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オデッセイ  作者: 右田優
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空と海の記憶

よく晴れた風のない日の午後。ライアンはスキッドロウ地区にある無人のビルの錆びたシャッターにもたれかかっていた。彼女はため息をついてリュックからゼリードリンクを取り出すと、時間をかけて大切そうにゼリーを飲んだ。

 何人かのホームレスたちが入れ替わりやってくると、見慣れない少年に向かって話しかけた。少年の恰好をした少女は彼らに挨拶を返すと、帽子で顔を隠してからなるべく目立たないようにその場から移動した。

 ここにいいるホームレスたちのほとんどは社交的で陽気だった。しかし一晩中打ったり吸ったりして騒いでいた彼らの話す言葉は、ライアンには半分くらい理解出来なかった。

 その男女がスキッドロウに姿を見せたのは昼をいくらか過ぎたときだった。

 彼らはライアンの座っていた位置から10メートル程離れた場所に突然現れた。大きな鳥が羽ばたく音とともに。

 男のほうは黒人でハンサムな顔をしている。背が高い。年齢は30歳くらい。女はヒスパニック系の美人で胸が大きくウエストが細い。たぶん20代半ば。二人とも宅配ピザ店のユニフォームを着ている。縁石に座り込んでいたホームレスは、突然目の前に現れた二人組を見ると慌てて逃げていった。

 その二人連れは鋭い目でライアンを凝視していた。ライアンはうつむいたまま、小さく静かに息をすると、二人と同じように沈黙をとおした。しかし彼女の身体は細かく震え、その顔は青白くなっていた。

 二人はしばらく無言のままライアンの顔を睨んでいたが、やがて黒人の男がライアンにゆっくりと近寄りながら低い声で言った。「愚かな真似をするな。サリエル」

 ライアンは黙っていた。

 ヒスパニックの女が言った。「それで変装でもしているつもりなの? いつからそんなに馬鹿になったの?」

「ある程度わかっていたこととはいえ、こんなにも惨めな貴様の姿を見たくはなかったな」と男は視線を揺るがせずに言った。「なぜ任務を投げ出したんだ。汚名を(そそ)ぐチャンスを手にしたというのに」

 ライアンは立ち上がると首を振った。

「ペネムに……アリエル?」

 ペネムと呼ばれた男が言った。「一刻を争う事態だということを知っているんだろう」

 ライアンは二人のことを交互に見つめると、震えている両手を素早く動かしながら答えた。

「もちろんです」

「なぜ逃げ出した」

「少しずつてすが、自分が誰だったのかを思い出してきました」

「任務に戻るんだサリエル。それが我々に与えられた役目だ」

 アリエルは腕を組んだままじっと黙っている。

「ペネムにアリエル。今の私はただの人間です。どうかこのままそっとしておいてください」

「貴様を連れ戻すためにわざわざ地球まで来たんだ」

 ライアンが言った。「100年前、私を海の中から助け出したのはあなた達ですか?」

「我々ではない」とペネムは言って、ライアンの手に握られている氷で作られた武器を見た。「我々は貴様を連れて帰れという上からの命令に従うまでだ」

「あの船に私の家族だった人たちは乗っていたんですか?」

 ペネムは顎を上下させながら冷ややかな声で答えた。「知らないな。また興味もない」

「私は帰りません。もう人を殺すことなんて出来ない」

「地獄に行くと確定している魂を救っている。それは善き行いだ。いったい何が不服なんだ?」

「それはあなた方の仕事です。私は人間です」とライアンは言った。「今すぐそこから消えろ」

 ペネムは口元に薄い笑みを浮かべた。

「たかが人間が我々に意見をするのか?」

 ライアンは呼び出した武器を素早くペネムめがけて投げた。ペネムは身を翻すと飛んできた氷の刃を素手で掴んだ。ライアンは間髪を入れず拳銃を抜くとペネムに狙いをつけて引き金を引いた。がらんとした道路に銃声が響いた。

「銃では殺せない」

 背後から声がして振り返ると、すぐ真後ろにペネムが立っていた。少女の背筋は硬直した。

「貴様は任務を放棄したうえに人間としても連続殺人犯だ。我々からも人間からも逃げ隠れして一生暮らせるとでも思っているのか」

 次の瞬間、ライアンは離れた場所にいたはずのアリエルに腕を強く引かれた。抵抗できないほどの圧倒的な力だった。

「逃げようとしても意味がないわ。あなたにも本当はわかっているんでしょう?」

「現実を直視したほうがいい」とペネムは言った。「貴様は故郷から遠く離れたこの地上で守ってくれる家族もいなければ友達もいない、ただの無力なガキだ。この先人間としてどうやって生きていくんだ。今夜眠る場所はどうする? 食料は? いいか、人間は驚くほど弱くて無力な生き物だ。その命はあまりにも脆く儚い。老いて死に、病で死に、空腹で死に、凍えて死ぬ。人間は簡単に他人を信じて裏切られると自殺までする。人として生きるということは苦しいだけだ。こんな世界に生きたいと願った貴様の思考が理解できない。それでもなお貴様は人間でいたいのか」

 ライアンは音を立てて唾を飲み込んだ。

「あなた方は忘れてしまったんですか? 人間は神よりも天使よりもずっと尊い存在です」

 アリエルが長い眉を寄せた。

「私たちはずっと昔から人間を見てきたわ。どこをどう観察したらそんな考えに至るのかしら?」

「少なくとも命令に従うことしか出来ない奢り高ぶったあなた方よりずっと崇高な存在です。たぶんあの船には私の家族だった人たちが乗っていました。今となっては名前も顔も思い出せない。けれど確かに愛されていたはずです。あなた方は彼らを助けることもできたのに必死で祈り続けながら海に沈んでいく人たちを見殺しにしました。私はもう帰らない」

 ペネムが首を振った。

「では仕方がない。貴様がどれほど愚かなのかその身をもって知ることになる。我々は貴様ら類人猿よりもずっと強い力を持っている」

 ライアンはアリエルの顔に向かって唾を吐くと、彼女の足を思い切り蹴り飛ばした。その拍子にアリエルが腕を解くとライアンは全力で走り出した。

 ペネムとアリエルはゆっくりとした足取りで彼女に近よっていった。

「逃げられない」と背後でペネムが言った。

 ライアンは細い路地に入ると、古い建物の扉を開けて中に逃げ込んだ。彼女は壁の剥がれ落ちたホールを突っ切るとビルの階段を駆け上がった。ペネム達の追いかけてくる規則的な靴音が薄暗い階段の吹き抜けにこだました。ライアンは全力で走りながら木製の手すり越しに下の階を見やった。二人がゆっくりした足取りで上ってくるのが見える。彼女はすぐに身体を引いて階段を逸れると、廊下のなかほどに向かって走り出した。

 死ぬのは怖くない、とライアンは走りながら思った。何より怖いのは彼らに掴まって激しい拷問を受けることと、意思を剥奪され、強制的に忠誠を誓わせられることだ。私は私の信じることのためだけに生きる。そこに生じるリスクを引き受ける覚悟はできている。

「やってみろライアン」と彼女は大きく呼吸をしながらうらぶれた廊下に向かって言った。「自分のために生きてみろ」

 そのとき突然、ほとんど裸の男が扉を開けて部屋の中から出てきた。彼女は咄嗟に手で男を押しやると、部屋の中へと足を踏み入れた。注射器を手にしていた裸の女がベッドの上で叫び声をあげた。ライアンは彼らに構わずに土足でベッドを踏みつけると、狭くて散らかった部屋を走り抜けた。

 突き当りの部屋までくると、木製の薄い扉が風で閉まりかけているのが見えた。彼女はその扉に向かって突進すると、開け放たれている窓に近づいて窓枠から下を見た。大型トラックがビルの非常階段の下に停まっている。彼女は身体をかがめて窓枠から身を乗り出すと、トラックの屋根めがけて三階から飛び降りた。衝撃でトラックの屋根がへこむぐしゃりという音がした。

 彼女はすかさずトラックの前方から地面に飛び降りた。地面に着地すると、右足首からくる激痛にライアンは膝から崩れ落ちた。痛みはすぐに身体全体に広がっていった。彼女はきつく目を閉じて歯を食いしばると、立ち上がって逃げようと左足に力を込め、アスファルトから顔を上げた。開きかけた目にピザ屋の制服に包まれた四本の足が映った。全身に鳥肌が立ち、心臓は確実に一瞬止まった。

 アリエルはライアンを見下ろしながら、半ば目を閉じて言った。「逃げられないって忠告したのに」

ペネムは眉をひそめると、(けが)れしものを見るような目つきでライアンの顔を見つめた。

「貴様にできることをするんだ」

 ライアンは荒い息をつきながら力なく立ち上がると、ブルゾンに手を伸ばした。

「あなたの言うとおりです」とライアンは呟くと、内ポケットの中から小さなガラス製のアンプルを取り出し、それを手の中で思い切り粉々に砕いた。

「最初から使うべきでした」

すぐに紫色の煙が辺りに立ち込めると、ペネムとアリエルの二人は苦しそうに手で口を押さえてその場にうずくまった。

 ライアンは服の袖で額の汗を拭った。それから大きく息を吐いた。

「人間の身体に乗り移っていることをお忘れか? これは私が手をかけた魔術師の店から拝借したサキュバスの毒です。あなた方に地獄の空気は吸えないですね」

 ライアンはそこで間を取ると、指についた血を眺め、指輪を眺め、うずくまっている二人を見下ろす。

「その身体を人間に返しなさい。それから上層部に伝えなさい。天使と悪魔がどれだけ殺し合いをしてもかまわない。ただしどちらの側であろうと人間に手出しをするならこちらも手を尽くして戦う。あなた方が思っているよりもずっと人間は強い。あまり見くびらない方がいい」

 ペネムが苦しそうに喉を押さえた。

「この裏切者が……あれが近づいてきてるんだぞ」

「助言に従い、私は自分にできることをします」

「恩寵を失った貴様に何ができる? 我々はこの惑星を……」

「やってみなければわかりません。この指輪もあります」

 アリエルは地面に俯せになったまま小さくうなると、ようやく言葉を口にした。「お前を絶対に許さない」

ライアンは突き抜けるような青い空を見上げた。

「ごめんなさい」

 ペネムとアリエルの二人は、かっと目を見開いてから大きく口を開けると、開かれた口の中から白い光が差し、雲ひとつ無い空に向かって消えていった。

 彼女はそのまましばらく道路に立ちすくんでいたが、やかて足を引きずりながらその場を立ち去った。地べたに寝転がってその光景を見守っていた何人かのホームレスたちは、皆呆気に取られたままぼんやりとしていた。


              ♦♦♦   ♦♦♦   ♦♦♦



 オリバーは早朝からダウンタウンの中にあるスキッドロウ地区を捜索した。一昨日クロッカー通りで見かけた盲目のホームレスはいなかった。

 あっという間に夕方になり、オレンジがかった太陽が高層ビルのあいだに急速に沈んでいくと、混沌としたロサンゼルスという都市を不気味なくらいに赤く染めていった。

 広い通りや狭い路地を進んでいくうちにオリバーは再びクロッカー通りにさしかかった。大きな道路を挟んだ向こう側の車越しに、他の路上生活者たちから離れた場所であの盲目の男がうなだれているのが見えた。 

 オリバーは壁にもたれ、電柱の陰に隠れながら盲目のホームレスを見張った。強い風が吹きオリバーの長くなった髪をなびかせた。昼間の温かさが嘘のような寒さだった。

 彼は12月の寒風の中、滅多に当たらない自分の占いを頼りにホームレスを見張り、空気の悪い道路沿いに立っていることにたいしてとうぜん疑問が湧いてきた。しかしジェンナー警部に連絡をしてみても事件に関する新たな情報は入ってこなかった。だとすればこうやって粘り強く監視するしか他に手はない。彼はあきらめてイヤホンを耳につけると、MP3プレイヤーで音楽をかけ、黒のレザージャケットに両手をつっこんだ。

 一時間ほどすると盲目のホームレスの前に小さな人影が現れた。煙が作り上げた少年と服装は違っていたが、その後ろ姿は黒のキャップをかぶりノースフェイスの大きなリュックを背中に背負っていた。

 その人物、おそらく煙の中で見た少年は、身をかがめたまましばらくホームレスの前に立っていた。

 気がつくとオリバーは通りに向かって走り出していた。彼は向かってくる車に手を振りながら道路を横切り始めた。あたりに甲高いブレーキ音が交錯し、何台もの車がオリバーのまわりを回避していく。ドライバーたちの怒鳴り声が広い道路に飛び交う。オリバーはかまわず道路の中央に駆けよると、さらに通りを横切っていった。両方向から車とトラックが唸りを上げ脇をかすめていく。一台のトラック運転手がスピードを落とし、オリバーのことを大声で怒鳴りつけると空のペットボトルを投げつけた。オリバーはその声も無視して進んだ。

 ホームレスの前に立っていた少年は、タイヤの軋る音とクラクションの音を聞きつけると体勢を元に戻し、ほんの僅か背後へ振り返ると、ホームレスの前から足早に去って行った。少年は足を引き摺っていた。

 オリバーは行き交う車がブレーキを踏んでくれると信じていきなり道路を横断し始めた。シボレーを運転していた女性ドライバーが彼の膝にぶつかる寸前に急ブレーキをかけて衝突を避けた。 

 オリバーはスピードを落とさずにまっすぐ裏通りを目指して突き進んだ。建物がひしめくように建っている狭くて暗い道に入ると、ダンボールやビニールシート、ゴミ箱や新聞紙といったものが穴の開いた地面の上に散らばっていた。

「止まれ!」、オリバーは走りながら銃を手にすると、暗い路地に向かって大声で叫んだ。「止まるんだ! 俺は敵じゃない!」

 返事はかえって来ない。薄暗い裏通りの道はしんと静まりかえり、聞こえてくるのは自分の靴音だけだ。

彼は続けた。「お前はなぜあいつらを——」

 その光るものはまばゆい閃光を放ちながらいきなり飛んでくると、オリバーの顔をすれすれにかすめながら背後の壁で高い音とともに砕け散った。壁にひびが入りコンクリートが粉々に崩れ落ちた。

 あの少年はゴミ箱のひとつに隠れて俺を待ち伏せしていたに違いない、オリバーはしゃがみ込んで次の攻撃に構えたが、どこからも光るものが飛んでくる様子はなかった。

 代わりに彼の耳へ響いてきたのは、いくぶん緊張しているような子供の声だった。

「あなたは誰なんですか? なぜ追ってくるんです?」

 その声はどちらかといえば高く、性別の判断は難しかった。オリバーがそっと顔を上げると、煙の中にいた少年がついたり消えたりを繰り返している電灯の下に立ってこちらを見つめていた。どうしてかオリバーは少年の周りに厳粛な空気が漂っているように感じた。少年は銃の先端を上に向けたまま、オリバーの顔をひとしきり眺めている。

 オリバーはゆっくり息を吸い込み、それを吐いた。

「お前……もしかして女か?」

 相手は目を細め、こちらの様子を慎重にうかがいながら静かに口を開いた。

「あなたは天使ですか? それとも悪魔ですか?」

 途方もない世界に、時間が流れた。


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