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オデッセイ  作者: 右田優
18/20

優秀な戦士


 早朝というよりはまだ深夜に近いテキサス州ダラスのダウンタウン。

 大きな通りにはまだ人も車も少なく、時おり吹く寒々とした12月の風が道端の小さなごみを舞い上げた。

 そんな大通りを足早に歩いている男がいた。男の名前はウェス・ベントリー。大手コンピューター関連企業に勤める37歳。ウェスは結婚して10年になるが子供はいない。彼は子供が欲しくないわけではなかった。しかし最近は回ってくる仕事の量が徐々に増え、こなさなければならないノルマが日に日に山積みになっていく。帰宅時間は遅くなり、妻と食卓を共にすることはほとんどなくなった。一人で食事をし、シャワーを浴びてから酒を飲んで眠るだけの日々が続き、次第に妻との会話も少なくなっていった。寝ている妻を起こさないよう、別室で睡眠をとるようになってからすでに四年の歳月が経過しようとしている。休日は一日中寝て過ごすか、気が向いたらスポーツクラブに通った。週末毎に綺麗に着飾った妻がどこに出かけているのかは知らない。

 もちろんこんな状態で子供が授かるわけがない。しかし子供について考えるとき何よりも気がかりなのは、あと何年かしたら上席副社長になると社内で噂されているウェスにとって、仕事と父親としての両立は現実的に不可能に思えた。

 今朝は普段よりもずっと早めに出社して、昨日やり残してしまった仕事の続きにとりかかるつもりだった。

 ウェスはもともと流行の音楽を聴くのが好きだったが最近は好んでジャズを聴くようになった。10年前の彼にはブラスバンドの個人練習くらいにしか聴こえなかった音楽だったが、時間が経って改めて耳にすると、言葉では表現のできない切なげなメロディがやけに胸にしみるようになっていた。今もイヤホンから流れてくるのはシング・シング・シングだ。

 ウェス

 背後から誰かに名前を呼ばれたような気がした。聞き覚えのない男の声だ。

 ウェスは足を止めるとイヤホンを外して振り返った。しかしそこには誰もいなかった。巨大なビルの群れが、まだ仄暗い空に向かって真っすぐに伸びているだけだ。

 ウェスは少し首をかしげたが、再びイヤホンを耳につけて会社に向かって歩き出した。しかし彼はすぐにまた立ち止まることになった。奇妙なことにイヤホンから何も音が聞こえてこない。買ったばかりなのに変だなと彼は思った。すると音の出なくなったイヤホンに呼応するように、そばに立っている街灯の明かりが、一つまた一つと消えはじめた。

「ウェス」

 後方から寒風に乗って自分の名前を呼ぶ声が今度こそはっきりと聞こえてきた。

 ウェスは急いで振り返ったが、やはりそこには誰もいなかった。ただ少し離れた場所で輪郭のはっきりしない黒い人影のようなものが動いた気がした。 

 彼は肩で風を切ってその場から走り出した。背筋がゾクゾクした。見慣れた街並みのはずなのに、どこか違う別の世界に紛れ込んでしまった気分だった。

 やっと会社にたどり着いたウェスは、広いエントランスに備え付けられたソファーに深く座り込むと、大きく息をついてから両手で頭を抱え込んだ。

「部長、どうかしましたか?」

 ウェスがゆっくりと顔を上げると、そこには彼が入社するずっと前から清掃係として働いている初老の男が、困惑した表情を浮かべてこちらを覗き込んでいた。

 ウェスは優し気な目をした清掃係を目にすると安堵のため息をついた。

「いや、なんでもない。ただちょっと心臓のあたりが痛かったんだ」とウェスは言うと、自分の人差し指を心臓のあたりにつけた。

「少し根をつめて働きすぎじゃないですか?」と清掃係が尋ねた。その穏やかな声には社交辞令ではなく、本当に自分のことを心配をしている響きが聞き取れた。「水でも持ってきましょうか?」

「ありがとう」とウェスは言った。「お願いするよ」

 清掃係は手にしていたモップを壁に立てかけると、ウォーターサーバーに向かって歩いて行った。

 ウェスはソファーに腰掛けたまま、広い窓の外に目をやった。外はまだかすかに暗い。彼はガラスに反射した自分の姿をぼんやりと眺めた。そこには目の下にクマのできたやつれた顔の男が映っていた。まだ四十代にもなっていないのに、ずいぶんと老けこんでしまった気がした。

 ふと気がつくと、ガラスに映った自分の脇に、裾の長い黒のコートを着た長身の男が立っていた。

 男は腕を組み、身を乗り出すような恰好でウェスのことを覗き込んでいた。

 次の瞬間、男の長い指がウェスの手の上に置かれた。ウェスには叫ぶ間もなかった。


         ♦♦♦   ♦♦♦   ♦♦♦   ♦♦♦ 


 リンカーンを発ってから四日後、オリバーはネット上で小さく取り上げられていたニュースを見てダラスにいた。

 ここダラスでは不可解な失踪事件が一週間で二件立て続けに起きていた。街の規模としてはおかしくはなかったが、看護師の青年を殺害して逃走した悪魔や、これから誰かを誘拐するかもしれない女吸血鬼の居場所に関する情報が全く得られないオリバーは、このいくらか不自然な失踪事件を調べることにした。そして今朝ついに三件目の失踪事件が起きた。犯人はもちろんのこと、犯行の手口や動機も一切不明だった。

 オリバーはRAV4から降りると、首から偽の記者証を下げて地元の警察署を訪れた

「それで犯人の目星はついているんですか?」

 制服を着たベテランの警部は、目の前にいるオリバーのことを見上げると鋭い目で睨んだ。

「目星だと? そんなものついてればとっくに星をあげてるだろうが。だいたい今朝起きたばかりの事件だっていうのに、どうしてこんなに早くやってくるんだ?」

 オリバーは愛想笑いを浮かべた。「それなりにつてがあるんです」

「ふん、どこぞの警官に袖の下でも渡してるんだろうな」と警官は言うと、オリバーの首に取り付けられている記者証を掴み、何秒か見つめてから乱暴に振り払った。

「とにかく手がかりは何もないんだよ。家族は誘拐されたって騒いでいるが、おおかた家出だろうよ」

「しかし不審な人物を見たという清掃係の証言がありますが?」

「そんなの知らないな」と警官は言った。「とにかく犯人らしき人物に繋がる手がかりは何も残っちゃいない。こっちは忙しいんだよ。いいからもう帰ってくれ」


 オリバーはパーキングメーターに停めてある車の中で失踪した三人の資料を読んでいた。彼らに共通しているのは全員が三十代であるということと、いわゆるインテリだということだった。

 どうやら警察は暴力的な犯罪の形跡が見当たらないことから、事件に興味をなくしてしまったように見えた。エリート街道を歩く彼らは人生に疲れ、あるいは退屈し、ふらっと気まぐれな旅にでも出たのだろうと。しかし来月には結婚式を挙げる予定だった36歳の女性内科医といい、週末には5歳の誕生日を迎える娘がいる34歳の弁護士といい、失踪をする時期としてはいささか適さないようにオリバーには思えた。 今朝早く行方のわからなくなった大手コンピュータ関連企業の部長は37歳という若さで重役を約束されたいたも同然だった。もちろん人の幸福や不幸というのは職業や収入、家族構成に沿って決まるものではないが、それにしてもオリバーは違和感を覚えずにはいられなかった。


 事件現場となった株式会社IEIの広々とした綺麗なフロアーには、見張りの警官はいなかった。唯一の目撃者である清掃係の男は、人通りの多い窓の外を見つめながら静かに話し始めた。

「警察は誘拐の線を否定しました。彼らは防犯カメラを確認していきましたが、おかしなことにそこにあるソファーに部長が座った途端、カメラの画像が暗くなったんです」

「でもあなたは見たことのない男が部長のそばにいたのを見たんですよね」

「ええ、そうです。あの男はまるで瞬間移動をするマジシャンのようでした」

「白人の若い男という以外にどんな特徴があったか覚えていますか?」

「そうですね……」と清掃係の男は言った。それから慎重深く顎に手をやった。「あなたくらいの身長で裾の長い黒のコートを着ていました。髪はいくらか長めでやはり黒だった気がします」

「長身の白人で、長めの黒い髪だったんですね?」

 清掃係はうなずいた。

「映像をご覧になりますか?」

「可能なのか?」とオリバーは少し驚いて言った。


 オリバーは清掃係と一緒に、地下の警備員室で防犯カメラの映像を見せてもらった。

9分割された防犯カメラの映像には、清掃係がソファーに腰掛けているウェスに近づいて話しかけ、離れていく一部始終がはっきりと映っていた。それからほんの一瞬だけ全ての画面が真っ暗になった。

 オリバーはパソコンを操作している警備員に尋ねた。「電圧の異常か?」

「私もそう思ったんですがね」と警備員は困った顔で答えた。

 防犯カメラの映像は、ウェスが映っている一部分だけを残して元どおりの明るさを取り戻した。

 暗くて不明瞭ではあったが、ウェスの腰掛けているソファーの隣で背の高い男がウェスのことを覗き込むように見下ろしている姿が映っていた。

「この正体不明の男がどうやって社内に侵入したのかはわかりません。もちろん脱出した経路もです」と警備員が沈んだ声で言った。

「その部分だけ拡大してくれ」

「警察も確認していきましたが、何しろ暗いので顔まではわかりませんよ」

「いいから見せてくれ」

 警備員は一箇所だけ暗くなった画面にカーソルを合わせると、謎の男の姿を拡大した。

 オリバーはコンピューターに顔を近づけると拡大された画面を凝視した。男の髪はちょうど肩までの長さで、長い髪に隠れてしまい顔の判別はできなかった。しかしその怪しい姿は、嵐の中の精神病院で追い払った悪魔に瓜二つだった。オリバーは画面に映っている男を見つめたまましばらく沈黙した。喉が渇き頭の中心がズキンと痛んだ。別れた時のチャーリーの虚ろな顔が頭に浮かんだ。


 防犯カメラを見終わると、初老の清掃係がオリバーをエントランスまで見送りに来た。清掃係は不安げな面持ちでオリバーを見上げた。

「記者さん、ウェス部長は親切で信頼の置ける方です。毎朝早くに出社して毎晩遅くまで残業をしていました。こんな身寄りのない年寄りの私を誰よりも気にかけてくれ、私たち清掃係の待遇改善を上にかけ合ってくれたのもウェス部長でした。

 私と部長は暗くなった人気のないロビーで年齢も立場も関係なく色々なことを話しました。あの責任感の強い部長が書き置きも残さず、わざわざこんな時期を選んで失踪するはずがないんです。そもそも携帯も財布も置いてどこに行こうと言うんです? きっとあの不気味な男が部長をさらっていったんです」

「こんな時期というのはどういう意味ですか?」

「部長はここ何年か仕事が忙しすぎて、なかなか奥様と過ごす時間が取れないと言っていました。でも来週の結婚記念日には奥様を食事に誘い、長いあいだ放っておいてしまったお詫びに何かプレゼントを渡す予定をしていました。失ってしまった時間は取り戻せないが、もう一度夫婦をやり直すつもりなんだと部長は照れ臭そうに言っていました」

 オリバーはうなずいた。

「警察はあてになりません。どうかこの事件を大々的に取り上げてください」


 オリバーは街道沿いのドライブスルーで食料と新聞を買い込むと、ウェスの女房に話を聞くためにプレイノという小規模の都市へと向かった。

 ウェスの自宅を訪れたのは午後の八時を過ぎていた。レンガと石で造られた築年数の浅い、二階建ての綺麗な家だった。今回ばかりは記者を装うわけにはいかないなとオリバーは思った。

 オリバーが玄関に向かうと、中から扉が開いて三十代らしき女が勢いよく出てきた。彼女はオリバーを目にすると明らかに落胆した顔つきになった。

「どなた?」

 オリバーは急いでタロットカードを偽の名刺に変えると、それを彼女に見せた。

「私はジョージ・ミルズ刑事です。旦那さんの件で少しお話を」

「どうしてこんな時間に? 主人が見つかったの?」

「ご主人はまだ見つかっていません。奥様から直接話しを伺いたくてきました」

 彼女はしばらく何かを考え込んでいたが、少ししてオリバーを部屋の中へ招いた。

 アンバー・ベントリーは痩せていてひょろりと背が高く、髪は短く切りそろえられていて化粧はまるでしていなかった。地味な色あいのワンピースにカーディガンを羽織り、結婚指輪以外の装飾品はつけていない。どこにでもいるごく普通の主婦といった印象だった。

 アンバーはコーヒーの入ったカップをカウンターに座っているオリバーの前に置いた。

「最近ご主人の様子が変だと思ったことがあるんじゃないですか?」

「そうね、私にはわからないけど何かに怯えていたような気がしたわ」

「彼は何に対して怯えていたんですか?」

 アンバーは静かに首を振った。

「わからないわ。私がいくら尋ねてもウェスは微笑むだけで答えてくれなかったから」

「簡単にいうと、ご主人はどんな性格の方なんでしょうか?」

「真面目で誰に対しても親切な人よ。常に公平であろうとしていた」とアンバーは答えた。それから目を伏せると瞬きを何度か繰り返した。「子供のころにわけがあって、親戚や近所の人に助けてもらったから今の自分があるんだってよく言っていたわ。だから出来るだけ他人に対して親切にするよう心がけていた」

「それは彼のご両親のことですか?」

 アンバーはうなずいた。

「ウェスのお母さんは彼が10歳の時に癌で亡くなったの。お父さんは去年心臓麻痺で亡くなったんだけど、ウェスが12歳の頃に詐欺の罪で逮捕されて、短い間刑務所に入っていたの」

 オリバーは黙って話の続きを待った。

「短い期間だったけど、僕はあのとき確かに孤児だったとウェスは私に話したわ。この広い世界で一人きりというのがどれほど心細いことなのか12歳のときに痛いほど感じたんですって」

 オリバーは首を短く縦に振った。「よくわかります」

「この先どんなことがあっても、絶対に君を孤独にだけはさせないから僕と結婚してほしいってプロポーズされたの」

 アンバーはそのときの情景を思い出すように顔を歪めた。「ウェスが自分の意思で失踪するなんてありえない」

「そうですね」とオリバーは言った。彼にはもちろんそのことはわかっていた。「ではご主人が誰かに恨まれていたという可能性は低いですね」

「たぶんないと思うわ」

 オリバーは防犯カメラに映っていた男のシルエットを思い浮かべて眉をひそめた。


 なぜだ? あの忌々しい男の死体なら、俺が切り落とした腕とともに間違いなく地中深くに埋めたはずなのに。

 アンバーは夫のことが心配で自分より若い刑事の様子を見守っていた。オリバーの肩と同様に、アンバーの顔も強張っていた。




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