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お祓い屋 京助  作者: 浮子 京
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卑弥呼の遺言

スマイルのドアを開けると、いつもの馴染んだジャズではなかった。

その代り、耳に懐かしい旋律があの頃を包み込むように、心地よく緩やかな足音をたて流れていた。

「悲しき鉄道員だったよね」懐かしさが当時へと、引き戻す。

「何だ、京助かぁ」おどけた顔でこちらを向くと、満面の笑みを浮かべながら、

「あの頃、みんなで好く聞いたもんだ」そう言うマスターが、器用に長い髪を後ろで結んだ。相変わらずの無精ひげが、ツクツクと顎のあたりに伸びている。

「確か・・・、ショッキング・・・何だっけ?」

「ショッキングブルー。ボーカルやってる女の声が良くってな、何度も聞いたなぁ」

そうだ、あの頃マスターと兄貴、そしてガキだった俺と三人で、当時流行った洋楽ポップスとやらを、町中のレコード店を回りながら買いあさり、ステレオの前で寄り添いながら聞いていた。

その兄貴が、突然この世を去って既に十年の時が流れた。過ぎてゆく年月の早さは、歳を重ねる毎に加速してゆくようで、カチコチとのんびり進む時計の針とは、まるで反比例しているが如くに感じた。

エル字型にカーブを描く胡桃(くるみ)のカウンターに、古めかしいサイフォンが三つ置かれている。その一つに湯が注ぎ込まれ、自家焙煎された東ティモール産の挽かれた豆が、ボコボコと音をたてるガラス管の中で踊っていた。

お決まりのそいつを注文すると、古ぼけた窓際の椅子に深く身体を沈める。決して(こしら)えの良いとは言えないが、何故か此処が落ち着くのだ。

昨夜の疲れが今頃になって背中を這い上がり、頭を支えている首が力なく右肩を頼る。少したった頃、香ばしいかおりが湯気を引き連れ、鼻をくすぐった。

(ふう)・・・大きく息を吐いた口元が、カップを近づけた右手を拒む。

すぐにテーブルへと返すと、少しの時間を置きながら、冷めてゆくのを待つのだった。

開けたばかりの店の中には、客は俺しかいない。気が付くと、天井に吊るされたボーズのスピーカーが、いつものジャズを奏でている。

「やっぱりこいつの方が落ち着くんだよな。歳のせいかな」そう言うと、ボーっとしている腑抜けた俺の顔を覗き込みながら、マスターは笑うのだ。

「入れ概ないんだよなぁ、たまには熱いうちに飲んだらどうだぁ、せっかくのホットなのに・・・ほんと、変ってるねぇ」

呆れた顔でくるりと背をむけ、調子良くカウンターの中へと戻っていった。

「そうなんだ、アイスじゃ駄目なんだ」ぽつり独り言の後、カップに口をつけ、こくりこ

くりと冷めてゆく心地よさを味わうのだった。

 再び身体を預けた椅子が、ギシっと小さな音をたて、丸めた背を包み込んだ。

 どれ位の時間が過ぎたのだろう、がやがやとする雑音で意識が戻される。

寝ぼけ眼で店の中を見回すと、数人の客がカウンターに座り、おしゃべりに夢中のようだ。もう、ランチの時間らしい。

「さてと、そろそろ帰りますか」呟やき、おもむろに立ち上がると、クラリとめまいを感じたが、両膝に力を入れて踏ん張った。

「マスター、また来るよ」両手を合わせ、いつものようにツケを頼むと、カウンターの客には目もくれず、足早に店を出る。

 この頃には、お天道様は真上に来ている。腕時計で確認すると、十二時を少し回っていた。今から離れに帰り、もうひと寝入りしたいところだ。

 半年前、突然会社をリストラされた。つまり、お払い箱になったのだ。

長年勤めた広告代理店だったが、不況の長引くこんな御時世では、致し方ないのかもしれない。しょうがないと、あっさり割り切った。せめてもの救いは、家族も家庭も持たない独り身だったと云うことぐらいか。

 だが、捨てる神ありゃ、拾う神ありってやつで、元取引先であった大手食品会社の社長が、この事を耳にしたのだろう、社員寮から追い出され途方に暮れていた俺に、自宅の離れを無償で貸してくれたのだ。これは心底有り難かった。

 この社長かなりユニークな人物のようだ。身内でも親族でもない専務の男に会社を任せっぱなしで、自分は奥方と二人、一年の半分以上を海外で過ごしているらしい。行く先々で何をしているのかは知らないが。まあ、こんな経緯で留守番がてら居候となった訳だ。

 その社長宅の離れと云うのが、これまたすこぶる居心地が良い。とにかく広い屋敷の母屋から、屋根付きの渡り廊下を二十メートル位歩いて行くと、その離れにたどり着くのだが、その途中には大きな池があり、一匹数十万いや、数百万するかもしれないであろう見事な錦鯉達が、数十匹の群れをなし、この広い池の中を悠々泳ぎ回っているのだ。

(一匹位居なくなってもわかりゃしないだろう)薄っぺらな財布を握りしめながら、此処を渡る度に思うのだった。

 さて、この屋敷にはもう一人、住人が居る。古くからメイドとして仕えてきた美代さんと云う女性だ。御年七十歳と云うが、とてもその年齢には見えない。

少し顎の尖った色白で、すっとし顔立ちは、品良くシャンとした背筋と相まって、現実の年齢を感じさせないのだろう。今年で四十二歳になった俺とは、親子位年の差が有る筈なのに。

 只、彼女から作り出される料理の数々は、どれもが絶品だ。          

京料理からはじまり、中華は勿論、イタリアンからフレンチまで、それらが全て三ツ星クラスだ。

 サラリーマン時代、取引先の接待と称して一流と言われる店には幾度となく出入りしたが、負けず劣らず、いや、凌駕するものさえ有る。これが、朝、昼、晩とテーブルの前に置かれるのだから、もう堪らない。ただ、不規則な生活を余儀なくされている俺には、朝食の時間だけが唯一の苦しみなのだ。

 特に宵っ張りの人間にとっては朝は辛いのだが、そんな事はお構いなしに、毎朝六時半には起こしに来る。まず、呼んでも起きようとしない中年男の布団をひっぺ返し、人の顔をジッと見つめたかと思うと、いきなり左の耳たぶを摘み上げ、強引に引きずり出すのだ。

 顔の半分があの世とやらに逝きかけている俺は、彼女の忠実な操り人形の如く、この母屋へと続く長い廊下を時々左足一本で、ダダッダダダッと、つまずきながらも必死の形相で着いてゆくのだ。

 詫びさびの効いた和の空間が後ろ手に遠ざかると、目の前に迫る絢爛豪華な洋館が、苦痛で身をよじりながらケンケンしている俺を出迎える。アンバランスな世界へと放り込まれた次に待っているのは、まだ完全に目を覚ましきっていないデリケートな胃袋に、美代と云う魔女は朝飯を詰め込むのだ。

 嵐のような朝食が終わると、屋敷のだだっ広い庭に、水撒きをするよう命じ、何食わぬ顔で棲家である奥の台所へと去ってゆくのである。これが居候になってから幾度となく繰り返される日常となった風景だ。

 さて、今日のように朝帰り、いや、昼帰りは決して珍しくはないのだが、

アーチ状になった門扉の右上にある呼び鈴を押すのには、少々勇気を必要とする。今、俺の頭の中で始まった妄想はこうだ。

 この門の向こう側にある屋敷の大きな扉をくぐると、細長いアプローチの先に、二十人は腰掛けられるであろう大きな食卓があり、そいつを右手に見ながら進むと、開け放たれた間口の奥に広々とした台所がある。その真ん中に大きな鍋が掛けられたガスコンロが置かれ、グツグツと煮えたぎる気味の悪い液体が、あたり一面に湯気をまき散らしている。その前には、これまた大きなしゃもじをグルグルと回しながら、恐ろしい形相で呪文を唱える魔女がいるのだった。

「とても呼び鈴は・・・押せないな」自然と後ずさりしていた。

越しているであろう高さの塀越しに、大きな銀杏の木が見える。塀の内側に沿って等間隔に立ち並ぶこの木は、夏も終わり秋を迎えようとしている今でも、まだ、色付く気配さえ見せてはいない。

 そう云えば、美代さんの造る茶碗蒸しは最高だ。



拾い集めた銀杏の実を、(尻を叩かれながら拾ったことを思い出した)

昆布のだし汁に一晩漬け込み、それを茶碗蒸しにするのだ。今年は実が落ちたそばから作るに違いない。さぞや美味いだろうな。

「仕方ないな、覚悟を決めますか」一人呟くと、来た道を引き返す。

 再び門の前に立つと、今度は躊躇わずに呼び鈴を押すのだった。

 インターホン越しに、魔女の声が聞こえた。

 やっとの思いで安住の離れに辿り着いたのだが、ぶつぶつと、謎めいた呪文を掛けられた事は言うまでもない。当然昼飯は抜きだ。

 障子戸を開け、部屋に入るとすぐさまコットン地のジャケットを脱ぎ、ソファーに投げ掛けた。

半年前から続いている兄、恭二の遺品整理が中々捗らず(はかど)、寝室にしている部屋の隅で散らかっている。大部分がゴミにしか見えない俺にとって、片付けようとする意欲をこいつらは削いでしまうのだ。それでも何とか段ボール箱一個分をこの部屋から本日、追い出す事に成功した。

少しだけ広がりを見せるベッドの下を覗き込みながら、お大事箱が入る封印されたトランクを眺めた。

「やれやれ、とんでもないもん背負い込んじまった」

 横浜の大学で助教授をしていた兄恭二が、研究室で倒れ原因不明のまま心臓発作で亡くなった。数人の友人達と見送ってから暫くして、大学側から一通の簡単な御悔みが書かれた手紙と共に、数個の大きな段ボウル箱が届いた。

 遺品と称して、ガラクタ交じりで送られて来た膨大な研究資料の中に、何やら不可思議な内容の、解読文と表に書かれた分厚いレポート用紙が、古めかしいトランクの中、後に必須アイテムとなる組み紐と小さな木箱と共に入っていた。

 リストラされ、この離れに落ち着いてから時間と云う物を持て余していた俺は、月に一度、失業保険の認定日に出かけるハローワーク通いを除けば、自由時間は腐るほどあった。

 いい機会だと思った俺は、部屋の隅で十年もの間置き去りにされている遺品の山を、整理する事にした。それまでは、中々決心がつかなかったのだ。

 そして・・・その不可思議な物を発見する。

 好奇心は興味を呼び、恭二が書いたのであろう解読書なる物を見つけてからは、毎日のように読みふけった。

 それは、俺にとって兄、恭二に近づく事でもあったのだが、この後これが、とんでもない後悔の渦へと導くものとなるのだった。

                                        在り得ない内容だと認識しているはずの脳が、絶え間なく連続する時間の中で、

その日の、その時間だけは、確かに止まったような気がした。

ソファーの肘掛部分に腰を下し、背もたれの隅っこに体を預けながら、いつものように解読書なるものを捲っていく。その分厚い枚数も既に半ばを過ぎた頃、ようやく全容が見え始めた。

 ここに書かれていることは、大まかに分けて二つ。ひとつは、この{物語}に出てくる古代文明の栄枯盛衰。だが、その内容は俺の知る範囲、歴史上の真実が一つも当てはまらないものだった。故、あえて物語と言った。

そして、もうひとつ、今から読み進む中身だ。

 明らかに前篇とは違っている内容に、戸惑いを隠せないでいた。一体、恭二は何を研究していたのだろう。理解しがたい文面は、読み遂げようとする俺の意思を拒絶するかのごとく、増々理解不能ランプを点滅させるのだった。しかし、暇と云うのは時に恐ろしい力を出すものだと驚愕した。この後半部分、まともに文章となっているのは、たった、三行。 繰り返し読み込むうち、何となくだが理解し始めたのである。

{体中を駆け巡り、口中いっぱいにまで這い上がった騒がしい(いん)の虫達を、上下の顎で噛み潰さぬよう、そっと押し当てた指に絡みつかせよ。練り上げた言霊は力となり、その指から放たれるであろう}

と云う内容は、これだけでは理解できない。まず、ここでのキーワードは、騒がしい虫達。多分、この虫達と云われたものが言霊のことだろう。

 では、言霊とは・・・たまに聞く言葉ではある。確かに俺も何回か使ったことがあるとは思う。人が発した言葉には念が宿り、それが時として力になると聞いた。例えば、頑張れとか、大丈夫だとか。はたまた、痛いの痛いの飛んでけ。俺はそう理解している。

 次に、練り上げた言霊と云うキーワードだ。これはきっと、何回も何回も口の中で何らかの言葉を静かに呟くと云うのだろう、これも理解出来た。さて最後のキーワード、放たれるであろう、だ。一体、何処へ。多分、何らかの言葉を繰り返し呟くことによって、力を得た言葉が言霊となり、目標物または、意識的に定めた場所などにその力を飛ばすと、云う事なのだろう。全ては勝手な俺の解釈だが、しかし、これをまともに信じろというのか・・・理解した事と、肯定する事は違う。到底無理な話だ。

 さて、面白可笑しく勝手に理解した俺は次に進んだ。そこには、既に文章ではない文字達が羅列を成し、残りの枚数分びっしりと並んでいた。ス、とか、シ、とか。

 呆れながらも目で追っていくと、ふと、ある文字に目が止まった。それは先程読んだ三行の終わる下のほうに書かれていた。ワードで書き込まれた文章に対し、この文字だけはまるで殴り書きのように見える。

 ナゾルナ、と書かれた文字。なぞってはいけないと云うことなのか。何をなぞってはいけないのか。それとも、ナゾルナと云う単語なのか。

 これを書き込んでいる途中、何か別のメモとして書いてしまったのだろうか・・・違う。

 兄恭二は絶対にそんなことはしない。とんでもなく几帳面な兄が、研究レポートに間違っても別の言葉を書き込む訳が無い。これは、意図的に書かれた物に違いない。

 しかし、何故。

相当焦って書いたように見えるこの文字は、何かの警告なのだろうか。

 その答えを探すべく、慎重に文字の羅列を指でなぞりながら追った・・・なぞりながら。

「う、うわ!」おどけた声は悲鳴となった。

 いきなりだ。一瞬で乾ききった口中が、広げた唇を元へとは戻そうとしない。

 今、俺の目先で起こっている何らかの実態が理解できない。それもその筈。

 なぞった人差し指の先が、その文字の中へと、一関節程入り込んでいるではないか。

 理解出来ない脳は、その指先を見捨てるが如く只、黙って見つめるだけだった。

 刹那、我に返った俺は、今にも付け根まで入り込んでしまいそうな人差し指を、渾身の力で抜き出そうと右手もろとも高く上げることを試みるのだが、片手だけの半端な力では引き抜き出せない。

「うわ! うわ」やっと出した言葉が、またしても陳腐なセリフで情けなかった。

 それでも引き抜こうとソファーの肘掛に右足を掛け、潜り込む右腕を左手で掴むと、思いっきり仰け反った。

 この時、そのレポートの束が微動だにしないことなど、不思議とも思わなかった。

 パニックになった脳は、最早ひとつの事しか命令出来ないのだろう。

引き抜かなければ・・・と。

ギシッと鳴る背骨の音が、喰いしばった顎の骨を伝わり、耳の奥深くで聞こえる。

やっとの思いで引き抜く事に成功した俺は、へなへなと崩れる様に床へと座り込んだ。

冷静を取り戻そうと深く息を吸い込みながら、一体何事が起ったのかと、まだ痺れの残る両手を肘掛に添えると、ソファーに置かれた解読書なるレポートの束を覗き見る。

「・・・!」今度は、陳腐な悲鳴すら上げられなかった。


 くたびれたシーツの掛るベッドに気だるい体を放り投げると、うつ伏せのまま、夕刻を過ぎた西日の当たる中で、いつしか深い眠りに落ちていった。

随分と時が進み、何度目かの寝返りの後、白々と夜が明け始める気配を感じていた。それにしても今朝はやけにカラスの奴らが騒がしい。

(カアカアってか・・・いつまでも鳴きゃあがって)

寝覚めの悪さに少し腹を立てながら、半目開きの顔を右手でごしごし擦った。もう一度寝なおそうかと目を閉じるのだが、今朝に限ってパチリと開いてしまう。珍しい事もあるもんだと思いながら、腹に掛った夏布団を両足で蹴飛ばすと、上半身を左右に捻りベッドの上に起こした。

ぼーとしている頭の中は、昨夜から引きずっている深い闇の奴が、まだはっきりと意識を戻そうとはしないようだ。

左にねじった顔が、出窓に置いた時計を探す。カーテンが引かれた薄暗い部屋の中で、ぼんやりとデジタルのオレンジ色が浮かんで見えた。その発光物は相変わらず無機質なやるせなさを感じさせながら、午前六時を知らせている。

少しずつ戻り始めた覚醒感は、二度目の眠りに着く事を拒むだろう。そう思った俺は、潔く起きることにする。昨日までの格好そのまま、ジーパンに白いTシャツ姿で洗面所に向かった。

一通り朝の儀式を済ませ、ゴワゴワになっているタオルでゴシゴシと顔を拭いていると、背中に何やら気配を感じ、急いで振り向いた。そこには、口を半開きにし、おどけた顔で立っている美代さんが居たのだった。

面食らったのはこっちのほうで、ついと声が出る。

「ああ!」・・・暫しの沈黙の後、姿勢を正した美代さんが、

「朝食です」少し上ずった声で俺の顔から視線を外しながら言った。

その後すぐにきびすを返し、離れを後にしたのだが、途中立ち止まると、くるりとこちらに向き直り、

「嵐が来なければ良いのですがねぇ」皮肉たっぷりに言うと、にやりと笑うのだった。

こんな早起きの俺を見て、余程意外だったのだろう、渡り廊下を母屋へと向かう後姿は、時々両肩をヒョコッと上げながら、そそくさと歩いてゆく。

その後を、ジャケットを羽織った俺が、少しの距離を置いて続いた。

渡り廊下を母屋へと向かう途中、池の中で元気よく泳ぎ回る札束を見ながら、

(そろそろやっちまおうかな)心の中で呟いた。

 長い廊下を渡り終える手前で、ヴィーン、ヴィーン、ケツのポケットに入れた携帯が、ジーパン越しにバイブしている。

(誰だ、こんな朝早くから)・・・携帯を取り出しすぐに確認すると、メールが一通入っている。差出人は葛城(かつらぎ)圭子(けいこ)。この女、フリーのルポライターだ。

 以前、ある事象の依頼を引き受けた時、取材に来ていた女だ。

それからと云うもの、偶然か、それとも故意なのか、何度となく現場で鉢合わせするようになり、何処でどう調べたかは知らないが、此処にも押しかけて来て、何者なのかと根ほり葉ほり尋ねてくる、とんでもなく面倒くさい女だ。

無視出来るものなら是非とも無視したい。しかし、この女のしつこさは半端ではない。仕方なくメールを開けたのだが、その内容があまりにも意外だったので少々おどろいた。

(この前のお礼がしたいから、食事でもどうかな。今夜七時、スマイルでね)

 確かにこの前、少しだけ取材に協力はしたが、お礼される程の内容ではない。

それに、この女がそんな気遣いなんて出来るわけがない。きっと、何か企みがあるに決まっているのだ。そう思ったら、やっぱり無視することにした。

 そんなことよりも今は飯だ。昨日から何も入っていない胃袋は、今朝だけは無理やり詰め込まれる事を、大いに歓迎するだろう。

 グーグーと鳴る腹を押さえながら、食卓に飛び込んだ俺の目の前に、好物の中華丼が、焼けた胡麻油のいい香りを漂わせ鎮座しているではないか。

 腹ペコの俺を気遣い、今朝はボリュームのある物にしてくれたに違いない。感謝、感謝である。

「いただきます」

 早速レンゲを掴むと、ブルトウザー宜しく、空っぽの胃袋へと飲み込むように詰め込んでゆくのだった。

「今朝は良く入るのですねぇ」

 突然の声にすぐさま振り向くと、水差しを右手に持ち、皮肉たっぷりの顔をした美代さんが、ほっぺを思いっきり膨らませた俺の、斜め後ろに立っているではないか。あまりの驚きに、俺は今まさに詰め込んだ口の中の物を、このテーブルの上にまき散らす寸前だった。そんな事になったら、恐ろしい呪文だけでは済まないだろう・・・良かった。

「あの・・・気遣って貰って有り難いです」必死でお礼の言葉を探すのだが、あまりにも唐突だったので、気の利いた言葉が出てこない。

「昨日の夕食ですよ。あなたが起きていらっしゃらないので、今、冷蔵庫から出してチンしたのですよ」

 俺は、涙が出るくらい感謝した事を、即座に後悔したのだった。

 そして、魔女は続けた。

「今夜も遅いのですか? 遅くなるようでしたら、午後の三時までに連絡して下さいと、いつもお願いしておりますよねぇ」・・・呪文が始まった。

 永遠に続くのではないかと思える呪いの言葉に、只々、テーブルに頭を擦りつけ、嵐が過ぎて行くことを願うのだった。

 暫くして、解放されたのだが、中華丼がその後、何処に入ったのか覚えていない。

 逃げるように離れに戻ると、A四サイズのファックス用紙が、白い舌を出すように、何か届いたことを知らせている。完全に出し切った事を確認すると、そいつを拾い上げ、横にあるソファーに腰を降ろしゆっくりと目を通すのだった。

 今回、片付けた事象のクライアントからだ。

「此の度は色々とお手数をお掛けしました。関係各位が諦めかけていた折、

雨宮(あめみや)(きょう)(すけ)様の多大なる御尽力にて事を治めて頂き、一同、厚く御礼申し上げます。取り急ぎ、ご挨拶まで」・・・雨宮京助・・・様か。

 やりきれない事象だった・・・一週間前、十四歳の少年が死んだ。

 横浜は本牧埠頭。今は使われていない港口から荷役倉庫へと続く錆びついた線路の中程に、五メートル四方の、取り壊された倉庫の名残であろう黄ばんだ壁が、その場に似つかわしくない風景として立っている。

 事件は、その日の太陽が西へと傾き始めた午後三時頃に起こった。

一人の少年がこの壁の前に立ち、少し後ろに下がったかと思った瞬間、いきなりダッシュすると、目の前の壁めがけて自らの頭をモロに激突させたのだ。

 額から激しく噴き出した血液で、見る間に少年の顔が真っ赤に染まった。両膝が崩れ、よつん這いになった身体が激しく痙攣している。それでも尚、よろめきながら立ち上がると小刻みに震える膝を両手で押さえ、後ずさりしたかと思うと、信じられない力で前に向かい、もう一度ダッシュしたのだ。その距離わずか一メートル足らず、恐ろしい程の瞬発力で掛けきった。

 ゴゴン! ・・・二度目の鈍い音がしたかと思うと、少年の突っ込んだ頭の向きが、垂直な身体に対して九十度に曲がっている。首の骨が折れたことは容易に推測出来るだろう。

 おかしな格好で地面に倒れこんだ身体は、もう二度と立ち上がることはなかった。

 この一部始終を、埠頭で荷役作業をしていた数人の人間が見ていた。

 その目撃証言を元に警察は、受験ノイローゼによる発作的な自殺と断定し、事件性はないとの見方で、簡単に捜査を終了したのだったが、そうせざるを得ない理由が隠されていたのだ。

 後に、この壁が残る跡地の不動産を管理している会社のお偉いさんから、直接仕事の依頼が来る。ある人物からの紹介だと言うが、大体の察しはついた。

 その依頼内容だが、現在残されているこの壁の撤去に伴い、今回起こった少年の自殺内容から、是非とも、この地の祓いを頼みたいと云うものだった。

 ひょんな事から、成り行きで御祓い屋となった俺は、(ちまた)で騒ぐような幽霊とか悪霊とかを祓うのではない。

その類なら霊媒師と呼ばれる方々に任せておけばいいだろう。

実は、この世の中には、二種類の霊的な闇を司る人間が居る事を御存じだろうか。まず一つは、先に述べた霊媒師とか霊能者。そして、もうひとつ、時間軸を越え、その場に残る思念や死念を、魂魄の根源に帰し、祓い清める者。

俺はこの後者に入るのだが・・・

 この少年のインパクトある自殺方法は、多方面に波紋を投げかけ、特にゴシップ週刊誌などは、少年の両親は元より、親類、縁者、友人までも巻き込んで、面白おかしく記事にしていった。

 だが、連日のように報道されていたこの騒動も、三日も経たないうちに何事も無かったかのように治まり、誰も口にしなくなった。少年が逝ってから、まだ幾らも経っていないと云うのに。

 毎日のように起こる数々の事件は、人々に消化吸収を加速度的に速まらせ、次から次へと忘却させてゆくのだろう。時を刻むとはそう云うことなのだ。

 やるせない現実と、何処か引っ掛かる少年の行動は、この依頼を受ける動機としては十分だった。

 依頼された事象の現場は、俺の居候先、鶴見からは目と鼻の先だ。

 ささやかな準備をし、支度を済ませて現場に立ったのは、丁度少年が亡くなった午後三時を少し回った頃だった。

南を向いて立っている壁は西日を浴び、その影を東に長く伸ばしている。

彼の血液なのだろう、目の前の無表情な黄ばんだ壁に、黒い染みとなって、所々飛び散るように未だ残っていた。

 暫くジッと見つめていた目線を外し、後ろへ数歩、静かに下がった。

 ゆっくりと運んだ右手の小指が、半開きの唇に触れると同時に、小さく呟く口元が吐き出す息と交り合い、言霊(ことだま)を練る・・・練り上がった言霊を、添えた小指に絡ませ、そっと放った。

 目には見えない(いん)の文字達が、体をくねらす蛇のように泳ぎ回り、この場に飛び交っているであろう、少年の死念を拾い集めようとしている。

それは、因果を生じる時間軸のループが、螺旋状の軌跡を描きながら、網の目の如くに張り巡らされ、奔放な死念を捕えるのだ。

 時が進む、しかし・・・様子がおかしい。

 今一度息を整え、再び結びつきを探すのだが、放たれた言霊は、此の場で空を切るばかりで一向に捕える気配を見せていない。と、云うことは、この少年の魂は、一片のかけらも残すことなく、完全な形のまま冥界へ回帰したのだろうか。では何故、彼は、あんなエキセントリックな死に方をしたのだろう。

 まるで何かに突き動かされたように・・・

(えっ!)・・・思いついた言葉にハッとした・・・もしや、この場所には、別の死が隠れているのか・・・

「出直しますか。だが、もう少しこの場所について情報がほしいな」

完結出来なかった言霊を無に帰すと、速やかにその場を去った。

 その日の夜、俺はもう一度この場所に立っていた。

 初秋の夜風はまだ夏の名残に押され、生ぬるい風となって全身を不愉快にさせている。それだけではない、ここで起こったもう一つの現実が、不愉快さを増幅させるのだった。

 少年が亡くなる半年程前のことだ。この場所には、取り壊される以前の倉庫がまだ立っていた。その中で、一人のホームレスの男が死んだ。

全身に暴行された跡があり、特に、首から上はひどいものだった。頭蓋骨は数か所で陥没し、首の骨は折れ九十度に曲がっていたと言う。

 この時の警察の取った行動はあまりにもお粗末なもので、単なる事故として扱い、簡単に片づけてしまった。

その日の夕刻、新聞の隅に、小さな記事で載せられていた。しかし、この時の検視官は暴行の事実を認知していたにも係わらず、ホームレスと云う事と、憂鬱な事件と云う事だけで上からの圧力が掛ったのだろうか、事実は隠ぺいされてしまう。

此の時、実は巨大なプロジェクトが、この場所で動き出していたのだった。

 次の日、その同じ新聞のコラムで、警察の怠慢を激しく糾弾する記事を載せたのが、あの、面倒くさい女、葛城圭子だった。

 持前のしつこさで臨場に出向いた検視官に張り付き、前途した内容を手に入れたのだったが、その後、事の全てを取り消され、このスクープはボツとなるのだ。そんな経緯で、貴重な情報を彼女から手に入れる事が出来た。

「丁度いい時間だな」腕時計を覗き込むと、夜光塗料で塗られたクロノグラフの針が、緑色に発光しながら午前二時を指し示していた。

 この埠頭には夜が来ないのだろうかと思わせる程、煌々(こうこう)と照らし続ける光の帯が、港の奥に横着けされ、停泊している貨物船のデッキ部分を、まるで昼間のような明るさに変えている。その周りでは、作業員達が忙しなく動き回っている様子が、この場所からでも見て取れた。

「さてと、やってみるか・・・やばい奴じゃないことを願うよ」ぼそっと呟くと、足の先から手の指先まで、緊張の糸を張り巡らせる。

 一文字に結ばれた口元に、そっと小指を近づけると、低く静かに呟く。

そして、少しだけ開いた唇が言霊を練り始めた。

 ヒ「、念じ、フ、念じ、ミ、と念ズルトコロノタマヨキノ言ノ霊結ぶ如く」

 練り上がった言霊は、深く吸い込んだ息と共に、体の奥へと入ってゆく。

内側の真から発せられた言霊の波動が、全身を隅から隅までくまなく巡る。

広げた指先が小刻みに震え、その先から薄っすらと、青白い巡り火が見えた。

 音もなく吹き掛けられた言霊の波動が、唇に当てられた小指に絡みつき、巡り火を伴いながら静かに放たれてゆく。

暫しの時を待つ・・・すると、早々、仕掛けられた網に何か引っ掛かったようだ。震えていた指先が、ピタリと止まった。

 現れた・・・壁を中心に張り巡らした、三角錐の螺旋を描く言霊の罠、勿論、目には見えない。その中に、死んだホームレスの残存死(ざんぞんし)(ねん)だろう、崩壊した粒達の、うごめく姿を捕えた。

 俗に言う、オーブと呼ばれるものだ。このオーブに関しては、かなり誤った見識が支配しているようだ。勿論この俺も御多分に漏れず、その中の一人だったのだが、御祓い屋を始めてそれが大きな間違いであることに気付かされたのだった。オーブは、死んだ者の魂などではない。

 それは、未練を残し死んでいった者達の、この世で最後に残した死に至る瞬間の、念と云う粒子なのだから。ましてや、霊などでもない、だから厄介なのだ。

 意思と云うものを持たないこいつら残存死念は、全くの無防備な魂に絡みつき、その中身を殻ごとスクイーズド(締め付ける)する。

 こいつらに絡みつかれた者はたまったものではない。意識の底から自由を奪われ、自己と云う存在までも粉々に破壊され、この現実に流れている時の中から消し去られてしまうのだ。どうりで、この壁に激突死した少年の残存死念が無い訳だ。間違いない、彼はこいつに殺やられた。

「ほほう、結構な数だな」目の前に映る数多くの、砕け散った死念の欠けら達。

その数が多ければ多い程・・・死念は強い。とにかく全てを集め、一つにしなければ話にならないのだが・・・

(さてさて、こいつら素直に一つにまとまってくれるもんかな)

 しかし、その場を奔放に飛び交う死念の欠けら達は、ちぐはぐな動きを見せ、何を探しているのか一向に集まろうともせず、ギラギラと鈍く光り、残された壁のクラックを出たり入ったりしながら、いびつな姿をさらけ出していた。 

 揚句は、隙あらば入り込もうと足元の暗がりで跳ね回るものまでいる。

時を掛けてはいられない、早く形にしないとヤバイ。いつ絡みつかれてもおかしくはないだろう。

 おもむろにジャケットの右ポケットに手を突っ込むと、中から一本の組み紐を取り出した。柔らかく組まれたその紐は、直径六ミリ位で、長さは四十センチ、両端が二センチほど紐解かれ、房のようになっている。赤みがかった薄紫色をして、真ん中には女の長い髪が、数本編み込まれていた。

 組み紐を握っている右の手が、緩やかに円を描きだす。

 ゆっくりと・・・ゆっくりと・・・少しずつ上がってゆく回転速度が、ある値に近づいた時、規則正しく回り続けている組み紐が、微かに不思議な音色を奏で始めたのだった。

 もし、雨上がりの大空に掛る虹が音を奏でるとしたら、まさに、この組み紐から発せられた音色ではないかと想像させてゆく程、凛とした清々しさを感じさせた・・・すると・・・

 心地よく染み込むのだろうか、戯れていたオーブの欠けら達が、ゆっくりと一か所に集まり始めた。

(まずいな、時を掛けすぎたか)途切れ始めた集中力が、満たされていた波動の安定を狂わせ、揺らぎを見せ始める。

 目の前でまとまり始めていた欠けら達が、また、離れてゆく状況を認識しながら、今一度、精神を集中させ、揺らぐ波動を強引に安定させるのだった。

 オーブの欠けら達が・・・戻り始めた。

 奏でる音色と、全身から放出された波動によって、絡み合いながら一つになったオーブは、金色に輝く光の粒となって目の前にフワリと浮かんでいる。

 完全体。つまり、残存死念になったことを確認すると、緩やかに回り続けている組み紐の回転を、静かに止めた。

 素早く仕舞い込むと、間髪入れずに左のポケットから、小さな真四角の箱を取り出し、手のひらに乗せた。そして、ゆっくりと上部の蓋を開ける。すると、目の前に浮かんでいる残存死念である光の粒は、何の(あらが)いも見せず、手のひらに置いた箱の中へと滑り込んだのだった。

 ゆっくりと、蓋を閉じた・・・

 言霊の波動によって身体中に広がった波紋は、途切れた精神と共に終息してゆく。と、同時に、闇の奥深く隠された真実が、最後の断末魔をあげ生々しくフラッシュバックする。この瞬間だけは事象に携わった事を後悔するのだ。

 逃げ惑う男・・・奇声をあげて追い回す数人の少年達。

あどけなさが残るその顔は、残酷な結末を予感させながら建物の奥へと追いつめてゆく。

壁を背に追いつめられた男は、号泣しながら手を合わせ懇願する。

「たすけてくれ」・・・

 あっはははは! ・・・高らかな笑い声が建物全体に響くと、ひとりの少年が、体をくの字に曲げて腹を抱えるように笑っている。それを見た他の少年達も続けて笑った。

 あはは、あっはっは! あは、あは、あっはは!

 地面に両膝を付き命乞いをしていた男も、

えへ、えへへ・・・少年達に合わせ、力なく笑うのだった。

「何がおかしいの・・・」最初に笑った少年が首を傾けながら言った。

 笑い声がピタリと止み、瞬間、この場を静寂が支配する。

 えへへ・・・硬直した男の愛想を作る口元から漏れた笑いで、静寂が破られた。

「そのまま笑ってなよ」言い放った少年の頭上高々と上げられていた角棒が、その男の顔面へと、何の躊躇いもなく振り下ろされた。

 グゲェ! ・・・言葉ともつかない声をあげながら、薄暗い闇の中をのた打ち回る男。

 それぇー、ヒャッヒャッヒャー! ・・・少年達が再び奇声を発しながら、各々手に持った角棒やら鉄パイプで襲い掛る。幾つもの鈍い音が、コンクリートの壁に跳ね返り、低く響いた。

   「あ・・・す・け・・・て」・・・男は絶命する。

 そして・・・暗闇の中へと消えてゆく少年達の後ろ姿を、残存死念は見ていた・・・

 込み上げた怒りが丸めた背中を這いずり回り、淀んだ意識を覚醒させた。

「とんでもないガキどもだな」そう呟くと、やるせなさを感じながら、その場に座り込んだ。

 後に、この場所で自殺したとされた少年は、この事とは全くの無関係だ。

 やりきれない気持ちを抑え、抱え込んだ両膝に顔を埋めた。暫くして、身体中の波が凪いだ頃、辺りが白々とし、夜明けの気配を感じさせた。

 頭の中を整理し、この事の顛末をクライアントに伝え、祓いが終わった事

を報告しなくてはならない。携帯を取り出すと、田中と書かれたメモの電話

番号を押した。

 実はこの時、此の場所には、もう一つ伏せられた真実があった。

 この少年がこんな死に方をする半年前、この地区の再開発が決まった。

それに乗っかった不動産屋の連中が区画整理に入り、正式な市のプロジェクトとなる。そして、ゼネコンがこの地区の古い倉庫を撤去し始めた時だった。他の数個あった倉庫は何事も無く壊されていったのだが、この倉庫だけは最後の最後で、手こずらせたのである。途中までは何事も無く順調に作業は進んだのだが、残りひとスパンとなった時、事件が起こり始めた。

 土台の柱を引き抜こうとしたクレーン車が、いきなり横転した。この事故で数人の作業員が巻き込まれ、重軽傷を負ったのだ。すぐに横浜市から指導がはいる。徹底した安全管理の元、工事は再開されたのだが、再開初日、またしても事故が起こってしまった。鉄パイプで組まれた頑丈な足場が突然崩れ、その上で作業していた鳶職人三名が、四メートル下のコンクリートの床に落下し、三名共に首の骨を折る重傷を負ったのだ。

 重ねて起こった事故に、作業員は勿論、関係者も気味悪がり、解体工事は一時中断され、このひとスパンの分厚い壁だけが、敷地の中に不自然な姿で取り残されたのた。

 訳の分らないものに業を煮やしたゼネコンの御偉い連中が、不動産屋を通して、この場所を御祓いする様命じた。勿論、パフォーマンスも兼ねてだ。

 直ちに神社より神主数名が招集される。時間をかけ、丁寧に祓いの儀を済ませると、工事は再開された。しかし、次の日、この再開発の根底を揺るがす重大な事故が起こってしまった。

 アスファルトの破片を撤去中のブルトウザーが突然暴走し、近くで作業を指示していた現場監督を轢いた。下敷きとなり即死した男の身体は、ペシャンコとなり、最早、人の形を留めていなかった。

 この事故でついに国が動き出し、再開発の再検討が始まる。そして、少年の不可解な死は、まさに再検討の真只中に起きた事件だったのだ。

 最早、誰もが工事の延期は避けられないだろうと思っていた時、国から派遣された一人の男によって、ひっくり返る。

 国土交通省事務次官、真鍋なるものが提案する。その内容は、この場に居る誰もが驚くものだった。

「ここまでくれば最早、偶然の類で済まされるものではない。何かが、我々には解らない何かが、あの場所で起こっている。人智を超えた何かがだ。さすれば、やることは一つ、本物の力を持つ御祓い師に頼むことではないか」

 何食わぬ顔で言ってのけた。

「しかし・・・前にも一度、御祓いはしておりますが・・・」不動産屋の一人、田中が上げ足を取った。すると、すかさず真鍋が言い返す。

「何処の者が祓ったのですか? 駄目なのですよ、力のない者がいくら儀式に(のっと)って祓いの真似事をしても、現に、事故は治まらなかったでしょう」

 とても官僚の言うセリフとは思えない、誰もがそう感じた。しかし、どうしてもこの再開発のプロジェクトだけは、延期させたくはない。この場にいる誰もが願っていることなのだ。横浜市も不動産屋もゼネコンも、全てが巨大な金と云う利害で結ばれている。

(わら)をもすがる思いで、全員が真鍋の提案に乗った。

「この番号に掛けてみて下さい」名刺を渡すとその場は解散となった。

 その後、俺の携帯が鳴った事は言うまでもないだろう。

 気だるい昼下がりの午後、ウトウトしたのだろうか、ソファーに預けた体が思うように動かない。それでも思い切って上半身を起こすと、先程のクライアントからのファックスが、テーブルの下に落ちているのが目に入った。

(あのガキども、このままで済むと思うなよ)嫌悪感が蘇る。

 気を取り直し、起こった事の正確な報告書と、今回の請求額の書かれた書面をファクスで送る・・・金額は内緒だ。

 一連の作業が終わると、時は既に夕刻となっていた。ふと、葛城圭子のメールが気になった。

(七時にスマイルかぁ)迷っていた。

 腕時計を見ると、七時まであと五分ではないか。

「あはは、駄目だこりゃ。間に合う筈がない」声に出すと吹っ切れた。

 そんな事より、もう晩飯の時間になる。ドタバタと母屋へ続く廊下を小走りで進むと、何やらいい匂いが漂ってくる。もしやこれは、そう、今まさにトマトピューレが、いろんなハーブ達と鍋の中で踊っている匂いだ。

完全に浮かれた両足が、年甲斐もなく馬鹿みたいにスキップを踏んでいる。それ程、魔女の手によって作り出されるイタリアンは、絶品中の絶品なのだ。この時点で最早、葛城圭子の事は完全にパスとなった。

 尚も浮かれきった両足が、魔女がいるであろう台所まで進んでゆく。多分、今の俺の顔は、ヒクヒクさせながら、これでもかと広がった鼻の穴を先頭に歩いているんだろう。

「美―代さん」にやにやしながら声をかけた。すると、何事もなかったかのように、こちらを向き、突き立てた右手の人さし指を扉の開いた食器棚に向けた。その中には、フォークとスプーンの群れがいる。

「丁度良かった、食卓へ運んで下さいな」そう言うと俺の方をチラッと見て、

これはお願いではありません、命令です。と云う顔をしながら、また鍋に向かうのだった。

「あ、そうそう、三人分お願いしますね」背中を向けたまま、付け加えた。

(え、三人分・・・誰か来るのか?) めったに客など来ない筈なのに、と思いながら仕方なく数を揃えるのだが、確か、俺が居候になってから尋ねて来たと云えば、お中元を届けに来た宅配業者と、あの嫌な女ぐらいだ。

(え・・・まさか、そんな事)頭の中が必死で否定する。少しドキドキしながら、フォークとスプーンをテーブルまで運んでゆくと、その数分後・・・

 キーンコーン! ・・・呼び鈴が鳴った。すると、インターホン越しに聞き覚えのある声がする。

「来ちゃいましたぁ」・・・オーマイ・ガァ~ 心の蔵が、破裂した音が聞こえた。

 そいつは、勝手知ったる我が家のような顔をしながら、入るや否やピストルの形にした右手を俺に向けると・・・

「パン!」・・・ご丁寧に左目をつむり、撃ち放った。

「京助ちゃん! 見―つけた」・・・恐るべし、葛城圭子。

「やっぱりね。来る気なんてなかったんでしょ、スマイルに、そんな事だろうと思った」強烈な非難の視線が俺を突き刺した。

 気が付いた魔女がエプロンで手を拭き、ニコニコしながら圭子の(そば)までやって来ると、うれしそうに両肩をポンポンと叩きながら言った。

「ほんと、良くいらっしゃいましたねぇ。楽しみにお待ちしておりましたのよ」

「美代さーん! お久しぶりでぇーす」屈託のない顔をしながら、圭子が抱き着いた。

 その場を認識している俺の目のなかに、今から始まるであろう、魔女と小悪魔による、女子会の(うたげ)が映るのだった。

(あー・・・こんな事ならさっさとスマイルに行けば良かった。そこには味方がいたのに)後悔が突き上げてきた。

ついでだから言っておこう。この小悪魔、葛城圭子と云う女はとんでもない奴なのだ。確かに、たった一人でルポライターとして戦う姿はあっぱれだ。そこのところは認めよう。だが、その傍若無人な態度を、他人の俺にまで平気で向けてくるからたまったもんじゃあない。それに、見栄っ張りなのか、それとも女性ならではなのか分らないが、所々に嘘じゃないの? と云うのが見え隠れするのだ。勿論、はっきりとした嘘つきの現場を目撃したこともある。

少し前になるが、ある事象の現場で彼女と遭遇した時だ。お巡りさんが、駐車違反で捕まった彼女に、提出された運転免許証を見ながら、年齢を確認していた。

「昭和五十三年生まれの、三十二歳で間違いありませんね」言われた彼女が、下をむきながら蚊の鳴くような声で、

「はい」・・・と、返事をしていた。そこで初めて、この女が年齢を見事にごまかしていた事実を知ったのだった。

俺には、今年で二十六歳になったと言った。なんと、六歳もさばをよんでいるとんでもない女だ・・・確かに事実、その年齢には見えなかった。元々の作りが若い、それに一般的には美人の部類に入るのだろう・・・黙っていればの話だが。

 本日もコムサの黒い上下で決め、茶色のバッグ、それに、足元は合わせるように、これまた茶色のリーガルときている。この女の定番スタイルなのだ。        

まあ、それなりにセンスは悪くない。細見の身体つきには、コムサは、すっきりと決まるブランドなのだろう。

 長めの髪は後ろでアップ気味にまとめられ、顔立ちが少しきつく見える。

本当に、黙っていればいい女なのだが・・・しかし、濃いめに引かれた真っ赤なルージュは、口から先に生まれて来たことを強烈にアピールしている。

 あらためてマジマジと眺めていると、空しさを感じた俺の頭の中が、今にも現実から逃げ出そうと両目をキョロキョロとさせるのだった。

さて、食卓はと云うと、それはそれは賑やかなイタリアンだ。色とりどりの新鮮な野菜を千切ったサラダが、深めの大きな皿に綺麗に盛り付けられ、茹で上がったばかりのパスタは、まるで蒸気機関車のように、ボールの中で湯気を出しながらテーブルの上に置かれている。それを手際よく各人の皿に取り分けながら、こちらを向いた美代さんがニッコリと笑う。

「ささ、御席について下さいな」両手を広げ、この宴へと誘った。

俺と圭子が席に着いた事を確認すると、目の前に盛られたパスタの上に、自家製のトマトソースをたっぷりとかけてゆくのだ。

甘酸っぱい香りが鼻をくすぐり、俺の食欲回路が目一杯開いてゆく。

スイッチの入った胃袋は容赦なく胃酸を放出し、口元を濡らす唾液と共に我慢回路が崩壊してゆくのだった。

取り分けられたサラダが横に付く。バジルにその他エトセトラなハーブ達を、小豆島からわざわざ取り寄せたと云うオリーブオイルにアンチョビを溶かし、じっくりと漬け込んだ美代さんオリジナルのドレッシングが絡められた。

「頂きます」言ったが早いか、既にスプーンの中へと入った麺は、器用に動くフォークの先にグルグル巻きに絡め取られ、酸が波打つ胃袋の中へと直行してゆく。この作業を何回となく繰り返すうちに、白い皿の中身は全て消滅していったのだった。勿論、サラダもペロリとたいらげた。

 脇目も振らないこの行動に、呆れた顔で冷ややかな視線を向けていた圭子が口を開いた。

「京助・・・あんた、そんな食べ方してたら、死ぬよ」・・・呼び捨てだ。

(年下のくせに)腹が立つ。しかし、俺の腹は既に満杯のパスタで、山のように立っているのだ。それに、今はまずい、なんせクソ生意気な小悪魔の横には、ボスキャラの、美代と云う魔女が控えているのだから・・・

 とにかく俺は食べ終わった。早々にこの場を逃げ出そうと思い、椅子から立ち上がろうとした時だった。

「ちょっと待ってよ!」いきなり圭子の奴が呼び止めた。中腰状態で両手をテーブルに着いたまま、俺の下半身が、おかしな格好で静止する。それに続いて美代さんまでもが言う。

「桂さん、お話ししたいことがあるそうですよ。聞いて差し上げなくてはねぇ」

 もしかしたら、俺は(とど)めを刺されたのか? ・・・時、既に遅し。蛇に睨まれた蛙と同じだった。

完全に服従モードを余儀なくされた俺の両肩は、ここまでかと云う位、下がりきっているに違いない。一度は離脱した俺のケツが、元の場所へと軟着陸した。

(用件だけ聞いたら、適当な返事で誤魔化して逃げ出そう)そう決心したら、ようやく正面を向くことが出来た。

「で・・・何!」つっけんどんに言い放ってやった。

「もう、真面目に聞いてよね」呆れ顔で覗く圭子の右手が、テーブルの上で握りこぶしを作っている。それを見つけた俺は、

「わかった・・・わかったよ。聞くよ」ゲンコツが飛んでくる前に、あっさりと降参したのだった。

 ようやく諦めたと判断したのだろう、圭子が話し始めるのだが、いつになく物静かな雰囲気に、俺は少し戸惑いを感じた。

「実は、あたしの実家の事なんだけどね」・・・確か、この女、出が静岡とか言っていたが。

 圭子は、話が長くなることを前置きし・・・続けた。

「昔から先祖代々続く古い家柄でね、あたしはそこの次女なんだけど、まあ、だからこんなに自由にやらせてもらってるんだけどね」そう話ながら、胸ポケットから一枚の写真を取り出すと、

「見てぇ、可愛いでしょ。名前は里美って言うの」俺の目の前に置かれた写真には、お下げ髪にした一人の女の子が、にっこりと笑い、写っている。

「まあ可愛い、御幾つになるの?」横入りした美代さんの後頭部が、完璧に俺の視界を塞いだ。

「えーと、小学二年生だから・・・今、八歳かな」そう答えると、美代さんの見えやすい位置に写真を移動したのだった。

「え・・・では、御幾つの時のお子様かしら?」びっくりした様子で、美代さんが続ける。

「じゃあ、ご実家の方で養育して頂いて要るのですね」

 気遣いがひしひしと伝わった。

(そうか、この女、隠し子がいたのか)歳が歳だから有り得る話だ。

「ちょ・・・ちょっと待ってよ」それを聞いた圭子が、慌てた仕草で両手を広げ、交互に振っている。

「あたしじゃないよ。やめてよ、こんな若い身空で・・・子供が要る訳ないじゃん」

「おや、まあ」・・・早合点した美代さんは、少し顔を赤らめ黙ってしまった。

 俺の中のこの女に(しいた)げられた思いが、意地悪な顔つきを伴って言葉に出る。

「へぇー、じゃあ誰のお子さんですかぁ? 本当はお前じゃあないのかなぁ」

「あんたねぇ~、ぶっ飛ばすよ!」恐ろしい形相で睨まれた。

 ここで美代さんが助け舟を出す。

「まあまあ、誤解してしまったようですねぇ、ごめんなさいね。ささ、続けて下さいな」

 その言葉に落ち着いたのか、気を取り直し、話し始めた。

「だからぁ、この子はあたしの姉貴の子供なの。わかったぁ」納得しろよと云う顔で俺を睨みつける。これ以上つまらんことを言えば、間違いなくぶっ飛ばされるだろう。

「話って言うのは、この子の事なんだけどね・・・あたしの実家は静岡の結構な田舎の方で、でも、いい所なんだよ。その実家の在る地区で、十年に一度のお祭りがあるのね。その中で、竜神様にお嫁入りすると云う儀式があるんだけど、このお嫁さん役って云うのを町中の女の子達から一人選ぶのね。これは勿論、運なんだけど、今回、姉貴の子供、里美に決まったの」

「それは、光栄な事ですこと」自身の両手をギュッと握りながら、美代さんがにっこりと笑った。

「うん、そこまでは良かったんだけど、その後、その話をすると、姉貴も実家の親も、はぐらかすみたいで話にならないんだ。あと、ひと月後に始まるんだよ。だから、何かあったんじゃないかって心配してたら、これ、全くの偶然なんだけど、あたしが今契約している雑誌社の企画で、この竜神祭りを取材して来いって言われたのよ」そう言うと、先程美代さんが入れてくれた紅茶に口をつけた。

 それからまた続くのだが、ここからが、俺を巻き込む恐ろしい話へと変り始めるのだった。

 圭子が、雑誌社から取材を依頼された理由は、この祭りが、外界に対して、大ッぴらには知られず、今まで密に行われ、十年に一度と云う日本でも数少ない奇祭で、圭子がその地の出身だったと云う事と、他の者が皆、別の取材で出払っていたと云う事らしい。

 何はともあれ、取材費用で実家に帰省出来るのだから、この女にとってはラッキーだったに違いない。ところが、その姪っ子の件もあって、手放しでは喜べない・・・そこでだ。突き刺さった白羽の矢が、俺の頭の上で、ゆらーり、ゆらりと、揺れているのだろう。

「ねぇ・・・京助ちゃん。一緒に行ってくれないかなぁ。勿論、交通費とか、それに食事もこっちでみるから。あ、そうそう、バイト代も払うからさぁ」

 そら来た。冗談じゃあない。こんなリーサルウェポンみたいな女と、一日だって一緒になんか居られるものか。この女の恐ろしさは、俺は良く知っている。こいつは、きっと人生の肝心な処に現れ、自分勝手なアンダーラインを平気で引くと、再起不能になるまで思いっきり中傷する奴だ。

「悪いが、断る」きっぱりと言い切った・・・直後。

美代さんの空手チョップが、脳天に突き刺さった。

 その後の事は想像に任せるとするが・・・恐ろしい呪文が、俺の顔をコクンとするまで続いたことは言うまでもない。

「やったー。ありがとね、京助ちゃん、やっと諦めたねぇ~」

「・・・はい・・・お供します・・・で、いつでしょう?」

「明日!」

 放心状態の俺は、最早、人の心を失っているに違いない。

 その後、魔女と小悪魔二人の女子会は盛り上がり、ベチャクチャと何時間も喋り続け、時折、大笑いしながら、狂喜の夜は過ぎてゆく・・・

 その同じ食卓の隅で、天井へと幽体離脱した俺の魂が、その光景をまぬけな顔で、ぼうーと見ているのだ・・・多分・・・


「さてさて、抜き差しならない状況に巻き込まれ、悲しいまでに打ちひしがれた京助殿の支えとなりまして、ここから始まる旅の道中記、わたくしもお供させて頂きまする。申し遅れましたが、わたくし、普段は京助殿の背広なる左ポケットの中の、そのまた中に有りまする隠しポケットに鎮座しておる、御祓い箱と申します。まあまあ、お堅い事は抜きとして、それでは本編に戻りましょう」

 

 その夜、京助はなかなか眠りに付けなかった・・・いつもなら、深い深い夜の奴が、横になるや否や心地よい夢の中へと引きずり込むのだが、余程、圭子との道中が嫌なのだろう、時折ムクッと起き上がり、両手で頭を掻きむしりながら、上を向いたかと思うと、

「ああー・・・」と寝ぼけた声を出すのだった。

 次の日の朝、とうとう熟睡出来なかった京助は、真っ赤になった目を擦りながら、美代さんの作ったうどんを、チュルチュルと食べていた。

「まるで魂が抜けたようですねぇ」

(ああ・・・今朝も呪文が聞こえるぅ)・・・

「ほんとに抜けちゃってるんじゃあないんですか?」

(誰が抜き取ったんじゃい)心の中で叫ぶのだが、その勢いはまるでない。

 食べ終わった頃には、大分気分も落ち着くのだが、まだ諦めきれない気持ちが、ずる賢い顔となってキョロキョロと辺りを見回している。それに気付いたのか気付かないのか、後ろに立った美代さんと云う魔女が、新たな呪文を唱えた。

「京助さん、もう諦めなさい。もうすぐ桂さんが着きますよ」

 なんて恐ろしい呪文だ・・・京助の中の何かが壊れた。

(あはははは、もう、どうにでもなれ)・・・吹っ切れたようだ。

 そうと決まれば仕事は早い。

(そうなんだ、さっさと行って、さっさと済ませ、さっさと帰ってくればいいのだ)

「ある意味、美代さんの呪文は効き目がある」一人呟くのだった。

 大急ぎで身支度を整えると、離れとは母屋を挟んで反対方向にある東側のガレージへと急いだ。

南を向いて取り付いている扉の電動シャッターを開けると、朝日を反射しながら数台の外車が綺麗に整列し、並んでいた。

 ここの社長は趣味のセンスが悪くない。ベンツやらジャガー、はたまたベントレーなど、普通では手に入らないものばかりが並んでいる。そのほとんどが限定モデルだ。今となっては、値段のつけようがないだろう。その中で、一番隅に置かれている一台の車が、京助の愛車、唯一の財産である。勿論、新車で購入したのではない。意を決してダイナマイトローンを組んだその車は、サラリーマン時代、ずっと憧れ続けた夢の一台なのだ。まあ、後に退職金で否応なしに払い終わることになったのだが、その他にも、こいつには色々と金をつぎ込んである。

「火を入れるのは久しぶりだな」呟く早々、左のシートに滑り込んだ体が、いつもの定位置に落ち着いた。

 キーを捻ると、ヒステリックに響く甲高いセルモーターの音が、数秒後には、マフラーの先から、圧縮された排気音の野太い音へと変わった。

「いい音だ」エンジンオイルの廻りを待つ。高めに上がった回転計が、ゆっくりと下りてくる。通常のアイドリングに戻るまでに時間は掛らなかった。

「よし!」Dレンジに入ったミッションが、コクンと応答する。車はゆっくりとガレージを出た。

 良く手入れの行き届いた車体は、日の光で白く輝き、経年の時を感じさせてはいない。この車が世に出た時、最速のセダンと呼ばれ、そのパフォーマンスは強烈なものだった。4・6リッターまで拡張されたエンジンは、355馬力を発生! そのエンジンユニットは、BMWから受け取り、アルピンホワイトに塗装されたボディに美しく納まるのだ。今でこそ、このパワーでは見劣りするだろうが、当時としては破格のポテンシャルだったのである。それだけでも十分なのだが、この車、もう、ひとつふたつ手を入れてあるのだ。

その怪物のような心臓を与えられたにも係わらず、ボディスタイルはグッとおとなしいものだった。まるでお飾りでくっついているようなフロントスポイラーに、辛うじてこの車がアルピナ社製の物だと判断できる。バックスタイルにも片鱗が伺える、アルピナのエンブレムと、右端に小さくまとめられた、B10 V8のロゴである。

このボディに不釣り合いな幅広のリヤタイヤでさえ、今あるパワーを路面に伝えるには、少々心もとないかもしれない。

 このギャップが、京助のツボにはまるのだった・・・何とも言えない時間が過ぎてゆく。

 一人、黄昏(たそがれ)ていると、いきなり窓を叩かれた。ふり向いた先に圭子が立っている。助手席の窓を下げるや否や、デリカシーの欠けらもない、やかましい声が聞こえた。

「お待たせぇー、さあ、行くよ」たいそう抱え込んだ荷物を、勝手に開けた後ろのシートに放り込むと、助手席のドアが開き、スレンダーな左足が侵入する。 そのすぐ後、流れるように圭子の細い肩が助手席に納まった。

(へえー、綺麗に座るもんだ)以外に滑らかな仕草に感心する。

普通、足元から先に入ると、後から続く尻が一発で納まらず、その場でズツモツしてしまうのだ。だから、必ず先に尻を降ろしてから両足を入れるのが、うまい座り方である。

「何、見てんのよう」ジロリと睨まれた・・・感心した事を後悔した。

 やっぱりこいつのアタックボイスには、心が折れる。

「あ、そうそう・・・美代さんが途中で食べなって、お弁当」

 それはとっても有り難かったのだが、こいつと一緒には食べたくない。言葉に出そうになり、慌てて口を閉じた。

「早く行こうよ、日が暮れちゃうよう」・・・(誰のせいだ)

 今朝から開け放してある門を抜け出し、段差のある表通りへと出る。しなやかな足回りは、小気味良い旋回性と相まって、するりと流れに乗った。すると、

突然、圭子が口を開いた。

「ねえ、この車、ビーエムだよねえ」唐突に言うと、ジロジロと車内を探索し始める。

「何か・・・ちょっと違うなぁ」一通り見回した後、独り言のように呟くのだった。

(何が、ちょっと違うなあ・・・だ。お前には、分かりゃあしないだろうよ)

 そう思ったのも束の間。その思いは、いとも簡単に裏切られた。

「これって、アルピナじゃん! うっそう、マジでえ!」おどけた顔をすると、キョロキョロともう一度辺りを見回しながら、ダッシュボードをペタペタと手の平で叩いている。

(うっそう、マジでえ)・・・京助の眉毛の両端が見事に下を向き、綺麗なハの字を作った。

「お前、何で知ってんだよ」ついと、口に出た。

「へえー、シリアルナンバーはここに付いたんだぁ・・・551・・・かぁ」

(おい、無視かよ)

 確かにこの頃から、ルームミラーの上側に張り付けられるようになったが、京助は圭子のやけに詳しいその内容に驚きを隠せなかった。

ビーエムが好きな奴はこの世にうんざりするほどいる。中には、心底乗って

欲しくないと嘆くほど不釣り合いな奴もいる。だが・・・このアルピナとなると話は別だ。特に、ネオクラシックのフリークは熱狂的な連中が多い。

古めかしい車両を見つけて来ては、とんでもない金額を惜しみなく注ぎ込み、完璧なスタイルへと仕上げてゆくのだ。狂喜な愛情を注入されたそいつ等は、まるで不死鳥の如く何度でも蘇り、その雄姿を全てのステージで見せつける。

 故に、このアルピナと云う奴は特別なのだ。それなのに、この女はいとも簡単に言い当てた。京助の頭の中は疑問符で一杯になっているのだが、そこは悟られまいとするプライドの方が勝っていた。

 何食わぬ顔で、圭子の方には目もくれず、

「何処ぞの男にでも感化されたか」言い放った言葉が棘をまき散らす。

「なーに言ってんだかぁ・・・お・し・え・な・い」

 オールバックの髪が、少し逆立つ京助だった。

 その後、二人は一言も喋らないまま、車は16号を北に走り、横浜インターから東名高速に入ると、一路、圭子の実家がある静岡へと向かったのである。

 京助には久しぶりの高速ドライブだ。

「今日は、車が少ないな」呟くと、少し興奮しているのだろう、アクセルを踏む右足に力が入る。ジワリ、ジワリと、加速してゆく白い怪物は、走行車線の羊たちを後方の景色へと溶かし込みながら、矢のように突き進んでいった。

 やけに静かな助手席を横目で見ると、おでこを右側の窓にくっつけ、口を半開きにし、スーピー、スーピー、寝ている圭子の姿があった。

(やれやれ、いい気なもんだ・・・さっさと行って、さっさと済ませ、さっさと帰る)もう一度噛み締めながら、アクセルを踏み込んだ。

 クリヤーな前方を気持ちよく進んで行くと、洗練された都会の景色から、緑の目立つ山間へと入ってゆく。暫くすると、予期していた事なのだが、それは、大井松田の手前で起こった。

 背中に走った悪寒がバックミラーを覗かせる。そのミラーの中に映り込んだ物は、猛スピードで追いついて来る未確認走行物体だった。

半端なスピードでないことは、すぐにわかる・・・ミラーに映し出されたその姿が、いっきに膨張したからだ。とっさに走行車線のスペースを確認すると、躊躇わずアルピナを滑り込ませた。

 間髪入れず、その物体がこちらの真横をすり抜けてゆく。京助の好奇心は、甘美な匂いを見逃さない。ずば抜けた動体視力が、視界から遠ざかる銀色の物体をスキャンしていた。

「ほほう、ゼットかあ、それも新型」・・・にやりと笑った。日産が誇る最強のスポーツカー。

 声高々にエコやら安全運転を唱える御時世に、まだあんな奴がいる。

右の眉がピクリと上がった。

(あいつ・・・俺が避けると読んでいた。只者じゃあない)目を細めながら後方を確認すると、もう一度追い越し車線に戻った。

「もう・・・若くない・・・」独り言が何処か寂しげに聞こえる・・・

と、そう思ったのも束の間、前言を撤回する事態となった。急速沸騰したアドレナリンが、京助の頭の中を瞬時に駆け巡る。

「待ってやあがった」

 前方を睨む視線の先にいたものは、ピリピリと尖った意識を後方に飛ばしながら、走行車線をゆっくりと流す銀色のゼットの姿だった。

思った通り、そいつは待っていたかのように、こちらが近づくと、スピードを合わせピタリと横に並んだ。濃いめに張られたフィルムのせいで、ドライバーの顔がわからない。

 二台はそのまま、法定速度を超えたスピードで、大井松田のコーナーへと鼻先を向けた。龍の背に乗ったゼットとアルピナは、着かず離れず、綺麗なラインをトレースしていく。

 少し前方、走行車線側に大型トラックを確認したゼットが、鋭い加速を見せ、

一台分先行すると、そのままアルピナの鼻っ面へと、滑り込んだ。

(まただ・・・こいつは俺が加速しない事を読んだ)

 連なったままトラックを瞬時に追い越す。先行しているゼットのエンジンがヒステリックな音を発てたかと思うと、一瞬、排気音が消えた。その瞬間、目の前のリヤタイヤが、猛り狂ったような悲鳴をあげ、フル加速に入ったのだ。

 リヤフェンダーいっぱいのツライチに設定されたタイヤが、俗に云う耳と呼ばれる個所に当たるのだろう、ギャン、ギャンと耳障りな音を出している。

 アクセルの上に、ちょこんと乗せた京助の右足が深く沈む。

「リヤのショックは、固めにしないと」ぼそっと言った。

 こちらも矢のように加速したアルピナは、さして時を掛けずにゼットのケツを捕まえる。

(なんて奴だ。恐怖はないのか)京助が驚くのも無理はない。速度計の赤い針先が240キロを示している。なのに、先行するゼットは、そのままのスピードを維持したまま高速コーナーへと入ってゆくのだ。一切、減速などする気はないらしい。先の加速と、このスピードを見て、呟く。

「間違いない、こいつは只のゼットじゃあない。多分、CPUは当たり前のようにイジッてるんだろう」つまり、コンピューター制御されたスピードリミッターを、意図的に解除するのだ。すると、ノーマルなら最高速度180キロでセーブされてしまうスピードが、本来のエンジン出力の解放と共に、そのパフォーマンスは最終ギヤレシオに反映され、膨大なトルクと相まって恐ろしいスピードへと変化する。それ程、このゼットの潜在能力が高いと云うことなのだ。

 京助は慎重にステアリングを切りながら、前方のゼットが描く軌跡を追った。「ほう、上手いもんだ」右の眉を上げながら感心する。

 左回りの高速コーナーへと飛び込んだゼットは、アウトラインぎりぎりに付けた車体を、コーナーの中程から出口に向かって中間ラインを取り、そのまま今度はイン側へと押し込んだ。そのあまりにも強引なやり方は、一つ間違えれば、ここに、お地蔵さんを立てるハメに成りかねない。

 余程、車を信頼しているのだろう、普通だったら絶対やらない。しかし、この方法が一番早いと云う事も事実だ。

(してやったり)・・・そう思ったに違いない。相手が京助でなければの話だが。

 コーナーを抜けたゼットの右横に、ピタリとアルピナが張りついている。

(な、何故?)・・・声が聞こえて来るようだ。

 答えは簡単だ。コーナー中盤手前で最減速し、早めにインへと入り、そこから出口に向かって一気に加速したのだ。この車のポテンシャルを最大限生かした、良く分かっているやり方だ。勿論、この怪物でなければ無理だろう。

 相手のドライバーは、余程コーナー勝負には自信があったに違いない。度胆を抜かれた悔しさが、車の挙動で見て取れる。すると、こいつは遂に暴挙にでた。直線勝負を挑んで来たのである。

 望むところだ・・・最新型のフルパワーゼット、相手に取って不足なし。

 久ぶりに胸が高鳴り、少し脈が飛んだ。

 二台は、前方がクリヤーになるまで静かにランデブーしながら、大井松田を過ぎて行く。

「ちょっとぉ、やる気じゃないでしょうねぇ」横の女が呆れ顔で言った。

(まずい時に起きやがった)

「いつから?」そっけなく聞くと、その女はいきなり両手を上げ、大あくびをしながらこう言った。

「はっきはは・・・」

「え、何だって?」聞き直す。

「だからぁ、さっきからって、言ってるでしょ!」・・・なるほど。

 そう言うと、右手でこめかみの辺りを擦りながら、細い首を左右に振るのだった。

「もう、思いっきりぶつけちゃったじゃない。頭!」

(そうか、先程の高速コーナーの時だな・・・そのまま意識でも失ってしまえば良かったのに)

無防備な頭が、右の窓ガラスにぶつかったのだろう。それから、この女は何やらブツブツと言いながら寝ぼけ眼を擦り、少し

開いた左目で、京助の運手を非難するのだった。

 未だ勝負を賭けられないまま、恨めしそうに前方を走る車の群れを見る。

(これじゃあゼットも、自慢のパワーを持て余してんだろうな)

静かな心理戦が続いてゆく。

 御殿場を越え、沼津を過ぎた辺りから、少しずつ前が空き始めた。多分、伊豆方面に向かう車が、かなりの数でこの沼津のインターから降りたのだろう。

 横の圭子が何か言おうとした時だった。斜め前方を走っていたゼットが、いきなり加速した。前がガラガラのオールクリヤーになっているではないか。

(しまった、出遅れた)

一気にアクセルを開け放たれたアルピナが、その怪物のような唸り声を上げ、前方のゼットに喰らいつく。

「ひぇぇー・・・」シートの背の部分に細身の体をめり込ませ、圭子が悲鳴をあげた。加速時に発生する強烈なGが、凄まじい勢いで彼女の体に襲い掛かったのだ。

 一気に跳ね上がった回転計を追いかけるように、速度計の針も、あっと云う間に右へと振れてゆく。

「あうう・・・うう・・・」必死の形相で、圭子が何か言っている。

 その間にも、ゼットは逃げ切ろうと、ファイナルに上げたギヤーで、さらに加速した。仕掛けた以上、負けられない。強い信念が、その走りに見て取れる。

速度計の針は既に250キロを超えていた。

 現在、富士川、もうすぐサービスエリアが見えてくる。その手前、なだらかに昇る直線に入ると、限界とも云えるスピードに達していった。

 260・・・270・・・280・・・ここまで来ると、完全に意識は現実から逸脱し、まわりの景色がまるでスローモーションのように流れてゆく。

 ここで京助は勝負に出た。アクセルに残っているのりしろを、目一杯使う。

ムチの入った白い怪物は、路面に這いつくばった全身を歓喜させながら、回りの空気を激しく震わせた・・・280キロからの更なる加速が始まる。

 サービスエリアを過ぎた辺りで勝負が決まる。ハザードを点滅させながら、ゼットがミラーから消えていくのを見送ると、ゆっくりアクセルを戻した。

「やい! 京助ぇー」右の方から怒号が聞こえる。

「何てバカなことすんの。お陰で富士川のサービスエリア、通り過ぎちゃったじゃない」

「え、何だあ、トイレにでも寄りたかったか」正面を見据えたまま、すっ呆けた。すると、口を尖がらせた圭子が、京助の真正面に顔をつけ、

「ここでしか売ってないのよ・・・信玄餅」

「お、おい! 危ないじゃないか」圭子のおでこを掴んだ右手が、思い切り助手席へと押し戻す・・・とんでもない事をする女だ。

「とにかく、何だぁその、信玄・・・餅?」困惑する京助をよそに、益々口を尖らせた圭子が、呆れた風に言い放った。

「えぇー・・・知らないのぉ、信玄餅。山梨の名物だよぉー。東名高速のサービスエリアじゃ、富士川にしか無いんだからねえ! もう、どうしてくれるのよー、いつも実家に帰る時は必ず買ってくんだから、すっごく喜ぶんだからあ」

「・・・・・・・・・・」

「こらぁ、京助ぇー責任取れぇー」怒り狂う圭子に成す術もなかった。そして、ついには、怒りを通り越したのだろう、シクシクと泣き出したのだった。

「おいおい、勘弁してくれよ。泣くほどのことかあ」

「もう、いいもん、知らない」・・・まるで愚図った子供のように、まだ泣き止まない。おまけに鼻水まで垂れている。

(しょうがねえなあ)これからの道中を考えると、ご機嫌を直して貰わないことには、やり切れない。

「わかった・・・わかったよ。戻ろう」

(あー・・・何が悲しくて)

「ほんと! ほんとに。でも・・・ここ、Uターン出来るの? ・・・出来ないでしょ」

(当たり前だ。誰がどう見たって出来やしないだろうよ)

「えーと、次、清水だから、そこで戻ろうよ」泣き止んだ圭子が、バックから取り出したティシュで鼻水を拭きながら言った。

(そのティッシュ・・・どうするつもりだろう)げっ!ドア横のポケットに押し込みやがった・・・なんて女だ。

それから何やらブツブツ言うと、手の平を見つめ、ひとつ、ふたつ、と、指を折り始めた。多分、土産の数でも数えているのだろう。時々、顔を左右に振りながら、初めからやり直すのだった。

 そんなアホな仕草が何度となく繰り返されているうちに、清水インターの表示板が見えてきた。

「あー、ここだからね」声を荒げて指をさしている。すぐさま、走行車線に入ると、時を掛けずにインターチェンジを降りた。そのままクルリとUターンすると、今度は上り車線へと入ってゆく・・・ETCも忙しい。

 横では嬉しそうに、未だ指折り数えながら、にやにやと、おかしな笑いを浮かべる御姉さまが、半開きの口で座っている。一体、幾つ買うつもりなのだろうか。呆れながらも進んで行くと、富士川のサービスエリアに着いた。

 ゆっくりと駐車スペースを探すのだが、平日だと云うのに車の数の何と多い事か、本館近くの空きはほとんど埋め尽くされている。噂には聞いていたが今更ながらに富士川楽座の人気ぶりに驚くのだった。

 仕方なく、奥まった隅の空いているスペースに、アルピナを鼻先から入れた。

シフトレバーをパーキングに入れ、サイドブレーキを引くや否や助手席のドアが開き、指を全部折りきった圭子が、いつ出したのかヴィトンの財布を握りしめ、一目散に土産コーナーへと駆け出し、消えていった。

 開け放しにされた助手席のドアが、横のスペースに入ろうとしている一台の車両を一旦停止させている。クラクションが響き渡る前に、助手席に飛び移った京助の右手が、速やかにドアを閉めた。ペコリと頭を下げると、チェンジレバーをトラバースし、元の運転席側に戻る。

 いぶかしい顔をしながらこちらを覗き込み、いかにも、と云うグリーンメタリックのジャガーが、真横に止まった。

(成金野郎が!)京助には珍しく悪態を吐いた。多分、かなりのストレスが溜まっているのだろう。その原因はひとつしかないが。

 横に止めた奴が車から出て行ったことを確認すると、暫しの時間を置き、京助も車から離れトイレに向かった。用を足し終えると土産コーナーを覗き、圭子を探してみるが、人の頭だらけでとても見つかりそうもない。仕方なく自動販売機でコーヒーを買うと、車に戻るのだが・・・途中、カッパ饅頭と書かれた昇りが目に入り、足が止まった。

「何、カッパって?」ニヤニヤしながら運転席に滑り込むと、今買ったばかりのコーヒーを振りながら、プルトップをプシュリと開け、こくり、こくりと続けて飲んだ。

 綺麗なまんまの灰皿を眺めながら、止めてしまったタバコの事を、少しだけ後悔するのだった。

 時間が経つにつれ、駐車場の出入りが賑やかになる。

 コーヒーを飲み終わる頃、ジャガーの奴が戻ってきた。相変わらず嫌味な顔でこちらに視線を向けると、何かごにょごにょと言いながら、でかい体を押し曲げ、車の中へと入っていった。

 即座に唇を読んだ京助は、その、ごにょごにょを見逃さなかった。そして、ムっとした顔でそいつに視線を投げる。

(何が偽物のコピーカーだって)アルピナ乗りのプライドがその言葉を許さない。

 運転席に落ち着いたそいつの顔が、視線を嗅ぎ取ったのだろう、ゆっくりとこちらを向いた。京助のパラボリックなレーダーが、僅かな時間でそいつを観察する。歳は五十代前半か、身長は京助より高く、百八十センチはあるだろう。

白髪交じりの髪は短くカットされ、ツクツクと毬栗(いがぐり)のように四方八方に突っ立っている。白地のワイシャツに紺色のジャケット、スラックスも確か紺色だったと思うのだが、車中なので見えていない。ワイシャツの左袖に見え隠れしている悪趣味な金ぴかの腕時計が、嫌味を増幅させていた。

 珍しくいきり立っている京助だったが、幕引きは呆気なくやって来た。

 ひと悶着あるかと身構えたのだが、そいつはエンジンを掛けるなり、スムーズな後進をしたかと思うと、こちらを向き、にやりと笑いながら本線入口へとジャガーを運んでいったのだった。

 拍子抜けした全身は、拵えの良いシートにぐったりと深く沈みこんだ。

 暫くして、シートに張り付いた背中に悪寒が走る。すぐさま車外を見渡すと、こちらに向かって歩いて来る人影を発見した。その姿は妙に肩が下がり、ふらふらとおぼつかない足取りで、まるで魂が抜けてしまったように見えた。

 少しずつ近づく亡霊に、京助は愕然とする。両手に何も持たず、手ぶらで歩いてくる圭子がそこにいたのだ。

(まずい、買えなかったんだ。何かしらの理由で)背筋に冷たいものが走る。

 亡霊と化した圭子は、京助のいる運転席側の窓に顔をくっつけると、パクパクと口を動かし、何やら言っているようだ。

 恐る恐る窓を下げると、絶望的な声がした。

「どうしよう、こっちじゃないんだって」蚊の鳴くような震える声で、亡霊になった理由を告げるのだった。

(えー。じゃあ、何処よ)聞き返そうかと思った瞬間、思いっきり南の方角を指差した圭子が叫んだ。

「あっちだって!」きょとんとした京助が、まじまじと顔を覗き込むと

「本日、こちらのサービスエリアに入荷いたしますのは、午後二時頃の予定で御座います。ちなみに、下り線の方には、朝一入荷しているとの事だそうで。

だってえ」それを聞くと、すかさず腕時計を見た。

(おいおい、マジかよ。まだ九時半になったばかりだぞ・・・ン)

「なあーんだ・・・そう云う事か、どっちみち、また富士のインターまで上り、そこでまた、下り線に入るんじゃないか」

「あ、そうか・・・そうだよね。良く気が付いたじゃん」ご機嫌を直した圭子が素早く助手席に座ると、今の今まで、落ち込んでいた事が嘘のようにケロリとしている。

「出発進行!」・・・何と云う性格だろう、言葉がでなかった。

 サービスエリアを本線に向かう途中、スマートICと書かれた案内板が目に止まる。何のことやら分らないまま通過し、上り線へと入っていったのだった。

 さして時間もかけずに富士のインターをUターンすると、お約束のサービスエリアに到着した。こちらの方が若干空いているようだ。

 売店の前に空きスペースを見つけると、素早くアルピナを滑り込ませる。

すると、先程と同じく、止まるや否やドアを開けっ放して圭子が飛び出していったのだが・・・すぐに引き返し戻ってきた。何の事はない、あまりにも慌てて飛び出したものだから、財布を忘れたのだ。

 舌をペロッと出し、財布を掴むと、今度はドアを閉め、また、勢いよく駆け出すのだった。

 もう、何事も起こらないことを願いながら、両手を頭の後ろに回すと、ひとつ溜息をつきながら、暫しの休息を取る。

「あー、腹減ったぁ」そう云えば、何だか小腹が空いた。特別何が食べたいと云うわけではないのだが、サンドウィッチ位なら丁度いいかもしれない。そう決めると買いに行くことにする。

ドアを開け左足を出し、立ち上がろうとした京助の体が中腰で止まった。真正面を見据えた目が、信玄餅が入っているのだろう大きな紙袋を抱え、こちらに向かって来る圭子の姿を捉えたのだった。

「やれやれ・・・」呆れた口調で言うと、少し後ろに下がり、後部のドアを開けた。

「サンキュウ・・・ほらぁ、もう少し開けてよ」開けきっていないドアに文句を言いながら、後部座席に大きな紙袋を、大事そうに置くのだった。

「さてと・・・ねえ、京助はお腹空かないの」ドアを閉めると、助手席の方へと歩いて行きながら言った。

「まあな、少しだけ」すると、くるりと振り向き、

「あ、そう・・ジャッジャジャーン! これなーんだ」何ともベタなセリフと共に、後ろ手に隠し持っていたパン屋の名前が入った紙袋を、目の前に突き出した。

「サンドウィッチ」あてずっぽうで言った。

「えー、何でぇー。どうして分かったのぉ」尖がった口が、つまらないと訴えている。

 驚いたのは京助の方だった。あてずっぽうに言った言葉が大当たりしたからではない。予想外の行動を取ったこの女の神経にだ。

「はい、どうぞ」・・・未だ信じられない現実に、戸惑いを隠しきれないまま、手渡されたサンドウィッチを受け取った。

「ほら、コーヒーもあるから」そう言うと、コムサの黒いスーツの両ポケットから缶コーヒーを取り出し、その一本を渡すのだった。

「遠回りさせちゃったからね。そのお詫びとお礼だよ」

(どうしたぁ・・・葛城圭子ぉ! いい女じゃないかあ)少しだけ見直したのだった。

「あ、そう云えば、美代さんのお弁当。どうする」思い出したように京助が言うと。

「ふ・ふ・ふ・・・」と、不敵な笑みを浮かべ、正面を向き言うのだった。

「あれは、お昼ご飯で食べるのよ」くじらが笑ったような目になっていた。

 近くのベンチに二人腰掛ける・・・信じられない光景である。

 せっかくだから頂戴しようと、渡されたサンドウィッチを袋から取り出そうとした時だった。

(え・・・何これ?)袋の真ん中に、小さなシールらしきものが、申し訳なさそうに張られている。良く見ると赤い文字で、{半額}と書かれていた。

 ひっくり返し、賞味期限を確認すると、H22・9・28 AM と、印刷されていた・・・まさしく・・・本日、そう、たった今で御座います。

(なるほど、そう云うことか。一人分の買い物で二人分だもんなあ。もしかしたら、このコーヒーだって、ピコピコピー! ってやつで当たったのかもな)

 捻くれてゆくこの男を、最早、誰も責めることは出来ないだろう。

 袋を握りしめている京助の右手が、小刻みに震えている。並んで座る隣を見ると、パクリ、パクリと何食わぬ顔で、美味しそうに頬張っている詐欺師がそこにいた。多分、もう何を言っても、この女には通じやしないだろう。呆れて言葉が出て来ない京助が、意地になったのか、袋から取り出し思いっきり大口を開けたかと思うと、無理やりそいつを押し込み、ムシャリ、ムシャリと一瞬にして食べてしまったのだった。

 その異様とも思える光景をジッと見ていた圭子が、たまらず言い放った。

「京助、そんな食べ方してたら・・・死ぬよ」

(大きなお世話だ)・・・

 顔に似合わず、おちょぼ口でのんびり頬張る圭子を見ながら、Gパンのケツのポケットに入れた薄っぺらい財布を取り出すと、睨みつけながら言った。

「おい、ソフトクリーム・・・食べるか?」この女だけには、借りは作りたくないと云う強い意志が、京助の言動と行動を駆り立てる。

「いいねぇ。勿論、食べるよ」即答した圭子は、慌てて残りのサンドウィッチを口の中に押し込むと、小さなお絞りを取り出し、口の回りと指先を拭きながら、次に来るソフトクリームの準備をするのだった。

 一連の動作を横目で見ながら、足早に買いにゆく京助の足元に、影が短く着いてゆく。


 {さてさて、突然では御座いますが、道中お供の御祓い箱で御座います。

このようなハイカラさんなお休み処にて、お二人仲様にソフトクリーム等と云うものを御舐めになっておる頃、今から向かう葛城圭子なる女子(おなご)の御実家ではそれはそれは、大変な事態に陥っておったので御座います・・・}


     第二章   月夜野の闇


「おい、岸部は・・・岸部からまだ連絡はないのか!」大声で叫んでいるこの男は、本家当主の葛城幸三、圭子の実父である。

 六十代半ばになるのだが、その精悍な顔立ちと屈強そうな肉体が、背の高さと相まって、厳つい風貌となりこの場に立ちはだかっている。

その幸三に名を呼ばれている者は、今の時代には珍しい葛城家の使用人、岸部洋平と言う男だ。

 幸三から信頼の厚いこの男は、五十代半で、腰の低い物静かな人物である。

若い頃より造園に携わり、その卓越した技術と人柄の良さで、葛城本家の広い屋敷の数多い植木の手入れを、全て任されているのだ。

「お父さん、そんな大声を出さんでください」

「美佐江か、岸部はどうした。まだ戻らんのか」

 (たしな)めた女性は幸三の妻である。年齢は少し若いのだが、その容姿は、太くしなやかに真っ直ぐ伸びた竹のようで、しっかりと地に根を張った威風堂々さが感じられるのだった。

 狼狽(うろた)える幸三に、妻の美佐江が言う。

「いくらお父さんの頼みでも、そんな簡単に事は運ばんのでしょう。なんせ、隠れ里の衆ですから」

「お前はどうしてそんなに冷静でいられるんだ・・・それにしても遅いじゃないか」その言葉に、美佐江は幸三の正面に立ち、ジッと顔を覗くと首を数回、左右に振った。

「ええい・・・やはりわしが行けば良かった」幸三の(こぶし)を作った右手が、濡れ縁を支える柱を殴った。

「何故だ・・・どうして里美が、孫の里美がこんな目に合わなくては・・・」

怒りに震える右手の拳が、今一度柱を殴る。

 それは、今から三か月ほど前、梅雨も佳境の六月吉日に始まる。

 この月夜野地区で、千二百年余りも続いている、全国でも類を見ない珍しい奇祭がある。起源は西暦八百年、京都に遷都された都が、平安京と名乗りを上げた六年後の事だ。

 世はまさに、(みやび)な御公家衆が、我が物顔でこの国の歴史の上をかっ歩していた時代・・・事は静かな瞬きと共に始まった。そして、時は遡る。

 この地に一人の修験者が辿り着く。当時、争い事も無く、平和だった村の住人達は一斉に、他から流れてきたその者をいぶかった。そして、村中で監視する。

 事の全てを承知していた修験者の男は、村人とは会いまみえる事もなく、村の外れにある小高い山の麓に居を構えると、うっそうと生い茂る雑草や雑木を薙ぎ払い、そこに小さな祠を立て、朝に夕にと護摩火を焚き込め、長い祈祷を始めるのだった。

 最初はいぶかっていた村人達も、この男の真剣に祈祷する姿を見て、次第に心を動かされてゆく・・・一度心を開いてしまえば、村人達の行動に躊躇いはない。朝に夕にと始まる祈祷の前に、食事と供物を持ち寄り、自らも手を合わせるようになっていった。

そんな風景がこの村の日常となったある日、いつものように供物を差し出そうと、村の若い娘が祠の前に立った。すると、裏の方から何やら物音がするではないか。恐る恐る覗いて見ると、拾い集めた小枝を、脇に山ほど抱え込んだ修験者の姿が見て取れた。だが・・・何やら様子が違う。と言うよりも、以前と違う風貌の男が、そこに立っていたのだった。

長く、もしゃもしゃと、顔全体を覆っていた真っ黒な髭が無い・・・全て綺麗に剃り落された髭の中から出てきた顔は、目鼻立ちのはっきりした色白で品の良い、穏やかな顔つきをした若者であった。特に、切れ長の涼やかな目元は、息を呑むほど美しい。

娘はとっさに祠の陰に身を隠すと、見てはいけないものを見てしまった様に、どきどきと高鳴る胸を必死に抑えるのだった。

うずくまる娘を見つけた若い修験者の男は、最初驚いたのだが、すぐに何事も無かった様に娘の前を通り過ぎると、拾い集めた小枝を祭壇の前に積み上げ、祈祷の準備を始めてゆく。

その流れるような一連の所作(しょさ)を目の当たりにした娘は、まるで優雅な舞でも見ているようで、何とも言えぬ心地良さを覚えた。

パキン! 小枝の折れる音が娘を正気へと戻す。頬を押さえ、一目散に駆け出す娘の足は、高鳴る胸の鼓動と共に、村に戻るまで止まることはなかった。

だが、夜になっても、寝床に入ってからも、胸のどきどきだけは止まらない。

只ならぬ感情が恋だと気付くまでに、さほど時は掛らなかった。

 それからと云うもの、着かず離れずその若い修験者の世話をする娘の姿が、毎日のように村人達の目に止まった。

暫しの時を経て、この噂が村の地主でもある(おさ)の耳へと入る・・

流れ者とは結ぶこと()らず・・・村の掟は侵してはならない。

事態を憂慮した長の命により、役処(やくどころ)の男達数人が娘を訪ねた。泣きわめく娘を説き伏せた男達は、その足で小山の修験者の元へと向かったのである。

その頃、祠のある小山では、修験者に真髄していた村人の一人が、いち早くこの知らせを伝えると、今すぐここから逃げるよう勧めた。

事の重大さに気付いた修験者の若者は、只では済まないであろうことを予感し、知らせてくれた村人の先導で、山深い獣道を急ぎ逃げるのだった。

どれ程駆けたのだろう、山ひとつは超えていた。上がる息の中、既にこれ以上駆け通すことは無理のようだ・・・途中、うっそうとした木々に囲まれた

大きな池の(ほとり)に着くと、少し休むことにした。

 僅かな時が経ち、静寂が支配する中、おもむろに立ち上がった若い修験者が、誰に言うでもなく、ぼそり、ぼそりと、話始める。

「わたしを見捨てた京の都がうらめしい」そう言うと、天を仰ぎ印を結び、静かに目を閉じ続けた。

 先祖代々、朝廷に仕える官位の高い家柄で、陰陽を(つかさど)る安倍家をも従える程の力を持ち、後々の世まで名を刻むであろう名家の出だと云う事と、いずれはその名を継ぐ頭領に成る身であったとも言う・・・ところが、それを妬む輩どもに企てられ、いとも簡単に失脚した。魔が巣食う都の中では、このような事など、日常茶飯事なのだろう。

「都を追われ早、十年・・・後・・・後少しで満願成就するものを、月下の影すら見届けぬとは・・・」

 若者は己の滑稽(こっけい)な運命を呪うと同時に、我が身を失脚させた者達への恨みを護摩火に焚き込め、鬼と成り、陰陽によって定められた数々の地にて、祈祷を繰り返していたのだった。そして、この地が最後の場所となる筈であった。

 突然吹き抜ける風が、ざわざわと池の周りの木々達を容赦なく揺らし、空に掛る雲がゆっくりと厚みを増してゆく中、漆黒に変わる景色を感じながら、若者が歩き出す。

虚ろな眼は天から離れ、その視線は目の前に広がる池へと落とされた。

日を遮る木立の闇が、この者の揺れ乱れる影を消してゆく。

 深い緑色を流す薄暗い池の辺に立つと、胸の前で合わせた両の手に息を吹きかけながら、静かに呟くのだった。

(じゅ)()し者、(はか)らずも成さず、我、この地にて龍と生るも天に昇らず、地に留まりて、(こと)(みつる)まで成すなり」

 足元の水面に、言の揺らぎが波紋を描き出す中、一歩、また一歩と、ずり進んでゆく若者に、小刻みに騒ぐ波の慟哭が身を濡らし、細い腰を震わせた。

 成す術もなく、只、呆然とその成り行きを見守る村人の口から嗚咽が漏れる。

 天が全て漆黒に覆われた頃、若者の姿は幾つかの水泡を残し、消えていた。

 どれ位の時が過ぎたのだろう・・・突然降り出した雨に、はっ、と我に返った村人は、今一度、修験者の姿を探すのだった。

 役処の男達が追いついたのは、この頃であった。既に、修験者の姿は無く、只、池の周りをおろおろと歩き回る、村人の姿だけが目に映っている。

 事情を聴こうと、男達が近づいた時だった。何処からともなく現れた霧が、今まで見えていた池の水面を覆い始める。それは、次第に厚みを増してゆき、等々周りの木立さえ見えなくなるほどに、深く流れ込んだのだった。

 視界を遮断された男達に、最早、この場を動くことは許されない。只、一刻も早く霧の晴れることを願うだけである・・・

 中々晴れぬ状況に焦りを感じ始めた頃、何やら池の水面が波立つ気配に、この場にいる者達は神経を尖らせた。

 すると、何やら重苦しい音が水面を叩く。

 ズタン、ズズタン、ズーン、ズズタン・・・ズタン・・・

 池の中程から聞こえて来るその禍々(まがまが)しい音は、段々と勢いを増しながら、男達のいる場所へと近づいて来る。そして、目を凝らし男達が見た物は、所々薄くなった霧の中を、銀鱗を鈍く輝かせながら水面をのた打つ、巨大な龍の姿だった・・・その場の全員が凍りつく。

 恐ろしさの余り、眼を閉じようとするのだが、かっ、と見開いた瞳孔はそれを許さない。

奥の奥まで焼き付けられたその魔形が、男達を半狂乱にしてゆく。

 暫くのた打った後、突然、黒光りする大きな爪を持つ前足が、霧共々水面を切り蹴ったかと思うと、血走る金色の眼光を天に向け、巨大な蛇腹をくねらせながら上空へと駆け上ったのだった。だが・・・その伸び上がる身体は、深く張った霧の外へと、出ることが叶わない。何度となく繰り返すのだが、その身体は虚しく水面に引き戻される。そして・・・力尽きた龍は、池の深部へとその巨大な身を沈めてゆくのだった。

 事の一部始終を見せられた男達は、長い金縛りから解き放たれると、一目散に山を駆け下り、転がるように麓の村まで辿り着いた。そして、この話はその日の夜までに、電光石火の如く村中に知れ渡る事となる。

 次の日の朝、誰一人として眠れぬ夜を過ごした村人達は、明けると同時に(むら)(おさ)の所へと集まり、急遽、寄り合いを始めるのだった。

まず・・・長が口を開いた。

「兎にも角にも、あの娘の事じゃ、誰ぞ知らせてはおらんじゃろうな」

村の衆を見回し、知らせなかった事を確かめた後。

「なら、ええか、ようく聞けよ。役処の男衆には、もうひと働きしてもらわんとな」

そう言うと、何事を頼まれるのかと、物怖じしている男達に視線を向けた。

「今から急ぎ、隣村の二つ坂へゆき、そこの長に事を伝え、直ぐに嫁入りの支度を頼め」

 成る程、事の全てを娘に知られる前に、隣村へ嫁がせてしまえと云うことなのだろう。

「ただし・・・竜神様の事は、黙っておけよ」と、付け加えたのだった。

間違っても、流れ者の修験者が身を滅し、龍に成ったなどと知られてはならない。すると、役処の一人が、長に尋ねた。

「では、どのような成り行きで嫁がせましょうや」

「好いていた男が村を捨て、何処ぞへと旅立ったと、しておけ」

役処の男は小さく頷いた。

「事は急ぐ、ふたつ山を越さねばならんて、早ようゆけ」そう指示をすると、慌てて支度をする役処の男達をそのままに、残る村の衆を近くに呼んだ。

「今、言うた事は、他言してはならんぞ。娘にはわしから伝えるとして、お前達は今から総出で小山の祠にゆき、(やしろ)を建てるんじゃ」長の意思は村人も同じであった。そう、祟りを恐れたのだ。

 そして、この神社は、修験者が最後に残したと云う、ことのみつる、を取り、(こと)(みつる)神社として手厚く祀ったのだった。

それから十年毎に、密祭の儀を執り行うようになったのである。

 その後、長によって説き伏せられた娘は、何も知らないまま、隣村の二つ坂へと嫁いで行ったのだった。

 恐ろしくもあり、もの悲しくもある、この真実の物語は、当時、神事の全てを執り行ってきた神官の、(あま)(みや)一族の手によって、事細かく書き留められ、社殿の奥へと封印されたのである。

 久遠(くおん)の時が過ぎ、この伝承は単なる儀式へと姿を変え、この月夜野に残った。しかし、事の真実は、少しずつ風化しながらも、口伝されていったのだった。

 成り行きとは云え、とんでもない過去が、此の地にはある。

全てを月夜野の闇に隠した人々は、自らの(いまし)めの為に、祭事における儀式を作りあげた。

ひとつの勾玉を、若い娘の魂に見立て、人形(ひとがた)神代(かみしろ)に包み込むと、池の中へと沈めるのだ。この儀式は嫁入りの儀と云い、現実の娘をたらい桶に乗せ、池の中程まで運び、添い遂げる事叶わぬ娘と若者の魂を慰め、平安を願うものだった。そして、その時代ごとに、幾つもの勾玉が万感の思いを込め、沈められたのである。

とにかく、この地では竜神様の嫁役を射止める事は、その家の計り知れない誉れであり、尊い事なのだ。故に、若い娘のいる家は、こぞって名乗りを上げ、吉報の舞い込む時を願うのである。

その選出の仕方と云うのは、各々家名を書いた和紙を紙縒(こより)りにし、六月の吉日に身を沈めたと云う、この池の辺から一斉に流し、最後まで沈まずに残った紙縒りの家の娘が、この大役を射止めるのだ。そして、今年はその竜神祭が開かれる十年に一度の年にあたる。

 待ちに待った吉報が葛城家に届いたのは、昼も過ぎた午後二時頃であった。

飛び込んだ男は息も絶え絶え、広い土間へと走り込み、咳き込みながらも大声で叫んだ。

「旦那さん・・・旦那さん。里美ちゃんもお()でかや」すると、その声を真っ先に聞きつけた幸三が、急ぎ奥から飛び出した。

「おお、岸部か。で、どうであった」緊張で少し声が上ずっていた。

「射止めましたあー。里美ちゃん、決まりましたよう」そう言い放った岸部の顔は、激しく高揚している。それを聞いた幸三が、白いワイシャツの脇が裂けんばかりに両腕を高々と突き上げ、眼光鋭い両の目を潤ませるのだった。

「美佐江! 里美は居るかい」その一言が精いっぱいのようで、直ぐに嗚咽と変わった。

「ほうですか。決まりましたか」きょとんとした里美の手を引き、美佐江が現れた。そのすぐ後ろから里美の母であり、圭子の姉、孝子が続く。

「里美、良かったねぇ。月夜野で一番になったよ」にこにこと笑いながら、里美のほっぺに頬ずりをする孝子に、くすぐったい仕草を見せ、里美は少し斜めに首をひっこめた。

 すかさず抱え上げた幸三が、青い畳の敷き詰められた広い日本間を、行ったり来たり走り回る。

ほどなくして、息が切れたのだろう、そっと下に降ろすと、ペタンと座り込み岸部に向かって手招きをした。

「酒樽を用意してくれ。振る舞い酒じゃて、近所の衆に振る舞い酒じゃ」

 そう言うと、たたみの上で大の字になり、うれしそうに天井を見上げた。

 事を頼まれた岸部が再度、美佐江に確認を取る。

「奥さん、樽は一つでええんですかねえ?」すると、

「いえいえ、一つじゃ足らんでしょうねえ。会社の人達も居るんですから・・・そうねえ、取りあえず二つ頼みましょう」

聞き取った岸部が早々酒屋に走った。

「それじゃあ、私は料理屋に電話しとくね。もうすぐみんな帰って来るから」

 孝子が携帯を取り出し、かけ始めた。

 ここ葛城家は、月夜野でも一、二を争う広大な土地を持ち、幾つもの山には、

その傾斜を利用した茶の栽培が、古くから行なわれてきた。

摘んだ茶葉は自社工場で製茶し、日本全国に出荷している。特に、小夜の八十八夜と云う銘柄の新茶はすこぶる評判が良く、毎年、あちらこちらから引き合いが来るほどの、ブランド茶なのだ。その製茶工場から、仕事の終わった従業員達は、この葛城家に帰りがてら立ち寄ることが日課となっていた。

 めでたい祝報が届けられたこの者達は、口々に祝いの言葉を唱えながら、葛城家の住人が待つ屋敷の中へと入っていった。

 それから数日後。祭典の打ち合わせに、意気揚々と社務所へ向かう幸三の姿があった。

本来ならば娘の父親が出席するのだが、あいにく里美の父親は今、海外に居る。

 葛城家に婿養子で入り、いずれは当主と成る身なのだが、現在は陶芸の世界で活躍し、国内は勿論、海外にまで広くその名を知られた若き天才陶芸家、葛城真一として多忙な日々を送っているのだ。そんな訳で幸三が代理で出向いたのだった。

 それから半日過ぎ、日も落ちようとしている夕刻、幸三がご機嫌で帰ってきた。

「美佐江。一本つけてくれ、それと孝子を呼べ」言い放つと、広い畳敷きの居間にある床の間の前に鎮座する。

「まあまあ、ご機嫌だこと」廊下を隔て向こう側にある台所から、体半分覗かせて、にっこりと美佐江が笑った。

 孝子は美佐江が呼びに来る前に、幸三の所へと出向いていた。父親の大声は、孝子が子供の頃から、屋敷の何処にいても良く聞こえたのだ。

「お父さん、何? どうしたの」そう言うと、幸三の目の前に座り、首を突き出した。

「おおう、先程決まったぞ。今年の見送り盆は、西方の衆に引いてもらう事になった」

 見送り盆とは、花嫁役の娘を乗せる大きなたらい桶のことだ。その桶の両側に綱を結び付け、牡丹池のこちら側と向こう側に渡し、両側から、引いたり、送ったりしながら、桶が池の真ん中に来るよう操るのだ。

ちなみに、西方(にしかた)とは、三百年ほど前、この月夜野がまだ一つだった頃、葛城家の先祖が分家を繰り返し、四つに分かれた事で付けられた地名のひとつ。

他に、東方(ひがしかた)南条(なんじょう)、そして現在、葛城幸三の地区である、本条(ほんじょう)

 この四つの地区を、月夜野と呼ぶのだ。正確には、佐野郡(さやぐん)月夜野(つきよの)(あざ)本条(ほんじょう)となる。その中で、今年の見送り盆は西方に決まったのだ。そして、それは共に大役であり、とても名誉な事なのである。

「え、本当なの、水鏡の笹船が示したの?」・・・役の決め方だ。

 水鏡の東西南北、どちらかに行き着いた笹の舟によって決まるのだ。

「その通り、西方に着きよった」

「今年は当たり年ね、お父さん。早速、真一にも伝えなくっちゃ」そう言いながら立ち上がり、そそくさと台所まで行くと、母親の美佐江にこの話をするのだった。

何故、これ程喜ぶのかと云えば、今回大役を引き当てた西方は、孝子の旦那、真一の生まれ育った在所なのだ。

「早ように連絡するとええよ、もしかしたら飛んで帰ってくるかも知れんねえ」

 にっこり笑うと、忙しそうに夕飯の支度をする美佐江だった。

「お父さーん、今夜はお酌するけん、付き合うよ」台所から孝子が呼びかけた。

「お、そうか。珍しい事もあるもんだな」照れくさいのだろう、床の間にある掛け軸に向かい、幸三が返事をする。

 その夜、家族水入らずで、遅くまで宴は盛り上がったのだった。

 幸運が舞い降りたと大喜びの葛城家だったが、その二か月後、事態は思いも寄らない方向へと急展開する。花嫁役を射止めた里美が突然高熱を出し、床に伏せてしまったのだ。

すぐに医者を呼び診てもらうのだが、感受性の多感な頃に見られる、突発性の熱のようだから心配はないと言い、熱さましをよこすのだった・・・

ところが、二日が経ち、三日目の朝になっても、熱は一向に下がる気配を見せていない。業を煮やした幸三が、救急車を呼んだのはその日の午後だった。

市立病院へと運ばれた里美は、すぐに精密検査を受ける。が、幾ら調べて見ても原因が解らないと言う。そんな馬鹿なことが在る筈が無い、もう一度調べて見てくれと、幸三は懇願した。目の中に押し込んでも痛くないほど、孫娘は愛しい。

首を(かし)げるここの医者達に見切りを付けると、知人を介し、大学病院へと移した。そして、再度、今度は全ての行程で検査が始まった。

祈る思いで結果を待っていると、明らかに困惑している医者達の口から、驚愕の事実を知らされるのだった・・・それは・・・

一人の医者が、恐る恐る伝えた内容は・・・

 里美の背中の一部が盛り上がり、変部していると言うのだ。それを目の当たりにした幸三の両膝が、震えながら床へと崩れ落ちた。

 何事が起ったのかと覗き込もうとしている孝子と美佐江の視線を、体を張って防ぐと、すぐに里美の変わり果てた背中を覆い隠す。そして・・・

「お前らは、見んでええ・・・見んで」 両腕に抱え込んだ小さな背中を、

ぎゅっと抱きしめると、嗚咽を漏らした。

人前で、これ程取り乱した幸三を見た事が無かった美佐江は、事は重大な深刻さを持って、この男を今、この場で翻弄しているのだと察する。

どうして? と云う顔で、今にも突っかかって行きそうな孝子の胸の前に右腕を突き出すと、その勢いを無理やり制した。

いきなり止められた孝子が、鋭い眼光と共に美佐江を睨みつけるのだが、美佐江の明らかに正義の眼差しが、睨みつけた孝子の激昂をなだめるのだった。

暫し項垂(うなだ)れていた幸三が、いつもの毅然とした顔つきに戻り、立ち上がると、

「岸部、すまんが車を回してくれ」短く言い、周りで言葉を無くしている医者達に深々と頭を下げた。

「お父さん、何言うとるの」訳が分からない様子で美佐江が問いかけると、それに同調するように孝子も詰め寄った。

「里美に何があったって云うの、ねえ、お父さん」幸三の腕を掴み、激しく揺さぶる。

 何も知らずに、すやすやと静かな寝息をたて、眠っている里美を見ながら、

「もうええ、この子は連れて帰る。みんな、聞かんでくれ・・・今は」そう言うと、再び車の手配を()かすのだった。

「納得いかんよ、何なの一体。ねえ、お母さんも言ってよ」気丈に振る舞っていた孝子だったが、訳が分からず美佐江に助けを求めた。

「お父さん、ちゃんと説明してくれんことには、あたしら納得せんよ」

食い下がる美佐江と孝子をよそに、ベッドの手摺(てす)りをぎゅっと握りしめながら、くい縛った口元を少し開き、幸三が言うのだった。

「家に帰ったら、話をする。今はわしの言う事を聞いてくれんか」その一言で、一筋の光明を見出そうと必死でもがく幸三の気を察した美佐江が、孝子の両肩に手を置き、やさしく掴むと、言った。

「帰ろう。里美を連れて・・・帰ろう」静かだが気迫ある言葉に、じっと見つめていた孝子が、頷くのであった。

 そのやりとりを黙って聞いていた医者達も、その場の只ならぬ様子に、事の成り行きを見守事しか出来なかった。

 薬が効いているのだろう、静かな寝息をたて眠っている里美を車に乗せると、

荷物を抱え皆も続いて乗り込んだ。

「岸部、すまんが急いでくれんか」落ち着いた口調で幸三が言うと、コクリと頷き、車を出した。

 葛城家のある月夜野までの道のりは二時間位、その間、誰一人として口を開こうとはしなかった。

くねくねと曲がる山道は、いくら舗装がなされているとは云え、小刻みな振動が全員の足元に伝わる。しかし、里美を抱きかかえた孝子の上半身は、はらの底から力をみなぎらせ、不愉快な振動を吸収していった。

 全員を乗せた車が葛城家の門をくぐったのは、夜も遅く、十時を回った頃であった。

 早々に寝床を整え、未だ目覚めぬ里美を静かに横にすると、そっと(ふすま)を閉め、畳敷きの居間へと集まった。

 車を車庫に入れ岸部が戻ったことを確認すると、急ぎ入れた急須(きゅうす)の茶を、みんなに注ぎ入れる美佐江だった。

孝子は幸三の横にピタリと張り付き、構えながら口を開いた。

「さ、お父さん。私達が納得の出来る説明をしてよ」

 孝子は、幼い頃から父、幸三が大好きだった。大人になり一児の母となった今でも、それは変わらない。父としても、経営者としても、尊敬の念を持って見ているのである。

働く人達の、その後ろに居る家族にも、しっかりと目線を合わせ見ているその姿勢は、孝子の感銘するところなのだ。故に、間尺の合わない説明は、到底許されるものでは無い。その幸三が深く溜息をつきながら目を閉じた。暫くして、ゆっくりと開けた目の先に、何を探すのか落ち着きの無い視線だけが、この場に漂うが如く彷徨っている。そして、重い口を開くのだった。

「実の(ところ)、お前達にどう話せばよいか分らなんだ・・・」

「そんな事より、今、里美に何が起きてるの? 先に教えてよ」孝子の少し上ずった声が居間に響くと、その通りと言わんばかりに、この場の全員が頷いた。

「そうか、先に尋ねるか。なら、仕方ない」腕組みをし、首を少し斜めにしながら、皆を見回すと静かに話し始めた。

「現れたのだよ、紋章が・・・竜神様の紋章が。ああ・・・何と」

 涙ぐんだ幸三が、悟られまいと天井を睨んだ。とんでもない事が今、此処で起きている・・・全員が感じ取った。

「何が、何が現れたの? 紋章って、え、何なの、何の事」詰め寄る孝子を、後ろから美佐江が抱き寄せた。

「そうだ・・・正確に言うと紋章ではない。里美の・・・里美の背中に、鱗が浮き出た」言い終わるか終らないうちに、孝子は、隣の部屋で寝ている里美の元へと走り込んだ。止めようとした美佐江の右手が空を切る。

 すかさず布団をめくると、そろりとパジャマを捲りあげ、その細い背中を覗き込んだ・・・孝子の荒い息が、嗚咽に変わった。

 薄暗い部屋の中であっても、銀色に鈍く光る鱗のようなものは、はっきりと見て取れたのだ。

 右手で口を押えながら、里美の横へと泣き崩れる姿を、居間から見ていた幸三が呟く。

「孝子、もう熱は、里美の熱は下がっている筈、確かめてみろ」

 後に続いた美佐江が孝子より早く、里美のおでこに触れた。

「あ・・・熱が下がっておるよ」その声を聞いた孝子が、すかさず自分のおでこをくっつけた。

「下がってる、ほんとだ。熱が下がってる。何をしても下がらなかったのに、一体どうしてこんな事が」・・・一同が幸三の顔を覗き込む。

「事の全ては、この月夜野に伝えられている古文書に記されている。高熱が出たのも、こうなる前兆だったんだろうな・・・紋章が出るまでのな」

 ここに居る誰もが、初めて聞く話だ。

 捲れたパジャマをゆっくりと元に戻した美佐江が、孝子を連れて居間に戻ってくると、力なく言うのだった。

「取れんのかねぇ・・・手術は出来んだろうか?」

「無理やり取ろうとすれば、間違いなく死んでしまうじゃろう」

「どうして、やってみなけりゃ分らんでしょ」涙ながらに訴える孝子の肩を、美佐江がそっと抱き寄せた。岸部は首に巻いていたタオルを外すと、溢れる涙を拭っている。何とも言えぬ時間が、この広い居間の中で出口を見失い、彷徨っている様だった・・・

「お父さん・・・じゃあ、どうすればええんですか」美佐江が時を進めた。

「六百年前と、記されていたらしい。その古文書によるとな・・・やはり、今回のように紋章が現れたそうな。だが・・・この現象の事もそこには書いてあったらしく、竜神祭の年、役回りの娘にこの紋章が浮かび上がる時・・・問答無用でその子を人身御供、つまり、生贄としなければならないと言われていたらしい。だからこの祭りが、長い間世間から隠され、行われてきた理由なそうな」

「信じられんよう・・・そんな事、聞いた事もないよう」孝子が叫んだ。

「他に、その古い書物にはなんて?」いち早く冷静を取り戻した美佐江が尋ねる。

「若い頃、東方の葛城源(かつらぎげん)()と云う男が、何処で見つけて来たのか、そいつの写しを持ってきた。わしらは、面白半分でその古文書を開いたのだが、わしには何が書いてあるのかさっぱり分からなんだ。ところが、何処で習ったのか、この源治は読めたんじゃ」

「今も東方に住んで居るんですか。その・・・源治さんと云う人は」たまらず、岸部が身を乗り出し、尋ねた。

「残念なことに、十年前に亡くなっとる」

「では、他に誰ぞ読めるもんは居らんのですか」

「分らん・・・ただ、三百年程前、社殿を新しくした際に、古文書はどう云う訳か、二つ坂に移されたと聞いたが、もしかしたら、そこの連中で読めるもんが居るかもしれん」

「二つ坂と云ったら、隠れ里の衆じゃあないですか。大昔からこの葛城家のお守り役として、陰となり月夜野を支えて来たと云う、なにやら特殊な能力を持つ集団と聞いとりますが」黙って聞いていた美佐江が言うのだった。

「ああ、昔の話だがな、大昔の・・ただ・・・」幸三が口ごもった。

「ただ、何です」すかさず美佐江が聞き返す。

「その古文書には、六百年前、隠れ里の長が竜神様と折り合いを付けたと、書いてあったと云うんじゃが」

「えー。じゃあ、その長の子孫て、今も居るんでしょ」孝子が訪ねた。

「居る。しかし、なんせ、めったな事では表に出て来ん連中だからな。とにかく、明日一番で二つ坂へ行って来るつもりだ。美佐江、支度だけしてくれ」

 そう言うと、すっと立ち上がり、隣の部屋へと里美の顔を見にゆくのだった。

「旦那さん、私が行って参ります。どうか、里美ちゃんのそばに居てやって下さい」自分も何かしなければと思ったのだろうか、岸部が名乗りを上げた。

「いや、しかし、わしでないと事が済まんだろうから」

「いいえ、二つ坂には何度も世話になっとります。若い頃、造園の仕事で半年住み込んだ事もありました。その時、そこの長老のお宅に厄介になっとりました」

「本当か。それは知らなんだ。長老と言うと、根岸のことか?」

「はい、根岸さんで」・・・代々受け継がれた長の血族だ。

「だが、随分と歳の筈、そういえば、息子が居ったな」

「息子さんは確か、東京の方へ出ていると聞いてます」

「そうか、それでは、ここは一つ岸部に頼むとするか。いいな、事の始まりから話すのだぞ、それと古文書だ。それが読めねば話にならんからな。明日の朝、根岸には連絡しておくから、もう、休め」そう言うと、幸三は美佐江に支度を頼み、居間の神棚に手を合わせた。

 何が何だか分らないまま、孝子は不安な面持ちで里美に添い寝する。

「明日には伝えねばならんだろうな、一族の者達に」 

分家を含めた葛城一族のことである。胸の前で合わせた両手に力が入る幸三であった。

 次の日の朝、夜も明けきらぬ暗いうちに、岸部がパジェロのエンジンを掛ける。少し大きめなディーゼル音で目が覚めた孝子が、そそくさと着替えを済ませ、外に出てきた。

「起こしちまったですか」申し訳なさそうに岸部が言うと、

「岸さん。頼みますね・・・本当に頼みますね」真剣な眼差しで、岸部を見つめながら言うのだった。

 葛城家の願いを一身に背負い、パジェロのテールランプが、まだ明けぬ薄暗い闇の中へと消えて行った。

 岸部を見送った孝子が玄関まで来ると、幸三と美佐江の姿がある。

「行ったか」その言葉にこくりと頷くと、美佐江に抱き着き、嗚咽を漏らす孝子であった。

その日の午後、未だ連絡の無い事に苛立ち、身の置き場もないまま、うろうろとする幸三がそこに居た。

そして・・・事態は今に帰る・・・


「何故、連絡をよこさんのだ。もう日が暮れるぞ、岸部は何をしている」

「少しは落ち着いたらどうです。まだ昼ですけん、さっきも言ったように、相手は隠れ里の衆ですよ」美佐江が再度、嗜めた。

「電話位は出来るだろうに、何故、よこさんのだ」苛立ちが怒りに変わろうとしていたその時だった。居間と台所を区切るように伸びている廊下の隅に置かれた電話が、ようやく鳴り響いた。

「わしが出る」そう言うと、一目散に駆け出したかと思うと、飛びつくように受話器を取った。

「岸部か。で、どうだった」開口一番、相手も確認せずに大声を張り上げる。

幸い相手は岸部らしい。それを見ていた美佐江が呆れながらも、ほっとするのだった。そして、耳をそばだてながら、電話の成り行きを見守った。

「そうか。して、いつになる。何、分かった。ご苦労だったな、気を付けて帰れ、本当に済まなんだな」受話器を置いた幸三が美佐江のほうに振り向くと、余程、安心したのか、両肩を下げつつも、にっこりと笑った。

「直ぐに来てくれるそうな」その言葉に、すかさず美佐江が聞き返す。

「長が来てくれるんですか?」すると、

「いや、根岸は高齢で、昨年息子に長を譲ったそうだ」

「え、でも息子さんは東京に居るんですよねえ、ほら、岸さんが言うとったじゃあないですか。それとも、もう二つ坂の方へ帰って御出でですか?」

「まだ東京に住んどるらしい。だが、直ぐに連絡が取れたらしく、今、こちらに向かっとるらしいから、今日中には来るだろう」そう言うと腕組みをした幸三が、秋晴れの涼やかな空を見上げた。

 それを聞いた美佐江が、すぐさま孝子と里美の元へと走った。

 今、初秋の風に乗り、幾つもの思いが、この月夜野に向かって集まり始めた。


さて、京助はと云うと、すっかり舐め尽くしたソフトクリームの、コーンの残骸をゴミ箱に捨てると、Gパンのポケットからハンカチを取り出し、丁寧に指先を拭いている。その仕草をまじまじと見ていた圭子が、不思議そうな顔をして京助に言うのだった。

「へえー、以外だねえ、わりと神経質じゃん」

「当たり前だ。べとべとしたまんまじゃ、ハンドル握れないだろ」

ハンカチを仕舞いながら圭子の方を見ると、ぺろぺろと舐めた指先を、上着に(なす)り付けていた。とても話に聞いた良いとこのお嬢様には見えない。

まあ、車のシートで拭かれるよりはまだましだが。

 そんなこんなで、二人ようやく車に乗り込むと、富士川のサービスエリアを後にするのだった。

 思ったよりスムーズに流れている本線に入ると、少々強引だが、追い越し車線オンリーでアルピナを進めた。この分なら遅れはすぐに取り戻せるだろう。

 ところが、清水を過ぎた辺りから、大型トラックの群れが行く手を塞ぎ始める。

確かに今日は平日、仕方のない事なんだろう。

 静岡インターの手前、日本平付近に来ると、進行方向の下り線が、のろのろ運転になり始めた。

「何かあったのかなあ、先で事故でも起こした奴がいるのかも」

圭子が恨めしそうに首を伸ばしながら、渋滞し始めた先を覗き込んだ。

「これじゃ暗くなっちゃうぜ」京助が言うと、

「この先も混んでる見たいだから、静岡インターで降りようよ」

圭子の提案に賛成すると、左側に意識を集中させ、ウインカーを左に出す、車間の空いた走行車線へとアルピナを押し込んだ。

 相変わらずのろのろと進む車の群れの中で、アルパインのナビゲーションシステムに息を吹き込む。暫しのタイムラグの後、対話型の画面が映し出された。

「ほらよ」取り出したナビのリモコンを圭子に放り投げる。

「ちょっとぉ、何すんのよう。落としちゃうじゃない」

乱暴に渡された事を非難しながらリモコンを受け取ると、慣れた手つきで実家の電話番号を入れた。

 行く先の設定が完了した画面が、ルート案内を始める。現在の案内表示は、まだまだ先の菊川インターチェンジで降りることを指示しているが、それを無視したアルピナが、静岡インターをくるりと降りた。速やかにETCレーンをくぐると、右に点滅するウインカーと共に国道一号線方面に向かうのだが、こちらも中々混んでいる。幾度となく車線を変更しながら、回りの状況に合わせ、慎重に進んでいった。

「ねえ、京助は静岡はじめてかな?」圭子が聞いてくる。

「いや、何度か来たな」ナーバスな道路状況に、前を睨みつけたまま答えた。

「へえー。はじめてじゃあないんだ・・・何しに来たの、仕事?」

「俺が小学生の頃、兄貴と何度か来ているみたいなんだが」

「なにそれ、来ているみたいって、覚えてないの?」呆れた顔をしながらも、圭子の好奇心と云うレーダーが標的を発見したかの如く、捕えた。

「お兄さんがいるんだ」少し無口になった京助に気遣いもせず、アタックボイスが炸裂する。

「いくつになるの? 今、何処に住んでるの?」

 続けざまの質問に閉口する京助なのだが、この女は、食いついたが最後、絶対に諦めない事も知っている。しかたなく、

「俺より八つ上だ・・・生きていれば今、五十になる」

(しまった)と云うような顔をして、申し訳なさそうに、京助の顔色を圭子が伺っている。すると、

「気にするな、俺の中ではもう消化済みだ」そう言うと、前を見つめる視線を外し、圭子を見ながら軽く笑った。

 その表情を見て安心したのか、今度は静かに尋ねて来る。

「どうして亡くなったの、病気? それとも・・・」珍しく圭子が口ごもった。

「何て言うか・・・話せば長くなる」京助も迷っていた。だが、この女はこの先事あるごとに、必ず、しつこいぐらいに聞いて来るだろう。

「いいよ、長くても、どうせ道中も長いから」・・・そら来た。

「兄貴の死んだ原因て云うのは、分からないんだ。その日の朝、研究室に来た学生が、倒れている兄貴を見つけた。既に死んでいたそうだが。一応、変死だから司法解剖ってやつさ。言うには、心臓麻痺を起し死んだそうだ」

「え、研究室って・・・お兄さん、博士か何か?」

「あはは・・・まあ、そんなもんだ」

「どんな研究してたの。やっぱり、やばいやつか何か?」

「俺の兄貴は大学の助教授で、ある研究に没頭していた。そのお陰で結婚と云う二文字を逃したらしいがな」

「じゃあ、京助と同じじゃん。でも、お兄さんの方がよっぽど偉いみたいだけどね」

「よく言うよ。じゃあ、この話はおしまい」

「冗談よ、冗談。聞くから、おとなしく」圭子のアンテナは、完全に京助の話にロックオンされている。

「半年前、職を失っただろ、その時、ずっと開けずに仕舞ったままだった兄貴の遺品を、この際だから整理しようと開けたのさ、そこで初めて兄貴がとんでもない研究をしていた事が分かった」

圭子は、京助のあまりにも冷静に話す語り口に違和感を覚えながらも、ここは黙って聞くことにした。

「その研究ってやつは、フォトン。つまり、光子、光の粒だ。俺も詳しい事は解らないが、遺品の中に膨大な資料が残っていた」今回に限り、滑らかに回る滑舌に京助自身も驚いていた。

「物理学ってやつは苦手でね。その研究対象であるフォトンの話も、俺には理解できなかった。ただ・・・それとは別に、ガムテープでぐるぐる巻きにされた段ボール箱の中身が、トンデモナイものだったのさ」

 聞いている圭子の好奇心と云う針が、マックスを示している。一言も聞き逃さないようにと、京助の方へ身を乗り出した時だった。

ガクン、前のめりするように車が突然止まった。

「ちょっとぉ、何よぉ。びっくりするじゃない」両手でダッシュボードを支えながら、憮然と突っかかる圭子を、横目で見ながら、

「しょうがないだろ、信号だよ。まさか無視しろ、なんて言わないよな」

にやりと笑った。

 一号線と交差する信号だ。既に左へと点滅しているウインカーを確認した圭子が言うのだった。

「今のナビは凄いよね、ピンポイントで家がわかっちゃう。これって、ほんと、やばいよね」まじまじと京助の顔を覗き込みながら、意味ありげに笑った。

「待て、俺をストーカーみたく言うなよ」とんでもない事を想像する女だ。

「ほら、青だよ」ぶっきら棒に圭子が指差す。

「わかってるよ」そう言うと、少し乱暴にハンドルを切り、一号線に入った。

 体を右側に押し付けられた圭子が、こちらを睨みつけていることは、だいたい想像がつく。

 あえて見ない振りをすると、そのまま一気に加速して前の車に付けた。

「京助。そんな運転してると、今に、人、跳ねるよ」嫌な事を言う女だ。

 そのまま走ると、すぐに橋の上に乗る。すると、すかさず圭子が得意げに言い放った。

「これ、安倍川って言うんだよ。知ってるかな、安倍川餅ってさ此処からきてんだよ」

「だから何だよ。まさか、その安倍川餅ってのも買うのか?」嫌味たっぷりに言いながら、ちらっと横目で見ると、今にも襲い掛らんばかりに、恐ろしい顔をした鬼が、横で唸っていた。

「ごめん・・・」運転席には、視点の定まらない挙動不審な男が、落ち着かない表情でハンドルを握りしめているのだった。

 二人を乗せたアルピナは、まだ始まったばかりの秋の東海道を、ゆっくり西へと向かっていた。

「ところでさぁ、さっきの話。続きはどうしたの」思い出したように圭子が尋ねると、冷静を取り戻した京助は、もう話したくないのだろう。

「今度またな、決して愉快な話じゃあないしな」そう言うと、先程から眩しく入る日の光を遮るために、サンバイザーを下げた。

 助手席の圭子は、不服さを強烈にアピールすると、黙りこくる京助の顔をまじまじと覗き込み、

「じゃあさ、段ボール箱の中身だけでも教えてよ」・・・諦めない女だ。

「空っぽになった中身の無い、パンドラの箱さ」ぶっきら棒に言い放った。

「え・・・パンドラって、幾つもの不幸が入ってたってやつ」そんな馬鹿なと云う顔をしながら、こいつ、大丈夫か? と思う圭子だった。

「中身が無いって、それじゃあ大変じゃん。確か・・・残ったものは、希望」

「まあ、日本版パンドラだからな。希望も残って無かったんじゃないかな。いや、そんなものは最初から無かったかもな」

 他人事のように話す京助に、これはこいつの、つまらない冗談だと感じた圭子が、あえて、真面目な顔で聞き返す。

「本当は何が入ってたのさ。正直に教えてよ、誰にも言わないからさ」

「あははは・・・いや、実は俺、最初笑っちまってさ。でもな、俺の兄貴は、お笑い研究会でネタを作ってた訳じゃない」言いながら、前方を走る車の群れを目で追い、ほくそ笑んだ。

 まだふざけていると感じた圭子が、呆れながらもしつこく喰い下がる。

「じゃあさ、その箱、説明書はなかったの」・・・

なんて事を言う女だろうか、家電製品が入ってた箱じゃないんだぞと、京助は呆れたのだが・・・

「気の利いた説明書は無かったけどな、まあ、それらしきネタ帳はあった」

「ほらぁ、やっぱりあったんじゃん。で、どんな内容だったの」小馬鹿にした顔で京助を見る目は、相変わらず信じてはいないようだった。

「内容ってのは・・・兄貴が解読したと思える言葉が、文書仕立てで書かれていたのさ」そう言うと、おもむろに窓を下げ車内の空気を入れ替えると、圭子の反応を注意深く観察し、差支えのない内容だけ頭の中の海馬からピックアップし説明するのだが・・・恐ろしく現実離れした内容は、あまりに突拍子が無いもので、多分、誰も素直には信じてくれないであろう事は承知している。

 横浜にある大学の一室で、フォトン(光粒子)の研究をしていた京助の兄、雨宮恭二は、研究者として当然の如くに、仮説を立てる。

この地表に送り込まれた太陽からのフォトンには二つの顔が在り、ひとつは地表で跳ね返り四方八方に拡散して行くもの。そして、もうひとつはその場に残り、大地に吸収されながら土に記憶を残すもの。

 恭二は後者を調査する、それは全国に分布する古墳群へと行き着くのだった。

 長い単独調査の予測を持ちながら、恭二は奈良の地に立った。

 桜井市にある、三世紀前半に造られたと云われる遺跡で調査を開始した恭二は、そこから少し離れた場所で、古代の土のサンプルを採取する為に、小山に盛られた古い地層を掘り起こしていた。

どれ位掘り下げたのだろうか、突然片手用のスコップの先が何かに当たり、それ以上進まない。この辺りは古墳に近いせいか時折、古代の土器やその破片が見つかることがある。多分、その類だろう。少しの興味と好奇心が、その物体のシルエット状に沿って、回りの土をかき分けていった。しかし、その場に現れた物は、期待していた形とは大きく違っている。

黒ずみ、ねっとりとした土に覆われ、腐りかけているのだろうか、角が丸みを帯びた、ひと抱え程の細長い木箱らしき物だった。

その時、足元に小さな風が吹き上がった。すると、薬品のような、そう、コールタールのような臭いが恭二の鼻を突いた。どうやら木箱らしきものに付いている物は、土ではないようだ。多分、防腐剤の様なものらしい。

誰が何の目的でいつ頃ここに埋めたのか、恭二の好奇心はマックスに高まる。

その後、その場をいくら掘り起こしてみても、何も出てはこなかった。

既に、日も暮れようとしている中、急ぎ、回りの土をサンプル用のタッパーに押し込み、先程掘り起こした木箱らしきものに自分の上着を掛け、慎重に抱え込むと、早々にその場を後にした。

 横浜にある大学の研究室に戻った恭二は、古代の土のサンプルには目もくれず、上着に丸まったその物体に全神経を注ぐのだった。

 ゆっくりとコールタールを拭き取って行く。思ったよりも素直に落ちた防腐剤らしき物は、それだけ年月が経っているのだろう、無駄な抵抗は一切しなかったのである。

 すっかり拭き取られたその物が、間違いなく木箱と認めるまでには少々時間が掛った。それは、木目らしきものが、この箱には見当たらなかったのである。

 さて、問題はこの木箱の開け方である。割り裂いてしまえば簡単なのだが、中身があると仮定した場合、そんな無茶は出来ない。しかし、何処をどう見回しても開け口らしきものが見当たらない。まして、文字や記号の跡すらもない。

 暫し考え、仕方なく隅の方から割る事にする。左手に構えた突きノミを、慎重に角面に当て、力を掛けようとした時だった。ノミの切っ先が触っている場所から、何やらキラッと光るものが一瞬だが見てとれた。すぐに覗き込むと、丸くなった角面がほんの少し捲れているではないか、もしかしたら運んでくる途中、振動か何かで口が開いたのかもしれない。更に覗き込むと、確かに微かだが何やら中の方で光っている。

 光と云えば恭二の専門分野である。もう、どうしようもなく抑えきれない感情が、自分でも分らないまま、知らず知らず両腕のモーメントを上げていった。

バキン! ・・・嫌な音を立て、蓋らしきものがもげた。

(しまった)心の中で叫ぶ・・・恐る恐る中を覗き込むと、真っ黒な泥のような海の中で、ひょろ長い手鏡のような物の一部が、只ならぬ妖気を放ちキラリと光っていたのだった。

 恭二は背筋が凍りついた。もしかしたら、とんでもない物を開けてしまったのかと即座に後悔する。それ程に強烈な物だったのだ。

勿論、妖気などと云うものは、今の今まで感じたことなど一度もない。しかし、間違いなくこの場に流れる異様な気は、妖気としか云い様の無いものだ。

 恐れと好奇心は、学者であり研究者にとって紙一重。気を取り直し、白衣のポケットから白い薄手のゴム手袋を取り出すと、ゆっくりと両手にはめた。

 残りの蓋らしき板を、今度は思い切って剥がしてゆく。メリメリと音を立てながら、それは恭二の両手で持ち上げられ、完全に剥がされた。

 ステンレスの作業台に置かれている木箱が、今、泥の海と共に開け放たれた。

 取り外した蓋らしき物を、そのまま足元の床に降ろすと、今度は慎重にその鏡のような物を、木箱の外へと解放する。すぐに、長めの毛が着いた刷毛を自前の工具箱から取り出すと、その形に沿って泥を落としていった。

 やはり鏡であった。綺麗に落とされた泥と汚れの中から、赤紫に縁どられ、滑らかに広がる鏡面に反射された光の波が、恭二の顔を細長く写し出している。

「やっぱりな、こいつは只の鏡じゃあなさそうだ」そう言うと、もう一度鏡の部分に手を触れ、強く擦った。次に、倍率の高いルーペを取り出すと、その部分に押し当て覗き込む。擦っては覗き込み、それを何度か繰り返す。

「驚いたな・・・こいつはガラスじゃない、完璧に磨かれた石で出来ている」

震える声で呟くと、すぐさま元の箱に視線を変えた。既にここまで来ると、先程まで感じていた恐怖は何処にも無かった

泥の海と呼んだ箱の中には、外側に塗られた防腐剤が、小さな亀裂から流れ込んだのであろう、深く溜まっている。こいつを全て取り除くには、少々厄介な仕事になる。取り合えず、近くにあったバケツの中へと、手ですくいながら捨てていった。

 何度かその作業を繰り返すと、指先に何やら硬い感触が伝わった。慎重に両手で掴み取り出すと、手の平に収まる位の、これも木製であろう小さな箱が出て来たのである。

 少し興奮しながら作業台の隅へと移し、すぐさま元に返ると、再び泥の海をまさぐる。

 何かを期待している指先に、今度の感触は柔らかだった。静かに取り出すと、厚手の布で出来た掛け軸を丸めたような形をしている物が出てきた。長さは四十センチ位で、等間隔に五か所程、留め紐でくくられている。太くまとめられ、どっしりとしたそいつは、直径が七、八センチあるだろうか。

 不思議な事に、拭き取られたこの物には、どんな加工が施されたのだろうか、

一片の染みの跡すら付いていないのだ。恭二は驚きを隠せなかった。

「一体、いつの時代の物なんだ。まさか、オーパーツとでも云うんじゃないだろうな」

その時代ごとにあって、技術的に不可能な存在物。それが、オーパーツ。

「まあ、後でゆっくり調べますか」にやりと笑うと、また木箱に手を突っ込んだ。しかし、それ以降、その木箱からは何も出ては来なかった。

 後日、同じ大学内で考古学の研究をしているチームに、事の成り行きは説明せずに、炭素測定による年代調査を依頼した。

木箱の破片、布の断片、そして、石鏡。ただ、手の平サイズの木箱については依頼しなかった。特別な理由はない、何となく、ただ、何となく出す気がしなかったのだ。それと、丸まった布の中から出てきた中途半端な長さの組み紐・・・

 三週間後、依頼品と共に測定結果が手元に届く。早々に本分である、フォトンの研究から手を離した恭二は食らいついた。そして、考古学チームの出した報告書に、一人驚愕する。結論から言おう・・・依頼品の全てが、とんでもない時代の物だったのだ。

 報告書にうたってある炭素幾つなんてものは、この際、はしょってしまうが、

とにかく、この目を疑う物だった。それによると、今から二千六百年前の縄文最晩期から弥生初頭の物らしいとの事だった。測定誤差は三十年から五十年。

それにしても、とんでもない事には変わりないだろう。勿論、考古学チームからの()何処(どころ)追及は激しかったが、何とかはぐらかし、諦めさせた。

 驚いたのはそれだけではない。今までの歴史上、言語を何らかに書き記した書物と云う物は、この時代には無かったとされてきた。事実、これまでどれ程の調査を行ってきても、このような物は発見されていないのだ。しかし・・・

此処に存在している。

それは、掛け軸のように丸められた布の留め紐を解き、長く開き伸ばした時だった。古代のあひる文字に似た書体が、この布の内側に、びっしりと浮かび上がっていたのだ。

目を疑う信じられない光景が、現実としてそこに横たわっていた。

「あいつ等にこれを見せたら、心臓止まるかもな」にやりと笑った。

 当然だろう、歴史が今ここに、ひっくり返ったのだから・・・何となくいい気分だ。 作業台に手を付き、前かがみになりながら、小刻みに肩を揺らすのだった。

 その後、時間を惜しげも無く、この文字の解読に使った事は言うまでもない。

 やっとの思いで解読に成功したのは、この木箱に出会ってから二年の歳月が経過した春先の事だった。だが、それでも全てを解読できたのではない。長い文章の前半部分が、未だ解読出来ていないのだ。

 幾つもの古代資料を取り寄せ、照らし合わせながら調べた結果、どうも、前半部分と後半部分とでは、記し手が違うようで、微妙に書体が違っていることが分かった。

 古文書を専門としている全国の先生と呼ばれる連中に問うても、この前半部分は解答不能としか、返ってこない。

 では、解読出来た後半部分の内容はと云うと、はっきり言って、あまりにもふざけた内容で綴られていたので、恭二は半ば後悔の念に駆られていた。

「俺は一体、いつの時代のお伽話を調べていたんだ。時間を戻したいものだな」

 この恭二の後悔は、前半部分の解読を諦め、後半部分に移動してすぐの事だった。そのふざけた内容とは・・・こうだ。

 邪馬台国と名乗りし巨大なる国の中に、卑弥呼族なる者達が此の地を統治し、

民ともに平和に暮らしていた。その力は絶大で、よそ者の侵略をことごとく退け、侵入すらも許さなかった。後に此の一族は神となり、今以上の力を身に付けてゆく。

ところが、あまりにも強大に膨れ上がったその力は、既に抑えきる事が出来なくなり、行き場を失った醜い力は、ついに内へと向かい牙をむいた。

一族同士の激しい争いが始まる。巻き込まれ、途方に暮れる民たちは、それでも必死に懇願するのだが、我を見失った神々は、持てる力の全てを使い、全力でぶつけ合うのだった。

数百年続いた争いの為に、此の地は魂の残した死念で溢れかえった。だが、

ついにこの争いにも終止符が打たれる事となる。一人の幼子の登場で、此の地の空気が変わった。

 (いわ)(ぶえ)をくわえる口元が微かに震え、ヒューッと息を吹き込んだ。が、その音色は、人間には僅かな音でしか聞こえてこない。二万五千ヘルツと云う超音波の域を超えたその音色が、虹色の音霊となり、この場に漂う数えきれない膨大な残存死念を慰集し始めるのだった。

 砂粒ほどの輝きの群れが、この幼子の周りに集まり始め、心地良さそうに戯れている。

 突き出した左手の上で、ちょこんと鎮座する小さな木箱がある。

 ゆっくりと上部の蓋が開く、すると、ひとつ、また、ひとつと、戯れる残存死念が、よりいっそうに輝きを増し、箱の中へと吸い込まれてゆく。

 ふたつのお下げ髪を後ろでひとつに結わえた幼い少女は、吸い込まれ、消えてゆく砂粒の輝きを、その年齢には似つかわしくない表情で眺めている。

 まるで、子を見守る母のように・・・

 その一角が祓われると、次の場所へと移動しながら、何度も繰り返すのだった。

何十、何百と繰り返すうちに、幼子の石笛をくわえた唇は腫れ上がり、とうとう血が滲み始めた。それでも止める気配は無い。くわえた石笛さえ、既に細かなヒビが入り、表面を覆い始めている。

 手の平に置いた小さな箱は、何処にそれ程の貯めがあるのか、まるで底無し

のように、辺りに飛び交う残存死念を呑みこんでゆく。 既に、一里四方は祓われ、浄化された。

異変に気付いた神々が、その幼き少女の周りに降り立った。

一人の神が尋ねる・・・

「お前は神か? ・・・名のある者ならば名乗ってみよ」

 幼子はゆっくりと辺りを見回した後、静かな口調で言うのだった。

「あたくしの名は・・・卑弥呼」神々の嗚咽が大地を揺るがせ、雷鳴となる。

 その場の何かが弾けた。

「おお・・・なんと、何と懐かしき響き」周りを囲んだ神々が天を仰ぐ。

「大いなる無益を生んだ」一人の神が膝まづき、分厚い手の平で顔を覆った。

「我の顔は、さぞや醜い事だろう」他の神々も幼子の前に顔を伏せるのだった。

 どれ程の時が経っただろうか・・・静かに立ち上がる。

 取り返しのつかない過ちに気付いた神々は、各々力いっぱい息を吸い込むと、お互いの身体めがけて一斉に吹き掛けた。すると、その肉体は音を立てて軋み始め、寄り付き合い、絡み合いながら溶解し始めると、形を変化させながらひとつになり、ひょろ長い鏡となって、幼子の前にふわりと落ちた。

「大地を照らすが良い。芽は息吹、命を育む地となろう」神々が、最後に残した言葉だった。

 幼子は、言われたままにその鏡を持つと、空に向け太陽を探した。

 天が照らす神々の鏡が、今、まさに大地を照らし出し、醜く澱んだ不浄の気を、ことごとく浄化してゆくのだった。

 時は流れ、蘇った大地に生き神と崇められながら、此の地を納める卑弥呼の姿があった。

 更に時は流れ、卑弥呼が没した後、民は卑弥呼の亡骸を丁重に葬ると、その横に木箱を埋めた。

幾多の祓いに使用した小箱、天照の鏡、そして、既に崩壊してしまった石笛の変わりとなる、赤紫の糸で編み込んだ組み紐。その組み紐には、長い髪が数本編み込まれ、強力な念で閉じ込めてある。勿論、卑弥呼の髪と云う。

「呆れて言葉が出ない。よくもまあ、こんなでたらめな話を作り上げたもんだ」

 両手を広げ、誰に言うでもなく呟きながら、右に左にと首を曲げる恭二だった。

「大体、卑弥呼が統治していたとされる邪馬台国の時代は、確か三世紀頃のことだぞ。この物語、紀元前六百年前の話だって言ってるようなもんだ。そうだ、

少し考えれば解る事じゃないか。その時代、布に文書を書き写す事なんて出来るはずが無い、誰かが後に書き付けたんだろう。御伽草子のように」

 恭二は無駄な時間を失ったことに腹が立ったのだろう。決して認めることは無かった。しかし、恭二の思いとは裏腹に、認めざるを得ない現実がすぐそこまで来ていたのだった。

 桜の季節も終わろうとしていた四月半ば、フォトンの研究に戻っていた恭二は、ある事柄を図に書き込んでいた。このチューニングスケッチは、光の本質について作図されるものである。

 まず、光と云うものは、電磁波と物質波の周波数を持つ複合の振動波だ。故に、物体に光を当てる行為は、その物にエネルギーを与えたと云う事になり、本来の姿では無くなると云う事になる。

これは、全てを現象と捉える現代科学の常識となっている。

 人間の目は、光によって映し出された物体を認知すると、その情報は大脳へと伝達され、驚異的なスピードで瞬時に判断される。

 ただ、人間の目と云うものは、10の14ヘルツから10の15ヘルツと云う、極端に狭い周波数の範囲しか見ることが出来ない。

これを可視光線と云うのだが、この事からも解るように、たった数パーセントの情報しか得ることが出来ないにも関わらず、百パーセントの答えを出そうとするのが人間なのだ・・・何と傲慢なことか。

 頬杖をつきながら悪態もついていると、妙な考えが持ち上がった。

「あの鏡・・・そうだ、あの石鏡」何の事はない、光を当ててみれば良いのだ。何故こんな事が気付かなかったのだろう。恭二は思い立つと探し始めた。

 ふざけた物語の主人公と決めつけられたあの物達は、研究室の隅っこに放り投げられたまま埃を被り、ただじっと沈黙していた。

 背を丸めながらゴソゴソと引っ張り出した箱の中から、例の鏡を取り出すと、

周波数を任意で変更できるパラメトリック発振機が内蔵された中型のレーザーポインターの前に、鏡をセットした。

 半ば、まんじりともしない研究に退屈していた恭二にとって、ほんの少しの悪戯心でもあった。

 慣れた手付きで電源を入れ、まずは、太陽に近い数値で始める。何の変化も起こさないことを確認すると、ふう・・・と小さく溜息を吐いた。

「俺は何をやってるんだろう・・・おいおい、何かを期待してるのかあ?」

 両手を広げ、肩をすぼめながら、おどけた仕草をする。

 次々と、ミクロの単位で数値を変更しながら照射してゆくと、ある数値で僅かに反応があった。多分、ただの反射エネルギーだろうと理解しながらも、慎重に出力を上げてゆくのだった。

 圧縮され屈折した光の粒子が、数々のレンズを通過し、急激に厚みを増してゆく。

負のエネルギーと化した光の帯が、射出口から一気に放出された。

 僅か三十センチの距離に置かれた鏡の表面に、強烈な光が充満してゆく。

 すると、眩しい位に白く輝きながら共振し始めたその鏡は、受け取った光を貪欲に飲み込み始めたのだった。

 以外な展開に恭二の顔から・・・血の気が失せた。

(まずい!)すぐさま電源のスイッチを切る。にも拘わらず、目の前の鏡は電圧の遮断を許さない。まるで意思を持つかの如く、今度は周囲の光を飲み込み始めた。

 パニックになった恭二が、素手で鏡を持ち上げようと掴んだ瞬間、凄まじい勢いで後方へと弾き飛ばされた。

 両の手の平から出たのだろう、焦げ臭い匂いが辺りに漂っている。

 激痛が走る背をかばいながら、壁に体を押し付け、かろうじて立ち上がると、もう一度鏡に手を伸ばす。

 尚も呑み込もうと、大きく振動しながら波打つ鏡を強引に掴むと、渾身の力で持ち上げ、床に叩き付けた。

グギャン! 嫌な音と共に、鏡の表面に無数の亀裂が入る。振動は、飲み込む力を失ったと同時に終息していった。

荒い息を吐きながら、真っ青になっているであろう唇を、乾ききった舌で舐めた。

事実だった・・・全てが事実だったのだ。

認めてしまえばそこは学者である。すぐに自分の愚かさに唇を噛み締めた。

床に横たわるひび割れた鏡の表面が、所々黒ずみ、薄っすらと灰色の蒸気が立ち昇っている。

愕然とする恭二の顔から見る間に生気が失われていった。

「俺は・・・神を、殺したのか?」


 一通りの経緯を話した京助が隣の様子を覗き込むと、見開いた目をこちらに向け、黙ったままの圭子が居た。その右手はシートベルトを鷲づかみにしている。

「ほう、最後まで聞けたのか。感心だねぇ、まあ、この話は俺なりの推測と解釈が入っているけどな・・・多少」・・・返事が無い。

 いつもなら、あの強烈なアタックボイスが吠えるはずだが・・・

 沈黙が続く中、静まり返った車内に何か聞こえた。

「こ、こいつ、寝てやがる。それも、イビキまで掻いてるのか」

 不気味に目だけ開き、こちらを向きながら高イビキで眠っている助手席の悪魔は、京助の呆れた声に眉間のしわを浮き立たせ、迷惑そうな顔をしながら、反対側へと寝返りを打った。

「何て女だ。しつこく聞いてきた結果がこれか」呆れ顔が怒りへと変わる。

「こいつだ、こいつこそ御祓いしてやる」アルピナのハンドルが、今にもひしゃげてしまうのではないかと思う位、両手で握りしめる京助であった。

居眠り呆けている圭子と、オールバックの頭から湯気を出している京助を乗せたアルピナは、東海道は品川から数えて二十番目、丸子(まりこ)まで来ていた。ここを過ぎると道なりにバイパスとなる。

江戸時代、丸子の宿と云えば、東から西からの旅人で賑わう宿場町だったそうな。ここの名物は、言わずと知れたとろろ汁。

京助は、何故か食べた事がある様な気がしてならなかった。

ぱさりとした麦飯に、魚の出しが効いたとろろ汁をかけ、一気にずるずると流し込む。のど越しの良い自然薯と云う山芋の香りが、飲み込んだ後もほのかに口中にやさしく広がり、古い食べ物屋の造りと相まって、なんとも言えぬ風情を(かも)し出す。

「何故、俺はそんなことを知っているんだ」懐かしさが込み上げてくるのだが、過去の記憶までは結びつかないようだった。

 そんなことを考えていると、急に腹が減ってきた。車内の時計に目をやると、十一時を回っている。先程胃袋に詰め込んだサンドウィッチは、当に消化されたらしい。

「おい、そろそろ昼飯にしようぜ」一応、隣の居眠り悪魔さんに声を掛けた。

 どうせ起きやしないだろう、爆睡中のようだし。そう思いながら呆れ顔で隣を見ると、おやまあびっくり、ぱちくりとさせた目でこちらを向き、大あくびをする圭子様が居た。

(こいつ、食い物に関しては異常な執着を見せるな)京助の捻くれた思いが見透かされたのか、気が付いた悪魔が言い放った。

「早く止めなよ。何処でもいいから・・・あ、トイレのあるとこにしてよ」

相変わらず身勝手な女だ。しかも、よだれだろうか、口元が光っている。

「ここ、何処さ? ・・・あらぁ、もうすぐ宇津ノ谷だねぇ。手前に道の駅があるから、そこに寄ってよ。通り過ぎないでよ、富士川みたいに」

(それが余分なのだよ、圭子君)

 それから少し走った先、圭子の言った通り、進行方向左側に道の駅が見えてきた。その前方には、いかにも深そうなトンネルの入り口が見える。

 左側が山肌の駐車スペースにアルピナを止めると、揃ってトイレに駆け込んだ。勿論、バツの悪そうな顔をしたのは京助の方だ。

 さっさと済ませた京助が、土産物屋の前に置かれているベンチに腰を降ろした。暫くして、辺りをキョロキョロと見回しながら、両手をパタパタと振り、

圭子が近づいて来た。

(こいつ、ハンカチ持っていないんだ。ほんとに女かぁ?)京助の非難の眼差しには目もくれず、スーツの上着で最終工程に入る。

(拭きゃあがった)・・・呆れたもんだ。

 当の本人はと云うと、そんなことはお構いなしにドヤ顔をすると、

「ね、いい所でしょ。ここから西はどんどん良くなるから、楽しみにしてなよ」

そう言いながら、真上に来ている太陽に顔を向け、両手を高々と上げて思いっきり背伸びをすると、京助の顔を不思議そうに覗き込み、突然声を荒げたのだった。

「無いじゃん! 持って来て無いじゃん。美代さんのお弁当! 何してんのよう、ボーっとしてぇ!」

(え、えー!)である。おどけた京助が、弾みでベンチから立ち上がった。

「そう、そう、よろしい。早く取りに行って来て、お茶、買っとくから」

 女王様である・・・

 少しずつ、少しずつ、崩壊の一途を辿る京助の人格が、悲鳴をあげる。

そして、今一度思う・・・

(俺が壊れる前に、必ずやこいつを、御祓い箱の奥の奥へと叩き込んでやる)

 心に誓いながら、駆け足で車に向かう京助の姿が、宇津ノ谷峠に寂しく映るのだった。

 美代さんの弁当をペロリとたいらげた圭子が、まだ半分以上残る京助の弁当の中を覗き込んでいる。すると、手付かずの焼き鮭を見つめながら、物欲しそうな顔をして言うのだった。

「京助、今回は食べるの遅いねぇ。お腹空いてないの? 食べてあげようか」

(な、何だってぇ・・・美代さん手作りの弁当だぞ)

 その料理の中身はと言うと、得意な懐石風に盛り付けられ、先付なのだろう、椎茸と青菜の海苔和えに始まり、白身魚の昆布煮から、鱈子の卵とじと小芋の炊き合わせ、更に、甘く味付けされ程良く焼かれた鮭の上に、アンチョビに漬け込んだトンブリを乗せ、黄身酢餡を垂らし、その横に はじかみを置く。

(こんな美味いもの、誰がお前なんかにやるものか)そう心で叫ぶと、いきなり大口を開け、がぶり、がぶりと、詰め込むのだった。

 あっと云う間に、弁当の中を空にした京助の顔を、まじまじと眺めながら、

呆れた様子で圭子が言った。

「ねえ・・・京助。そんな食べ方してたら、死ぬよ」

「・・・・・・・・・」

 ちなみに報告しておくが、目の前に出されたお茶は、何故か湯呑に入っていた。食べ終わった後、空になった湯呑が、そっと土産物屋の女主人に、圭子の手から返された事実が見て取れた。

 何だか食べた気がしないまま、道の駅を後にすると、先程、前方に見えていた、やたらと深そうなトンネルへと入って行く。これを抜けた先が、岡部と云うこれまた古い宿場町である。やはり東海道、江戸時代から続く宿場の数の多いこと。

 感心しながら進んで行くと、少しずつ車線が込み始めてきたようだ。このままバイパスで行こうか、それとも下に降りて旧道を行こうか、圭子が悩んでいるようだった。

 岡部の最後のトンネルを抜けると、旧道に降りる分技点が見えて来る。

 バイパスはその先で渋滞していた。

「降りよう。ここで降りて旧の一号線で行こう」圭子が決断した。

 左にウインカーを点滅させると、バイパスから降りる。その先の信号が青に変わった事を確認すると、アクセルを踏み込み、更に左へと曲がり旧の一号線に入る。こちらはさほど混んではいないようだ。

「もうすぐ行くと、焼津だよ。遠洋漁業が盛んでね、まぐろの水揚げは日本一なんだよ。それに鰹をも美味いんだよ、鰹節も有名だしね」

いきなりお国自慢である。しかも、相変わらず、食い物の事しか言わない、嫌なガイドだ。

 ポーン! 「三百メートル先、左折です」ここにもトンチンカンなガイドがいた。ナビが仕事を継続していたのだ。それも、高速用で。

 慌てて一般道にセットし直すと、すかさず圭子がこちらを向きながら、前方斜め上の案内板を指差し、得意げに言うのだった。

「ほら、ここを左に曲がると、焼津の港に行くんだよ。そのずっと手前に、魚センターって云うのがあって、あ、そうそう、焼津インターのすぐ南側なんだけどね。いろんな魚や、海産物があって、広くて結構面白いよ」

 その曲がるって所を通り過ぎて行くと、思いっきり顔を斜め後ろにひねりながらも、まだその事を訴えている女が横に居る。

(危ない危ない。ヘタにあいづちでも打とうものなら、この女は必ずそこへ寄って行こうと言うに決まっている)無視するのが一番。

 それでなくても、知らなくてもいい観光ガイドが、次から次へと頭の中の海馬に、否応なしで蓄積されてゆくのだから・・・

 諦めたのだろうか、正面に向き直った圭子が急に無口になった。

嫌ぁーな空気が、車内一杯に広がる。ある意味、こんな空気を作らせたら天才なのかもしれないと、眉を八の字にしながら、京助は困惑した。

 やはり下の道、一般道だ。幾つもの信号に阻まれながら、先に進んでゆくと、目の前に、結構長い大きな橋が見えてきた。見つけるや否や、圭子のお約束が始まる。

「これが有名な、越すに越されぬ大井川だあ」両手の人差し指を、橋の真ん中にロックオンさせると、大声で叫んだ。

「この橋を渡ればもう着いたも同然。あっと云う間だったねぇ、京助」

(何があっと云う間だ。ほとんど寝てたくせに、目が開きゃあ、食う事と観光ガイドじゃあないか)

京助の心の叫びが、緩やかに流れる大井川の滴となって、川下へと消えてゆくのだった。

渡りきったアルピナが、深くなる山間へと入ってゆく。暫く走ると、

「ポーン! 次の分技を右方向です」圭子がナビの真似をした。

 確かに行く手の前方が、分かれ道となっている。

 ポーン! 「つぎの分技を右方向です」本物が案内する。

 言われた通り、アルピナの鼻っ面を速やかに右へと向けると、いきなりクネクネ道に変化した。決して広いとは言えない道幅が、軽い緊張を強要する。

日坂(にっさか)(とうげ)。こっちの道が、ほんとの東海道なんだよ。今は大分寂れちゃったけど、昔は観光バスも沢山通ってたんだよ。その頃は、バイクやシャコタンにした連中が、よく、ここでスピードを競ってた。姉貴の旦那も若い頃、ここをアルピナで飛ばしてた」

 聞き捨てならない言葉に、京助の眉がいつもより激しくピクった。

「アルピナって・・・何だよそれ。そいつ、いくつだよ」

「そいつ、言うな! 姉貴の旦那さんカッコいいんだからね。京助みたく、ヨレヨレじゃないんだから」そう言うと、右手で握りこぶしを作って見せた。

(成る程、そう云うことか。それでアルピナの事が詳しいんだ、こいつは)

 一人納得すると、同じアルピナ乗りだった旦那と云うのが気になる。

「なあ、その旦那ってのは、歳はいくつになるんだ?」

「え、歳・・・えーと、姉貴より五つ上だから、あ、姉貴があたしより七つ上で・・・だからぁ、・・・もう、いくつだっていいじゃん!」

(頭がいいやら悪いやら、歳なんかごまかすから困っちゃうんだろうが)

 呆れた京助が、今一度尋ねると、必死につじつまを合わせたのだろう。

「四十二歳だと思う・・・」小声で呟くのだった。

「あっははは!」京助が思わず笑った。

「何・・・何がおかしいのよ」

(そりゃあそうだ。何がおかしいかって?)

「なーんだ、俺と同じ歳か。結構おじさんじゃないか」

何故か安心する京助だった。すると、圭子が言う。

「えー、京助って・・・うそー、五十五位に見えるんですけどぉ」口を尖らせ、とぼけた顔で覗き込むと、京助の前に突き出した人差し指を、チッチッチと言いながら左右に振るのだった。

 その仕草と言葉に、軽くショックを受けたのだろうか、一つ唾を呑み込むと。

「ほ、ほんとか? そんな歳に見えるのか」情けない顔をした京助が、真剣な眼差しで圭子に尋ねるのだった。

 その表情を読み取った小悪魔は、意地悪そうな顔つきで、追い打ちを掛ける。

「へたしたら、六十にも見えるかもね。もう、終わってるんじゃないの」

くじらが薄目を開けたような顔で飄々(ひょうひょう)と言い放った。

「うそ・・・だろ」そう言うのが精一杯、すぐに絶句した。

 まだまだ若いと自負していたが、やはり、それなりに歳は重ねている。が、

そんな事は重々承知だ。だが、同じ年齢のやつらと比較しても、少しは若く見えるだろうとも思っていた。今の今まで・・・

 がっくりと落とした肩に、西日が慰めるように優しく当たっている。

 この男の、まさかの落ち込み様を見て、ちょっと言い過ぎたかなと思った圭子が、言葉を掛けた。

「まあまあ、そんなに落ち込まないの。世の中には、もっと老けて見える人だっているんだからぁ」全然フォローになって無い。これはまずいと感じたのだろう。

「ねえ、コーヒーでも飲もうか、おごるからさぁ。自販機があったら止めてよ」

 ご機嫌を取るのだが・・・

ほっぺをプクーと膨らませ、いつ掛けたのだろう、京助御用達の、ポリスのサングラス越しに、ジロリと圭子を睨みつけると、静かな口調で言うのだった。

「こんな山道に、自販機なんか有る訳ないだろうが」・・・ごもっとも。

 口を尖らせた風船顔の京助と、半分舌を出しながら、とぼけた圭子のコンビが、いよいよ月夜野に到着する時刻に迫っていた。

 幾つもの深い山間を抜け、峠をこえながら、慎重にコーナーを走りきると、眼下に想像以上の大きな集落が姿を現した。

「着いたね。あれが、あたしの生まれ育だった月夜野だよ」珍しく穏やかな表情で、圭子が言った。


 その頃、圭子達が向かう本条の葛城家では、幸三を中心とした葛城一族が、広い奥座敷の居間で、異様な空気に包まれながら、静かに鎮座していた。

 本家当主の幸三が、床の間の上に祀ってある神棚に御神酒(おみき)をあげると、一文字に硬く閉めた唇の前で手を合わせ、短く祝詞を唱えた。そして、低く屈みながら振り向き、一族の前にゆっくりと座った。

「よう来てくれた皆の衆。中には久しゅう会えなんだ者もおったが、こうして揃うのも、孝子の結婚式依頼じゃのう」通る声が(ねぎら)いの言葉と共に、この広い居間の中に響いた。

 一同が深々と頭を下げる。その様子からして見ても、本家頭領の威厳は絶大なものであろうことが伺い知れる。

 暫しの沈黙の後、南条葛城家の当主、(ひさ)(よし)が口を開いた。今年、五十になるこの者は、身体こそ小柄だが中々の切れ者である。

「今朝方、(あに)さんからの電話には腰が抜けた。とても、まともな話とは思えんかったわ。だが、まさかな、この様な事が起こるとはなぁ、言葉が出んわ」

 辛い表情が皆の同意を誘う。

 頷く一族の中で、ただ一人、女の当主が居た。西方の葛城を受け継ぐ、彰子(あきこ)と云う女性だ。孝子の夫、真一の実の姉である。歳は孝子よりも五つ上で、真一の二つ上、四十四歳になる。

 孝子は、面倒見の良いとても優しい彰子が大好きだった。子供の頃より、姉のように慕っている。

 真一が本条へ婿入りしたことで、姉の彰子が西方の当主を継ぐ事となった。

 元々が幼い頃より、長けた物見の力が在ることに気付いていた彰子は、両親が亡くなった後、跡目を継ぐ決心は付いていたのだ。

 本家、本条には男の子がいなかった。幼馴染の孝子と真一が結ばれるのも、必然だったのだろう。彰子はこれを快く許した。

 その彰子が、真っ直ぐ幸三に視線を向け、言葉を掛ける。

「里美は私にとっても、姪なのですよ。何故に、事のあらましを直ぐに言っては下さらんかったのですか」寂しげな表情で顔を少し斜めにしながら、静かな口調で問うた。

「すまなんだ、本当にすまなんだ。余計な心配を掛けまいと、黙っておった。

直ぐに知らせるべきじゃった」丁寧に詫びると、彰子に向かって頭を下げた。

 幸三が、皆から尊敬の念を持って敬われる理由が、ここに有る。非を非と、間違いは間違いと、謙虚に認める(いさぎよ)さがあるからだ。それは、彰子も重々承知している。苦渋の選択だったに違いない。

 そろりと、皆の前に出た男がいる。東方の葛城佐治(さじ)だ。

「まあ、許してあげなされ。幸三さんも、良かれと思うてしたことじゃろうに、

それより、これからの策を練らねばならんのう」この中で一番の年頭だ。

 七十は優に超えているのだが、まだまだ、かくしゃくとした所作が見て取れる。葛城一門の御意見番であるこの老人には、幸三も遠慮があり、一目置くのだった。

 そして、ここに集まりし葛城一族による、作戦会議が始まった。

 時が経ち、夕闇の迫る中、一台の車が本条葛城家の門をくぐった。車はそのまま広い玄関口まで進むと、横付けで止まるのだった。

「お頼み申します」車から降り立つなり、開け放たれた玄関に向かって、一人の男が声を張った。

「はい。どちらさんで」奥から急ぎ出てきた岸部が尋ねる。

「二つ坂の根岸と申します。遅くなりましたが、御当主にお取次ぎ頂きたい」

 そう言うと、玄関の間口をくぐり、磨き石がびっしりと埋め込まれた土間に立った。

「あー、根岸さんの。よう来てくれました。皆さんお待ちかねですけん、ささ、どうぞこちらの方へ」丁寧に頭を下げ、招くと同時に、皆の集まる奥座敷に向かって、

「旦那さん方、二つ坂の根岸さんが、今、お出でになりました」大声で伝えた。

 土間を上がると、(ふすま)の開け放たれる、広々とした日本間がいくつも見える。

その一番奥の大きな襖が開き、中から幸三が姿を現した。

 ぐっと見据えた目が、根岸と云う男を観察する。暫くして・・・

「よう来てくれた。遠くから申し訳なんだ。いやいや、そっくりだな、根岸の若い頃に」労いの言葉と共に付け加えた。

「とんでも御座いません。葛城本家の一大事と聞いております。早々にお呼び頂き、嬉しく思っております」丁寧に返すと、深々と頭を下げた。

 上がり込んだ根岸が皆の前に通されると、どのような男なのかと一同が見守る中、張りのある声が響いた。

「御一同様には、お初に御目に掛ると心得ます。二つ坂の根岸重蔵(じゅうぞう)が息子、与一(よいち)でございます。以後、御見知り置き下さりますよう、お願い申し上げまする」

 隙の無い口上に、この場の誰もが感服した。

「ささ、こちらにお座り下さいな」茶の湯を運んだ美佐江が、幸三の隣の席へと、与一を招く。

 軽く頭を下げると、幸三の後ろを回り、用意された席に座った。

「さて、こうして二つ坂の長も来てくれた。話を進めよう」幸三が皆の顔を覗き込むように言うと、すかさず東方の佐治が、与一に尋ねた。

「根岸さん、あんたさん一人かえ」与一は、尋ねる佐治の方へと体を向けると、

「もう直に、物見(ものみ)(しゅう)も参る手筈になっております」静かに答えた。

 ここで言う物見衆とは・・・

その昔、戦乱続く戦国の世に、突如現れた異能力者の集団があった。その者達は、此の地を守る為、闇の中で幾多の戦いに身を置いた。そして、その桁外れの能力は、戦国の名立たる武将達の間に広まり、当時の権力者皆がこぞって、その力を欲した。それを危機と感じた此の地の豪族葛城が、物見衆の里である二つ坂を隠した。故に、その地を隠れ里、と、月夜野の人々は呼んだのだった。その隠れ里の物見衆の力は、脈々と受け継がれ、今に至る。

「おお、そうかえ。それは頼もしい。して、事の成り行きは御存知か?」

「はい。親父殿から、事の一部始終聞き及んでおります。何をするかも享受されて参りました」自身に満ちた言葉に、一同から歓声が上がった。

「よくぞ言うてくれた。これ程頼もしい言葉は無いのう。して、古文書の件じゃが」幸三が、顔をほころばせながら身を乗り出した。

「それも全て解読済みにて御座います。少々骨が折れたと、親父殿はぼやいておりましたが」おどけた素振りで、ヒョコッと肩を上げて見せる与一であった。

「何から何まで、抜け目の無い事よ」感心しながら与一の顔を、久義が覗き込んだ。

「して、お前様は東京にお出でとか聞きよりましたが、何をなされて」

 さりげなく西方の彰子が尋ねる。すると、

「これはこれは、西方の御当主殿」深々と頭を下げる与一に、少々驚いたように、前へと身を乗り出し、

「ほう、お前様は、私を存じておると言うかえ?」すかさず問うのだった。

「西方の葛城彰子殿を知らぬ、二つ坂の者はおりますまい」

「ほほほ・・・それはまた、何故(なにゆえ)?」口元に重ねられた手の平の間から、白い歯が見えた。

「幼き頃より、長けた法力を持ち、数多(あまた)(わざわい)からこの地を守りし御人」

「買い被りじゃ。して、今何を?」

「私は東京で地質調査の会社を経営しております。最近良く来る依頼は、薬品などを扱っていた工場跡地の、残留物などの調査依頼が多いですね」

「皆の衆、そこまでにしておけ。それより、根岸の親父から、何を享受されて来たのか教えて貰えんか」幸三は、皆の与一に抱く好奇心を一掃すると、本題を尋ねるのだった。

「はい。我ら先祖が、六百年前、行ったとされる儀式の細で御座います」

「して、その詳細とは?」すかさず、佐治が詰め寄る。

「祈祷により、この世に呼び出した竜神を酒漬けにし、心地良くしたところで、

折り合いを付けると云うもので御座います」顔色一つ変えず、さらりと言ってのけた。

あまりにも事の簡単さを言い放った与一の言動に、驚きを隠せない幸三が、更に尋ねるのだった。

「ほほう、では、呼び出した竜神様と、どのような折り合いを付けると」

「その事が書かれた一部によりますと、当時の二つ坂の長が、竜神と対峙した折、事を据え置き、六百年後に持ち越したと」その場がどよめいた。当然だろう、何ひとつ解決されぬまま、次の未来へと先送りしたのだから。

 どよめきが、やがて沈黙に変わる・・・その時だった。幸三が与一の方へと体を向け、静かに言った。

「ならば、此の度起こった事象は、その昔、既に約束された事だと云うのか。

では、今回も前回同様、先に流すと」幸三の顔が苦痛で歪んだ。

「何と云う折り合いの付け方じゃあ。他に手立ては無かったのかえ」南条の久義が、呆れた顔で与一を眺めた。すると、与一の体が久義の方へと向き、

「南条葛城家で御座います。六百年前に現れた事象の地は」低く言い放つと、皆の方へ向き直り、ぐるりと見回した後、続けるのだった。

「当時、南条では、その事で今と同じく、二つ坂を含む葛城一族と共に、事にあたったそうな。その中で、もっとも法力が強いとされた二つ坂の長が、全般を仕切ることになったと」そこまで言うと、目の前の茶を一気に飲み干し、

また、話始める。

「祈祷によって呼び出された竜神が、直ぐに欲したのは、酒だったそうで、酒樽のまま、丸二日飲み続け、やがて姿が薄れ始めた頃、長が懇願したのです。

今回の祭りの儀は執り行わず、代わり、六百年後、言を満たすと。この言葉に竜神は納得したそうな・・・ひとつの条件を持って」

「その条件とは?」西方の彰子が尋ねる。

「はい。竜神が出した条件とは・・・倍返し」さすがの与一も、うつむき、先程のような声の張は無かった。

 その場の空気が凍り着く。

「な、何と・・・(まこと)かえ、倍返しと言うたら」佐治がそれ以上は口ごもった。

「では、里美の他、もう一人と?」幸三の眼光が、鋭く与一を捉える。

 突き刺さる視線に、与一は静かに頷くのだった。

 先祖がやらかした、とんでもない事に腹を立てた南条の久義が、握りこぶしを畳に叩き付け、叫ぶ。

「何と云う愚かな事を、六百年前とは言え、心底恥ずかしい」(いきどお)りを隠せなかった。

「では、もう一人と云うのは?」誰に言うでも無く、彰子が呟いた。

「竜神祭までには、まだ、ひと月あります。今は現れなくとも、それまでには現れるかと」絶望的な言葉が与一の口から発せられると、大広間が水を打ったように静まり返った。

 どれくらいの時が経ったのだろうか。幸三が意を決し、ここに集う葛城一族の者達に問うのだった。

「皆の衆、これが成り行きだそうな・・・わしは腹をくくった。今一度、竜神様を此処に降ろし、過去も含め、未来永劫、此の様な事が起きずに済む方法を竜神様に願うつもりじゃ」

「しかし、(あに)さん。もし、それが聞き入れて貰えなんだら」思い詰めた顔で、久義が詰め寄った。

 この場に居る誰もが同じ思いなのだろう、前のめりで幸三の言葉を待つ。

「もし・・・もしも聞き入れて貰えなんだら・・・例え竜神様でも、我の敵となる」

大広間に歓声が上がった。

「よう言うてくれました。どのような経緯で、人身御供の儀が出来たかは存じませぬが、そのような事が続いて良い訳がない。此処で、我らの時代で終わらせねばなりませぬ」彰子が力強く宣言すると、此処に居る葛城家全員が、その言葉に賛同するのだった。

「そうか皆の衆、思いを同じとしてくれるか。有り難い、恩に着る」幸三は、潤んだ目頭を袖で拭った。

 そうと決まれば、事は早い方がいい。幸三が皆に号令を掛ける。

「竜神様を降ろす! 皆、支度をしてくれ。与一、段どりはお前に任す。此処に居る者達に指示を出せ」

「は! では、早々準備に取り掛かりましょう。それに、そろそろ物見衆も着く頃かと」そう言い放つと、素早くその場を離れた。


 その頃、京助と圭子は、まだ山の中にいた。

「だから言ったろ。こんな細い道、絶対麓(ふもと)まで続いてなんかいないって、どうすんだよ、行き止まりだぞ。それに、向きなんて変える場所もないし」

「ぎゃあぎゃあ言わないでよ! 確かこの道だったもん・・・近道は」

「いつの近道だよ、まさか、子供の頃なんて言わないよな」

「・・・・・・・」

「おい! その、まさかかよ」完全に迷子になっていた。


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