現代若者論 序説
これは超絶な主観による論文です。エゴイスティック全開なので、あくまでエンタメとして理解していただけると幸いです。(てか小説じゃないのかよ、という野暮なツッコミもなしでお願いしやす)
現代の若者は、欲が無いと言われる。高級外車を乗り回したいとか、金をたんまり手に入れたいとか、そういった類だ。そういった欲が全くないわけではなく、少ない苦労でそれらが手に入るのなら喜んで、それらを受け入れるだろう。しかし、問題はもっと別のところにある。現代の若者は、所謂ゆとり世代やさとり世代だのと揶揄される。なるほど、その表現はある意味正しい。さとり世代とは、過度に物を欲しがらず、できるなら人間関係の摩擦を避け、合理的に、そして精神的に満たされることを重視する様が、まるで悟っているかのようにみえるところから作られた言葉だ。ここにちょうどよい言葉がある。
愚かな者を道伴れにすることなかれ。独りで行くほうがよい。孤独で歩め。悪いことをするな。
求めるところは少なくあれ。―林の中にいる象のように。¹
現代の若者が欲しているものは、物質的な幸福ではなく、形而上学的な幸福である。当然、全ての若者がそういった価値観を一様に持っているわけではない。あくまで傾向として、そのような価値観を持っているのだと、当事者たる私と、知りうる限りの友人知人、インターネットや社会的動向、イデオロギーから推察したにすぎない。しかし、それでも真実²からそう遠くは離れたものではないだろう。
では、現代の若者が如何様に形成されたのか、その環境を分析してみよう。1990年代以降の特徴的なものといえば、やはりインターネットの発達、携帯機器の発明だろう。人間同士のコミュニケーションが合理化、効率化された結果、人間関係の合成過程すら合理化されていった。つまり、リアル世界でのコミュニケーションに加えてバーチャルな空間では、任意に好む人と簡単に、深く、付き合えるようになったのだ。さらに、その手段は時代が進むにつれ形を変えていった。スマートフォンの普及によるコミュニケーション手段の拡張。LineやFacebook、Twitter、InstagramなどのSNSの普及は、自己を広範囲に伝える手段として画期的であった。村仲間といったアナログなワードは古いものとなり、国境すら飛び越えて自己を拡散し、仮想空間で互いの存在を認知できるというのは驚くべきことである。最も興味深いのは、自己の表現手段の拡張である。それは、自分が撮った写真、自分が綴った物語、自分が描いた絵、自分が作った歌、自分が作った動画。その他にも、技能(スポーツやゲームに限らず)も含んでいいだろう。
人間が交流するとは、どういうことか。自己を表現する、とはどういう意味を指すのか。まず言語学的な観点から話を進めたい。ソシュールによれば、文字や音声をシニフィアンと呼び、そこからイメージされるものがシニフィエであり、二つを合わせて、シーニュ(記号)であるとした。旧来のコミュニケーション手段が対面による会話や電話であり、当事者間で正確なシーニュを共有できる。対して、SNSを基軸としたインターネット環境のコミュニケーションは、シニフィアンとシニフィエとの間に差があるだけでなく、あえて情報を変形させたり少なくしたりして、受信者に独自のシニフィアンを形成させたりすることもある。独特な形状をしたシニフィアンを用いて、独自のシニフィエを生む手段は、芸術がまさにそうであるが、私は、現代が専門知識を持たない素人であっても、それを構築できるという点が特質的だと指摘する。
次に遺伝子学的観点から述べる。私たち人間は、遺伝子にとってただの乗り物であり、遺伝子は優秀な遺伝子を拡散させていくことが目標³であり、伝搬する文化をも遺伝子(ミームのことを指す)だとしたリチャード・ドーキンスの言葉に従えば、飛躍した論理かもしれないが、人生の目標とは、自己を最大限伝播させることであるともいえる。認められたいという承認欲求も遺伝子レベルで存在しているのだとすれば、なるほど納得できるかもしれない。
ここまで延々と、わけの分からないことを書き連ねてきたが、簡単にまとめるとこうだ。自分を表現することは喜びであり、それを知ってもらうことはさらなる喜びである。加えて、表現手段が技術の発達により容易になり、人間は繋がりあい知ってもうら喜びをいつでも得られるようになった。我々にとってスマートフォンから得られる種々の情報は、ある種の麻薬のように我々を捉えて離さない。だが、ここまで論じたのは、若者に限らず、人間一般にいえることであり、より本質的で精神的なもの、イデオロギーについて論じたい。
我々若者は、既に満たされた世界でいきている。戦争が終わり、焼け跡世代が日本を再建した。日本を立て直すという目標と、明日食べるものも無いという逼迫した状況で、人々は助け合うことで力強く生き、次の世代へと繋いでいった。先人達の努力のおかげで、我々若者は食うものには困らずにいることができる。技術の発達により、ますます苦労をせずに比較的安価に供給できる世界で生きる我々は、平和である。しかし、平和な世界を生きることは、人間にとってゴールではなかった。人間は常に前進する。生きることが目標であった時代から、なぜ生きるのかを模索する時代にシフトしたと言って差し支えないだろう。
本題だ。我々は、虚しさを抱えている。虚しさとは、つまり生きる意味、自分の喪失である。前述したように、現代は個人主義を掲げるに足る環境の形成と、伝統的な同調主義、賞罰教育によって生まれる自己の喪失を、なんとか避けようと努力する運動があるように思う。自己の喪失は、若者という括りに留まらない。同調主義による個性の喪失を恐れる。自分のありえた可能性を、社交的なものによって塗りつぶされることが我慢ならないのだ。それは、過度な飲みにケーションや、常態化したセクシャルハラスメントによる時間的、精神的摩耗。押し付けられる正義に疑念を抱くようになった若者は、闘争か受容の二択をせまられる。ここに来て、「万人の万人に対する闘争」⁴という言葉が首をもたげて迫ってくる。だが、誰も戦いたくはないのだ。もうそんな、血みどろの闘争をせずに、ただ個人の幸福を必要分得たいだけだったのだ。できるなら彼らは、戦わずして、手をとりあう方を模索するだろう。その手段とは、何もせず時期を見計らう者もいれば、その為に無気力な人間だと蔑まれてもじっと耐え、休日などの余暇を最大限利用して、自己の研鑽に励むなど様々だ。
決して若者は、無気力なわけではない。ただ、先人達がまだクリアしていない課題を引き継いだに過ぎず、その課題に必死に答えようとしているのだ。その様が、奇異に映るのは、課題を解決する手段がいつだって試行錯誤問題であり、時には歪んで映るかもしれないが、美しいもの(イデア)を望む気持ちは変わらないのだ。
引き継がれた課題とは何か。それは自己実現である。心理学では、マズローの五段階欲求の一番上であり、最高の目標とされている。自己実現とは、自己に根差す課題を、自身の手で見つけ出し、それをクリアすることだ。それは非常に難しいことであり、実際のところ、自己実現に至らずにこの世を去った人の方が圧倒的に多いだろう。仕事を通して自己実現をする者もあれば、そうではないところで奮闘する者もいる(故に、社長が…全くの第三者が他者に対して独自の自己実現を強要することはナンセンスだと言わざるをえない。…ブーメランになっている気がしないでもないが)。何にせよ、人が生きていく目標が、現代では多様性に満ちたものとなり、人々はそれぞれの幸せを獲得しようとしていることに、変わりはない。
注釈
1.『ブッダの真理のことば、感興のことば』(岩波文庫)より引用。
2.この世には真実はない。蓋然性が高いという意味で、あえて比喩的に真実と表現した。
3.「彼らはわれわれを、身体と心を生み出した。そして彼らの維持ということこそ、われわれの存在の最終的論拠なのだ。彼らはかの自己複製子として長い道のりを歩んできた。いまや彼は遺伝子という名でよばれており、われわれは彼らの生存機械なのである。」(利己的な遺伝子より引用)
4.ホッブズ『リヴァイアサン』より。「人間の本性のなかに、三つの主要な、あらそいの原因を見いだす。第一は競争、第二は不信、第三は誇りである。」
タイトルに現代若者論 序説などと偉そうに書いてありますが、思ったより中身のないものになりました。加えて、序説だけど続きを書くつもりが全くないというどうしようもなさ。




