天より堕ち 遠い声を頼りに旗を掲げる
「それはこっちのセリフだ」、オリバーは大きく息を吸うと静かにそう切り出した。「お前なにかに憑依されているんだろう? いつからなんだ。自覚はあるのか?」
その美しい12,3歳くらいの子供は、オリバーの言ったことを肯定も否定もせず、ただ目を細めて彼の顔を見ていた。よく見るとその子供は帽子に靴、リュックに至るまで少年の格好をした少女のようだった。二人は暗くて細い路地でしばらく向き合っていた。
「あなたは誰ですか?」
「俺の名前はオリバー・ヒドルストン。私立探偵だ。お前はどこの誰なんだ?」
「探偵がぼくになんの用ですか?」
オリバー・ヒドルストン。どこかで聞いたことのある名前だなとライアンは思ったが、いつどこで聞いたのかは思い出せなかった。
「いいから答えろ」
「勝手に追いかけてきてなんなんですか?」
「俺はお前を知っている」
少女はそれについてしばらく考えを巡らせた。
「もし名前が必要ならば、ライアンで」
「確かオレゴン州のポートオーフォードで殺害された男の息子がライアンだったな。なあ、彼はお前が殺したのか?」
少女はその場で立ちすくんだまま長い睫毛を瞬かせた。青碧色の瞳が微かに震えたのがオリバーの位置から確認できた。オリバーは人生の半分以上を心の弱った人間に憑依する悪魔や、現世に強い執着を残し、彷徨い続けるうちに悪霊となってしまったゴーストや、女を強姦してから殺すサテュロス、大切なものを隠して慌てる人間を見て喜ぶ性質の悪い妖精やらを退治することに費やしてきたので、向き合う相手の目の動きにはかなり敏感だった。
少女は一度目を閉じると、しばらく間を置いてから再び目を開いた。
「そうです。あれは命令でした。背くことなんてできませんでした」
「誰からの命令だ?」
「きっとたぶん、説明してもあなたは信じない」とライアンは曖昧に答えた。
オリバーが苛立ってライアンに近寄った。ライアンはわずかに後じさりすると、小型の自動拳銃をかまえる仕草をした。
「信じるか信じないかは俺が判断して決めることだ。いいから言ってみろ」
少女は少しのあいだ迷ってから静かに銃を下ろすと、それをジーンズの背後へしまった。それからあたりをゆっくりと見まわした。
「天使です」
「天使だと?」、オリバーはぶっきらぼうな口調で言うと唇を歪めた。「じゃあなにか、お前は天使の仮の姿ってわけか? 俺はこれまでに2度ほど悪魔を地獄に送り返したが、天使様にお目にかかったのはこれが初めてだ。天使にしてはずいぶんと薄汚いな」
「送り返した?」
ライアンは眉を寄せてから目を細めると、5メートルほど隔てた場所でこちらを睨みつけているオリバーという男の姿をじっと眺めた。男の肩越しから閑散としたスキッドロウの小さな街明かりが霞んで見えた。
男の年齢は30歳くらい。185センチはありそうな長身に広い肩幅。引き締まった腰。目鼻立ちのくっきりした顔に意思の強そうなグレーの瞳。亜麻色の髪はやや長く、寝癖であちこち跳ねている。薄い唇の上と顎にはうっすら無精髭が生えている。ネクタイは曲がっている。スラックスにはしわができている。どうやら外見には気を使わないらしい。何よりライアンが興味を惹かれたのは、男の背中には少なくとも5体以上のゴーストがいることだった。ごく新しい霊から古い霊までが彼の背中に寄り添うように立っている。普通の人間ではないなとライアンは思った。
「ああ、そうだ。もしお前の言うことが本当なら背中の翼はどうしたんだ? 頭の輪っかはどこかに落としてきたのか」
「そうではありません。ぼく、いえ、私は人間です。話すと長くなります」
「天使は人間を助けるのが仕事だろう。何でガキに人を殺させるんだ? その血まみれの右手はどうした。足は捻挫でもしたのか。ボスの天使に直してもらえないのか?」
ライアンは口をつぐんだまま黙っている。
オリバーは続けた。「まだ殺しを続けるつもりなのか?」
彼女はきつく唇を噛んでから左右に首を振った。
「もうやりません。でもどうしたらいいのかわからないんです」
「やりたくないことをやるな」
ライアンは黙っている。
「なあ教えてくれ、どうして天使はお前みたいな子供に殺しをさせるんだ。そんなのどう考えてもおかしいだろう。天使に化けた悪魔と見なすのが一般的だ」
「一般的な人は天使や悪魔が存在するということを知りません。もちろんゴーストもです」
オリバーはうなずいた。「そうだったな」
「罪を償う為です。でもどれだけ考えてもあの命令に従うことはできなかったんです」、ライアンはそこまで言うと慌てて口元に手をやった。「どうしてこんなこと……」
「天使は……まあ、そんなものが仮にいるとしてだ。人間の魂が地獄に落ちるのを食い止めているのか?」
彼女はしばらくオリバーの顔を疑わしい目つきで見つめていたが、少したってからこめかみに手をあてると目を閉じた。
「どうした?」とオリバーが訊いた。
「声が……」
「声?」
「いえ、なんでもありません。でもどうして探偵のあなたがそんなことを知っているんですか? あなた本当は魔術使いか霊媒師なんですか? まさか聖職者?」
オリバーは首を振った。 「俺は聖域の見張りをする一方で超常現象を専門としている探偵だ。俺の所属する組織は何千年も前からこの地球を守っている」
ライアンはこめかみに手をあてたまま、呆然とした様子でオリバーの顔を見ている。
「あなたが?」
「そうだ。どんなことがあっても聖域は守らなければならない」
ライアンは5秒から6秒のあいだぼんやりとした表情でオリバーのことを見つめていた。少女の足元が少しふらついた。
「あなたが言っているのはもしかして結界のことですか」
「そうだ。お前俺の言ってることを信じてないだろう」
「ええ、まあ」とライアンは言うと小さなため息をついた。「悪いことは言いません。もう私のことを追わないでください。それがあなたのためです。時間には限りがあります。少しでも長く大切な人のそばにいたほうがいいです。いずれ結界は……」
「結界がなんだ?」
「近いうちに悪魔の手で破られます。そうなれば地球は天使と悪魔の戦場になり、予言通りに終末を迎えます」
オリバーはライアンのそばに大股で歩み寄ると、彼女の顔の前で指を一本立てて思い切り顔をしかめた。
「いいか、誰であろうと結界は破らせない。俺たちは命懸けで聖域を守っている。お前が天使でも悪魔でもドラッグのやりすぎで頭のいかれちまったガキでも構わんが、これ以上何かしでかさないように俺がお前を監視する」
彼女は小さく首を振った。「ではどうして100年以上静かにしていた悪魔たちがここ20年で地獄から抜け出して人間と取引をしているんだと思いますか。それは結界の力が弱まってきているからです。あなたにもわかっているはずです」
「その原因を突き止めるために俺たちは世界中で起きている予兆を調べている」
「そんな事をしていれば必ず近いうち恐ろしい目にあいます。誰も生き死にからは逃れられません。星も同じです。この戦争は避けられない地球の運命です。直接見たことはありませんが、宇宙では何度も同じことが繰り返されています。残り時間があとどれくらいなのかはわかりませんが今すぐ愛する人のそばに戻った方がいいです。私たちは時間を選べません」
彼は皮肉そうに微笑んだ。
「よく聞け、運命なんて腹を空かした野良犬か頭がお花畑の連中に食わせておけ。悪いが俺はそんなもの信じない。加えてませた口調のガキの指図もうけない。お前を拘束する」
ライアンは口を小さく開いてオリバーの顔を見つめた。
「あなたにはできない」
「そう思うか?」
「私は子供ですがあなたより強いです」
ライアンはオリバーのすぐそばまで近寄ると、右手を伸ばして彼の心臓あたりに自分の人差し指と薬指を押しつけた。少女はすぐに目を見開いて息を呑むと、オリバーの鉄灰色の瞳を見つめて言葉を失った。
「お前の安いまじないだかトリックは俺に通用しない」とオリバーは鋭い目でライアンを睨みながら言った。「最終的にお前をどうするか判断するのはこの俺だ。お前じゃない」
オリバーは彼女の右手首をさっと掴むと、獲物を追い詰めた獣のような目で少女を見下ろした。強い力で手首を掴まれた少女は、自分がどこかで重大な判断ミスを犯してしまったことに気がつき、身動きの取れない状態のまま、大きな目で何かを訴えかけるようにオリバーの顔を見上げた。深い海のような青い瞳がぐらりと揺らいだ。
「どうやらお前は使えそうだ。俺と一緒に来てもらう」
「あなたいったい――」
ライアンは焦点の定まっていない目で何かを言いかけたが、あとの言葉が続かなかった。
「二人きりで長い話をしよう。聞きたいことが山ほどある。それにしてもお前ずいぶん臭いぞ。どれくらいシャワーを浴びていないんだ?」
少女はオリバーに手首をきつく掴まれたまま突然ふらふらと倒れこむようにその場で座り込むと、前屈みの姿勢になって左手を地面についた。かぶっていたキャップがふわりと地面に落ち、濃いブロンドのまっすぐな髪が白い顔にかかった。ベレッタが乾いた音を立ててアスファルトの地面に落ちた。
「おい、どうした?」
ライアンはそれには返事をせず、地面に座り込んだまま黙っていた。オリバーが慌てて顔を覗き込むと、少女は目を閉じ、静かな寝息を立てたまま気を失ったように眠っていた。
オリバーはしばらくの時間、難しい視線を少女に投げ、少女の手首を掴んだ格好のまま暗くて細い路地に立ち尽くしていた。
「おい、勘弁しろよ」と彼は声に出して言った。「この状況で寝るのかよ?」
彼は仕方なくライアンの身体を抱き抱えるとタクシーを呼び、運転手に自分の車が置いてある駐車場の場所を伝えた。呼び出された運転手は少年を背負っているオリバーを見るとあからさまに迷惑そうな顔をしたが、オリバーは弟だと説明してあらかじめ多めすぎる料金を支払った。駐車所に到着するとオリバーは再び少女を抱えて自分のトヨタRAV4の後部シートに横たえたが、そうしてるあいだもライアンはぴくりともせずに深く眠り込んだままだった。少女の体は驚くほど軽かった。
オリバーは近くにあるモーテルに到着すると、トランクから救急箱を取り出し、ライアンを抱えて部屋の中に入った。彼はライアンをベッドの上に寝かせてブルゾンと靴を脱がせると、奇妙な形の指輪を外してから右手に巻かれている血に染まったハンカチを取った。彼は切り傷だらけの小さな手を消毒し、新しい包帯を巻くと今度はジーパンの裾をまくって腫れている足首をテーピングで巻いてから保冷剤で冷やした。
少女はよほど疲れていたらしく、顔を天井に向けたまま小さな唇を結び、聞き取れないほど静かな寝息を立てて眠っている。オリバーはまだあどけない少女の寝顔を見つめながら、どうしたものかと腕を組んで考えた。
彼は安っぽいソファーに腰を下ろすと不思議なデザインの指輪をいろんな角度から眺めてみた。その指輪は彼の第六感に強く訴えかけてくるものがあった。これまでにも貴重な聖遺物や珍しいものを散々見てきたオリバーにとっても、この指輪はひときわ珍しいもののひとつだった。確かにこれをつかいこなせるようになれば危険を冒してまで異なる次元に行かずともエネルギーを引き出すことができる。
指輪のサイズはオリバーの指には明らかに小さかったが、彼は試しに右手の人差し指の先端にそれをはめてみた。不思議なことに指輪は自ら大きさを変化させると、節くれだった彼の指の根元にぴったりとはまった。
「すごいな」とオリバーは思わず口にした。
彼はライアンの持っていたリュックから次々と中身を取り出していった。ほとんどが少年ものの洋服だったが一着だけレースがあしらわれたネグリジェが入っていた。そのほかにはスケッチブックと黒の色鉛筆。ウェットティッシュ。ゼリードリンクが2個。1ドル札が2枚と25セント硬貨が3枚。身元の証明になりそうなものはひとつも入っていない。
スケッチブックを開いてみると、中には渦を巻いた巨大な海の怪物や、不気味な鳥の姿がA4の用紙いっぱいに描かれていた。それはレヴィアタンとジズと呼ばれている怪物だった。その他にも高い波に呑まれそうになっている大きな舟や、槍を手にしている6枚の翼を持った天使の姿が力強いタッチで描かれている。その絵は下手ではなかったがとくに上手でもなかった。
「天使か」とオリバーは小さな声で言うと意味もなく手のひらで自分の頭をこすった。「参ったな」
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ライアンは薄暗い部屋のベッドの上で目を覚ますと慌てて身を起こした。
彼女がまず最初に思いついたのは、なぜここに連れてこられたかということと、ここがどこかということだった。傍らに置いてあるテーブルのデジタル時計は午前1時を過ぎている。
自分の身体を確認すると、右手には包帯が巻かれ、足首にはテーピングがされていた。テーブルを隔てた向こうのベッドでは、読書灯の明かりの下、若い大柄な男が顔をしかめ、上半身裸の無防備な格好で寝ている。目をこらせてあたりを見まわすと、ここがどこかのホテルの一室らしいということがわかった。窓際に置かれた小さなテーブルの上には大きな紙袋が置かれていた。
彼女はベッドから立ち上がるとテーブルに行った。紙袋のそばには綺麗な字で書かれた短いメモが置かれていた。
食べたらシャワーを浴びろ。勝手に逃げるな。
お前には貸しがある。オリバー
紙袋を開いてみると、中には肉とチーズが挟んであるパンや、薄く焼いた小麦粉の中にレタスやトマトを包んだもの。そのほかにもジャガイモを細く切って揚げたものやアップルパイが袋の中いっぱいに入っていた。ソファーの上にはライアン少年の部屋から持ち出した洋服が洗濯された状態で綺麗に畳まれて置かれている。サンタマリアのガードマンから盗んだベレッタ92という名の拳銃はダイヤル式の金庫に隠されてしまったらしかった。
巡回していた警官に車を追跡され、路上にカローラを置いて逃げてからというもの、ほとんど一睡もせず、ろくに食事もとらずにいたところをペネムとアリエルに見つかり、やっとの思いで彼らから逃げ切った。憔悴しきっていたところにこのオリバーという男が現れて自分を追いかけてきたので、少し記憶を消そうとしたがうまくいかなかった。そのあと急激に疲労と空腹に全身を襲われ、意識と身体が分離していく感覚があった。気がついたらここにいる。
このオリバーという無愛想で口の悪い精悍な身体つきの男は、突然眠ってしまった私を抱えてここまで運んでくれたのだろう。眠っているあいだに手の消毒をして新しい包帯を巻き、足にテーピングをしてからコインランドリーで洗濯をして食料の買い出しまでしてくれたのだ。この男が世間一般の常識で行動するタイプではないということは理解できた。それは彼女にとって幸運なことだった。
ライアンは眠っているオリバーに近寄ると、ベッドのそばで膝をつき、オリバーの寝顔と鍛えられた裸の上半身をしばらく間近で観察した。
彼女は両手を広げるとその手を静かに男の胸の上に置いた。しかしオリバーは何かしらのガードをしていて、記憶の上澄みにある表層意識すらもすくい取ることができなかった。首には3種類の十字架を掛け合わせて作られたアミュレットがかけられている。左胸と左肩には悪魔や悪霊を退けるタトゥーが入れてある。もう一種類彼女が見たことのない護符が脇腹に彫ってあったが、それがどのような役割を持つものなのかは見当がつかなかった。
彼女はため息をついてから立ち上がると、ハンガーにかけられているオリバーのレザージャケットを点検した。内ポケットにはナイフが入っている。財布の中の免許証には確かにオリバー・ヒドルストンと印刷されている。年齢は30歳。住所はネブラスカ州オマハ。
財布の奥からは長い髪の美しい女性が映っている写真が出てきた。おそらくオリバーの妻か恋人なのだろうとなとライアンは思った。写真の裏には‘‘パウラ‘‘と書かれている。彼女はその写真をもとの場所に戻すと財布をジャケットにしまった。
しわのあるスラックスの左ポケットには車の鍵とおそらく自宅の鍵が入っている。右ポケットには聖人の姿があしらわれた古い銀貨が数枚。先ほど彼が手にしていた拳銃はやはりどこにも見あたらない。きっと枕の下に隠してあるのだろう。
彼女は眠っているオリバーの姿をあらためて見つめた。この男は私と同じただの人間だが、私と彼はおそらく同じものを見つめて同じものを抱えている。なぜかわからないが彼女はそう理解する。
ライアンは紙袋の中からチーズバーガーと書かれた包みに入ったパンを取り出すとミネラルウォーターと一緒にそれを食べた。この3日間ゼリードリンクとプロテインバーでしか補給していなかった彼女にとって、生まれて初めて食べるチェーン店のチーズバーガーはこれ以上ないほどおいしく感じられた。チーズバーガーを食べ終えると、小麦粉を伸ばして焼いたもの(後になってそれがブリトーと知り彼女の好物になる)とアップルパイ、揚げたジャガイモを残さずに食べた。
空腹が去ると彼女はいくらか温かい気持ちになった。彼女はシャワー室に入って汚れた服を脱ぎ、熱い湯を思う存分浴びてから髪と身体を何度も洗い流した。シャワーを出るといい香りのする清潔な服に袖を通してドライヤーで髪を乾かした。
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気がついたとき、深い海の色の目をした一見すると少年に見える少女が自分の寝ているベッドに腰をかけ、ほとんど瞬きもせずじっとこちらを覗き込んでいた。
オリバーは顔をしかめながらゆっくりと身体を起こすと、自分を凝視している少女のことを睨んだ。
「人の寝顔をまじまじと見つめるな」
「悪い夢を見ていたんですね」
「見ていない」と彼は素っ気なく言った。そしてひとつ咳払いをした。
彼女は伏し目がちに瞬きを繰り返した。
「いろいろとありがとうございます」
「よく逃げ出さなかったな」とオリバーはあくびをしながら言った。
「行く場所もないですし、あなたには借りがあるので」とライアンは顔を逸らしたまま言った。「あなたは私を知っているんですか」
「そんな気がしただけだ」と言ってオリバーは目をこすった。「説明してもらうぞ。なんでお前はパシリをさせられているんだ? その天使だけがやばいやつなのか? それとも天使ってやつらはみんなやばいのか?」
「パシリ?」と少女は困ったような顔で言った。「やばいって……天使は強い種族です。私以外は」
オリバーは噛み合わない会話に眉を寄せた。「お前歳はいくつなんだ?」
「14歳の誕生日を迎えた日に船が沈没しました」
「それはいつ頃のことだ?」
「その年に大きな戦争が終わりました」とライアンは目を伏せたまま言った。
「なんだって?」
「あの」とライアンは言うと、手のひらで自分の顔を隠す格好をした。「話をする前に服を着てもらえませんか。目のやり場に困るんです」
ライアンは居心地が悪そうにベッドから立ち上がるとポットに湯を沸かし始めた。 オリバーはベッドから立ち上がると、シャワーを浴びてくると言ってバスルームに向かった。
彼はいったん閉じられたバスルームの扉からひょいと顔を出した。「おい、逃げるなよ」
オリバーがシャワーを終えて戻ると、ライアンは部屋の隅に座り込み、喉から血を流してうずくまっている女に向かって呟くように語りかけていた。
喉を切り裂かれた青い顔の女は、陰鬱な表情でライアンを見つめている。
「家に帰るときです」とライアンが優しい声で女に言った。「もう休むといいでしょう。顔を上げてあたりを見まわしてご覧なさい。あなたを扉まで案内してくれるものがすぐに現れます。その扉は自分で開けるのですよ」
しばらくして女は「はい」と小さな声で答えた。
「怖がらなくても大丈夫です。安息の地が待っています」
女はほんの僅かに微笑むと、そのうっすらとした身体は消えていき、やがて淡い光に変化してからゆっくりとモーテルの天井に昇って消えていった。
ライアンは気持ちのこもっていないパチパチという拍手の音に振り返った。
「大したもんだな」とオリバーは平坦な声で言った。
オリバーは腰にバスタオルを巻きつけたままの格好だった。彼は濡れた髪をもう一枚のタオルで拭きながら冷蔵庫を開けると、中からノンアルコールビールを取り出して立ったままそれを飲んだ。
「だが目に視えるものすべての相手をしていたらキリがないぞ。あの女が天国に行くわけがない。お前は案外嘘つきなんだな」
「嘘はついていません。希望を口にしただけです。いつまでも現世に彷徨っていてはいずれ悪霊になってしまいます」
オリバーは服を着ながら言った。「俺の行く先はわかっている」
ライアンはそれには答えなかった。少女はコーヒーカップにポットの湯を注いだ。
「あの女性は昨日初めてあなたに会った時からあなたのそばにいました。他にもまだ何人かいます」
「俺が助け損ねた連中だ」とオリバーは服を着ながら低い声で言った。「あいつらは死神から逃げまわって自分の意志で地上にとどまっているんだ。そんな連中をいちいち相手になんかしていられない」
ライアンは黙っていた。
オリバーが続けた。「幻視をシャットアウトするんだ。普通の人間に見えないものはできるだけ見ないに越したことはない。24時間見ていたら大抵の人間は正気を失う」
ライアンは静かにうなずいた。「あなたはずいぶん死に慣れているみたいですね」
「そのとおりだ。俺のまわりではいろんな人間が次々と姿を消したり死んだりしていく。それが世界のルールだ」
オリバーの低い声は、古くて狭いモーテルの部屋の中で不吉に響いた。
「ずいぶん大きなことを言いますね」
「お前の正体を教えてくれ」
ライアンはふたつのカップを小さなテーブルの上に並べた。オリバーは空になったビール瓶をテーブルの隅に追いやると椅子に座った。二人はテーブルを挟んで向かい合う格好になった。
ライアンはコーヒーカップに口をつけると、カップを静かにソーサーの上に置いた。
「私は人間として生まれる前は天使でした」
オリバーはしばらく曖昧な視線で目の前の少女を見つめると、ゆっくりと首を振った。
「冗談じゃなく?」
「私は冗談というものが言えません」
「じゃあお前は生まれ変わった堕天使ってことか」
「船が沈んだのは、その年の11月、ヨーロッパを中心に起きた戦争が終わった冬でした」と少女は話し始めた。「私はその日14歳の誕生日を船の上で迎えました。冬の夕暮れの光が海面を明るくさしていました」
オリバーは首を振った。それから絞り出すように喉の奥から声を出した。
「今までどこにいたんだ」
「私は鉄の掟を破り、人間になった罪で牢と呼ばれている星で過ごしていました。そこには昼も夜もなく、深海のように真っ暗な宇宙で目に見えて変化するのは太陽の光を浴びて青く煌めく地球と、その地球に寄り添うように回っている月だけでした。
どれくらいの時間をその荒涼とした星で過ごしたのかわかりません。ある日それまで見たこともないほど美しい、6枚の翼を持った天使がやってきて、取引をするならここから出してやると私に言いました。成功したら再び天使に戻してやるとも彼は言いました。取引の内容は再び地球に降り、地獄に行くと確定している魂を悪魔に引き渡さないことです。私は天使に戻りたくはありませんでした。けれど私が引き受けないならその魂たちは見捨てると彼は言いました。私は取引をし、再び地球に戻ってくると冷たい海の中に投げだされました。その時の衝撃でほとんどの記憶をなくしました。
海から上がると赤い屋根の大きな家が見えました。その家の人たちは皆親切で、夜中に突然現れた記憶のない私を助けてくれました。しかしその家の父親の魂には悪魔の刻印が押され、既に半分消えかかっていました。部屋の中には見たことのないものがたくさんありました。新聞には私がいた時代よりずっと後の日付が書かれていました」
「それがテイラーの家族か」
そこでライアンは口をつぐみ、なんの変哲もないコーヒーカップを眺めた。それは感情の読み取れない不思議な目だった。少女はまるで真っ暗な夜空で六等星を探しているように見えた。
「けれど実際には私の記憶などははじめから存在せず、すべて誰かに作られた偽りの集積に過ぎないのかもしれません。私の記憶はあまりにも曖昧で複雑に混ざり合っています。ですから私の言うことを真に受けないでください」
「どうして人間になったんだ?」
ライアンは静かに首を振ってから目を閉じた。それについては口にしたくないというジェスチャーのようだった。
「生まれ変わりか……」
ライアンはうなずいた。
「解脱を目指す輪廻か。俺は無宗教だがそうじゃないかとは薄々感じていた。天国と地獄。そのどちらにも行けない魂の行く先が煉獄。それとここ人間界。俺たちは人生の目的を果たせずにそいつらに囲まれた真ん中の世界で誰が敵だ味方だと大騒ぎしながら生死を繰り返しているんじゃないかってな。聖書にはそんなこと書かれていないがそんな気はしていた。ここはさしずめ中国ってとこか」
「ここは中華人民共和国ではなくアメリカ合衆国です」、ライアンは少し首を曲げると真面目な顔で言った。「聖書はその時代の権力者たちの手で何度も改ざんされています」
オリバーはとくに意味もなく指で顔をかいた。「そうか」
「私をこれからどうするつもりですか?」とライアンは言った。
「船に乗っていた時代は覚えているのに自分や家族の名前も住んでいた土地も思い出せないのか?」
「はい」
「じゃあ墓参りもできないな」
「はい」
「次に地獄に連れていかれる予定の人間はわかるのか?」
「覚えている限りあと四人です。彼らのいる場所の啓示は突然空から降りてきます。とても抽象的でほとんど仄めかしに近いです。契約が終了する日を迎えると人間の魂の半分は地獄に引きずられます。12時になると悪魔の使いがやってきて、彼らの命と魂を完全に地獄へさらっていきます。その死に方は凄惨なものです。だからその前に……」
オリバーは首を縦に振った。
「決着をつけるんだな」
「そうです。私は一番新しい世代の天使でした。あんなに強い悪魔相手に生身の身体で戦うことなんてできませんでした」
「そんなにその悪魔はやばいやつなのか?」
「え? ああ……元は位の高い天使で、最も危険な悪魔の一人です。あなたは私の言うことを信じるんですか?」
「とりあえず信じる。お前が嘘をつく理由も今のところ見当たらない。精神に異常があると判断したら病院に連れていく。俺は精神科病棟には詳しい」
オリバーはとっくに冷めた薄いコーヒーを一気に飲み干すと、立ち上がって窓を開いた。朝の涼しい風が部屋の中を滑りぬけカーテンを揺らした。遠くからカラスの鳴き声が聞こえる。微かに海の香りがした。
「あなたに感謝します」とライアンはうつむいて言った。
「悪魔は地上を支配したがっていて地獄の扉が開かないよう鍵の役割をしているのが結界だと教わってきた。だが少し事情が違うらしい」
ライアンはテーブルの上に置かれた自分の両手を眺め、それからコーヒーカップを眺めた。
「悪魔はこの地球を暗黒物質の手に委ねようとしています。おそらく彼らは最初から宇宙を作り直したいんでしょう。もしくは全てを無にしてしまいたい、それが彼らの考える正義です。そうするには地上に張り巡らせてある結界を破り天使たちを全滅させなければなりません。結界は魂で成り立っているので、ひとつでも多くの魂を地獄に引き込まないと破壊できません。ほとんどの天使は結界が崩壊しないことを願っていますが、一部の天使は人間のことを悪魔と同じくらいに嫌っていて、いずれ破られてしまうのならいっそ早く破ればいいとすら考えています。もう闘いは避けられないでしょう。天使と悪魔の戦争が始まれば何十億という人間が巻き込まれ命を落とすでしょう。いま地球は一触即発状態です」
オリバーは大きな音を立てて唾を呑みこんだ。
「お前たちのボスはどう考えているんだ? 」
ライアンは首を傾げた。
「それは……あのお方のことですか」
「そうだ。やつだ」
ライアンは目を伏せた。「私はあの方にお会いしたこともなければ声をきいたこともありません。選ばれた7人の天使しかあの方を直接目にしたことがないはずです。あの方のお考えは分かりかねます」
「金の杯を手にした7人の天使か」
「私の短かった人生は太平洋で船が沈んだ日に一旦終わりました。私は泳いだりなんかせず、家族のいる冷たい海の中へと沈んでいくべきだったんでしょう。そうすればこんなふうにみっともなく生き延びて心苦しくなることもなかったはずです。でも腕を伸ばさないわけにはいきませんでした。遠くで誰かが私の名前を呼んでいたんです。それが誰だったのかは今でもわかりません。呼ばれた名前も覚えていません。一度も見たことがないあのお方の声かもしれないし、両親だった人たちの声だったのかもしれません。その声の主を確かめたい、水の中で一度そう考えたら私はもう死ぬわけにはいきませんでした。たとえ苦しいとわかっていても生き続けるという以外の選択肢がありませんでした」
オリバーは立ったまま外の風景を眺めた。それから二人のあいだに長い沈黙があった。
「俺は間違ってばかりだが、正しいと思ったことしかしない」
ライアンは怯えた小動物のような目でオリバーの顔を見上げた。
「どんな能力をもってどこに生まれたのかは問題じゃない。おそらく重要なのは与えられた能力をどう使うかだ」
ライアンは黙ってオリバーの顔を見上げている。
「俺たちでその悪魔を退治するぞ。これが最初の一歩だ。わかったなライアン」