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オデッセイ  作者: 右田優
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悪魔 2

 オリバーは鞄を肩からかけると12ゲージのショートバレルショットガンを手にし、病院に向かって一目散に走り出した。

 病院の中に足を踏み入れると彼はすぐにあたりに漂う異臭に気がついた。ざわざわとした不気味な音も聞こえてくる。

 消灯時間も近いというのに廊下にはたくさんの入院患者が下を向いたまま同じ方向に向かって歩いていた。ロビーには医師や看護師、技師といったスタッフたちもがおぼつかない足取りで同じように歩いている。

 ふらふらとうつむきながら歩いている彼らの瞳は全員が黒に近い紫色だった。よく見るとその瞳はひとつではなかった。瞳はひとつからふたつに増え、やがてみっつになると融合し、白目の部分が完全に消え、眼球は黒に近い紫色一色にに変化した。開かれた口からはよだれがだらだらと流れている。

「くそっ」

 オリバーは短く舌打ちをすると鞄から水筒を取り出した。彼は目の前を歩いている男を背後から羽交い締めにして頭から思い切り聖水をかけた。突然聖水をかけられてパニック状態になった男は、喚き声をあげながらオリバーから逃れようと暴れ出した。オリバーは暴れる男を力ずくで抑え込むと、耳元で祈祷文を唱えた。


「全ての(けが)れた霊、悪の力、堕落した獣、地獄からの乱入者よ。腐敗した故郷に去れ」


 男は廊下に膝をつくと病院中に響き渡るような叫び声をあげた。大きく開かれた両目と口から黒と紫が混ざり合ったような色の煙が一気に立ち昇った。男は悲鳴を上げながら煙を吐ききると、そのまま床の上に突っ伏した。オリバーは倒れた男の首筋に指をあてて脈拍を確認するとすぐに立ち上がった。

 男の叫び声を聞きつけた屈強な体つきの医師は、オリバーの姿を捉えるとすぐに動き出し、身をくねらせながらこちらに襲いかかってきた。オリバーは間髪を容れず医師のみぞおちに強烈な一撃を加えると首に腕を回し、背中から両腕を締め上げていった。彼は姿勢を固めると先ほどと同じように頭から聖水をかけて顔のそばで祈祷を唱えた。


(けが)れし霊よ、神の(しもべ)を苦しめる悪魔の手先とともにこの場から立ち去れ」


 医師はやはり両目と口から煙を吐き出すと、糸の切れた人形のように意識を失って床の上に崩れ落ちた。

 オリバーは空っぽになった水筒を乱暴に放り投げると、これではきりがないと唇をきつく噛んだ。

 こんなにも簡単に憑依した人間から出て行くというのは低級の悪魔の証だ。しかしいくら低級とはいえ早く追い払わないと憑依された人間はたちまち命を落としてしまう。ましてや心に深い傷を負った人間たちだ。憑依による悪影響はすぐに身体を蝕む。

 しかしこの数はどういうことだ? と彼は考えた。どうやってこの悪魔どもは結界をすり抜けて地上に出てきた? こんな馬鹿げた数の悪魔を相手にどうやって戦う?

 薄暗い廊下には先ほどよりもずっと大きくなっている重なり合った低い声が響き渡った。それは悪魔たちの話す地獄の言葉だった。廊下がぐらりと揺れ、頭上の蛍光灯が不吉な音を立てながらちらつき始めると、オリバーは弾かれたように全力で細長い廊下を走り出した。

 両わきに並んだ扉が大きな音を立てて割れ、粉々に砕け散ったガラスの破片や木片が待ち構えていたように彼の上に降り注いだ。彼は悪魔に憑依された人間たちを手で払いのけ、両手で身体を庇いながら中庭を目指した。



             ♦♦♦    ♦♦♦    ♦♦♦    ♦♦♦


 パジャマ越しにチャーリーの胸に手をあてていたライアンは、次から次へと浮かび上がっては消えていく断片的なチャーリーの記憶をなんとかひとつに繋げ合わせようとしていた。

 二人のそばに立っている庭園灯の明かりがチカチカと点滅し始めると、それまで澄んでいた夜空が瞬く間に曇り始めた。暗い夜空を鞭で打つような光が続けざまにはためくと、すぐにドーンという轟音があたりに鳴り響いた。 

 それはただの雷ではなかった。放たれた稲光は強力な意思を持ち、確実に病院に狙いを定めて落ちてきた。雷は次々と病院のまわりの大地に突き刺さると、広大な地面を揺るがした。

 ライアンはあたりの空気がどんよりとした重みをもつのを感じ取ると、チャーリーの肩の上に手を置き、彼の左耳に唇を寄せて静かに話しかけた。

「雨が降りそうです。もう部屋に戻りましょう」

 それまで何を尋ねても無反応だったチャーリーは、肩に置かれた彼女の手を勢いよく払いのけると椅子から立ち上がり、あたりを見まわしてから何かに怯えるようにじりじりと後ずさりし始めた。

 恐竜のぬいぐるみが膝の上から滑り落ちると、芝生の上を回転して転がっていった。  

 朽ちた大木が地中で折れるような音がすると、ライアンの背中に地響きの振動が伝わってきた。

 地面がぐらりと揺れ、ライアンとチャーリーのいる場所に向かって四方八方から芝生に亀裂が入り始めた。

 彼女がひび割れた地面から顔を上げると、チャーリーは何度も躓きながら頼りない足取りで中庭から逃げ出そうとしていた。

 チャーリーには見えているんだ、とライアンは思った。ライアンは先ほどオリバーから譲り受けた電話機を取り出して時刻を確認した。時間切れまでにはまだ3時間以上もある。幻聴や幻覚が始まるのは大抵11時を回ってからだ。いくらなんでも早すぎる。

彼女は無意識に「オリバー」と口にしていた。それからすぐに首を振った。並外れた強い霊力の持ち主とはいえ、あの男はただのオラクルだ。巻き込むわけにはいかない。いざとなったらあの4人と同じように私がチャーリーを始末するしかない。

「私のそばから離れないでください」

 ライアンは7,8メートル先まで行ってしまったチャーリーの背中に声をかけた。彼女はチャーリーのそばに走り寄ろうとしたが、波打つ地面に足をさらわれて膝から崩れた。

 ふと気がつくと暗がりの中、チャーリーの前に黒いシルエットが浮かび上がっているのが確認できた。彼女の心臓は自分でも信じられないほど激しく音を立てた。携帯電話を持つ手が細かく震え、覚えていたはずの操作が一瞬にして脳内からかき消された。


 そこには中折れ帽をかぶった背の高い男が立っていた。

 男は夜だというのに濃いサングラスをかけていた。白い肌にすっと通った形のいい鼻筋。薄い唇。細い顎。長めの黒い艶やかな髪が夜風になびいている。裾の長い黒のコートが夜風にはためいている。年齢は20代半ばだろうか、白いシャツにドット柄のネクタイ。スラックスはつい最近おろしたばかりのように見える。彼女は大きく目を見開くと息を呑んだ。

 男は口元に淡い微笑みを浮かべながら、地面に座り込んでしまっているチャーリーを見下ろしている。彼は穏やかな口調でチャーリーに語りかけた。

「迎えに来たよ。チャーリー」

 チャーリーは言葉を口にできず、四つん這いの姿勢のまま放心状態で男を見上げた。

「10年ぶりだね。私を覚えているかな」

 男は細くて長い指でチャーリーの白髪だらけの髪を優しく撫でると、彼の髪をかき上げて右耳を露わにした。チャーリーの右耳には耳たぶがなかった。

「怖がらなくていいんだよ」

 チャーリーは肩を震わせ、真っ青な顔で目の前に立っている男を見上げている。

「君は当然のことをしたまでだ」

 モデルのようなその男は、突然短い唸り声を上げるとその場で2,3歩よろめいた。男の着ていた白いシャツが赤く染まり、胸からは先の鋭く尖った氷の矢が肉を突き破って飛び出ていた。血に染まった矢の先端からは血液が滴っている。

男は自分の胸から突き出ている氷の矢をしばらく見つめていたが、すぐに形のいい唇を歪めると、眉ひとつ動かさず血まみれの矢を平然と引き抜いた。彼は静かに顔を上げると少し離れた場所にいるライアンに目をやった。

「君はあのときの天使か」と男は言った。右手に握られた氷の矢はすぐにかき消えた。「ずいぶん勇ましくなったじゃないか」

 ライアンはよろめく足を踏みしめながら右手と左手を同時に素早く動かすと、両手に細長い氷の矢を作り出して構えた。それは青い閃光を放ち、細かい氷の火花を散らしながら薄闇の中で眩しく輝いた。

「あなたは誰ですか? 名前を名乗りなさい!」

 男が首を軽く傾げて言った。「そんなものしか作れないのかい?」

 頭上では矢継ぎ早に落ちている雷が地上の生物を威嚇するように鳴り響いている。

「あなたは騎士のひとりですか?」

 男は返事をせず、べったりと血のついた右手で悠然とチャーリーの頬を撫でた。

「まさか王家の一族ですか?」

 男はかけていたサングラスを静かに外すと、それをコートのポケットにしまった。

「その呼び名は久しぶりに聞いたよ」

 ライアンは思わず男の顔、特に緑色に輝く目に見とれてしまった。なんて美しいんだろうとライアンは意識の片隅で思った。まるで絵画に描かれた天使のよう……。

「人に名前を尋ねる時はまず自分から名乗るべきではな。第七階級の天使サリエル」

 ライアンは急いで首を振った。「あなたは人じゃない」

「それもそうだな」と男は言った。それから微笑んだ。「君もチャーリーと一緒に来るがいい。私たちは仲間だろう」

「違います」

「そうだろうか」と男は言うとチャーリーの肩をそっと叩いてから背を屈め、彼の顔に自分の顔を近づけた。「ではなぜ君は天界から逃げ出したのかな。なぜ自己嫌悪に押し潰されそうになっているんだい」

「黙りなさい」

 男はチャーリーの頬を撫でながら、震えている彼の目を覗き込んで言った。

「チャーリー。恐れることはない。君は10年前進んで私たちを受け入れたではないか」

 チャーリーは消え入るような小さな声を出した。

「あ……あ……」

「こんな醜い世界は私たちの手で早く終わらせよう。君はそのための大切な鍵になるんだ」

ライアンは男に向かって怒鳴った。「今すぐそこから離れなさい!」

 男はライアンの言葉を無視してチャーリーの顔を見つめながら続けた。 「思いだすがいい。あの両親は君に何をしただろうか。教師や近所の住人も君が虐待されていることを知りながら誰一人として本気で君を助けだそうとはしなかった。だから無力で幼かった君は私たち悪魔と取引をして両親を殺害した。君はあの時も今この瞬間もこの世界にずっと冷たい怒りを抱き続けながら貝のようにじっと口を閉ざしている。私なら君のことを理解して君の本当の願いを叶えてやれる」

「悪魔の言うことを信じちゃ駄目です!」

 男はゆっくり顔を上げて立ち上がると、ライアンを見つめてからにっこりと微笑んだ。

「どうしたサリエル。声が震えているじゃないか。無理をするな」

 ライアンは言葉を失い呆然と立ち尽くしている。両手に構えた武器がパチパチと音を立てて消えかかった。

「サリエル。君の正義は君に何をもたらせた?」

男はチャーリーのすっぱりと切られた耳を長い指で触りながら言った。「私が何をしに地上に来たかわからないのかい? 人間に罰を与えるためか? 救いの手を差し伸べるためか? 残念ながら両方とも不正解だ。私は終わりと始まりを与えるためにここへきた」

「何を言って……」

「君もチャーリーも混乱し、不安という名の鎖にがんじがらめに縛り付けられている。不安はやがてパニックになりパニックは絶望を導き、絶望が戦争を生みだす。そうだよ。悲しみには終わりがないんだ。私たちは種の垣根を超えてもう一度ひとつになり、悲しみも孤独もない宇宙で永遠に生き続けるべきだ」

ライアンは小さく口を開いたまま呆然と相手の顔を見つめた。


 そのとき空気を破裂させるようなドンっという激しい銃声が何発も響き渡ると、男の身体のいたるところから血が噴き出した。

弾丸は男の身体を何発も執拗に貫いたが、どれだけ弾丸を撃ち込まれても、男は深くうなだれながらよろめくだけで決して地面に崩れ落ちはしなかった。男の身体はみるみる血だらけになり、あたりに細かい肉片と血しぶきが飛び散った。

()()()()とライアンは反射的に思う。オリバー・ヒドルストン。

「ライアン! 伏せろ!」

ライアンは迷わず床に突っ伏した。銃撃音が耳をつんざく。オリバーはショットガンのスライドを引き、男に向けて立て続けに銃弾を打ち込んだ。

男はなすがままになり、ふたつの目の間を撃ち抜かれると地面に片膝をついた。

しばらくのあいだ誰も口をきかず、身動きひとつしなかった。

 少ししてから「残酷じゃないか」と言う小さな声がすると、男はゆっくりと身体を起こした。

 その整った顔は血で赤く染まっていたが、口元には微かな微笑みすら浮かんでいた。

 穴の空いた顔面や身体はすぐに自己修復し、傷口は綺麗に塞がって元通りになった。

「おまえは人間に向かって引き金を引いたんだぞ」


 


 

  




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