悲しき再会
トヨヒコ・サナダは馴染みのバーから外に出ると、今にも雪が降り出しそうな寒々しい夜空に向かって、白くて長い息を吐いた。彼はふと尿意を覚えると、用を足すためにフラフラとした足取りで裏通りに入って行った。
トヨヒコが細い路地の電柱の陰で用を足している間に、彼の後ろを楽しそうに会話しながら歩いている若い男女が歩いていった。どうやら二人は地元の大学生で、近くにオープンしたレストランで今しがた食事を終えた帰りらしく、二人ともスマートフォンを操作しながら店の評価についてあれこれと話しあいながらトヨヒコの後ろを通り過ぎて行った。
女の呆れたような声がトヨヒコの耳に聞こえてきた。
「酔っ払いは嫌ね」
「まあ、寒いし仕方ないよな」と男が軽い感じで答えた。
トヨヒコは首に巻いてあるマフラーを両目の下までたくし上げて顔を隠すと、気にしないでくれとでも言うように背後に向かって右手をひらひらとさせて見せた。
それからすぐに女の驚いた声と、何か硬いものが地面に落下する音が背中から聞こえてきた。
「ちょっと!」と先程の女が甲高い声をあげた。「ちゃんと前を見て歩きなさいよね!」
トヨヒコはチャックをあげ、声のした背後に視線をやると、7、8メートルほど離れた場所にいる大学生カップルの前には、深いグリーンのブレザーにチェック柄のプリーツスカートの制服を着た女子高生が立っていた。その見覚えのある制服は、ここからそう遠くない場所にあるウエストネブラスカ女学院のもので、ライアンは先月からその女学校に通っている。トヨヒコは一瞬ライアンが自分のことを迎えに来たのかと思ったが、その女子高生は明らかにライアンより背が高く、ブロンドの綺麗な巻き髪は腰のあたりまで伸ばしてあった。
女はアスファルトに落ちた自分のスマートフォンを拾いあげると、目の前に立っている女子高生を睨みつけた。
その女子高生は少々不気味だった。顔が半分隠れてしまうほど大きなマスクをかけ、長いまつげの下の大きな目は異様に血走っている。真冬なのにコートすら着ていない。マフラーや手袋などの防寒具も一切着用せず、カバンすら持っていなかった。
男が連れの女をなだめ、女子高生に向かって話しかけている声が聞こえてきた。
「ねえ君、こんな時間に女の子が一人で出歩いちゃダメだよ」と男が言った。「風邪引くから早く家に帰りな」
かなり酔っぱらっていたトヨヒコは、ぼんやりしながら若い三人のやりとりを眺めていた。
女子高生は大学生二人の顔を交互に見つめると、女の方に向かって言った。
「ねえ、あなたたち恋人同士なの?」
「あんたに関係ないでしょう」と女が答えた。
女子高生は女の隣に立っている男に向き直った。「こんな女より私の方がずっと美人よ」
女が驚いたように言った。「は? なんですって?」
男は顔をしかめて連れの女の手をさっと取ると、その場から立ち去ろうと早足で大通りに向かって歩き出した。
女子高生は男に手を引かれている女の腕を後ろから強引に掴むと、彼女に向かって身を乗り出し、血走っている目で静かに話しかけた。
「私は学校で一番の美人なの」
「ねえ、こいつ知り合い?」と女が前を歩く男に訊いた。「まじでキモいんだけど」
男は女に振り返ると首を左右に振った。「こんな変な子知らないよ」
女は女子高生に振り返り吐き捨てるように言った。「あんたいったいなんなの? 頭おかしいんじゃない?」
女子高生が低い声で繰り返した。
「私は学校で一番の美人なの」
「あんたが美人ですって? 頭のイカれたブスなメスガキはさっさと消えろ」
女はそう言って自分の腕を掴んでいる女子高生の腕を振り払おうとした。しかし女子高生は彼女の腕をきつく握りしめたまま離そうとはしなかった。
女子高生は女の前に素早く移動すると制服のポケットからボールペンを取り出し、まるでためらうことなくそのボールペンを女の首めがけて一直線に突き刺した。それはあっという間の出来事だった。
細い路地裏に女の絶叫が轟いた。手を繋いでいた男は短く奇妙な声をあげると、女の手をパッと離して後ずさった。女子高生は地面に崩れかけている女の右肩を掴むと再びボールペンを首に向かって突き立てた。
一瞬で酔いから覚めたトヨヒコは、ジャケットの内側に隠していたコルトガバメントを素早く取り出すと銃口を女子高生に向けた。
「やめろ!」
女子高生はトヨヒコの制止も聞かず、続けざまに女の首にボールペンを突き立て、それを引き抜き、また刺した。 トヨヒコは女子高生の右腕めがけて引き金を引いた。
右腕を45口径の銃で撃ち抜かれた女子高生は、返り血で真っ赤に染まった手を止めてトヨヒコに振り返ったが、撃ち抜かれたはずの腕からは一滴の血も流れていなかった。
何か所も首を刺された女が低い呻き声とともに重たく地面に倒れこむと、女子高生はすぐさま体勢を変えて大通りに向かって全力で走り出した。
あいつは人間じゃない。なぜ僕はすぐに気がつかなかった? トヨヒコは歯嚙みすると、走っていく女子高生の細い足に向かって再び引き金を引いた。しかし足を撃ち抜かれた女子高生は、やはりなんのダメージも受けず、短いスカートの裾をはためかせながら暗い路地裏から走り去って行った。トヨヒコは地べたに座りこんで動けないでいる男に向かって救急車を呼ぶように怒鳴ると、倒れこんでいる女を傍目に逃げた女子高生の後を追って大通りに出た。しかしどれだけあたりを見回してみても女子高生の姿はなかった。
トヨヒコは短く舌打ちをすると、急いで裏通りに引き返した。そこには薄暗い街路灯の下で、首から血を流し、冷たい地面の上でピクピクと身体を痙攣させている若い女と、少し離れた場所で腰を抜かしている若い男だけが取り残されていた。
トヨヒコはコルトガバメントを手にしたまま両手で頭を抱えるとその場にうずくまった。
彼は自分の目の前で悪霊による殺人未遂が起きてしまったことについて、いったいどうやってケビンに弁解すればいいのかときつく眉をひそめて唇を噛み締めた。
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ケビンは親指と人差し指で眼鏡の位置を調整すると、ガラス越しに鋭い目で目の前にいるトヨヒコのことを睨みつけた。
「まったく、あなたとしたことが。とんだ失態ですね」
「でも仕方なかったんだよ。あれだけ酔っていたんだから」とケビンが気弱そうに返答した。「あんなにはっきりとした悪霊を見たのは初めてだったし……」
「私ならどれだけ酔っていても生きている人間と悪霊を見間違えるなんてしませんがね」
トヨヒコは消え入りそうな声で答えた。「まあ、そう言うなよ……」
「言い訳は結構ですマスター・サナダ。しばらくアルコールは控えるように」とケビンは傲然と言った。
「僕から酒をとるなんて死ねと言ってるようなものじゃないか」
「どうぞご自由に」とケビンは言った。
そこにウエストネブラスカ女学院の制服を着たライアンが現れると、ケビンは彼女に助けを求めるように視線をやった。
「ああ、お帰りライアン。事件のこと何かわかったかい?」
『サニーエーカー子供の家』でライアンが暮らすようになってからすでに3カ月が経過しようとしていた。彼女は右肩にかけていた大きなリュックをテーブルの上に置くと、中からプリントを取り出してそれをトヨヒコに手渡した。
「エミリー・キニー18歳。今から十一年前に自宅で亡くなっています」
「死因は何ですか?」とケビンがライアンに尋ねた。
「自殺です」
「自殺だって?」とトヨヒコが聞き返した。それからプリントに写っている美しい少女の写真をまじまじと見つめた。
写真の中の少女は派手な化粧をし、大きく胸の開いた真っ赤なドレスを着てエナメルの高いヒールを履いていた。誘うようなポーズをして妖艶に微笑んでいる。セクシーでとても十代には見えない。少女というよりは女といったほうが相応しい。
「この子で間違いない。こんなに顔色は良くなかったけど」
「校長と残っていた何人かの教師に聞き込みをしました。彼女は生前モデルをしていて時どきCMやドラマにも出ていたそうです」
「十一年前か」とトヨヒコが言った。それからそのプリントをケビンに手渡した。「いったいこの子に何があったんだ?」
「同級生だったメリッサ・グリーンと言い争いになり、彼女はメリッサにボールペンで顔と首を刺されたそうです」
「商品である顔に傷を負ったんですんね」とケビンが尋ねた。
ライアンがうなずいた。
「エミリーは幼い頃からモデルをしていて、名前もない役ですが映画にも出演していました。高校を卒業したら本格的に女優として活動する予定でしたが、顔に大きな傷を負ってしまい出演予定だったドラマに出られなくなってしまいました。エミリーにとってそれが初めての準レギュラー役だったようです」
「かわいそうに」とトヨヒコが写真を覗き込みながら言った。
二人の間にどんな理由があったにせよ、若くて美しい少女が自ら命を絶つというのはよほどの深い絶望を経験したに違いないとトヨヒコは思った。しかしどうして何の関係もない通りすがりの女子大生を殺害しなければならなかったのだろうか。
「犯人はどうなった?」とトヨヒコが尋ねた。
「現在はニューヨークの老人ホームで働いているそうです」
「生きてるのか?」
「はい。少なくとも二日前までは」とライアンは言うと手慣れた様子でスマートフォンを操作し、フェイスブックのアイコンをトヨヒコとケビンに見せた。「たぶんこの女性がメリッサ・グリーンです。ほとんど更新していませんが」
ケビンはうなずいた。「マスター・サナダは明日もう一度現場に行き、今になってエミリーが悪霊になってしまった原因を探してください。マスター・キャロラインには加害者に会いにニューヨークへ飛んでもらいます」
ライアンがケビンに尋ねた。「あの、私はどうすればいいですか?」
「あなたはまだ高校生です。では自分のするべきことがわかりますね? ライアン・ベイリー」とケビンは淡々と言った。「人ひとりの戸籍を無から作成するのは控え目に言ってもだいぶ骨の折れる作業でしたよ」
ライアンは黙っていたが、しばらくして首を縦に振るとリュックを肩にかけた。
「いつになったらマスター・リチャードに会えるんですか?」
「先ほどリチャードからメールが来ました」とケビンは答えるとパソコンのメール画面をライアンに見せた。
>しばらく山にこもって修行を積む予定です。雑念を消したいので私の居場所を探さないでください。結界の管理を怠らないように。サニーエーカーの子供たちのことを頼みましたよ。
リチャード・モーズリ―
「たったのこれだけですか?」
ケビンはゆっくりと首を振った。「前にも同じことがありました。そのときは半年ほど連絡が取れませんでした」
ライアンはディスプレイから顔を上げると、短くうなずいてから何も言わずに部屋を出て行った。
ライアンが与えられている自室に戻るとそこにキャロラインがやってきた。キャロラインは淡いブルーの上着を着て白のスカートをはいていた。相変わらず上品で女性らしい格好だった。彼女はライアンに断ってからデスクの椅子に座った。ライアンはベッドに座った。
「さっきオリバーから連絡があったの」とキャロラインは言った。「あなたのことをしつこいくらい散々聞かれたわ。身体は壊していないか、指示どおりタトゥーはいれたか、きちんと学校には通っているか友達はできたかってね。だからタトゥーは彫ったし、友達がいるかはわからないけれど学校には行っている。髪も伸びてきちんと揃えたからずいぶん女の子らしくなったって答えておいたわ」
ライアンは何も言わず、キャロラインの話を聞いていた。
「それと何か幻影や予知夢は見てないかってオリバーは訊いてきたわ」
ライアンは少し時間を置いた。
「見ました」
「それはいつ?」
「昨日です」
「どんな?」
ライアンは目を閉じ、それからまた目を開けてキャロラインの顔を見た。
「どこかの海岸でした。日が暮れかけて暗くなりかけている時間です。周りに建物の明かりは一切見えませんでした。少し離れた場所で五人の大人の人影と、子供らしき影が見えました。六人は一か所に集まって何かを話し合っているようでした」
「何について話していたの? 顔は見えなかったの?」
「ほんの一瞬の夢でしたし遠くだったので顔までは見えませんでした。ただ六人のうちの一人が混乱したように叫んでいました。女性の声でした」
「その女性はなんて叫んでいたの?」
「ここはどこ、家に帰して、と繰り返し叫んでいるように聞こえました」
「ねえライアン」とキャロラインが言った。そして椅子から立ち上がるとライアンの肩に手をかけた。「今度おかしな夢を見たら私に話してくれない?」
「でもただの夢かもしれません。それに海岸というだけじゃなんの手掛かりにもなりません」とライアンがキャロラインに向かって言った。
「そうかもしれない。けれどその人たちは誰かに無理やり連れ去られた可能性があるんじゃないかしら」とキャロラインが穏やかな声で尋ねた。それから手にしていた新聞をライアンに渡した。「今オリバーは不可解な失踪事件を調べているのよ。何か関係しているかもしれないわね」
ライアンはうなずいて新聞を受け取った。「わかりました」
「まったくねえ……どうしてオリバーは直接あなたに連絡しないのかしら?」
キャロラインが部屋から出ていったあと、ライアンは彼女が置いていった新聞をベッドの上でしばらく見つめていた。それから鏡の前に立つと、ブレザーを脱いでネクタイを取り、ワイシャツのボタンを外してから左の胸の上に彫ってある細かい図形のタトゥーを眺めた。
オリバー、とライアンは声に出してみた。彼と別れてからまだ3か月しか経っていないのに、あの二人で過ごした短い日々は遥か遠い昔のことに感じられた。
オリバー、とライアンは再び口にする。あなたは今どこにいますか?