おんな城主景虎
わたしのことを近しいものはみな、幼名そのままに虎千代姫と呼ぶが、この城の正式な城主の名は長尾平三景虎だ。景虎として産まれたわたしは、つい昨年の冬に年の離れた兄から、その家督を受け取った。
五百年後の未来から来たと言う真人の話だと、わたしの名前はこれから、ころころ変わるらしい。上杉謙信、と言う名が、その頃には一番伝わっている名前だそうな。(しかも男の名前だ!)正直まだ十代のわたしにはそんな実感はないが、いざ城主となってみると、いずれ本当にそうなりそうな気がして怖い。
「戦国最強と言えば、上杉謙信だからね」
真人のお父上は、そのわたしの研究家だったらしく、謙信の業績をたまに語るのだが、関東管領になって京都に登ったとか、一挙に十万の大軍を率いたとか、わたしにとっては途方もない話ばかりだ。正直我が父、為景ほどの武威を、女子のわたしがどれほどに示せるかと思うと、日々、心細いばかりである。
「結構大丈夫だと思うけどな。いくさが強いのは本当だったし。そっちの方は」
真人は色々おだててくれるが、わたしに領国経営など、務まるものか。
「剣は好きだ。武門の暮らしも、わたしには、しっくり合っておる。が…わたしは女子だぞ」
と言うと何かに気づいたのか、真人は突然笑い出した。
「あっ、そう言えばさ、虎千代って『おんな城主景虎』だよね?」
わたしは眉をひそめた。
「そうだが。…それの何がおかしい?」
「大丈夫だってことだよ。他にもそう言う人、沢山いるんだからさ」
わけがわからん。
他にもどこぞに、おんな城主とやらがいるのだろうか。
とは言え、わたしは存外忙しい。年明けから兄上の職務を継いだわたしには、毎日が新しいことの連続だ。勉強、評定(会議のこと)、会見、さらには訴訟裁定、商談など、すべてが初体験だ。
「ただ温顔にて、頷いておればよいと言う考えでは困りますぞ」
家老の直江景綱はよく支えてくれるが、厳しい。ことあるごとに答えを控えてはわたしの裁量を試すし、仕事で人に会ったら必ず一つは、厳しい質問が飛んで来る。
「いずれはこの景綱とも、渡り合う間柄になって頂かねば」
さらに景綱は頻繁に小者を召す。執務の合間は諸国を渡り歩いた忍びたちを遣って、ここから京までの地方ごとの情勢一切を語らせるのだ。もー頭に入りきらん。
真人が言う、上杉謙信への道のりは遠い。
たまに嫌になるが、逃げられぬ。何しろ、それがわたしの宿命なのだ。
だが城主のわたしにも息抜きは、ある。わけても佳き買い物は、わたしの随一の愉しみだ。
「ご注文の和泉守兼定、着到いたしておりまする」
その日、買い入れたのは美濃鍛冶の最高峰、兼定の上作だ。備前鍛冶が好きなわたしだが、ここは思い切って浮気をしてしまった。
届いたのは何しろ二代目、通称、之定と称される大業物だ。初代より二代目が良いとされる兼定は、わたしの愛する備前福岡一文字の刃紋を引き継ぎ、大乱れ小丁子、匂深く、姿のいい傑作と言う。
到着した刀は二尺七寸の見事な柾目肌、帽子(切っ先のこと)は鋭く、黒漆でしっかと固めた鮫皮の武骨な拵えも手に馴染み、すぐに気に入ってしまった。
利剣ほど柔らかい、空を斬る音がする。りう、と言う音がわたしの好みだが、この剣はそれに近い。
「ふむ、上出来じゃ。拵えはこのままで良い。ここですぐ、差し替えるぞ」
差料をその場で預け、わたしは兼定を腰にした。ふふ、この重み。此度から、よそ行きにはこれを加えよう。小袖もあつらえて、真人にも見てもらわねば。
うきうきしながら姿見の前でわたしが、新しい刀の見映えを試していると、目の端にいつの間にやら、見慣れぬ若小姓が。
「…さ、下がって良い。後は自分で出来る」
見られた恥ずかしさに、わたしが声をひそめて言い渡すと、相手は平伏した。
「姫さまっ…ああいやっ、長尾景虎さま!お久しゅうございます!晴れてご当主となられご祝着!」
「なっ!?誰じゃお前はっ!」
ついに振り返ってわたしは、その男子を見直した。
「藤若にござる。よもや、お見忘れでござるか!?」
やたら晴れがましい声で、そやつはまくしたてる。よう見たら、幼なじみではないか。前髪は残しているものの、また清げな若武者になっている。わたしはさすがに目を丸くした。
「なんとお美しくなられて。お髪も見目も、都の姫もかくは及ばず!見違えましたぞ!」
「…見違えてたら、わたしと気づかぬはずであろう」
しらっとわたしが答えると、藤若は苦笑した。
「いや失礼!見え透いた世辞でござりましたな!あっ、でも、びっくりはいたしましたぞ!…あの、男伊達の姫君がまさかまさか」
「こいつ」
わたしは、藤若の肩をどやしてやった。
「調子のいいのは、相変わらずだな」
藤若は、黙って微笑した。ふうん、こう言う顔もするようになったのか。何しろわたしはこの藤若の、幼年の顔しか知らなかったのだから、どうしたってどこかくすぐったい。
藤若の家は、我が祖父・能景の代より、京都の勤番を仰せつかってきた長尾家中でも出色の名家だ。元々は守護上杉家に連なる家であったのが、代を重ねるごとに長尾家の屋台骨を支える役割になってきていると言う来歴では、備前の大熊家に近い。
わたしの記憶では藤若は、三男坊であった。二人の兄は年かさで次男は他家へ行き、長兄の方は、藤若が子供の頃には早々に家督を継いだ。残る藤若は京で出家する予定であったと聞いたはずだ。
「いや、実はそれが…お家の事情がありまして呼び戻されたのです。御家あっての僧籍ゆえ、仕方のないことですが」
「そうだな」
これも武家のならいだ。わたしも物心つくかつかぬうち林泉寺に入れられた身だ。この辺りのことは、よく分かっている。
「藤若、ではお前が家督を継ぐと言うことか?」
「もしかすると、そうなるやも知れませぬ」
「御兄上は、ご健在であらせられるのであろう」
「はい」
藤若は顔を昏くした。その気持ち、判らなくもない。女の身を抜きにして、わたしも、還俗には覚悟が要ったのだ。抜き差しならぬ立場で武家を取り仕切るのと、ある意味では気楽な寺暮らしをするのでは、人生の道行きは天と地ほども違う。それに、急な家督相続をも抱え込むとなるとよほど、話は難しい。
「直江大和には、このことは?」
「お話し申し上げております。…その上で、私にはしばらく、虎千代さまのお側に詰めろと」
なるほど。これで少しく、絵図は見えてきた。