悪魔 1
元は天使だったと語った謎の少女は、オリバーのノートパソコンに向かって眉を寄せながら慣れない手つきでキーボードを操作していた。
オリバーはパソコンの操作を簡単に説明しながらちらりと彼女を横目で見ると、この少女はもしかすると自分よりずっと年上なのかもしれないということに奇妙な時間のねじれを覚えた。
昨夜オリバーは眠っている少女の頬と腕に純銀製のナイフをあててみたが、透けるように白いその肌はどのような変化も示さなかった。
オリバーは彼女が目を覚ましそうにないのを確認してモーテルの屋上に上がると、貯水槽の梯子を伝って上まで登り切り、蓋を外してから聖遺物のひとつ使徒ヨハネのロザリオに向かって古くから伝わる呪文を唱えるとそれを水の中に落とした。水はほんの一瞬だけ淡い光を放ってから聖水に変化した。
彼は部屋に戻ると冷蔵庫に入っていたミネラルウォーターの中身を流しに捨て聖水に入れ替えておいた。
言葉では表現できない悪夢からオリバーが目覚めると、シャワーを浴びてすっかり綺麗になった少女が青い瞳で自分のことを熱心に見下ろしていた。ミネラルウォーターは空になっていた。
ライアンは悪魔や悪霊、妖怪の類に憑依されているわけではないようだった。
彼女はいろんな角度からしばらく薄いノートパソコンを眺めていた。もし彼女が語ったことが真実ならば、コンピューターは確かに最も未知なもののひとつだろうなとオリバーは思った。
「この箱には何百冊分の本の情報が入ってるんですか?」
「どうだろうなあ」とオリバーは曖昧に答えた。
「さっきはここから音楽が流れてきました。これは蓄音機の役割もしているんですか? レコードはどこに入れるんですか?」
「レコードは入っていない」とオリバーは言うと身を乗り出してキーボードを素早く打ち始めた。「これで手紙も送れる」
ライアンは訝しそうな顔でパソコンを見つめた。彼女の意識はこの機械が世界中に繋がっているという事実に適応できずに困惑しているようだった。仕方がない、とオリバーは思った。そもそも100年前の太平洋から現代のアメリカに来たということ自体が本人も認めるとおり相当疑わしいのだ。
「なんだか全く別の世界に来てしまった気分です」
「そのうちに慣れる」と言ってオリバーは鞄の中にタブレットをしまった。「よくそんな調子でLAまで来られたもんだ」
二人は荷物を持ってモーテルを出るとオリバーのRAV4に乗り込んだ。
「これからどうするんですか?」
「とりあえずどっかで朝飯を食ったらお前をネブラスカのリンカーンに連れて行く。かなり遠いぞ」
ライアンは自分のリュックから道路地図を取り出した。
「ここから2000キロ以上はありますね」
「二日もあれば着くだろう」
「オマハではなくリンカーンなんですか?」
オリバーは短く首を振った。「俺の財布を漁ったな」
「どこの誰かもわからない人と同じ部屋で寝るわけにもいきませんので」
「まったくだ。俺も寝ている間に喉を掻き切られるのを覚悟していたが、こうしてなんとか朝を迎えられたよ」とオリバーはハンドルを握りながら言った。「話を戻そう。どうしてリーカーンかと言うと俺の恩人がそこで児童養護施設を運営しているからだ」
ライアンはしばらくのあいだ何も言わずにオリバーの横顔をまじまじと眺めた。
「あなたはそこで育ったんですか?」
「正確に言うと違うが、そうとも言える」
ライアンは手にしている地図を指でなぞっていた。それから窓の外に顔を向けた。
「残りの二人のことは何か思い出せたか? 天使の声は?」
「今は何も聞こえてきません」
「すぐ戻ってくる羽目になるかもしれないが手がかりがないんじゃ仕方ない。とりあえずお前をリンカーンの施設で預かってもらう」
ライアンは首を振った。「願いによって変わりますが寿命と魂を対価に奇跡を起こすというやり方が一番多いです。中には残り寿命が1年や5年ということもあります。共通しているのは年単位だということです」
「損な取引だ」
「ですから一年以上前の12月に突然大富豪になったり不治の病から回復した人がいたら取引をした可能性があります。悪魔も天使も地上に長くは留まれません。長くても10日前後といったところです」
「とするとそいつはここ2,3日以内に人間の命と魂をかっぱらいにくるんだな」
ライアンはうなずいた。「はい」
「雲をつかむような話だが、教えたとおりに奇跡のような出来事が12月に集中して起きていないか検索するんだ。ところでやつらは魂を回収しにくるついでに新しい契約をするんじゃないか?」
ライアンは神妙な顔をしてうなずいた。
「そうです」
「だろうな」
「ネブラスカに行く前にどこかの図書館に寄りませんか。パソコンという機械はよくわからないです。それにこういってはなんですが今ひとつ信用できません」
「俺もそう言おうとしたところだ。ところでそこを開けてくれ」と言ってオリバーはダッシュボードを指差した。「どれでもいいから好きなのを選べ」
ライアンはダッシュボードを開くと、たくさんの携帯電話を取り出して首を傾げた。
「今の人はみんな無線機を持ち歩いているんですね」
「ああ」
彼女は大きく開かれた助手席の窓に手をかけそこから少しだけ外に顔を出すと、背を反らして澄み渡った青い空を見上げた。
「もうすぐ嵐がきます」
オリバーは図書館で受付を済ませると、大量の新聞をカートに入れて個室のように仕切られたスペースに運んだ。彼は新聞の束を机の上に置くと椅子に深く座り、姿勢を正した。
彼は半分だけまぶたを閉じた。鼻で息を吸い込み、それを4秒ほど肺に留めてから口でゆっくりと細く吐き出す。それを何回か繰り返し、できる限り精神を無にすると、すべての感覚を集中して耳を澄ませた。それから左手の指で新聞の文字をゆっくりとなぞっていった。
しばらくするとオリバーの頭の中に聞き取りにくい沢山の掠れた重い声が響いてきた。そのくぐもった声は周波数の合っていないラジオのように雑然とオリバーの耳に届いた。
最初は小さかった声が次第に大きくなる。まるでラジオのボリュームを右に捻るように。
オリバーが聞いているのは霊界から聞こえてくる死者たちの声だった。それは悲惨な死をとげて死霊となり、現世に執着したまま彷徨っている者たちのうめき声だった。いくつもの声が重なり合い、切れ切れになって聞こえてきた。彼は気持ちが乱れそうになるのをなんとか押しとどめた。
「……私をバカにして……私がこれまでどほどあの人の嘘を許してきたのかわかってないのよ。私の方が若くて美しいのに……」
「ママ、パパ、ごめんなさい。赤ちゃんがうるさかったからキャンディーを口に入れただけなの、どうして怒ってるの?」
「俺をこんなところに追いやったやつらに復讐してやるんだ! 俺が誰より才能があったからってあの蛆虫どもが寄ってたかって俺の足を引っ張りやがった! 俺の研究を盗んだんだ! この俺が……」
「なんでそんなこと言うんだよ? おれたちは国を守ろうとしたんだぞ? アカのやつらにインドネシアやベトナムを占領されたらカリフォルニアだって危ないんだ。それなのにどうして無駄死になんて言うんだ?」
「ママ、パパ、ごめんなさい。もう許して。だって赤ちゃん静かになったでしょう。ねえ許してよ」
「俺の才能を妬みやがって! あいつら全員地獄に連れて行く! ああ! 神よ!」
「この世界は全部作り物でできた嘘の世界なんじゃよ。そうじゃ、わしらはみんな夢を見ているんじゃ……」
「私の金だ! それは私の金だ! この薄汚い金の亡者どもめ! 私の金に触れるな!」
オリバーは動かしていた手を止めると新聞に目を通すのをいったん中断した。
彼らの話す言葉はあまりにもとりとめがなく筋も通っていない。それにこれを続けて行うと身体が芯から疲労するのでこまめに休憩を取らなければならない。
ライアンは長めの前髪をときどき思い出したように後ろにやりながら机の上に置かれた何冊もの地図を熟視している。オリバーは深いため息をついてから再び新聞の山に取り掛かると一枚ずつ新聞を指でなぞっていった。
――何者かに夫婦が殺害。凶器は検出されず――
ユタ州セントジョージに住む会社員トム・クライトンさん ハーパー・クライトンさん夫婦が金曜日、何者かに殺されているのが発見された。二人は鋭利なもので心臓を抜かれておりほぼ即死と見られている。室内は血の海だったが荒らされた様子はなく、動物による犯行という見方も出ている。13歳の長男は無事だった。警察によると……
オリバーはその新聞をライアンに見せた。
「今回の悪魔と関係しているのかはわからんがこれは人間の仕業じゃない。日付は10年前の今日だ」
「なんとも言えませんね」とライアンは静かな声で言った。「あなたみたいな人は滅多にいません。すごい能力です」
「呪われたギフトだ」
ライアンは表情を欠いた瞳でオリバーの目をじっと覗き込んだ。
「私には天の恵みに思えますが」
「冗談も大概にしろ。とにかくこの生き残った少年に会いに行く。セントジョージ付近ならネブラスカに行く途中だ」
「この少年は今どこにいるんですか?」
「警察内部には顔が効く」と言ってオリバーは立ち上がった。
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「チャーリーは両親が殺害されるのをそばで見ていたのでしょう。事件のあった日チャーリーの身体は血まみれで、当時の警官がいくら問いただしても彼は何も話さなかったらしいです。それ以来10年間、彼はほとんど誰とも口をききません。まったくきかないといったほうがいいかもしれません。今までここへ面会に来た人は誰もいません。ご親族の方もです」
若い男性看護師はオリバーに向かって淡々とした口調で語った。
「あなた方はチャーリーの遠い親戚なのですね?」
「ああ。これまで出張が多くてなかなか面会に来られなかった」
看護師は複雑な表情を顔に浮かべると中庭を指さした。
「あそこにいるのがチャーリーです」と看護師は言った。それから軽く微笑んだ。「面会に来てくれて私も嬉しいです」
チャーリーは広い中庭に置いてある椅子に腰かけ、電灯の明かりの下で夜空を見上げでいた。その手の中には汚れた恐竜のぬいぐるみがあった。
彼は23歳になったばかりの若者のはずだが、その姿は哀れなほどやせ細り、肌は乾燥して髪には沢山の白髪が混じり、とても二十代の青年には見えなかった。
オリバーは座っているチャーリーのそばに歩み寄ると、隣に立って小さい背中に声をかけた。
「今夜は星が綺麗だな」
チャーリーは返事をしない。その目はどろんとして生気がなく、口は半分開かれている。
オリバーは続けた。「精神科の薬は嫌だよな。いつも頭がぼうっとする。まるで目を開けながら眠らせられているみたいだ。俺も精神科に入院した経験があるからよくわかるよ」
チャーリーは黙ったまま恐竜のぬいぐるみを手で撫でている。
オリバーは椅子の背もたれに手をかけると、背を屈めてチャーリーの顔を見やった。
「医者からあんたが転換性障害だと聞いた。だが俺にはあんたが病気だとは思えない。10年前の事件のことを聞かせてくれないか」
沈黙。
「はるばる何時間もかけてここまできたんだ。どんな些細なことでもいいから聞かせてくれ」
ライアンはよく理解できないという顔をしてから隣に立っているオリバーにそっと話しかけた。
「彼には何も聞こえていません。ちょっと信じられませんが取引をしたのは間違いなく彼です。今は何時ですか?」
チャーリーは何も言わずに膝の上に置かれた恐竜のぬいぐるみを撫でている。
「もう8時だ。あと4時間しかない」
オリバーが背後の気配に気づいて振り返ると、そこには小柄な中年の女性が立っていた。
「あんたチャーリーをいじめるんじゃないよ。この子は酷い親にずっと痛めつけられてこんなになっちまったんだ。この子の周りにはいつも怒った顔をした両親の亡霊がいるんだよ。死んでもなおこの子を苦しめるんだ。本当にかわいそうな子だよ」
「あなたは亡霊を見たんですか?」とライアンは用心深くその女性に尋ねた。「その亡霊はどんな特徴でしたか?」
「亡霊のふりをした宇宙人だよ!」と女は大声で言うと、両手を上げてバレリーナのようにくるくるとその場でまわりだした。「地球を侵略しようとしているんだ! みんな宇宙人の餌になるんだよ!」
ライアンは不思議そうな顔をして楽しそうに回り続けている女性を見ている。
「明日は我が身だ」とオリバーが片手を上げて言った。
オリバーはチャーリーからなんとか情報を引き出すようライアンに言いつけると、広い歩幅で病院の外に出た。
彼はトランクから大きな鞄を取り出すと再び病院内に歩を運んだ。
激しい轟音が突如として夜の空気を引き裂き、真っ白な雷が病院の屋根の上に落ちた。オリバーの鼓膜はびりびりと疼いた。
邪悪で重苦しい黒い影が、一瞬にして病院を包んだ。
「あれはなんだ……?」