の地の者では無いな。何しに来た」秋芳の顔が冷酷な眼差しを持って、此の場に飛び出した京助を睨んでいる。

「何しに来た? だと、ふざけて貰っちゃあ困る。俺はお前に聞きたい事があって此処まで来たんだ。返答次第じゃ、ただじゃあおかないぜ」

「ただじゃあ、おかないと・・・あっはっははは・・・どう云う風にだ。やってみろ」一度は外した視線を再び与一に戻すと、一歩前に出た。

「馬鹿野郎! 何してやがる、早く逃げろ」与一が、必死の形相で京助に向かって叫んだ。

「嫌だね。俺はどうしても、こいつに聞かなきゃならない」そう言い切った京助の左の小指が口元に寄せられたかと思うと、何かを呟き始めた。すると、

「グフ! ・・・お前・・・な、何をした」幾つもの筋を立てた首を伸ばし、秋芳がその場で苦悶し始める。それでも、

「シ・・・するところの・・・ス・・・と念ず」もがきながら吐いた言葉が、秋芳の表情をみるみる元へと戻すのだった。

「やはりな・・・お前、使えるんだ」京助の放った言霊が、目の先の男に直撃した筈。にも係わらず、するりと解いた。思った通り、こいつも言霊を操れる。

「き、貴様! (きん)(ごん)(じゅ)が使えるのか!」秋芳が吠えた。

「さあ・・・呼び名は知らん」京助のとぼけた言葉に、秋芳の固く閉じた口の中から、ギリッと聞こえた。

「面白い。あにさん、仲間を連れて帰って来たんですかい」薄笑いの浮かぶ口元に、赤いものが一筋流れた。

「こいつと俺は関係ない。幸三の次女、圭子と言う女の連れだ。その女と来たんだろう」

「ほほう・・・益々持って面白い。おいお前、早く戻った方がいいぞ、今頃は全身鱗に覆われ、龍となっているかもなあ。クックック!」流れた血を舌なめずりで拭うと、身構えている物見衆に向かって叫んだ。

「与一を狩れ! こいつはあたしが殺る」秋芳の号令が響く。と、同時に、物見衆の一団が、囲んだ与一目掛け一斉に襲い掛った。

 仕掛けられた与一が、右に左にと体を(かわ)しながら、気をためた手刀でまずは一人倒す。

「チッ! 舐められたものだな」両足を広げ、腰を落とすと肘を張り、胸の前で合掌する。小さな祝詞を唱えると、瞬時に両手が広がった。与一得意の(しん)言行(ごんぎょう)

が炸裂する。

 左右に展開していた物見衆数人が、鋭く放たれた気に打たれ、もんどり打って飛ばされてゆく。

「お前、何処ぞで習得した? どの一派だ」秋芳の問いかけに、困惑しながら、

「習ったとか、そんなものでは無いからなぁ。何とも言えん」京助の眉間にしわが寄る。その通り、習ったものでは無い。半ば強引にねじ込められたと言った方が良いのだろうか。

 その間にも、与一と物見衆のやり取りが激しさを増していった。そんな中でも気になるのだろう、与一の視線が、時折、秋芳と対峙している京助に向けられる。

「すっ呆けてんじゃあないぞぉ。まあ、あれ位の呪なんざあ、少しかじれば簡単な事さね」そう言い放つと、秋芳の口元に変化が起きる。

(来るか)・・・京助が身構えたその時だった。

 ビィッーン!分厚いガラス瓶同士を鉢合わせしたような、強烈な音が耳元で炸裂した。

咄嗟(とっさ)に体を躱したつもりだったが、恐らく直撃したのだろう。手足の抹消を痙攣させながら、京助の体がその意思とは反対に、ゆっくりと崩れていった。

 かろうじて両手が地を掴み、くの字になった身体を支えた。もたれた頭がグッと持ち上がる。

「ほほう、まだ立ち上がるかい? 驚いたねぇ。渾身の一撃だったんだがねぇ」

 ・・・嘘だ。試している。

「ああ、駄目だと思ったよ・・・俺って意外とタフかな」減らず口を叩きながら、ゆっくりと起き上がる。そして、性懲りも無く聞くのだった。

「なあ、教えてくれないか。君子さんは・・・あんたのいい人じゃあないのか?なのに、彼女の左目に何をした?」

 首のあたりを擦りながら、ジッと秋芳を見た。すると、面倒くさそうな顔をしながら睨みつけ、

「大きなお世話さね。そんな事より、連れの女を心配したらどうなんだ・・・

ああ・・・それよりも、今、此の場に居る自分自身の心配が先だな」

 言った口元が、ニタリ、ニタリと笑っているのだが、京助を追う秋芳の視線は、背筋も凍りつくような冷酷さを映し出している。

「いや、あいつ・・・圭子なら心配ない。あんたを見てはっきりしたからな、あの鱗のようなものは本物じゃあない。それと、最初に紋が出たと云う姪っ子も同じだろう。そんな事は、あんたが一番知っている筈。呪を掛けた張本人だからなぁ・・・ひどい事をする」それを聞いた秋芳が、激昂した。

「ひどい事だと・・・お前に何がわかる! 呪うには・・・呪うだけの理由が有る!」猛り狂った視線が、京助を捉えて離さない。

再び秋芳の口元が変化する。と、同時に、京助の口元に添えられた小指を通して、言霊が放たれた。

ギュイーン! 放たれた言霊同士が、距離を置いた二人の間でぶつかり合い、炸裂した。一瞬歪んだ空間が、ゆっくりと戻ってゆく。

「な、何と!」物見衆を躱しながら、この二人のやり取りを見ていた与一が、目を丸くして驚愕する。そして、全身に鳥肌が立つのを覚えるのだった。

「クックックッ! お前、今のが精一杯だろ。息が上がっているぞ。そんな力で歯向かうとはな・・・お前・・・死んだな。あたしは、三割ってとこか」

(何を・・・何処を見ているのだ秋芳! ・・・あいつ、京助と言う奴、とんでもない野郎だ。秋芳には分からなかったのか? 同時に三方向! 三方向に放ちやがった)

 与一が驚愕するのも無理はない。京助の放った言霊の波動は、確かにみっつ!

ひとつは秋芳目掛けて飛んだ。後のふたつは左右の奥、そこに潜む物見衆を直撃したのだ。恐ろしく早い打ち込みに、声を上げることも出来なかっただろう。

(あいつが精一杯だって、とんでもない。多分、あいつに取っちゃあ他愛も無い事なんだろう。慣れてやがるんだよ。所作を見りゃあ分かる)与一の眼力は鋭い。

「おい、あんた・・・もうやめようぜ。俺はこんな事は望まない。だから、彼女に入れ込んだもう一つの死念、教えてくれ」京助が柄にもなく、懇願する。だが、その思いは秋芳には届かない。

「チィッ! きりがない!」思わず与一の口から洩れた。さすが手練れの物見衆! そう簡単には倒れてはくれない様だ。

 その様子をまじまじと見降ろすと、秋芳の鋭い眼光が京助の動きを見張りながら、再び捉えた。

「まあ・・・いいだろうさ、教えてやるよ。どうせこの世は、生と死かないのだからなぁ・・・お前は、その後者の方だが。クックッ!」それを聞いた京助の右の眉がピクリと上がる。

 今回と同じことが、六百年前にも此の地で起こった。その事は葛城家も承知している。しかし、事実は少々違っていたのだ。

 竜神と折り合いを付けた二つ坂の長、根岸が、事の成り行きを話すと、当時、分家したばかりの南条葛城家の当主が、物言いをつけた。それは、根岸達、二つ坂の者達には、到底受け入れられる物ではなかった。何と! 葛城家の娘に出た紋章を、他の娘に移し替えろと言うものだった。それも、在ろうことか二つ坂の者にと。

 この当時、豪族であった葛城の命令は絶対だった。根岸達は困惑し、泣いた。

だが、二つ坂を守る為に、根岸が決断する。数人の、二つ坂に住む娘達を並べ、

代わりと成す器の者を探した。誰でも良いのではない。そこで、一人の娘が見つかる。物見衆の一人、柘植秋正なる者の娘・・・ 号泣しながら懇願する秋正の願いは、届かなかった。

 その日の夜、速やかに移し替えの儀が行われ、翌日、牡丹池へと向かった。

 秋正の心の蔵は張り裂けんばかりに脈打ち、血の混じる涙を拭おうともせずに、愛おしい我が子の運命を呪いながら、目の前で始まる儀を見つめていた。   その心中は、察するに計り知れないものであることを、二つ坂の物見衆全員が感じていたのだった。

 意識の無いまま横たわる娘を乗せた桶が、池の真ん中へと引き流されると、頃合いを見定めた長の合図と共に、静かにゆっくりと、沈んで行った。

 頭を抱え、地に伏せた秋正の嗚咽だけが、此の牡丹池に、もがるのだった。

 次の日、秋正の衣だけが、此の池に浮かんでいた。

「我が先祖が受けた仕打ち! これが真実よ! だが、この真実は当時の長、根岸嘉平冶(かへいじ)と言う男によって封印されちまった・・・その真実を書き記した書が、剛座によって、言満の社殿の床下に隠された祠の中から見つけ出されるまで、日の下に出る事は無かったろうよ」秋芳の唇が色を無くしている。

「あんた、本当にそれを見たのか? その、書ってやつを」半信半疑で京助が尋ねた。

「おおよ! 見たさ。はっきりとな、一字一句、確かめたさね」秋芳の殺気が高まる。

「葛城への復讐は、そこから始まったのさ」

(死念は、時を知らず・・・か)京助は、兄、恭二の書き記した言葉を思い出していた。

「秋芳! 馬鹿な真似はよせ。今の時世を生きる者に、大昔の話なんざぁ関係ない事だろうが。そんな事でとは、言わない。だが、その事でお前自身の時まで止める必要はないだろう」物見衆を相手に、上がってゆく息の中、与一が訴える。それを完全に無視した秋芳が、ニタリと笑うと言った。

「ほほう、中々しぶといねぇ。皆の衆、早く楽にしてあげなされよ」

 さすがの与一も、多勢に無勢。少しずつ、物見衆の放つ気が、かすり始める。

「動くな! お前は、あたしが殺ると言っただろう」与一に加勢しようと動いた京助に、秋芳の怒号が飛んだ。確かに、今、この男に背を向けることは、死を意味する。

「クウ!」与一の苦悶の声が、刹那に聞こえた。目で追うと、左足を押さえた与一の体がバランスを失い、よろめき、倒れかけている。

(役者だなぁ。かすったは、右足。とっさに左足を押さえるとは)痛めた所を狙うは必定。京助は身震いした。

「まずいな、このままでは。まだ聞きたい事があるんだが・・・」京助の一瞬の迷いが、秋芳に攻撃のチャンスを与えた。

「お前・・・死ねや!」歪んだ口元から、今度は、はっきりと音玉が聞こえた。

(やばい! とんでもないやつがくる)身構えた京助の指が、唇に触れた。と、その時。

「与一! 見苦しいぞ!」声と同時に、与一の囲みが崩れた。別の影が、物見衆と激しくぶつかる。

 姿を現した声の主は、西方葛城家当主、彰子だった。

「やはり、此処に居ったわ」彰子の眉間にしわが寄る。側人達が、物見衆の陣形を崩す。

「何と、何と・・・姉様まで来よりましたか」にたーりと、秋芳が笑った。

「物見衆の頭領で在ろう者が、この様な真似・・・どう始末をつける」

 いっそう険しさを増した彰子の視線が、秋芳を離さない。すると、何も答えぬ目の先の男の口元が、いびつに変形してゆく。

「彰子さん! 来るぞ!」京助の緊迫した叫びに、素早く反応した彰子の体が、捻りを加えながらその場の立ち位置から急速離脱する。

 秋芳から放たれた言霊は、音霊となり、元居た彰子の場所の草むらを、根こそぎむしり取りながら、無数の小さなつむじ風となり、消えた。

「お前・・・禁言を使ったのか?」驚きの表情と共に、彰子は理解した。

「それがどうした」毒ずく秋芳の邪念に満ちた言葉が、此の場の空気を澱ませてゆく。

「今まで、此の地で禁言を使った者は一人しか居らん筈」彰子が呟いた。まさしく、物部の剛座のことだ。今から四十年前、剛座十六歳の時。

「何故! お前が使えるのだ?」彰子の問いに、与一が答える。

「フンッ!そいつは、修行したとさ・・・剛座の元でなぁ」

「何と! 愚かな・・・いや、待て。確か剛座は、初音に幽閉され、力は封印されたと聞く」

「そんなこたぁ、そいつに聞いてくれ」肩で息をしながら、与一が悪態を吐いた。

「皆、物見衆を近づけるでないぞ」右手を高く上げ、彰子が叫ぶ。その言葉に即時反応した側人達が、陣形を組んだ。

「やれやれ・・・厄介な事になりやしたねぇ」両手を広げ、秋芳が呆れている。その様子を見ながら、与一が鋭い言葉で言い放った。

「秋芳! 先程、そこの祠より手にした物、一体何だ。何を手にした?」

 その言葉に、先程から、京助より一度も視線を外さない秋芳が、与一には見向きもせずに言う。

「クックックッ! それを聞いてどうする」ムッとする与一をよそに続けた。

「まあ、黙っておっても、いずれ分かる事・・・みなさん御存知の、沈まぬ紙縒りですよ」

「今回の嫁役を射止めた紙縒りとな? 本条葛城の名が入った紙縒りとな!」

 眉間の深いしわを青白く浮だたせ、彰子が叫んだ。

「その通りで御座いやす」短く言うと、懐から取り出した紙縒りの先を摘まみ、此処に居る者達に見せた。

「それを・・・何に使う気か」唇の渇きが、彰子の動揺を隠せない。

「仕上げと言ったのは、その事なのか」与一が口を挟む。

「へえ、その通り。仕上げと云う事で。まあ、今回の最終工程ってやつですかねぇ。これで、あたしら柘植家の積年恨み、果たせて頂きやす」言った秋芳の口元が、不気味に微笑んだ。

「なあ、俺は此の地の者じゃあないから、その事に関しちゃあ何も言えないけど、それが本当なら同情はするよ。だがなぁ、こんなやり方、間違ってないか」

 首を傾げた京助が、秋芳の口元を注意深く観察しながら言った。

「お前、何を言っている。直ぐにこの世の縁が、お前と切れてゆくと云うに、身の程をわきまえたらどうだ」眼光鋭く睨みつけている目の先にいる男の言葉が、何処か儚さを持って聞こえた。

「話し合いでは解決は見出せないってか」京助の言葉が沈んだ。

「当たり前だ。いつの時代も力の在る奴が頂点に立てる。力は全てだ! 少々使えるお前程度の人間でも、目の前にして見る此の池、分かるはずだ・・・どうよ?」秋芳が指差す先の牡丹池、ジーと見つめる京助が叫ぶ。

「ま、まさか!こんな・・・こんな事が出来るのか・・・どうりで、この池には何も無い訳だ。あんた、とんでもない事しやがったなぁ」京助の眉が、これでもかと上がった。

「何だ、何をしたって?」与一が尋ねる。

「与一、驚くなよ。こいつ・・・君子さんの左目に、此処の池ごと入れ込みゃあがった」

「な・・・何だとぉ! 秋芳、お前って奴は」それ以上言葉にならなかった。

「あっははは! お見事で御座います。拍手ものですなぁ。そうですよ、君子は此処では珍しい、(ふところ)(さま)でしてね。まあ、それがなかったらこの計画も違っていたでしょうなあ」

「何だ、懐様って?」誰に尋ねるわけでもなく、京助が呟いた。

「異能力の中の一つ。法力や術、または、それによって取り捕まえた物を、一時的に隠し納める事の出来る術者のことを、懐様と呼ぶ」彰子が言った。

 先に聞いた戦国の世。葛城一族によって隠された二つ坂の能力者達。それでも尚、その力に恐れた権力者達は、手に入れる事叶わずと見るや、その者達の抹殺を命じたのだった。術者には術者、見分ける事優れた者達が全国を行脚(あんぎゃ)する。その事にいち早く気付いた二つ坂の者たちが、此の力の持ち主に全て、各々の力を隠したのだった。懐に隠す、その言葉から、此の術者の事を、懐様と呼んだのだ。時は流れ、再びこの力は君子の体に宿る。

「いやいや、分かった時には驚きやした。言い伝えでは聞いてはいたんですがね、目の前に居たとはねぇ。真、好都合」そう言う秋芳の心理が読めない。

「じゃあ、紙縒りって物は何に使うんだ?」京助の素朴な疑問だ。

「その紙縒りには、強力な呪が掛けられている。この呪は代々伝わるものでな、月夜野の儀を司る、天の宮一族によって行われてきた呪なんじゃよ。選ばれし紙縒りが此の祠に入ると同時に、その呪は発動され、前の十年、先の十年間、それは連鎖しながら此の月夜野に結界が張られるのじゃ。それによって邪悪な気は入り込めぬ・・・筈」そう言う彰子の瞳の奥が、ギラリと光った。

 と、言うことは、その祠から今まさに抜き取った秋芳は、此の月夜野の結界を外した。何の為に? 此の場に居る者たちの頭の中は、疑問符でいっぱいになっていた。

「さてと、もうお遊びは、しまいにしやしょうや」秋芳のいびつに歪んだ口元が、何かを呟く。と、ほぼ同時に、京助の言霊が飛んだ。青白い巡り火が絡みついた左の小指が、僅かに震えている。

 ギュイーン! またしても、二人の放った言霊同士が真ん中でぶつかり合った。しかし・・・先程とは明らかに違う。京助の放った言霊が、秋芳の言霊を軽々と呑み込み、術者に迫る。

「ば、馬鹿な! 有り得ない。こんな」巨大に膨れ上がった言霊が、術者の秋芳を直撃した。多分、他の者には、膨れ上がった言霊は見えてはいないだろう。

「ンッグゲェー!」短く呻くと、九の字に曲がる秋芳の体が、背後で乱立する木立の中へと飛ばされて行った。

「参ったな・・・また、やっちまった」頭を掻きながら、荒い息を整え様ともせずに、京助は思いっきり苦い顔をした。まだ残っているのだろう、体中を巡った波動が青白い巡り火と共に燻ぶっている。

「クッ! 何と」驚嘆の声と共に、物見衆の戦意が落ちてゆく。

「もう良い! 皆、後ろに付きなされ」彰子が、側人達を背後に下げた。

「西方の御当主、すまない。助かった」珍しく与一が神妙な顔で頭を下げる。

 と、その隙を見て、秋芳が飛ばされたであろう方角へと、物見衆が消えて行った。

 追いかけようとした側人達を制止すると、彰子が与一に尋ねる。

「あの者は、最後に何をしようとしたのかのう? 分かるか与一」

「はあ・・・あいつ紙縒りを取り出しました。間違いなく結界を外すが目的。しかし、それが意味するところは・・・残念ながら分かりかねますなぁ。我ら二つ坂の物見衆は選ばれし者ゆえ、結界関係無く力は出せますからなぁ。」

地にペタリと腰を落とし、片膝を立てながら、与一も困惑するのだった。

「しかし、その意味が分からないでは、この件、解決せんなぁ」呟く彰子の視線が、京助へと向けられた。驚いた京助が両手を振りながら、思いっきり否定する仕草を、オーバーアクションでアピールする。

「俺にも・・・分かりませんて」それを聞くと、悪戯な顔をしながら彰子が近づいて来る。

「やはり、ただのお方では無かった様ですなぁ。その術、禁言呪ではないようですなぁ、力のバラケがまるで無い」

 京助をじっと見つめるその目が、吸い込まれそうな妖艶さを醸し出し、京助の頬を年甲斐も無く赤く染めた。気付かれまいと池の方角に向きを変えたその耳元で、

「ほっほほ・・・」彰子が笑う。やはり、見透かされていた。

「ところで、彰子さん達はどうして此処へ?」照れくさいのだろう、くるりと向き直ると話を変えた。

「ああ、岸部が案内してくれた。此処ではないかとな、与一が居るのは」

「え、では岸部と言う人も此処に?」

「来とりますよ。ほれ、あそこに」彰子が指差す方角に目をやると、半身隠れる程の木の影に身を潜め、こちらを覗く男の姿が見て取れた。

 その横には、彰子達を乗せて来たのだろう、白いワゴン車が止まっている。

 目に止められた事に気付いた岸部が、恐る恐る辺りを伺いながら皆の所へと近づいて来た。

「皆さんご無事で。怪我などなさいませんでしたか? わたしゃあ、もう、ハラハラしとりました」そう言うと、腰の手拭いをするりと外し、額の汗を拭った。

「とにかく皆さん、もう帰りましょ・・・気味が悪くて」握りしめた手拭いが、この男の不安な心を映し出しているようだった。

 既に日は西へと傾き、薄っすらとオレンジ色を見せていた。

「一度、帰りましょうや。最早、今回の事象が竜神の仕業ではなく、仕組まれた陰謀とすれば、今一度、思案せねばなりませぬからなぁ」彰子が言うと、その場の誰もが頷くのだった。

 すると、突然京助が思い出したように口を開く。

「秋芳・・・あいつどうなったかな?」

「良く言うぜ! ・・・お前だろうが、吹っ飛ばしたのは」与一が呆れた顔で京助を見た。

「もう、居らん。此の場にはな、先程気配が消えた」彰子が呟く。

 既に物見衆が連れて逃げたのだろう。しかし、かなりの痛手は負っている筈。

「お前、少しは加減と云うものがあるだろう」与一の言葉に、一同が頷く。

 すると・・・

「あれでも、目一杯加減したつもりだがなぁ」京助の言葉に、皆が驚愕したのは言うまでもない。

「ささ、帰りましょう、帰りましょう」言いながら、岸部が皆の背を押した。

「誰か、与一に手を」彰子が言うと、すかさず側人達が与一の横に付いた。

「有り難いが・・・大丈夫。お気遣い無用にて」

「遠慮するな。お互い様と成るやも知れん」彰子の心遣いが感じられた。

「ささ、早ように皆様」後ろに回り込んだ岸部が皆を()かす。

 すると、辺りを見回し、サッと下がったかと思うと、一人離れた。

「へぇー! 此の場所ですかぁ、秋芳って奴が居た所は。おやまあ、周りの草が千切れ飛んでる」そう言うと、小さく屈み、足元の草を手に取った。

「岸部! 早く来い」彰子が呆れて言う。

「ああ・・・すいません。少し興奮しちまって、なんせ凄いもん見せられたんで」

 彰子に言われ、急ぎその場を離れた岸部に向かい、与一が突然怒鳴った。

「何を拾った? 今何をその手に持っている!」

「え・・・いぇ、ただの草・・・ですけん」しどろもどろで答えると、首筋の汗を拭った。

「嘘を吐くな!」ギロリと睨む与一の視線が、岸部を離さない。

「どうした、与一。何の真似か!」彰子がすかさず窘める。すると、睨まれ(ごう)(かつ)された岸部が、助けてくれと言わんばかりに彰子を覗き込んだ。

「お前! 今、上着のポケットに入れた物、出してみろ」与一の右手がゆっくりと開いてゆく。

「な、何です。一体あたしが何を?」後ずさりしながら、皆のいる場所を静かに回り込むと、突然、勢い良く駆け出した。その速さ尋常ではない。とても五十を越えているとは思えない程の俊足で走り、あっと云う間にワゴンに飛び乗ると、エンジンを掛けるや否やそのまま走り出した。

「与一、これは!」彰子の眉間に、しわが寄る。

「あいつ、秋芳の落とした紙縒りを・・・持って行きやがった」

「何と! 岸部も奴らの仲間と言うか」口元から、ギリっと聞こえた。

「みんな、乗ってくれ。奴を追う!」与一がパジェロのエンジンを掛けると、皆を乗せた。彰子が助手席に座り、シートベルトを締めた事を確認すると、思いきり発進させた。

 一足先にバイクに跨った京助が、リヤタイヤを激しく空転させながら、来た道を登ってゆく。それを見た彰子が叫んだ。

「私のバイク! いつの間に」何と、このバイク、事もあろうに葛城彰子の物だったのだ。そんな事とはつゆとも知らず坂道を登りきった京助が、遠慮もなくアクセルを開ける。

コォーン! かん高い排気音と共に、小気味良くコーナーを抜けて行き、直ぐに見えなくなった。

「与一! 早よう・・・コケたら許しませんぞ、京助どの!」

 とんでもない人のバイクを拝借してしまったようだ。コケない事を祈るのみである。

 岸部の運転するワゴンが、来た道を猛スピードで走ってゆく。コーナーごとに流れる車体を神業の如くにコントロールし、その度に悲鳴を上げるタイヤの音が狭い山道に響き渡り、コダマとなって帰ってきた。

 その音を聞きながら、京助が距離を測る。

「もう、ちょっとか?」左足のつま先が、忙しくチェンジバーのアップダウンを繰り返す。右手に握られたアクセルグリップが見事にシンクロされ、オンオフを歯切れ良く決めている。

くねくねと曲がる山道でバイクを傾斜させる度、外側に突き出した膝が地面すれすれに近づく。よりきついコーナーでは、ノーマルより高い位置にあるにも係わらず、バックステップが路面を擦った。

それにしてもこのバイクは良く仕上げられている。持ち主の、センスの良さが感じられた。それもその筈、葛城彰子は若い頃、三度の飯よりバイクが好きで、レースに夢中になっていた時期もあった。その影響で、弟の真一も車好きとなったのだった。

過激に走る岸部のワゴンが、京助の視界に入り始めた。

(いたいた・・・それにしても、凄い走りだな、プロのレーサー並みじゃないか) コーナー毎、ワゴンを真横にしながら、狂気な走りを見せる岸部のテクニックに驚きを隠せなかった。

 曲がりくねった峠を越えると、緩やかに下りながら(ふもと)へと続く道になる。京助は先行するワゴンの動きに注意しながら、一定の距離を置き付いてゆく。

 麓まで下りきった時、ワゴンが二又の道を左に曲がった。

真っ直ぐ南に下がれば本条に行く筈だが、岸部は山沿いを東へと進路を取ったのだった。

(何処へ行く気だ)土地勘のない京助に不安が走る。と、前方に土煙が上がった。突然、アスファルトの塗装が途切れているではないか。いきなりダートに入ったバイクが安定を失う。流れる車体を両膝で押さえつけると、バイクの挙動を強引に元の姿勢に戻した。

(危なかった)驚異的な運動神経と、人並み外れた動体視力が、僅かな平面を瞬時に見つけ、その方向へとバイクを操ったのだ。飛行機と電車以外の乗り物に乗せたら、京助は天才なのだろう。ちなみに、前者のふたつは運転した事がない。

 それも束の間、先を走る岸部のワゴンがいきなりスピードを落としたかと思うと、唸り上がるエンジン音と共に、後輪が激しく空転した。舞い上がった土煙が小石交じりで後ろに付いた京助に襲い掛った。

パチパチと当たる小石が、顔面を直撃する。たまらず顔を下げると、(わだち)に乗り上げた前輪が京助の意思に逆らい、支える両手を突き放した。

 クゥォーン!空回転したエンジン音が響き、京助の体が前方へと飛ばされて行く。それを追いかけるように、横倒しになったバイクが滑っていった。

 とっさに受け身を取った体がゴロゴロと転がり、ようやく止まった。飛ばされた場所が、長めに生えた草むらだったのが幸いしたらしく、何処も痛みは感じられない。

「参ったな・・・」一人呟くと、ゆっくり立ち上がり、首を左右に振りながらジャケットとジーパンに付いた土埃を(はら)った。

 同じく草むらに突っ込み、倒れているバイクを引きずり起こすと、すぐさまエンジンを掛ける。キュルキュルと回るセルモーターが、直ぐにその心臓を目覚めさせた。

 壊れた所がないか一通り確認すると、クラッチレバーのエンドにある丸い部分が折れて無くなっていた。

(多少短くてもクラッチは切れるから、まあ、いいか)いいわけない!

 少し後方から、この有様を見ていた彰子が叫んでいる。

「コケた! コケおったぁ! 何とする・・・京助どのおぉ・・・」パジェロの中いっぱいに彰子の落胆の声が響いている。

 側人達は、係わりたくないのだろう、誰もが下を向き・・・耳を塞いだ。

 与一の運転する車を見つけた京助が、手を振りながら思いっきりの笑顔を向けた。その姿を確認した与一が、ポツリと言った。

「・・・阿呆だ・・・」すると、

「与一! 何をしておる。急げ、早よう、早よう」彰子が怒鳴る。

(あいつ・・・死んだな)右手を胸の前に置くと、悔やみの仕草をする与一だった。

 そうとも知らず、京助は見失った岸部のワゴンを探すべく、バイクを道なりに走らせた。幸い、一本道のようだ。

 相変わらずのデコボコ道を、轍に気を配りながら暫く進むと、先の左手にうっそうと立ち茂る竹林が見えて来た。強めの風が、乱立する竹の群れを揺らし、その向こう側をチラホラと見せている。その隙間から、朱で塗られた鳥居が見え隠れしていた。

 左側に軽く腰を落とすと、その鳥居までのコーナーを曲がってゆく。

「こいつ・・・こんな所に」京助は、鳥居の前に無造作に止められているワゴンを見つけた。余程焦っていたのだろうか、ドアが開けっ放しのまま、乗り捨ててある。

 剥げ掛けた朱塗りの鳥居の片側にバイクを寄り掛けると、そこから続く石段を上がり始める。多分、岸部も此処を上がった筈。

 注意深く辺りを見回しながら、慎重に足を運んだ。さほど長くもない石段を上がりきると、異様なまでの雰囲気を放ちながら、そこに立っている社殿が見えた。恐ろしく長い旅をして来たのだろう、至る所がひび割れ、朱の漆も所々剥がれ掛けている。それでも、手厚く祀られている向きが、はっきりと感じ取れた。

(あの男、此処に何しに来たんだ。偶然逃げ込んだとは思えない)

 未だ正体の分からぬ不安を抱えながら、ゆっくりと目の前の社へと近づいてゆく。

 既に、随分と時が経ったのだろう、薄暗くなった辺りは、人影さえも映さない。すると、突然京助の足が止まった。何やら下の方が騒がしい。

「此処じゃ、此処じゃ! 早よう止めぬか」京助が拝借してきたバイクを見つけた彰子が、大騒ぎをしている。呆れた与一が、そのバイクの横へとパジェロを止めた。

 飛び出した彰子が、脇目も振らずバイクに走り寄った。

「おお! 何と、傷だらけではないかぁ! ああ・・・カウリングが割れとる!

ええぃ! 高くつきますぞ、京助どのおぉ」その場に居る者達は、誰一人として、彰子と目を合わせる者はいなかった。

「西方の姉様! ささ、行きますぜ」見かねた与一が先頭に立ち、石段を上がり始めると、ぶつぶつと何やら言いながら彰子も続いた。その左右と後方には、側人達が彰子を守護するようにピタリと付いている。

 上がりきった先には、にやけ顔をこちらに向け、京助が立っていた。

「京助ぇどぉーのぉ!」身を乗り出した彰子の体が一瞬、止まった。与一の右腕が彰子の前に突き出され、その勢いを制止したのだった。

「今はそれどころじゃあ、ないのでは?」与一の言葉に渋々従った彰子だったが、石段を上がりきり背筋を伸ばすと・・・言った。

「後でお話しが御座いますゆえ・・・京助殿」それだけ言うと、気を取り直し、皆に向かって言い放った。

「心して事にあたれよ。良いな!」付き従う側人達が一斉に頷くと、どっぷり暗闇に落ちた影の中へと、四方八方消えて行った。

「で、岸部って奴は何処だ」先に来ている京助に向かって与一が尋ねると、手の平を上に向け、両肩をひょっこり上げた京助が、皆に向かって言うのだった。

「わからん!」

「な、何がわからんと。お前、先に来ているのだろうが」呆れた与一が、思わず声を荒げると、それに続き彰子も尋ねる。

「此処に入ったのであろう?」

「と、思うんだけど・・・そいつが乗って来たワゴンも止まっているからな」

「お前・・・見てないのか!」

「ああ・・・着く前にコケちゃったからなぁ。それで見失った」

「それじゃ、それ! そのバイクわぁ」彰子が言いかけたその時。

「よしなされ、今はよしなされ」与一が窘めた。

 面倒臭い事になったもんだと、心から思う与一だった。

 そんなやり取りの中、突然、社殿の中に明かりらしきものが灯ると、その場の全員が身構える暗がりの中、ぽつりと灯るその明かりの前を、ゆらりと横切る影がある。その影が、社殿に造り付けられた観音開きの表扉をゆっくりと押し広げた。

「皆に言う! 火を灯せ」彰子の言葉に、素早く反応した側人達が、懐より取り出した、芯を練り込んだ蝋に火を点け、境内に数個ある石灯籠に灯した。

 一瞬にして闇が遠ざかる。その中、明かりに映し出された人影が、白い歯を見せ笑っている様に見えた。

 京助達より数段上の社殿に立ちはだかる人影が、下を覗き込むように言い放つ。

「何と、まあ・・・賑やかなこって」その声の主は、紛れもない岸部洋平。

「何故! どう云う事か・・・本条に長く使え、心底信頼されていた筈のお前が、何故にこのような真似をする」言い放った彰子の血走る視線が、岸部の姿を捉えた。

 笑っていた。やはり、岸部は笑っていた。にたりと笑うと、ぺろりと舌を出し、また、にたりと笑う。こんな岸部は見た事が無い。異様とも思える仕草に、彰子の全身から汗が噴き出した。

 岸部の様態を目にした与一が、嗚咽交じりで叫ぶ。

「こ、これは・・・骸掛け・・・か」物見衆の一人、文吾が掛けられた術。

(まさかな、この男にまで掛けていたとは、秋芳めが! 小賢しい真似を)

 その間にも、ギリギリとおかしな音をたてながら、岸部が近づく。

「間違いない・・・この男も骸掛けの術中にはまっているぞ!」身を屈めながら、今一度、与一が叫んだ。

 皆が身構えたその時だった。

「あーはっはっはぁ!骸掛けとな? ・・・よう御存知で、さすが根岸の血族」

 岸部の吐いた、裏切りのような言葉だった。

「な、何だと! 秋芳が掛けた術ではないのか」戸惑う与一の足が、一歩下がった。

「クックク! その術は、わしが教えたものだ。秋芳は中々筋が良かった」

「お前・・・何者! 岸部では無いな」彰子が叫んだ。

「秋芳に教えただと・・・ま、まさか!」与一が絶句する。

「その、まさか・・・かもなぁ。ふっふっふ」そう言う岸部の足が、降り始めた社殿の手前、拝み処で止まった。

「与一! この者はなんじゃ、何者じゃあ!」通る声で彰子が問うた。

「こ、こいつ・・・こいつは」唇が震えて言葉にならない。

「ええい! 与一、たわけた顔をするでないぞ。はっきりせんか!」彰子の激が飛んだ。

「おうおう、相変わらず勇ましいこって。気の強さは母親譲りかの」左右の肩を交互に上げ下げしながら、目の前の岸部で在り、岸部では無い男が言った。

「何故に・・・我が母を知っている!」

「知っているとも、ああ、ようく知っているぞ・・・忘れるものか」

「お前、何を言っている!」彰子の眉間に浮き出たしわが、今にもパチパチと鳴るのではないかと思わせる程に、寄り吊り上がった。

「お前の母だ。母親の葛城杏子(きょうこ)! そいつが、わしを、わしを・・・俺を幽閉しやあがった!」此の場で仁王立ちするこの男、こいつの正体とは。

「な、何と!」

「おおよ! ・・・俺が、剛座よ! 初音に閉じ込められた・・・物部の剛座よ!」

 此の場に居る全員に戦慄が走った・・・ただ一人を除いて。

「なあ、あんた。何でこんな事をするんだい。まさか、復讐ってか?」

 脳天気な京助の言い回しに、誰もがこの男の死を確信した。

「復讐だと? クックッ、俺は十六から十五年間! 外から封印された狭い屋敷の中で、一歩も出ること(たが)わず、朽ち果てて居ったのだぞ。ところがだ、或る日、一人の男が尋ねて来た。おれは歓喜したさ。言葉巧みにさ、何も知らないそいつに、(ふう)(もん)(ふだ)を取り除かせると、俺はそいつと取って代わったのさ。岸部洋平と言う奴だ」

「何と! 取って代わっただと」彰子の口元が、ギリッと鳴った

「ああ・・・その日から俺は岸部になった。そんな時さね、秋芳のガキが来たのは。こいつ、俺が岸部と言う奴に取って代わった一部始終を、見ていやあがった・・・何と言ったと思う? 秋芳はこう言ったのさ、黙っていてやる、その代わり、禁言呪を教えろ。と、な」

「そんな・・・そうまでして」与一の絶望的な声が聞こえた。

「俺は言ってやったさね。教えるさ、喜んでな・・・そう言ってやった。奴は舞い上がったねぇ。その日から、俺の()()となったさ」

「何てこった・・・邪に満ちたこいつの力、受け継いだと云うのか」

 組まれた与一の両腕が、自らの脇を硬く締め上げている。目の前の恐怖を強引に押さえ込んでいるようにも見える。

「おっと、勘違いするなよなぁ、全てを教えた訳じゃあないわさ。秋芳のガキに伝授したのは、まあ、四割程度か。半分にも届かないさね。それでもあいつは、とんでもない力を手に入れたと思って、そりゃあ、有頂天だったさね」

 あれで四割! この男の計り知れない力と云うものは、此の場に居る者の脳裏に、死を予感させるには十分だった。

「分っからないなぁ・・・復讐のつもりなのか? あんたが恨み辛みを言いたいのは、二つ坂だっけ? そこの連中だろ、何で、葛城さんなんだ。それも今!」首を傾げ、眉間に寄ったしわを人差し指で掻きながら、冷めた言葉で京助が尋ねた。

「クックックッ! 俺は待ったさ。本条葛城家に入り込み、この日が来るのをなあ。待ってみるもんだなぁ・・・ようやっと、本条の娘に竜神祭の嫁役が廻って来やがった。さっき、お前、復讐かと聞いたな。あっはっは! そんな事はどうでもええんだわ。俺の望みは、そう、俺の欲しいのは・・・此の土地。

此の、月夜野よ!」

 ざわっと、鳥肌が立った。とんでもない事を言い放ったもんだ。復讐でも、恨みでもない。こいつは、そう、野心の塊なのだ。そして、学習したのだろう。四十年前、自らの身に起こった事について、同じ過ちを起こさないようにと。決して己と云うものを表に出してはいけないと云う事を。

 そこで、秋芳が利用された。こいつの術中にはまった秋芳は、意思を持った木偶にされたに違いない。だから、きっかけが欲しかったのだろう、秋芳達、物見衆が堂々と葛城家に乗り込めるきっかけが。

 しかし、こいつらに想定外の誤算が生じた。来るはずのない与一の存在だった。二つ坂の長を継ぎ、此の場に現れた。一番焦ったのは秋芳だった筈、兄弟子の与一が長となってそこに居る。悪い予感は的中する。神卸ろしの祈祷中、降りたとされた竜神が、まがい物だとバレた。計画は大幅な変更を余儀なくされ、焦った秋芳が最後の手段に走った・・・剛座の為の結界外し。

 牡丹池の辺に在る、小さな祠の中に納められている嫁役の紙縒り、これを取り出せるのは、此の地の神官と、二つ坂の一部の人間だけだ。

 物見衆の頭領で在る秋芳にも、当然権利は与えられていた。呪を掛け封印されている此の祠から、他の者が取り出すことは不可能なのだ。故に、剛座自らが手を出さなかったのだろう。いや、出せなかったのだ。

 物部の剛座は四十年前、破門された身。この紙縒りが存在する限り、己の力は、此の地では使えない。それにこの祠は常に神官で在る天の宮一族により、監視され、保護されている。が、この竜神祭が執り行われる月だけは、牡丹池には何人も近づく事が許されない。

 この機を、秋芳は狙ったのだろう。しかし、思わぬ展開でしくじった。

 あわよくば秋芳の術で、葛城家の娘どもに偽の紋章を浮かび上がらせ、皆を恐怖のどん底に落とし入れた後、全てを竜神の望みと称し、本家で在る本条葛城家乗っ取りを企てた剛座にとっても、予想外だった。

「いやいや、秋芳のガキには、がっかりした。いとも簡単に見破られるとはなぁ、揚句はこの様じゃて。しかし、あいつも馬鹿なガキよ、俺の言うた事を全て鵜呑みにするとはな。師弟の関係ってのは有り難いもんさね。クックックッ」

「おのれ、剛座ぁ!」腹の底から絞り出すが如きに、与一が吠える。

「紙縒りを・・・どうした」言った彰子の束ねた髪が、シンシンと(かす)かな音をたてながら、逆立ち始めた。

「俺の・・・腹の中さね」にたりと笑う口元から、チロリと舌が出る。

「おい! 大変な事じゃないか。聞いてれば、そいつの封印が解けた見たいじゃあないか。どうするよ、皆さん」

 相変わらず脳天気な京助の言い回しに、とうとう彰子の側人達から非難の声が上がった。その中の一人が、

「京助さん! いい加減にして下され。そんな言い回しをされると、集中力を保てませんわな」

「えー! じゃあ、どんな風に言えばいいのかなぁ」

「おい! いい加減にしろ!言い争ってる場合か」与一の真剣な顔つきを見て、少し反省する京助だった。

「お前ら・・・五月のハエだなぁ」冷ややかな剛座の視線が、全てを凍てつかせるように降り注いだ。

「何だ? 五月のハエって」京助が彰子に尋ねた。

五月蝿(うるさ)いってことですよ」彰子は呆れた顔で振り向くと、静かに言った。

「あ、そう・・・うるさいってか」左の薬指が京助の唇に触れている。

「おい! 剛座だか黄砂だか知らないが、俺は絶対許さないからな。お前のつまらん野望で、どれだけの人が苦しんだと思っているんだ。お前のような奴は、この世に存在しちゃあいけないんだ」京助は本気で怒っている。力の弱い者が、いつも被害者になる事に。そして、珍しく先に仕掛けた。

「ミ・ヨ・ホ・・・ンとなりて、ト・ガ・きする・・・(すい)()」青白く輝く指に絡みつき放たれた怒りの言霊が、周りの空間を捻じ曲げながら地を這いずり、先に構える剛座目掛けて一直線に飛んでゆく。

 ギュッイーン! 水平に渦を巻きながら、剛座に近づく。最早、この速さでは、剛座とて回避は出来ないだろう。

ガギュウーン! ・・・直撃した。

剛座を芯とした周りの景色が、空間と云う巨大な鏡が砕け散ったように、石灯籠のあかりの中、ギラギラと乱反射を起こしている。大いなる力が、その場を支配しているのだろう、チリチリと細かな音をたて、存在を主張する。

「やったか!」身を乗り出した与一が叫んだ。

「いや・・・まだの様だ」京助が身構えた。すると、

 ジィッーン! ・・・シンバルを打ち鳴らしたような音が響き、景色が元へと戻ってゆく。

 片膝を付き、右腕で顔を覆った剛座の姿が、社殿前の拝み処に見えた。

 やはり、致命傷にはなっていないようだ。それどころか、かすり傷もないように見える。

 ゆっくりと立ち上がった剛座の顔から、満面の笑みがこぼれている。その理由は直ぐに分かる。

「御馳走さんよ。クックックッ・・・グフッ! ・・・ガハ!」

 両手で押さえた口の中から、その手の隙間を掻い潜り、真っ赤な鮮血がほとばしったかと思うと、足元を染めた。にも、係わらず、大きく息を吸い込むと、また、にたりと笑うのだった。

「驚いたさね。いやいや、恐ろしい程の念圧だったさ。秋芳もこれじゃあ敵わん筈さね。是非に、お前さんの師匠を知りたいもんだがねぇ」そう言うと、(かかと)で地を(なら)し、トントンと小さく飛び跳ねた。

 まさか、兄、恭二の書いたマニュアルです。と、言える筈も無い・・・。

この時、京助の危険予知回路が、最高値を示した。

「さあーて、入った、入った。頂きましたよう。おお・・・痺れますなぁ」

 恍惚の表情で、剛座が天を仰いだ。

「お前、何を言ってるんだ。動くなよ、まだまだ行くぞぉ」

京助の指が、薬指から中指に替った。今度は先程より長く呟く。じっくりと練られた言霊が、今一度、青白い巡り火を伴いながら京助の口元から放たれた。が・・・何も起こらない。二人の間の空間が沈黙を続ける。

「あれあれ・・・どうなさったかねぇ。言霊使いのお兄さんよう」剛座の言葉には余裕が見て取れる。そこでようやく、京助は事の重大さに気が付いた。

「しまったぁ! やっちまったぜ。ああ・・・何てこった」珍しく、圭子の事以外で頭を抱えている。

「おい! 何だ。どうしたって云うんだ」

京助のただならぬ雰囲気に、与一が戸惑っている。そこには、先程まで見せていた妙に自信たっぷりの、ふざけた男の姿は無かった。

「クックックッ! だから、御馳走様と言ったさね」口元から滴り落ちる血を袖で拭いながら、見開いた目で辺りをぐるりと見回した。

 石灯籠の明かりに照らされた剛座の顔が、まるで、今まさに、人でも食い殺したかのような鬼面相に見えた。既に、直視出来る者はいないだろう。

「おい、みんな逃げろ! とんでもないのが来るぞ」そう叫びながら、くるりと向きを変え、一目散に走り出した京助だった。

 この男が、とんでもないと言うのだから、さぞ、ヤバイのだろう。境内の中が蜘蛛の子を散らしたような状況になっている。

「あっはっは! 逃げろ、逃げろ。さあー、ゆくぞぉー」真っ赤に染まった剛座の口が、これでもかと大きく開く。裂けた喉の奥から鮮血をほとばしらせ、京助の放った言霊を呑み込んだ口が、強大な念圧を放出した。既に、その音は無言呪となり、何も聞こえない。

 地から始まった振動は、小刻みに増幅しながら、その場に立っている事を許さない。

 明かりの灯る石灯籠が、ひとつ、またひとつと、倒れてゆく。その度に、言満神社の境内が、闇に戻ってゆくのだった。

 少しずつ捻じれてゆく空間の中で、細く尖った針のようなプラズマが、辺り一面に降り注ぎ始めている。京助の放った言霊を呑み込んだ剛座が、粉々に噛み砕き、ここに放出したのだ。当たれば只では済まないだろう。

「一体、どうなったんだ・・・おい、答えろ」同じ方向に走りながら、京助の顔を覗き込み、与一が聞く。

 だだっ広い境内の隅にある休み処へと走り込んだ京助が、肩を激しく揺らしながら、整わぬ息で言うのだった。

「鏡返りって、知ってるか? 奪っちまうんだよ」

「神言行で言う所の、(ふう)(ごん)(じゅ)のようなものか?」

「そっちの意味は分からんけど・・・つまり、今のように、放った言霊を取られちまうって事さ。それだけじゃあない。奴は、そいつを逆に放った。それが、鏡返りってやつさ」

 悔しさと、自分の未熟故のドジさ加減に、腹が立つのだった。

「おい・・・お前、それって、本気でヤバイんじゃないのか」与一の唇が、血の気を引いている。

「ああ・・・本気でヤバイ」さてさて、どうしたものかと思案するのだが。

「そうだ・・・与一! さっき言ってた封言呪って、どんなやつだ」

「おいおい、手の内を見せろってか」苦笑いをした。

「そんな事言ってる場合か! 教えろよ」突っ込む京助に、与一が渋々答える。

「封言呪ってのは、先読みが出来なきゃあ使えない術よ。相手が掛けて来るであろう呪言を寸前で読み、それを瞬時に封印する術さ」

「で、勿論、お前出来るよなあ」

「俺は、無理!」与一が、きっぱりと言い切った。

「何だってぇ! お前、長だろ」呆れ顔で京助が詰め寄る。と、

「出来ない事だって、俺にもある」堂々と開き直るのだった。

 その間にも、剛座より打ち放たれた京助の言霊が、境内の所々で暴れ回っている。彰子を含め、その場に居る者達は、只、逃げ回るしか(すべ)が無かった。

「おい、お前。京助! 何とかしろ・・・西方の姉様がヤバイ事になってるぞ。

お前の術だろうが、それとも・・・もう、消えるのか」与一の焦りが、京助にも伝染する。

「いや、あれは狙った目標が消えるまで暴れ回る、(すい)()(じゃ)(ごん)だ」

「何でもいい、何とかしろ。このままじゃ皆、やられちまうぞ! 京助、お前の術でな」

 京助は与一の言葉に背筋が凍った。確かに、このままだとまずい事になる。

ひとつの方法を除いて。しかし、あれは、あれだけは、やりたくなかった・・・だが・・・

「与一、出るぞ! なるべく目立つようにな」そう言い放つと、闇が広がる境内の真ん中へと、躊躇いなく飛び出して行った。

「何をする気だ。目立つようにって、何だ?」訳が分からないまま、与一も続く。

 念圧で散らばった言霊の波動を躱しながら、境内の中程まで来ると、いきなり腰を屈め、合わせた両手を口元に置いた。

「与一! 後ろで支えてくれ」京助が叫んだ。

「お、おお!」言われたままに後ろへと回り込んだ与一が、その肩を支える。

一箇所だけ大きく歪んだ空間の塊が、蛇のように長く伸びたかと思うと、京助目掛けて襲い掛った。

 口元で合掌された両の手の、僅かに開いた隙間を通して、新たな言霊が京助の口から放たれた。

 ズズズーッ! 鈍い音を引きずりながら、手の平に広がった隙間目掛けて、蛇言の言霊が滑り込む。

「アグッ!」今にも砕け散るのではないかと思わせる程、京助の顔が歪んでゆく。顔中の血管が浮き上がり、パリパリとおかしな音をたてている。

「な、何て念の圧力だ・・・支えきれるか」全身をバネのようにしならせ、与一が全力で京助を支えている・・・と、

 シュウッンシュー! 終息の音と共に、京助の体が、がくりと前に崩れた。

「危ねえ!」直ぐに与一が抱え込む。

「おい、大丈夫か? ・・・おい」後ろから抱え込んでいる与一には、京助の表情が分からない。

「もう、最悪だ!」京助が悪態を吐いた。

「何だ、生きてるじゃないか」ほっとした顔で、抱えた腕をゆっくりと離した。

 境内が再び静寂を取り戻してゆく。

 両膝を突き、両手で顔を覆った京助の前へと回り込んだ与一から、驚きの声が上がった。

「おい、お前、その顔!」言ったが早いか、口を押え絶句する。

「大丈夫かえ、京助どの」急ぎ、その場に駆け付け、心配そうに京助の顔を覗き込んだ彰子が、いきなり腹を抱えた。

「な、何と! あは、あっははは・・・」笑った。

 耐えていたのだろう、彰子の笑い声に、与一もたまらず笑い出す。

「何だよ、何が可笑しい。ああ、分かってるさ。だから嫌だったんだ」

 皆に笑われた京助の顔は、まさに風船のようにこれでもかと膨れ上がり、尖がった唇は、まるでヒョットコの面そのものだった。

 笑いの渦が境内に響き渡る。

 よりによって、一本だけ残った石灯籠が、京助の顔を照らしながら、誇らしげにあかりを灯すのだった。

 その場に座り込み、照れているのだろう、真っ赤になった顔を両手で覆い隠した京助が、うな垂れている。

「お前、クックッ・・・何をしたんだ」涙を袖で拭きながら、気を取り直した与一が、顔を背けたまま尋ねる。

「同じ事をしてやった・・・剛座って奴と同じ事を」一生懸命、頬を擦りながら京助が小さな声で呟いた。

「へえー! 呑み込んじまったってか」与一が驚嘆する。

「返して貰っただけだ」短く反論した。

「さぁーて・・・どうしたもんかねぇ。同じ術使いときたもんだ」拝み処でこの様子を眺めていた剛座が、腕を組み替え、渋い顔でこちらを睨んでいる。

 その時だった。京助がいきなり立ち上がったかと思うと、くるりと皆の方を向き、思いっきり右の眉を上げながら言った。

「まずい・・・今度は本当に、まずい」左右にキョロキョロと動く両目が、この男の焦りを物語っている。

「何がまずいんだ!」与一の言葉が終わらない内に、京助が叫んだ。

「次の奴は、さっきよりでかいぞ!」

「次の奴って・・・お前!」

「蛇言が効かなかったと思ったからなぁ、それよりでかい龍言を打った」

「何と!」彰子が驚きの余り、仰け反った。

「やっぱり、逃げた方がいいのか?」神妙な顔で与一が尋ねた。

「チッ!もう・・・遅いな」グッと喰いしばった口元に、京助の覚悟の程が伺える。

「何でお前、封言呪ってやつが出来ないんだぁ」与一を責めた。すると、その場で聞いていた彰子が、二人を見ながら、

「何じゃぁ、封言呪とな・・・得意ぞ」さらりと言った。

「よっしゃあ! 決まり。やるぞ」彰子の言葉を聞いた途端、京助の両手が天に向かい、ガッツポーズをする。

「そうかぁ・・・姉様がいた」与一が呟いた。

「で、何をする気かえ? 京助どの」そう聞かれ、待ってましたとばかりに、言うのだった。

「剛座の奴が喰っちまった俺の言霊、必ず打ってくる。早々長くは腹の中に納めて置けるもんじゃあない。その時を狙う! 俺達であいつを引き付けて置くから、彰子さんは剛座が放つ寸前、呪言を読み、放たれる前の言霊を封印してほしい。出来ますか?」

「やらねばなるまいのう・・・だが、いつまで堪えるか?」

「それで、どうするんだ」不安げに与一が尋ねる。

「彰子さんが止めている間に、与一は剛座の後ろへ回り込み、俺とお前で挟み込む。俺が合図を送ったら、彰子さんは封印を解いて下さい」

「俺は、どうする」

「与一は、渾身の一撃ってやつを、剛座の背に打ち込んでくれ」

「分かった。だが、それをやるには、奴を社殿から降ろさなくてはならんだろう」

「そこさ・・・彰子さん、あいつの足元に気を打ち込むよう、子分さん達に言ってくれませんか」

「あい分かった!」言うと、その場を下がり、彰子は暗闇へと消えて行った。

 いつの間にか、混濁するこの修羅場を、京助が仕切っている。

「さあ、やりますかねぇ」京助の言葉に、与一が小さく頷いた。

 社殿の明かりがユラユラと揺れている。背に立つ剛座の影が、ゆらりとなびき、その影がまるで黒い炎のように、本体の姿を覆っている。

 真正面に立った京助の目の中に、ギラギラと妖しく光る剛座の殺気だった姿が映っていた。

 これから始まるやり取りに、京助の胸は虚しさでいっぱいになっていた。だが、やらなくては終わらない。

「一体、誰が悪いのやら・・・」一人、呟いた。

「ほほう、覚悟を決めやしたかねぇ」(まばた)きもせず、気負う事なく剛座が言った。

じり、じり、と、与一が京助から離れてゆく。程なく、その姿も消えた。

 社殿、左右の暗闇が微妙に歪んだかと思うと、仁王立ちする剛座の足元に衝撃波が届く。と、伸び上がった身体が放たれた気を躱し、社殿の下へと着地した。ここまでは、狙いどうり。

 空を切った波は小さな渦を巻き、消えて行った。

 京助の目の前に、剛座が居る・・・

「どうするつもりさね?」威圧する精神波を抑えきれないのか、この男の体から溢れ出ている。

(こいつが・・・剛座! 目の前に在る禍々(まがまが)しさ、まるで無理矢理、口の中へと砂の塊をねじ込められたような、強烈な不快感!)京助のセンサーが、危険値いっぱいを示している。

(こいつは・・・ヤバイ!)気付くと、後ずさりしていた。

「どうしたぁ、先程までの威勢は何処にいった」ズズーッと近づく剛座の影に、京助はまた一歩、後ろへと下がった。

「まあ、いいさね。頂いた物は返さんとなぁ」にたぁーりと笑う。

(来る!)身構えながら、何処からか目を凝らし見ているであろう彰子に、右手を高く上げ、合図を送った。

 一つだけ残った石灯籠の明かりが、剛座の口元を、ボォーッと照らしだす。

 すると、グギャンと右に曲がった顎が、直ぐに左に曲がり、また、グギャンと元に戻った。その瞬間、裂けんばかりに開いた口の奥から、何やら微かに聞こえた・・・呪言だ!

 ビシャーン!ジャッ・・・ジャッ! 破れた喉の奥から、大量の鮮血がほとばしった。

「グゲェーッ!」両手で首を絞める様に押さえ、両目を見開いた剛座が、目の前でもがき苦しんでいる。

 彰子の仕掛けた封言呪が、見事に決まっているようだ。

「今だ!」剛座の後ろを取っているであろう与一に向かって、叫んだ。

 既に、神言行を唱え終わった与一が放つ渾身の覇気が、剛座の背のど真ん中を直撃する。

「良し!」右腕を突き出した京助が、左の中指を唇に当てると、低く言霊を呟き、放った。

 飛び出した言霊は、青白い巡り火を伴い突き出された右腕に絡みつく。

「彰子さん、もういい!」闇に向かって叫んだ。

「グフゥーッ! ・・・何を・・・し・たぁ」鬼の形相となった剛座の口が、再び大きく開く。すると、飲み込まれ、体内を巡りきった京助の言霊が剛座の裂けた口から飛び出して行った。その龍言の言霊が、宿主である京助の突き出した右腕へと、一直線に滑り込んだ。

強烈な波動の衝撃に、膝が崩れ、しゃがみこんだ京助の右腕から、ギギッ!ギギッ、と、骨の軋む音が響く。苦痛に耐えながら、巡った波動の静まりを待った。

「ゲェー!」耐えられず・・・吐いた。

「ああー、気持ち悪い」痺れが残る右腕を擦りながら、ヨロヨロと立ち上がると、直ぐ目の前にぼやけた影が浮かんで見えた。

 その影は無防備にも京助に背を向け、前屈みになっている。背の真ん中あたりが、チリチリと音をたて、焦げ臭い匂いと共に、白い湯気のようなものまで立ち昇っていた。

「ゲホッ! ゲホホッ、ウーッ!」剛座の咳き込む声が、まるで呪文のように暗い境内に響く。

 背を向けたその影が、大きく肩で息をしながら、ただ一点を見つめているようだ。と、いきなり、念圧が上昇した。

「逃げろ! そこから逃げろ、与一!」京助が叫ぶ。が、既に何かが剛座より放たれている。

 ドッグーン! 吹き飛ばされた与一の体が、社殿に上がる階段の中程に横たわる。

 明かりの届かない暗がりの中、その場の状況が掴めない。

「しもうたぁ、今のは・・・まるで読めんかったわ」闇の中、両手を握りしめた彰子が呟いた。

「はあぁ、はぁはぁ」荒い息を吐きながら大きく肩を揺らし、ゆっくり立ち上がると、右へ左へと首を曲げながら剛座が振り向いた。

 京助の全身を、初めて戦慄が走った。身の毛もよだつ風貌は、最早、人と呼べる範囲を逸脱している。

 カッと見開いた両目の奥に宿る暗黒が、全てを無に帰す虚無の如く、此の場に存在する筈の生までも、否定するかのように広がっている。

 裂け切り、血を噴き出すその口を、長い舌が這いずりながら、ぞろーり、ぞろーりと舐め回している。

 全身に感じる狂気を目の当たりにして、京助が後ずさる事を誰が責められるものではない。

(おっかねえ! ・・・こいつは、まじでヤバイな。俺、殺られるかも)

 弱音を吐いたと同時に急降下する戦意を、潜在意識が、かろうじて支えた。

 闇に身を置く彰子も側人達も、石灯籠の明かりが照らす剛座の異形に、全身凍りついたまま、暗闇の中、身動きも出来ず固まっていた。

 すると、突然剛座の体が傾いた。崩れた左の足元に、念波の渦が巻いている。

「どうしたよ! ・・・もう、降参かあ」与一だった。痙攣する左半身をかばいながら、右手一本で気を放ったのだ。

「大丈夫なのか? 大丈夫じゃあ、ないみたいだな」気遣う京助に、

「俺の事はいい。それより、早くやっちまえ」激しい息遣いの中、それでもにやりと笑い、与一が言う。

 京助の中の何かが音をたてて弾けた。喪失した戦意が戻り始める。

「化け物と・・・呼んだ。俺の事を、呼んだ。化け物と」絞り出すように剛座の裂けた口の中から聞こえて来る。

 今から先、おそらく無差別に言霊を飛ばして来るだろう。

 京助が身構えた瞬間、それは的中する。強烈な禁言の裏言霊が、行く筋もの軌跡を刻み討ち放たれた。その矛先には、荒い息で座り込む与一が居る。

「何てこった!」京助が叫ぶ。半身半傷の体に、今、直撃すれば、間違いなくそれは・・・死を意味する。

 唇に指を付け、必死の形相で言霊を練る。

「だめだぁ! 間に合わない」与一目掛けて襲い掛った。すると、突然暗闇が裂け、中より現れた幾つかの影が、社殿の上り口で倒れ込んでいる与一の両脇を抱え込むと、疾風の速さでその場を離脱したのだった。

 空を切られた言霊の群れが、社殿を上がった拝み処の床を、轟音と共に木端微塵に破壊した。

「え、彰子さんの・・・子分か?」そう呟いた京助の言葉が、直ぐに否定される。

「お師匠! それは無いわさ」何処かで聞いた声がする。

 黒く塗りつぶされたような境内の隅から、一つの影が近づいた。たった一つ残った石灯籠の明かりに、ぼんやりと照らされた顔がにたりと笑っている。

「お前! ・・・何で?」京助が驚きの声を上げた視線の先に、薄手の白い羽織を纏った秋芳が現れたのだった。

「京助さんと、言いなさったか? ちいっとばかし時を貰いますぜ」そう言うと、足音ひとつたてず、京助と剛座の間に割って入った。

「何て様ですかい。お師匠ともあろう人が、御見苦しいこって」定めた視線が、目の前の変わり果てた剛座に冷たく突き刺さる。

「秋芳ぃー! クックッ秋芳ではないかあ・・・この親不孝者めがぁ、何処ぞに居ったぁ」

「あたしの親だって? いつからですかい」血走る瞳が怒りを伴い、小刻みに震えた。

「まだまだ、修行が足りませんなぁ・・・あたしも」体半分捻りながらも、視線は外さない。

「何をして居るさぁ。殺れ! 秋芳・・・こいつらぁ全員お前に仇名す者だぞ」

 剛座が怒鳴った。それを聞いた秋芳が、耳をほじりながら視線を外し目を伏せた。そして、ゆっくりと顎を持ち上げると。

「黙りゃがれ! この、千両役者気取りがあ!」睨みつけたまま、吠えた。

「騙しゃあがって、てめえ! あたしを騙しゃあがったぁ! 許さねえぞぉ」

「クックックッ! なぁーにを、許さないだってぇ。ケッ、まんまと騙されやぁがって、しかし・・・残念だったさ。もう少しの所だったのになぁ」

 剛座が顔を傾げた方向に、ポタポタッと、どす黒い血液がこぼれ落ちた。喋る度、喉の奥から流れ出る血が、裂けた口の中に溜まるのだろう。

「何処までが・・・嘘なんだ?」言いながら、秋芳の右手が印を結ぶ。

「ギイーッハッハッハ! ぜーんぶ・・・う・そ・だ・・・あーはっはっはぁ」

「チッ!」

「何て事だ。最低、最悪だぜぇ」京助の憤りが、声となって出た。

(だが、本当に全部嘘なのだろうか? では、君子の左目に押し込められた十数代前の死念は?)

「そうだ、全部嘘さね。俺が仕組んだ筋書に、まんまと踊って頂き、有難うさんよ。まあ、こうなっちまった事は誤算だったがな・・・後はしょうがない、力づくよ」

「もうよせ! 剛座。これだけの術師に囲まれて、いくらお前でも敵わんだろうに」いつのまに付いたのか、彰子の姿が京助の横にピタリと在った。

 彰子の言う通り、剛座を取り囲む側人達の気が、この場に高まってゆくのが感じ取れる。

 そして、もう一つの影たちが潜む息遣いも、この闇に感じるのだった。

 秋芳を頭とする、二つ坂の物見衆達。

 ここに、剛座完全包囲網の陣が引かれた。

「無理だ、無理だ! お前ら如きが何人集まろうが、俺を倒すなんざあ、愚の骨頂よ!」

「かまわぬ! 動いたら打て、遠慮はいらん! 全力で打て」彰子の号令が掛った。

「さぁーて、さて、皆の衆。こちらも全力で行きましょうや。お師匠! この代償、高くつきやすぜぇ」印を結んだ秋芳の右手が、口元に触れている。

「クッ! 小賢しいわ。俺は剛座! 物部の剛座ぞぉ!」

 胸の前でクロスした剛座の両腕が、一気に両外に開いた。右と左で機を狙っていた側人の二人が、放たれた念圧により、暗闇の中、その意識が消えた。

 時を待たずして秋芳の禁言呪が、剛座の顔面目掛けて飛んでゆく。

 そのままの態で大きく口を開けた剛座が、ニタリと笑った。

「まずい! 喰われるぞ」京助が叫んだ。

 すると、秋芳が大きく右手を回した。何と、その瞬間、剛座の顔面目掛けて飛んだ言霊が、ギューンと回り込み、隙だらけの脇腹を直撃したのだった。

「グウーッ! ゲホッホホッ」傾いた体が前後に揺れながらも、辛うじて残った。脇腹を押さえながら、態を戻す。

「な、何が起こったんだ!」京助には理解出来なかった。

「京助さんと、お師匠とのやり取り、拝見させて頂きやした。あたしもねぇ、学習するんですよ。これでも」にたりと笑う秋芳に、牡丹池での狂気は感じられなかった。

「グッフ! しゃらくせえ真似を! おめえら、刻みネギにしてやらあ」

 怒りと共に放たれた剛座の言霊が、念圧の波動を絡めながら、激しくこの場に炸裂した。

 無数に広がった狂気の呪が、幾つもの旋風(つむじかぜ)を巻き起こし、まるで、カマイタチの如く皆に襲い掛った。

 右に左にと態を入れ替えながら、再び秋芳が禁言呪を打つ! 放たれた空間を歪めながら突き進む言霊の波動が、唸りを上げて飛び交う剛座の邪気放つ言霊と激しくぶつかり、相殺してゆく。

 ジリッ、ジリッ、チリチリ! 幾つもの念波が四方八方から放たれ、剛座を直撃するのだが、その衝撃は効いていないようだ。それどころか、眼力だけで放たれた念圧が、仕掛けた術者を次から次へと倒してゆく。

 止まらぬ剛座の放たれた力が、じわり、じわりと、この場を制圧し始める。

 荒れ狂う念波に覆い尽くされた言満神社の境内。既に、動ける者は数える程になっていた。

 そして、尚も激しさを増してゆく。

「何と云う力ぞ・・・動ける者はいるか?」彰子の呼びかけが、虚しく闇に消された。

 誰一人返事がないまま、修羅場と化した境内に、絶望が広がってゆく。

「これ程とはのう・・・最早、これまでかの」彰子の悔しさが、歯ぎしりとなって聞こえた。

 留まる事を知らぬ剛座の念波を辛うじて躱しながら、それでも間隙を突き、禁言呪を打ち続ける秋芳だったが、さすがに疲労の色は隠せない。

 足元に放たれた衝撃波が、身体ごと揺さぶった。

「ふんばれ、秋芳!」激が飛んだ。振り向く秋芳の目が、ギラリと光る。

「あにさん!」与一が立っていた。

「気が乱れてるぜぇ、息を整えな」

「ふん、まだまだ行けるさね」体半分捻りながら、秋芳の念圧が上がってゆく。

「おお、与一! 無事かえ」気付いた彰子が小走りに近づき、声を掛けた。

「ぎりぎりですよ・・・ところで、京助の奴は?」

「知らん。何処ぞで倒れとるかも、知れんな」

 その通り・・・京助は倒れていた。少し離れた清め処で、何を思ったのか、お清めに使う柄杓(ひしゃく)を握りしめ、うつ伏せで倒れていた。

 タンコブだろうか? 頭のてっぺんが大きく腫れている。

 そこに、影がひとつ近づいた。

「お前さま、お前さま・・・駄目か。京助どの、起きなされよ! 京助どの」

 秋芳率いる物見衆のひとりが声を掛け、抱き起こした体を揺すった。

「アグッ! 痛たた、あーっ痛い・・・何をするんだ・・・お前は!」

「えーっ! あたしは何も・・・」

「痛っ!」頭のてっぺんを擦りながら、助け起こした男を非難した。

「ど、どうしてこんな所で?」

「どうしても、こうしてもない。喉が渇いたから、ここに来て水を飲もうとしたんだ。そうしたら、チカチカ光るもんが飛んできたから、側にあった柄杓を取って振り回した。その後は、覚えていない」

(・・・もしかしたら、振り回した時に・・・)物見衆の男は、それ以上考える事をやめた。

「おい! 何だ、このプレッシャーは。みんな、何やってんだ!」タンコブを押さえながら叫ぶ男の横で、物見衆の男が、ただ黙って恐縮している。

 間の抜けた声に気付いた与一が、目ざとく京助を見つけた。

 剛座の放つ言霊の念波を、ぎりぎりで躱しながら叫ぶ。

「京助! 何とかしろ。俺達には、限界がある」

 すると、ひとつの衝撃波が、与一の横で援護に回っていた彰子に襲い掛った。

「クッ!避けきれぬか」横っ飛びした体が、そのまま地面に叩きつけられた。

「姉様!」与一が叫んだ。しかし、彰子の体はピクリともしない。

「くっそぉ! 京助ぇー、何とかしろやぁ」怒鳴り声が、境内に響き渡った。

「チッ! 何とかしろって言われてもなぁ。喰われちまうし、打つに打てん」

 暫し考える、すると・・・焦る頭に、何か浮かんだ。

「あ!」

(もしかすると、もしかするかも)

「与一! まだ生きてるか」いきなり飛び出した京助が、暗闇の広がる境内に向かって叫んだ。

「寝言・・・言ってんじゃあないぞぉ。見りゃあ分かるだろうが」息が上がる与一の肩が、大きく上下を繰り返す。

「駄目だ、何も見えない。この物凄い気は・・・剛座か?」

 恐る恐る前に進むと、ガツン! 何かに足元をすくわれ、その場にひっくり返った。よつん這いになりながら手探りで進むと、闇の中、その手に何か触れた。

「うわあーっ・・・な、何だこれ。人かぁ? おい、生きてるか」闇の中、まさぐる手が、倒れている者を確認する。

「え、彰子さんか?」抱き寄せた京助が感じたものは、長い髪を後ろ手で結び、和服の上に羽織を纏う。間違い様のない、葛城彰子だ。

「大丈夫ですか! 彰子さん」必死の呼びかけにも応答がない。

 すかさず脈を取る。

(ヤバイ、脈圧が低い)

「何やってんだ! 目の前だ。剛座が居るぞ」与一が怒鳴った。

 彰子の体をヒョイと抱え上げた京助が、感覚だけで先程の清め処へと走り込んだ。

「おい、さっきの奴。いないか?」

「はい・・・ここに」

「頼む、この人を頼む」そう言うと、物見衆の男に彰子を預けた。

「クウーッ、しぶといのう・・・ちょこまかと。だが、もう終わりにしてやる」

 いよいよ痺れを切らした剛座の念圧が、激しく上がり始める。最後の勝負に出るつもりなのだろう。

言満神社の境内が邪悪な精神波で満たされ、今までにない念の圧力が支配してゆく。そんな中、京助が叫んだ。

「誰でもいい、明かりをくれ」すると、ポッ、ポッと、真っ暗闇な境内に、所々ぼんやりと明かりが灯っていった。

「蝋が薄いんで、長くは持ちませんぜ」秋芳だ。

「ああ・・・十分だ」見開いた京助の目に、念圧で髪が逆立った剛座が映った。

「また、お前か・・・二度はないぞぉ」

「ああ、分かってるさ。これで最後だ」

 明かりの灯った境内に、とてつもなくデカイ気が、此処に二つある。

「打ってみろ! お前の呪を・・・打ってみろ、言霊使い!」剛座が挑発する。

「与一・・・秋芳。倒れている奴らを、この場から離してくれ」

「何をする気だ? ・・・京助」ただならぬ気配を感じ取った与一が、秋芳に目配せすると、素早く行動に移した。

「来ぬなら・・・いくぞぉ」両の手を合わせ、少し歪めた口元が禁言の呪を唱え始める。待ち切れないのだろう、裂けた口の隙間から、ぽろり、ぽろりと、呪を掛けられた言霊達が洩れ、足元に渦を巻いた。

「砕け散れ! 言霊使い」剛座より放たれた禁言の裏言霊が、とんでもない邪を纏い周りの空間を歪めながら、京助に襲い掛った。

「胎なる内、帰すべきに、己の名において解く」京助の内なる封印が、今、始めて解かれた。何が起こるか本人でも分からない。と、同時に、強大な念圧が、真上から圧し掛る。

 瞬時に身を躱すのだが、遅れた左足を激圧が襲った。

「くうっ!」激痛に耐え、直撃された左足を引きずりながらも、回り込む。

 大部分が空を切った言霊の波動が、辺り一面に飛び散り、僅かに照らす明かりの群れをことごとく消し去った。

 再び闇へと戻ったその場所に、京助の鋭い眼光が、青白い巡り火を伴い浮かんでいる。

 その方向へと向き直った剛座が、ただならぬ気配に一歩下がり、言う。

「お前、誰だ!」目の前に立つこの男の放つ気が、先程より明らかに違う事を感じ取っていた。

「俺は、俺さ」そう言い放つ京助の中指がヤバイ形で突き立つと、そいつを唇に押し当てながら素早く言霊を練る。そして、ゆっくりと口元から放った。

 間髪入れず、今度は右手の人差し指を唇に付け言を呟くと、先に放った言霊に絡みつかせたのだった。

 漆黒の闇の中、青白く光りながら細長く浮かび、まるで文字化けしたような言霊が、ゆっくりとくねり、剛座目掛けて飛んでゆく。

「なーんだ・・・つまらん! 身構える程の事もなかったわ! クックック、同じ事よ」大口を開けて待ち構える剛座が、ニタリと笑った。

 京助から放たれた言霊が何の抵抗も見せず、その大口へと吸い込まれていった。

「お前、もう駄目かぁ? 何も感じないさね。これじゃあ返すに、返せないわさ。クックッ! あーはっはっは! 素手でひねり殺してやるさね」

 右に左にと頭を揺らしながら、両手を高々と挙げた剛座が京助に近づく。

「今、行く!」(たま)らず与一が走り込んだ。

「離れてろ! これからさ」両手を広げ、与一を阻止した京助の口元が、暗闇の中、にやりと笑ったような気がした。

 まるで、鳥肌の立つ背筋を、龍の分厚い舌でべろーりと舐められたようで、身震いが止まらない・・・与一は動けなかった。

 もうひとつの気配がピタリと横に付く。すると、その気配から念圧の上昇がある。

「待て! 後、少し!」その気配に向かって叫んだ。気配は影となり、剛座の後ろへと回り込む。

「秋芳が後ろを取った」与一が耳元で囁いた。

「お前らあ! 何の小細工をするつもりさね。それより、今生の別れは済んだかねえ」言うと、剛座が禁言を唱える。

「おい、素手で殺るんじゃあなかったのか?」

「やめだ・・・お前ら、まとめてかたずけるさ」

 剛座の高く挙げた両腕の間から、小さな閃光がほとばしった。

「死んじまいなぁ! クソ虫どもがあぁ・・・」

 両腕が左右に広がり、前後する。

 パチパチ! パチ・・・バチン! 細かな白い光の束が、まるでミスファイヤーを起こしたように、小さな音をたて・・・終息していった。

 不思議な顔をしながら、前後した両腕を覗き込む。今、何も起こらない空間の沈黙が、剛座には理解できない。

「ンッ! グウー!」辺りを呑み込むほどに開いた口が、何の力だろうか強引な圧力で閉じられてゆく。

 与一と、後ろ手に回り込んだ秋芳が、腰を低く落し身構えた。

 グリン! グリン! ・・・剛座の膨れ上がった腹が脈打ち、段々と激しさを増しながら、波打ち始めた。

「何だぁ! どうしたあ」与一の驚きが、声となった。

 既に、左の小指が添えられている京助の口元が、新たな言霊を練り始めている。そして・・・放った。今度は、速い!

 一直線に飛んだ言霊が、剛座の腹に当たった。

「グッフウー!」最早、閉じられた口からは叫び声も上げられず、ただ、苦悶の表情を見せるだけだった。

 波打つ腹が、筋割れたスイカのように膨張し、押さえ込もうとしている両の手を、拒否するかのように弾いた。

 その場に崩れ落ち、激しくのた打ち回る剛座の体から、ほのかに青白い巡り火が立ち昇った。

「グフー! グフー!」全身を硬直させ、それでも立ち上がろうともがいている。

 立つこと叶わないとみるや、今度は、社殿に向かって這いずり始めた。

「秋芳・・・お前の好きにしろ」悲哀に満ちた与一の言葉に、ジッと黙ったまま剛座を見つめる秋芳だった。そして、

「へっへへ! あたしにゃあ、何も出来やしませんや」そう言うと、剛座の針路から外れた。

 大きく息を上げ、ズサーリ! ズサーリ! と、這いずりながら、石段まで辿り着くと、繰り返し痙攣を起こしている両腕で、その石段を掴むように上がってゆく。

 どうにか上がりきると、破壊され穴の開いた拝み処を迂回し、社殿の中へとその身を押し入れたのだった。

 最早、念の圧力も、あの凄まじいまでの闘気も、その身からは感じられない。

「どうするつもりなんだ剛座の奴は」誰に言うでもなく、与一が呟いた。

 すると、社殿の中が一瞬パッと光ったかと思うと、時を待たずに炎が上がる。

観音開きの口から勢いよく紅蓮の炎が噴き出した。あまりの勢いに成す術のないまま、茫然と立ち竦む。

「燃えちまう気か?」

暫くすると、徐々に炎の勢いが弱まり始めた。すかさず、与一が神言行を唱える。すると、周りの闇が水滴を集め始め、霧状に変化したかと思うと、弱まる炎に覆いかぶさるように舞い落ちた。

「あれは・・・(すい)連行(れんぎょう)! さすがだ、あにさん」秋芳が苦笑いした。

 炎の消え去った社殿の中へと、二人が飛び込んだ。そこで目にしたものは、真っ黒に焼け焦げ、横たわる丸太ひとつ。

「やられたな」

「そのようで。しかし・・また、古い術で」呆れる秋芳が、にんまりと笑った。

「もう、僅かな気も残って無かったんだろうよ。稚拙な変わり身の術なんてよう・・・追うか?」

「これから先は、あたしらの仕事となるでしょうや」闇を睨み、秋芳が言った。

「おい、大丈夫か?」社殿よりひと足先に出た与一が、石段の下で座り込む京助を見つけ、声を掛けた。

「ああぁ、何とかな・・・剛座はどうした?」

「まんまと逃げられた」

「あの炎の中からかぁ? 恐ろしい執念だな」

「ほんとだ、参ったぜ。それよりお前、あいつに何したんだ?」

「言霊に、オブラートを被せた。ほら、苦い薬もそれに包んで飲むと、苦さを感じずに飲めるじゃないか・・・な!」

「あ、あは、あっはっはっ! 成る程なぁ。そんな事が出来るのか」突拍子もない事が瞬時に思いつくとは。呆れながらも、感心する与一だった。

「それで、ゆっくりと溶けていき、腹の中で暴れたってかぁ・・・傑作だな」

 言うと、腕を取りながら頭をくぐらせ、体を持ち上げた。

 肩を借り、立ち上がった京助が辺りを見回しながら尋ねる。

「真っ暗なんで、なーんにも見えないが、秋芳はどうした?」

「行っちまったよ、物見衆も付いてっちまった。剛座を追うんだとよ」

「そうかぁ」

「お前に伝言だ。直接言ったらどうだって言ったんだが、まあ、いいさ」

「で、何よ? 秋芳の奴」

「君子に入れ込んだ牡丹池は、紙縒りが消滅した今、左目から抜けて元の場所へと戻ったそうだ・・・それと、紋章の事だが、京助、お前なら外せるだろうって言ってたぜ」

「あいつ! 勝手な事を言う」鼻息を荒くしながら与一の肩を離れた京助が、彰子の姿を探した。すると、暗がりの中、数人の息遣いが聞こえた。

「姉様の側人さんか。無事だったか・・・姉様は?」与一の尋ねた言葉が終らない内に、

「彰子さんの子分か! 彰子さんはどうした?」京助が叫んだ。

「そのぉ、子分と言うのは、ちょっとぉ・・・御当主様は御無事です。二つ坂の衆が、下の車まで運んでくれたので、そのまま本条へとお届けしました。意識もしっかり戻っております。はい」

「そうかぁ、良かったぁ・・・無事かあ」胸を撫で下ろす京助だった。

「じゃあ、此処にはもう用は無い。急ぎ戻るぞ。事の顛末を報告しなくてはならんからな」

「ああ、帰ろう・・・疲れた」京助が思いっきり腕を伸ばし、背伸びをする。

 白々と、東の空が夜明けの近い事を告げていた。


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