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オデッセイ  作者: 右田優
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私は何者なのでしょう。何がそのしるしとなるのでしょう


「ずいぶん困っているみたいだな」

 その悪魔は床にひざまずいて震えている男の前に突然現れると、なにごとかを耳元でささやいてから、背中に生えている大きな黒い翼をゆっくりと畳んで首を軽く傾げた。

悪魔の背は高く、細身の身体は皺ひとつない上等なグレーのスーツに包まれている。無地のシャツにドット柄のネクタイ。隙のない洗練された着こなしだ。悪魔は夜だというのに濃いサングラスをかけていたのではっきりとした顔立ちまではわからなかったが、すっと通った鼻筋に形のいい薄い唇、尖った顎といった特徴から、かなりハンサムな男を思わせた。艶のある黒髪はやや長めで、ちょうど肩までの長さだった。

「良かったらここにサインをしないか?」

悪魔は筒状に丸めてあった羊皮紙を片手で広げると、それをひざまずいている男の前へ静かに置いた。長い前髪が額に落ち、悪魔はそれを片手ですくい上げた。

「かわいい息子の命を救いたいんだろう?」



♦︎♦︎♦︎ ♦︎♦︎♦︎ ♦︎♦︎♦︎



 重たく垂れこめた暗い雲。暴力的で威圧的な強い風と高い波。

海岸沿いの広い道路は轟音とともに荒波をかぶり、砕けた波が白い飛沫を風になびかせながら豪快に路面を濡らせていた。車は一台も走っていない。

 冷たく暗い海の中でほとんど意識をなくしかけた少女は、沢山の海水を飲み込みながら何度も瞬きを繰り返し、水の中から不吉な灰色の空を見上げていた。 

 少女の身体は波に押し上げられ、波とともに沈み、次第に海岸に近寄っていった。彼女はうねりに全身を任せたままじっと波に浮かんでいた。現実と空想の境界線が酷く曖昧で、少女はまだ自分が生きているのか、あるいはもう死んでしまっているのかが判断できなかった。

 途切れ途切れの意識の中、強力な力と意思を持ちあわせた巨大な海の冷たさによって少女は次第に正気を取り戻していた。氷のように冷たい水の中、小さな身体はがたがたと大きく震えていた。神経が削りとられていくような純粋な痛みが全身を支配していた。大量の海水を飲み込んでしまい呼吸は苦しく、彼女は一刻も早く自らの命を母なる海の底へと返してしまいたかった。死は少女を呑み込もうと、大きな口を開いてすぐ目の前で待ち構えていた。彼女は自分が死に向かって漂っていることを事実として受け入れていた。

 そのとき目には見えない二本の腕が暗い空から海面に伸びてきて、そっと両手を肩に添えられたような気がした。その手の持ち主は少女の背後に忍び寄ると、彼女の耳元で目覚めるよう、使命を果たすよう執拗に警告していた。その声は高くも低くもなかったが、おそらく男の声のように彼女は感じた。

 なぜこの得体のしれない声の持ち主は自分に命令をしているのだろう、と彼女は溺れかけながら思った。そして自分はなぜ夜だというのにこんなにも冷たい海の中にいるのだろう? 彼女にはわけがわからなかった。声なんて無視して痛みしか認識できない意識など荒波と一緒に今すぐ手放してしまった方がおそらくはましだ。にもかかわらず、少女は死の瀬戸際にあってもまだ生きようと消えかかった命にしがみついて手放せないでいた。ほとんど閉じかけられた目の端で岩の多い小さな海岸を見つけた途端、少女の身体の全細胞は出し抜けに一瞬で覚醒した。

 彼女は全身を刺し貫くような冷たい水中に自ら潜ると、両手を下方に突き出し、意識を集中して岩から身を守る体勢をとった。


 気がつくとたくさんのかすり傷を負いながら、岩の多い海岸に這いつくばっていた。

 少女の華奢な身体を荒々しい波が次々と洗っていき、追い打ちをかけるように強い風が体温を容赦なく奪っていった。体中の血がシャーベットのように凍ってしまったたような悪寒に襲われた。

 暗い空では月が青白い光を帯びながら分厚い雲を出たり隠れたりしている。少女はカチカチと歯を鳴らせながら震える腕を前方に伸ばし、かじかんだ指を曲げ、重みを増した白い砂を手前にかいた。こわばった右足に渾身の力をこめると、その場でよろよろと力なく立ち上がった。

 少女はたった今この瞬間、母なる海から生まれおちたように見えた。海水で重たくなった白い服は華奢な体にぴったりと張り付いている。もちろん靴ははいていない。荒々しく無慈悲な海が月の光に砕けながら打ち寄せている。規則的な波の音は時間という永遠のありかたを騒々しく、しかし静謐に示していた。

 彼女は朦朧とした意識のまま、震える身体を両手でしっかり抱きしめ、引きずるように一歩、また一歩と素足を交互に差し出して小さな海岸を去った。しかしどこに向かって歩いているのかは見当がつかなかった。ただ芯から冷えきった身体をどこかで温めようと無意識のまま海岸をあとにした。

 浜辺を抜けて道路を渡り、無心でどこかに向かって歩いていると、やがて煙突がある2階建ての大きな家が見えた。窓からは暖かなオレンジ色の淡い灯りが漏れている。少女は光に集まる虫のようにその家に向かって重い足を前へと出した。

 ロッキングチェアの置かれた玄関ポーチを上がると、大きな扉に肩から思い切りぶつかり、崩れるようにその場で倒れ込んだ。

「どなたですか?」

 扉越しに女性の声が聞こえてきた。少女はそれには答えず、肩で大きく息をしたままドアに寄りかかっていた。内開きにドアが開かれると少女は扉ごと家の中へ重たく倒れ込んだ。

 扉を開けた女性は、夜中に突然現れた水浸しの少女を目にすると短い叫び声を上げた。奥の部屋から悲鳴に驚いた赤毛の少年がゴールデンレトリバーとともに現れると、戸口で倒れている少女の姿を見て息を呑み、目を丸くした。

「大変だ」と少年は大きな声をあげた。「父さん! 下りてきて!」

 父親らしき男が早足で階段を降りてくると、水浸しで倒れている少女を前にし、立ちすくんでいる女性と少年に向かってタオルと救急箱の用意をするように指示した。

 父親は水浸しの少女の体を抱きかかえるとリビングにつれていき革張りのソファーに横たえてから電気ストーブをつけた。

 女性が大量のタオルと着替え、救急箱を手にして戻ってくると、ソファーで横たわっている少女の濡れた肌や髪を急いでタオルで拭きはじめた。少年は分厚い毛布を何枚も持ってきた。少女はすでに芯から冷え切っていて指すら動かせず声も出せないようだった。紫色に変色した唇は、何かを語りかけようと小さく開きかけたが、それは言葉にならなかった。

 父親は手際よく暖炉に火をつけると、女性に向かって険しい顔で言った。

「近くで船が沈んだんだろう。他にもまだ誰か倒れていないか見てくる」

「父さん。僕も行く」と少年は言うと、賢そうな犬に向かってサリーもおいでと声をかけた。

 父親と息子は壁に掛けてあったレインコートを急いで着込むと、懐中電灯を手にして犬と一緒に慌ただしく家から出て行った。

 二人が出て行くと、母親は少女に向かって服を脱がすわよと早口で言った。少女はカチカチと小さく歯を鳴らし、身体を震わせながら首を縦に振った。

 母親は少女の着ていた水で重くなった服を素早く脱がせると、よく身体を拭いてから厚手のタオル生地でできたバスローブに着替えさせた。少女はひどく華奢で着替えさせるのにそう時間はかからなかった。下着はつけていなかった。きっと波に流されたのだろう。

 母親は操り人形のようにぐったりとして冷えた少女の身体に沢山の毛布をかけると、布に包んだ湯たんぽを平らな腹部においた。少女は虚ろな瞳で小さく息をつくと、静かに目を閉じた。

 よほど疲れていたのだろう、少女は静かな寝息を立ててそのままソファーの上で深く眠ってしまった。母親はどうしたものかと困惑しながら少女の寝顔をしばらく見つめていた。

 彼女はソファーで眠ってしまった少女の髪をタオルで拭きながら、ずいぶん美しい娘だなと思った。真っ白な肌に濃い金色の長い髪。くっきりとした青い瞳を覆う長い睫毛。右手の人差し指には複雑な形をしたシルバーのリングをつけている。年齢は12か13歳くらいに見えたが実際はもっと下なのかもしれない。というのも少女はマネキン人形のような体つきをしていた。胸の膨らみはほんのわずかしかなくなく、産毛ほどの陰毛すら見当たらなかった。いったいどこから流されて来たのだろうと疑問に思いながら、彼女は水浸しの白い服を手にして地下室にある洗濯機に入れた。ずいぶん変わった服だった。まるで日本人が特別な日に着る和服みたいだ。彼女は洗濯機のダイヤルを回すと、夫から誕生日にもらった腕時計を確認した。時刻はちょうど九時だった。

 

 気がつくと少女は温かい部屋のソファーの上で横になっていた。そっと目を左右に動かすと、淡い花柄の壁と上品なシャンデリアの灯りが目についた。額に懐かしいような優しい感触がして顔を横へ動かすと、短いブルネットの髪の、いくぶんふくよかな四十代前半らしき女性が額に指をのせ真剣な表情で自分の顔を覗き込んでいた。それはこの家の母親だった。少女はソファーの上でゆっくりと上半身を起こすとそっとあたりを見まわした。細かい雨の音が聞こえた。

「ああ、良かった」と母親は言って小さなため息をついた。

 テーブル席に座っていた眼鏡をかけた男が「気がついたか?」と言って椅子から立ち上がった。確か彼が自分のことをソファーまで運んでくれたのだったなと少女は思いついた。男は痩せていて四十代後半くらいに見えた。

 少女は二人の顔を交互に眺めてから自分の両手を点検するように注意深く見つめると、十本の指を慎重に一本ずつ動かしていった。少女は何かを言おうと唇を開きかけたが、まるで誰かに背後からプラグを抜かれてしまったように頭の中が一気に真っ白になった。 

「もう立てるか?」と父親が少女に言った。

 少女は小さく肯いた。 

「君の名前はなんというんだい」 

 少女はしばらくうつむいていたが、やがて首を左右に振った。

「きっとショックで一時的な記憶障害になっているのよ」と母親が少女を見つめながら言った。「おなかは空いた?」

 少女は小さく肯いた。母親が温めたスープとパンをトレーに乗せて少女に手渡すと、少女はお礼を言うように頭を下げてからスープに口をつけ、おいしそうにパンを食べはじめた。二人はその様子をじっと見守っていた。

「食べ終わったらとりあえずシャワーを浴びてきなさい」と父親が少女に言った。少女はこくりと肯くと、二人に向かって再び頭を下げた。

食事を終えると、母親は口をきかない身元不明の美しい少女をシャワーへ案内した。

少女がシャワーを浴びているあいだ、雨に濡れた少年がゴールデンレトリバーと一緒に勢いよく扉を開けて帰ってきた。

「ライアン、どうだった?」と父親が訊いた。

「サリーとずいぶん遠くまで見てきたけど海岸には何もなかったよ」と言いながら少年はレインコートを脱ぎはじめた。「本当に船の事故かな」

「それ以外に考えられないだろう」

「この大時化でよく助かったわねえ」と母親が感心して言った。「よほど運の強い子みたいね」

「まだ12歳くらいだろうな」と父親が腕を組んで言った。「船には両親も乗っていたんだろう。かわいそうに」

「平和だったこの街も最近は物騒になってきたわね」と母親は言うと、目を細めてテレビのチャンネルを変えてからゴールデンレトリバーのサリーの毛をタオルで拭いた。 

 ライアン少年が2階にある自分の部屋から薄いノートパソコンを持ってリビングに下りてきた。少年はテーブルに着き、母親が作った湯気の立ち上がるココアを少しずつ飲みながら慣れた手つきでパソコンを操作し始めた。

「どこ探しても船が行方不明になったなんて情報ないよ」

 父親はテーブルに置かれたマグカップに口をつけた。「しばらくしたら海洋大気庁の発表があるだろう」

「あの子まだ一言も話してないんでしょ?」と少年がテーブルに身を乗り出して言った。「すごいかわいい子だしさ、もしかして人魚姫なんじゃない?」

 母親が呆れた顔で言った。「シャワーから出てきたらすぐ警察に連れて行ってあげましょう。ご両親も無事だといいけど」

 シャワーから出た少女は、母親が新婚のときに夫にプレゼントされ、今ではサイズが合わなくなってしまったネグリジェに身を包んで無言でリビングに現れた。少女は壁に掛かっている時計に目をやった。時計の針は十時を指していた。

「まあこっちに来て座りなさい」と父親は少女に言うと、テーブルの向かいの椅子を指さした。少女は小さく肯くとライアン少年の隣の椅子に腰を下ろした。

「ねえ、君どこから来たの?」と少女と歳の近い少年がわずかに顔を赤くして尋ねた。

 少女は大きな青い目を細めると、首を左右に振ってからうつむいた。

「やっぱり声と足を引き替えに……」と言って少年は両親の顔を見てから隣に座っている少女に目をやった。

「こんな時になに馬鹿なこと言ってんの」と言って母親は眉をひそめた。「名前は思い出せた?」

 少女は長い間うつむいていたが、やがて顔を上げ、窓の外を見つめながら答えた。

「……何も覚えていないんです」

 少女は小さな声で答えた。鈴のように澄んだ綺麗な声だった。

「困ったわね」と母親は言うと、父親と息子に目配せをした。「歳も思い出せないの?」

 少女は再び首を縦に振った。

父親が言った。「出身地もご両親の名前も思い出せないのかい?」

 少女は肯いた。それから目を閉じてしばらく何かを考え込んでいた。

「気がついたら冷たい海の中にいました。夢中で泳いでいたら岩の多い海岸についたんです。とても寒くて、どこかで温まろうと歩いていたら赤い屋根の大きな家が見えました」

「それがこの家だよ」と少年は言った。

「助けていただいてありがとうございます」と少女は伏し目がちに言った。長いまつげが瞳に影を作った。「あの、ここはどこですか?」

「オレゴン州のポート・オーフォードだよ」と少年が言った。

 少女は首を傾げた。

「ライアン。そこに大きな地図があるだろう。見せてあげなさい」 ライアンと呼ばれた少年は折りたたまれた地図を持ってくると、テーブルの上で大きな地図を開いた。

「ここがポート・オーフォードだよ」とライアンは言って自分が住むアメリカ西海岸の小さな街を指さした。「ポートランドは知ってるよね?」

 少女は首を横に振った。ゴールデンレトリバーのサリーが少女のそばに近寄って尻尾を振った。少女はほんのわずかに微笑んでからサリーの頭をそっと撫でた。

「オレゴン州も知らないの?」とライアンはびっくりしたように言った。少女が短く肯いた。オレゴンを知らない? この子はアメリカ人じゃないのだろうか? そのわりに彼女はアクセントのほとんどない聞き取りやすい英語を話した。 

 少女は地図に顔を近づけると真剣に眺め始めた。彼女はほっそりとした指を現在地につけると、その指をゆっくりと南へ移動させた。

「ここにはどれくらいでつきますか?」

「ロサンゼルス?」

「LAなら直行便で2時間ちょっとだな」と父親が言った。「君はLAに関係しているのかい?」

「本当に何も覚えていないんです。ただなんとなく地名が気になって」

「その指輪が手がかりになるんじゃない?」とライアンは言った。「何か思い出せない?」

 少女は右手の指輪をじっと見つめたが、それは彼女に何の手がかりも与えなかったようだった。

 母親が言った。「すぐに警察に連れて行ってあげるからね。警察の人があなたの身元もご両親の居場所もすぐに見つけてくれるわ」

 少女は地図から顔をあげると、わずかに口を開いて母親の顔を見つめていた。彼女はしばらく言葉を失っているようだった。

「あの……警察に行くのはもう少し待っていただけませんか」と少女は言いにくそうに言うと、壁に掛かっている大きな時計を再びちらりと見つめた。

 三人は何も言わずに目だけを動かすと一斉に少女を見つめた。

「それはどうして?」と母親が訊いた。

「ひどいめまいがするんです」と少女は目を伏せながら言うと、指で長い前髪を横にやった。「あの、ご主人」

「なんだい?」

「厚かましいのですが、あと一時間だけここに置かせてください。お願いします」

「それはまあ構わないが……」

「一時間たったら警察に送っていただけますか。勝手なことを言って申し訳ございません」

「十一時になったら君を警察に送ればいいんだね?」

「ありがとうございます」と少女は言うと父親の顔を正面から見つめた。「ガレージでも納屋でも構いません。それまで一人にしてもらってもいいですか?」

 父親はしばらく腕を組んでいたが、やがてわかったというふうにうなずいた。

「今夜はもう遅いし、あなたさえ良かったらここに泊まってもいいのよ」と母親が言った。「何もないけど一応ゲストルームもあるし」

「いえ、これ以上ご迷惑をおかけするわけにはいきません。一時間休ませてもらえば十分です」

「ゲストルームにはベッドしかないからさ、僕の部屋で休む?」と少年が言った。「僕の部屋ならテレビもパソコンもあるし、シーツは昨日取り替えたばかりだからベッドで横になってもいいいよ。僕なら下のソファーで寝るし」

「ありがとうございます」と少女は小さな声でライアンに答えた。

 ライアンは椅子から立ち上がると少女に向かって手招きをした。彼女はライアンの両親に向かって深く頭を下げると、ゴールデンレトリバーのサリーとともに少年の後をついて階段を上がった。  

 ライアンの部屋はとても広かったが少年は几帳面な性格らしく、部屋の中は綺麗に片づけられていた。いかにも十代の少年らしいレイアウトだった。

「その辺で適当に休んでいて」とライアンは言った。「何か温かい飲み物でも持ってこようか?」

「いえ、結構です。迷惑をかけてごめんなさい」と少女は言うと、窓際に立って外の風景をしばらく眺めた。「ご家族は三人ですか?」

「ううん。兄貴はシアトルの大学で寮生活してるよ」

 少女は細かい雨の降る夜空を見上げながら言った。「ご両親を愛していますか?」

「うん」とライアンは少し困惑しながら答えた。「君の両親もはやく見つかるといいね」

 少女は口を閉ざしたまま、冷たい窓にそっと指を触れると、今度は視線を落として暗い海に目をやった。ライアンの部屋は見晴らしが良く、窓からは細い雨と真っ暗な海が見えた。少女は扉の前に立っているライアンに振り返ると、瞬きひとつせずに少年の顔をじっと見つめた。

 15歳になったばかりのライアン少年は、突然現れた謎に満ちた美しい少女に正面から青い瞳で見つめられ、その場で彫像のように立ちすくんだ。それは静かで哀愁に満ちた曇りのない視線だった。

 ライアン少年は名前もわからない自分より年下の小柄な少女に、自分の命を――いや、魂を、隅から隅まで洗いざらい見透かされたような気がした。少年は言葉にすることのできない何かに近づいていっているという朧気な感覚を微かに感じとっていた。それはどことなく恐怖に似ているような気がした。彼は小さく首を振った。

「本当にごめんなさい」と少女は言うと、ライアンに背を向け再び窓の外を見つめた。ライアンはできることならこのまましばらく少女と一緒にいたかった。それは純粋な好奇心からくるものだった。しかし彼女はめまいがすると言っていたではないか。

「一時間したら迎えにくる」とライアンは少女の背中に向かって言うと、部屋を後にした。

 

 ライアンが階段を降りていくのを確認すると、少女はクローゼットを開いてジーンズとスウェット、アウターを取りだし、母親から借りていたレースのネグリジェを脱いで少年の洋服に着替えた。小柄な少女にはライアンの服のサイズは大きかったが、どちらかといえばライアンもやせ気味で小柄なほうだったので、ジーンズの裾を少し折り、ベルトをきつく閉めだけでなんとか間に合った。少女は机の抽斗からはさみを探しだすと、机のそばに置いてあったゴミ箱を引き寄せ、ブロンドの長い髪を乱暴にざくざくと切り始めた。


 一時間が経過し、三人は犬のサリーと一緒に連れだってライアンの部屋に少女を迎えに行くと、そこには髪を短く切り、ライアンの服を着た少女が真っ暗な部屋の中央で波音を背にぽつんと立っていた。

 三人はしばらく言葉を失い、少年の格好をした少女を眺めていた。

飼い主に忠実なサリーは変わり果てた少女の姿を見ると、突然尻尾を丸めて階段をかけ下り、その場から逃げ出した。最初に口を開いたのはライアンだった。

「何してるの?」

少女は少年のそばにふわりと近寄ると——それはまるで蝶の動きのように見えた——右手の中指と薬指を揃えて素早くみぞおちに突き立てた。少年がはっと息を呑む音がした。彼は大きく目を見開いてからすぐまぶたを閉じると、天井を見上げる格好でゆっくりその場に膝から崩れていった。

 両親はあっけにとられ、目の前で突然倒れた息子のことをぼんやり立ちすくんで見ていた。次に少女は母親の手首を静かに掴むと、彼女のみぞおちにも二本の指を突き立てた。彼女はやはり息子と同じようにその場で倒れた。その出来事は一瞬で起こった。残された父親は我に返り、咄嗟に少女につかみかかろうと腕を伸ばした。しかしその腕はいとも簡単にかわされた。父親はバランスを崩し、前屈みの姿勢で廊下に片膝をついた。

「二人は寝ているだけです」と少女は父親を見下ろしながら言った。その綺麗な青い瞳にはどのような感情も込められていなかった。「一時間もすれば目を覚まします」

 少女は仏教徒のように両手を胸の前で合わせると、その両手を左右に開いた。彼女の周りで光と音が大きくずれた感覚がした。その両手が1メートルほど開かれると、手と手の間に青い火花のような光が氷の割れていくようなパキパキという音を立てながら浮かび上がった。やがて開かれた両手の間には細い氷の柱のようなものが浮かび上がった。それは先端が鋭く尖り、冷ややかで凍り付くような輝きを放っていた。   

 その現実離れした光景を、父親は跪いたまま放心状態で見つめていた。彼は十二月の夜の海から突然現れたまだ幼い少女が息子の洋服を着て、みぞおちに指をそえただけで息子が崩れていき、それから妻の手首を静かに掴むと妻が倒れ、目の前で無数の蒼白い光とともに、どこか別の場所から氷のように鋭利なものが浮かび上がってきて、少女がそれを右手に構えるのを見るともなく眺めていた。それは手の込んだ巧妙な手品のように彼の目に映った。同時に彼は少し離れた場所から聞こえてくる犬のうなり声に耳を澄ませていた。サリーの声ではない。それはもっと大きく、おそらく獰猛な犬だ。狼かもしれない。その目に見えない犬は、だんだんとこちらに近づき、威嚇するように低いうなり声をあげていた。彼は急激に吐き気と頭痛を感じていた。身体は石のように固まり、指の一本すら自由に動かせなかった。犬の遠吠えを聞いているうちに、遥か昔に切り捨てたはずの、小さな記憶の一片が彼の頭に次々と浮かんでは消えていった。

「君は誰なんだ?」と彼は瞳だけを動かし、声をひそめて少女に言った。

 少女はその問いには答えず、跪いている男の額に冷たい左指を添えると、彼が瞬きを終える前にその鋭く光った硬質なものを眉間へと突き立てた。眉間を貫かれた男は、膝立ちのまま一瞬だけ上半身を跳ね上がらせると宙で静止した。少女がそれを素早く引き抜くと、彼は思い出したように突然ゆっくりと前のめりに倒れていった。彼の瞳は驚異の色を浮かべたまま大きく見開かれていた。そこに恐れはないように見えた。頭の中に多くの疑問符があるだけだ。少なくとも彼女はそう思いたかった。

 廊下には気を失って倒れている母親とライアン少年。それと額と後頭部から血を流して死んでいる父親の姿があった。

 少女は父親だった男がはいていたチノパンのポケットを探ると、鍵の束と財布を取り出し、財布の中から50ドル札と何枚かの20ドル札を抜いた。それからライアンの部屋に戻り、リュックを掴んでキャスケットをかぶると1階に下りた。リビングにサリーはいなかった。彼女はテーブルに置かれたままの地図を乱暴に掴んで外に出ると、雨はさっきより強さを増していた。彼女は大きなガレージに入ると、3台ある車の中から一番小型のカローラという日本車を選び、十本以上ある鍵の束から鍵を探し当てると残りの鍵束を床へ置いた。

 少女は運転席に深く座り込むと、唇をきつく噛んで目を閉じ、両手で頭を抱えこんだ。彼女はアクセルを踏み込んで広いガレージを後にした。

 海岸沿いの広くて真っ暗な道路はカーブごとに波しぶきをかぶっていた。ヘッドライトの明かりに浮かび上がる細い雨は銀色の針のようだった。ワイパーはカタカタと単調な音を立てている。少女は前方をきつく睨んだままアクセルを床まで踏み込んだ。スピードはあっという間に130キロを超えていた。

 気がつくと目から涙がこぼれていた。沢山の涙だった。強い雨と涙で前方の視界が滲んだ。


 あの父親は善良な人だった。目を覚ましたら温かい手をした親切な母親は、夫の突然の死に驚き大いに悲しむに違いない。あたりまえだ。ライアンは素直で賢そうな少年だった。少年は生涯消えることのない悪夢と憎しみに向き合って生きていくのだろう。

 私はいったい誰なんだ? と彼女は自らに問いかけた。

 なぜあの父親の命をためらいもなく奪ったのだ? どうやってあの氷の刃のようなものを呼び出した? それを一体どこにやった? なぜあんなに冷たい夜の海の中にいたのだ? ここはアメリカという国らしい。ではその前に私はどこで何をしていた? どうして車の運転ができるのだ、いったいどこで覚えた? なぜロサンゼルスという街に向かっている? 

 世界が大きな音を立てて再構築しようとしていた。激しい感情の(ほん)(りゆう)が少女の全身を支配していた。呼吸が速くなり、彼女の精神は混乱して衝突し、まとまることなく拡散していった。

 私はその街へ何をしにいくのだ? 彼女は今にも叫び出したい衝動に駆られた。しかし声は出てこなかった。彼女は何かを思い出せないかと唯一の手がかりである指輪を凝視したままハンドルを握っていたが、どれだけ見つめても記憶らしきものは見いだせなかった。肉体と魂が身体の中で真っ二つに引き裂かれていくような感覚があった。

 彼女は震える両手でハンドルを握りしめるとライトをハイビームにし、ギアを上げ素早くトラックを追い越した。

 私はなぜ生きている?

 少女はその絶望的な状況の中で再びアクセルを強く踏み込んだ。

 彼女にわかるのはロサンゼルスに行かなければならないということだけだ。

 それ以外に選択肢など一つもない。


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