鬱
全ての漢字が暮らす世界、漢字ワールド。漢字たちは今日も思い思いに過ごしている。嬉や笑、遊などは元気に遊び、読や書は本を読んでいる。働や労は働き、学は勉強。犬は飼に連れられて散歩に出かけ……皆、表意文字であることを体現し、自らが表す意味の通りに過ごしている。
そんな漢字ワールドの片隅で、どんよりと陰鬱な空気を放出している、暗い漢字がいる。その漢字の名は鬱。常用漢字の中では最も画数が多い、29画を誇る。この文字が表す意味は陰気や塞ぎ込むといったマイナスやネガティブなイメージ。鬱もまた、他の漢字たちと同じように自らが表す意味の通りに過ごしているだけなのだが、その哀愁漂う姿は、見る者を無性に不安にさせる。
「ねえ、ウツ。今日も陰気だけど、いつもそんなに暗くなくてもいいんじゃないの?」
鬱に話しかけてきたのは、鬱が最も仲が良い漢字の憂だ。憂は心配や配慮を表す漢字であり、鬱のことをよく気にかけている。
「ユウ、別に僕は明るくなりたい訳じゃないから、気を遣わないでいいよ。僕は自分が表す意味を体現しているだけだから。」
憂に鬱はそう返す。すると、憂の後ろから何かが飛び出してきた。それは々だった。々。読み方はない。正確には漢字でもない。々は踊り字と呼ばれる記号で、意味は前の字義を繰り返して意味を強調する、だ。
「ウツ、何でいっつもそんなに陰気なんだよ? お前は漢字なんだし、29画もあるんだからもっと嬉しそうにしたらどうなんだ? 俺なんか前に漢字が無いと何もできねえし、そもそも漢字ですらないんだぜ? しかも3画。お前とは26画も差がある。正しく俺とお前は『別格』だ。もうちょい明るくなれよ! な?」
「オドリジ、言ってることが支離滅裂だよ。嬉しくなるのは嬉、喜ぶのは喜がするべきことで、僕じゃない。確かに、オドリジは漢字じゃなくて僕は漢字だけど、漢字と踊り字に優劣はないよ。あと、画数の話も意味不明。画数が多い方が幸せっていうんだったら、一とか|とか二とか十とか丁とか人とか刀とか、その辺みんなオドリジより画数が少ないから、オドリジより不幸ってことになるけど。刀に聞かれたら切られるよ? ついでに、別格の『格』と画数の『画』は違う漢字だからね。」
鬱は淡々と々の説を論破した。々は何も言い返せない。まあ、他に追従することが役割である々は元々弁が立つ方ではないのだが。
「まあ、ウツがこのままでいいって言うんだったら別にいいんだけどね。でも、もう少し明るくなってもいいんじゃない? 心とか配とか案とかも心配してたわよ? 私とオドリジだけじゃなくて、もっと他の漢字とも付き合ったら?」
「ユウ、僕はこのままでいいんだよ。それと、ユウがここにいると多分ユウも暗くなるし、僕はもっと暗くなるよ。ユウと僕が一緒にいると、憂鬱になるから。」
「おい、ウツ、それは……」
「オドリジもだよ。僕とオドリジが一緒にいたら鬱々。もの凄く暗い、陰気な意味になるけど?」
「うっ……」
「分かったわ、ウツ。別に無理に明るくなって、って言いたい訳じゃないの。でも、たまには一緒に遊びましょうよ。偉そうなこと言ったけど、私もウツとオドリジ以外じゃ、杞くらいとしか取り立てて仲良くないし。ウツは私にとって大切な漢字なのよ?」
「それは理解しているつもりだよ、ユウ。」
「なら良かったわ。オドリジ、行きましょう。じゃあウツ、また明日おしゃべりしに来るわね。」
憂は々とその場をあとにした。それを見送った鬱は、近くの茂みに向かって声をかける。
「もう出てきて大丈夫だよ、ニオイザケ。」
「ふう、やっと行ったのね。それにしても全く、あのユウとかいう女、全然ウツの本質を理解しようとしてないじゃない。ウツは……」
「ニオイザケ、ユウだって僕のことを心配してくれているんだから、あんまり悪く言っちゃダメだよ。」
「むーっ……まあ、ウツがそう言うなら自重するけど……でも、忘れないでよ。あなたは私の一番だってこと。」
「それは当然だよ、ニオイザケ。」
鬱は溜息を吐きながらそう告げる。鬱の部首であり、鬱と自らの2つしかこの部首を持たない漢字、それが鬯。ニオイザケ、若しくはチョウと呼ばれる漢字だ。意味は香りの良い酒、宴など。鬱は鬯を呑んで悪酔いした人間からできた、とも言われる。それほどまでに、鬯は鬱と関係が深いのだ。
「ねえ、ウツ。もう私とずっと一緒でいいじゃない。」
「ニオイザケと僕はいつも一緒だよ。でも、ニオイザケは僕と熟語を構成することはできないんだ。そこは理解した方がいいよ。」
「むーっ……」
むくれる鬯。それを鬱は、やれやれと言った感じで見ていた。
全ての漢字が暮らす世界、漢字ワールド。漢字たちは今日も思い思いに過ごしている。そしてそんな漢字ワールドの片隅では今日も鬱と憂、々が話していた。
「ウツ、遊びましょう。」
「ウツ、せっかくのユウのお誘いなんだから遊ぼうぜ、たまにはよ!」
「明るいところは苦手なんだけど……」
「大丈夫よ、ウツなら。」
「ユウ、その全く根拠のない自信はどこから来てるのさ……」
「だって、杞が言ってたもの。『空は崩れない。大地も崩れない。起きないことを案ずることはない』って。」
「杞はそれしか言わないから……」
鬱はそう言いながらも立ち上がった。憂と々の言葉に、今日は鬱の方が根負けしたのだ。
「ちょっとだけだよ。」
そう言った鬱を憂と々が笑いながら見ていると、横の茂みから鬯が出てきた。
「ちょっと、ウツ!」
「あ、やっぱり出てきたね。丁度良かった。ユウ、オドリジ、紹介するよ。僕の部首のニオイザケだよ。」
「あら、あなたがウツの部首なの? 私はユウ。よろしくね。」
「俺はオドリジだ。あんたと組む機会はあんまりなさそうだが、よろしく頼む。」
「え、あ、う、うん、よろしく……」
鬯としては、何かしら文句を言う為に出てきたのだが、憂と々の笑顔に完全に毒気を抜かれてしまい、いつもの威勢はどこへやら、すっかりしおらしくなってしまった。
「ニオイザケさんも一緒に遊ばない?」
「いいな、それ。俺は誰とでも組めるから文句はないぜ。」
「ニオイザケさん、どうかしら?」
「え、えっと、じゃあ、ウツが一緒なら……」
「決まりね。ウツ、オドリジ、ニオイザケさん、じゃあ空き地まで競争よ。よーいスタート!」
「おい、ユウ! ズルいぞ、それは! ちょっと待て!」
走り出す憂と々。
「ニオイザケ、僕らも行こうか。」
「ウツは大丈夫なの?」
「たまにはこういうのもいいかな、って思うよ。」
そう言って走り出す鬱と鬯。
「やったー、私一番!」
「だからズルいっての、ユウ!」
「ふーんだ、早いもの勝ちよ! ウツもニオイザケさんも早く!」
鬱と鬯を呼ぶ笑顔の憂。鬱は鬯と走りながら、字義に似つかわしくない、晴れやかな笑みを浮かべていた。