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企画提出作品集(短編中心)

レ・ミゼラブル

作者: 長谷川


 舞台の緞帳は上がり、決まりきった役を演じるだけの悪夢のような一日が始まろうとしていた。

 薄暗い個室に、余命を宣告された終末患者のごときため息が落ちる。いや、本当に死期が近づいているならどんなにいいか。延々同じ役を演じ続けるだけの毎日にはもう飽きた。かと言って今更違う役には替われない。


 ニューヨークのとある教会。近頃の移民の急増に伴い、騒々しさを増した街の喧騒はそこからは遠かった。

 懺悔室とかいうものに入るのはこれが初めてだが、扉を閉めきってしまうと意外に音が漏れないのだな、と感心する。まあ、この便所のように狭苦しい個室は普段、他人に打ち明けられないような秘密が交わされる場所なのだから当然と言えば当然なのだが。


 とりとめもなくそんなことを考えていると、薄い壁一枚隔てた向こう側で音がする。約束の時間だった。待ち侘びていたミオリス神父とやらが現れたのだろう。

 彼我を隔てる壁は細かい網目状になっていて、向こうで人が蠢いているのは分かるが互いの顔は判別し難かった。ただでさえ個室の中は光源が乏しく、どんなに目を細めてみても神父の姿は人型を成す闇の塊にしか見えない。


「マグダレーノさんですね?」


 こちらが微動だにせず様子を窺っていると、網目の隙間から穏やかな成人男性の声が滑り込んできた。神父はここにいる男が誰であるのか確かめようとしているのだと知って、ゆっくりと頷きを返す。

 そうしてから、この暗さでは頷いたところで分からないのではと思い立ち、しかし口を開くことの億劫さに根負けした。自分はこんな暗闇の中で何をしているのだ、という思いが去来する。

 いつもと同じ舞台。いつもと同じ役。なのに時々、自分が何者でもなくなってしまったような虚無感の中へ突き落とされることがある。もうやめにしたかった。だって自分はとうの昔に、舞台へ上がる理由を失くしてしまったのだから。


「お待たせしてしまいました。それではお話を伺いましょう」


 神父の声はどこまでも優しい。きっと彼はこれまでにもこうして何十、何百という人の苦悩と向き合ってきたのだろう。

 声の響きは想像していたより若そうなのに、不思議な包容力を感じる。何だか妙に懐かしい――そう、まるで無条件にして底なしの母の愛、のような。

 その声が脳裏に引き出したのは、皺だらけの顔を開いて笑っていた母親マンマの記憶。途端に泣き出しそうになっている自分に気づいて狼狽した。

 何がそうさせるのか、あるいはこれが聖霊の導きというやつか。とにかく疲れ切っていて、毎日が虚しく、無自覚な自暴自棄に陥っていた心に神父の声はあまりに沁みた。


「リラックスして。たとえどんなお話でも私は驚きませんし、ここで聞いたことは決して誰にも洩らしません」


 馬鹿げている、と思った。本当ならさっさと今日の演目を終えて、この息苦しい密室をあとにするはずだったのに。


「……少し、長い話をしてもいいだろうか」

「ええ、構いませんよ。時間はいくらでもありますから」


 その言葉に背中を押され、もう一度深く息をついた。

 固い背凭れに身を預け、眠るように目を閉じる。瞼の裏に甦るのは、黒い煙を吐いて大西洋を渡る蒸気船の姿。


「始まりは今から二十年前……俺は両親と姉と妹からなる五人家族だった。当時は地中海のシチリア島で暮らしていたんだが、イタリア統一以来貧しい日々が続いてな。このままでは食っていけないと悩んだ父が、思い切ってアメリカへ渡ることを決意した。俺たちはどうしても故郷を離れたくないと言う姉を叔母のもとに残して、家族四人でアメリカへ渡った――それがすべての始まりだ」



              ×   ×   ×



「クソッ、クソッ、クソッ、クソッ!」


 その日、ラークは荒れていた。


 ――何だって俺は自分の十七歳の誕生日に、こんなクソッタレな気分でクソッタレな道をクソッタレな車に乗って走ってるんだ?


 理由は簡単、兄貴分のジョーがしくじったからだ。


 あの野郎、この酒で一儲けできるなんて甘い言葉で俺を厄介事に巻き込みやがって。おかげでどうだ。やつは目の前で額に風穴を開けられ、俺の短い人生も間もなく幕を閉じようとしている。今夜二十時までに一〇〇〇ドル掻き集められなきゃ、俺もヤツの二の舞ってワケだ。

 現実ってのは非情なもので、ただでさえ素寒貧の俺から更に金を搾り取ろうとする。いや、それともやっぱり楽して儲けようなんて考えたから罰が当たったのか?


 だけど中等教育を終えるなり世間からはみ出した親なしに、選べる道がどれだけあったと思う? 働いても働いても状況は悪くなるばかり。そこにトドメの世界恐慌だ。

 こんなんじゃ人生に嫌気が射して、悪魔の囁きに耳を貸したくなるのも仕方ない。だから頼むよ神様、ジョーの誘惑に乗ったことは反省するから、どうか今回だけは見逃してくれ――と顔中をぐしゃぐしゃにして祈りながら、ラークは思いきりアクセルを踏んだ。


 アマガエルみたいな色のシボレーは、現在オークパークに差しかかりつつある。ミシガン湖の反対側、シカゴ西郊に広がる閑静な住宅街だ。

 どこへ向かっているのかと訊かれたら、ラークは当然答えられない。行く宛なんてないからだ。思いつく限りの金策はすべて講じた。しかしそれでもコロシモファミリーから要求された額には到底足りない。


 手元にあるのはジョーと密造酒を売って稼いだ四〇〇ドルと、友人知人に無理を言って借りた二〇ドルだけ。売上の残り六〇〇ドルは酒と話を持ってきてくれたジョーに譲ったのだが、それが大きな間違いだった。

 だって借金まみれのジョーは六〇〇ドルなんて大金を、手品みたいに一瞬で蒸発させてしまったのだ。そもそもあいつはあの酒がコロシモファミリーからくすねたものだなんて一言も言ってなかった。

 ラークが聞いたのは「いい密造酒を作るやつを見つけたから一緒に大儲けしないか」という話だけ。つまり自分もファミリー同様、あのビール腹野郎に一杯食わされたということになる。


 ――だけどその代償を俺が一人で背負わなきゃならないなんて。


 理不尽を噛み締めれば噛み締めるほどラークは何やら泣けてきた。眉一つ動かさずジョーを殺したファミリーの幹部は「慈悲だ」と言ったが、こんな風に死の恐怖を抱えて駆けずり回る羽目になるくらいなら、いっそひと思いに殺してもらった方が良かった。

 時刻は既に夕方の六時を回っている。フロントガラスから空を仰げば、まるでラークの未来ゆくてを閉ざすように夜が降りてきつつあった。

 約束の時間まであと二時間もない。ラークはいよいよ途方に暮れた。このまま車を飛ばしてシカゴを脱出してもいいが、そんな真似をすればこのさき一生追っ手に怯えながら、死んだ方がマシだと思うような人生を送ることになるのだろう。


 ――だとしたらあとはもう、破れかぶれだ。


 ラークは緑の葉をいっぱいにつけたにれの木の下に車を止めた。

 規則正しいエンジン音が行かなくていいのかとラークを急かす。まったく持ち主ジョーに似てせっかちな車だ。

 ラークは外を眺めてしばし考え込んだのち、逸るシボレーを宥めるように助手席の座面をサッと撫でた――そこに放ってあった外套の下から、一挺の拳銃を探り当てる。


 ウェブリーMkⅥ。ウェブリー&スコット社がついこの間まで生産していた、イギリス軍御用達のリヴォルバーだった。

 思えばこの銃をどこからかくすねてきたのもジョーだった気がする。近頃シカゴも物騒だし、お守りのつもりで持っていろよ、と。

 まさかその引き金に指をかける日が来るとは思わなかったが、背に腹は変えられない。生き延びるためにはもうこれしかないのだ。


 ラークは覚悟を決めて肘当てつきの外套を羽織り、くたびれたキャスケット帽も目深に被った。更には適当な布を回して鼻から下を覆い隠し、ウェブリーの弾倉にしっかり弾が込められていることも確認する。

 真っ青な顔で深呼吸。体の震えが収まるのを待ったが、無理そうなので諦めて外へ出た。

 このあたりは住宅街は住宅街でも、いわゆる高級住宅街と呼ばれる地域だ。郊外なので自然が多く、市街地の方から来るといきなり田舎へ迷い込んだような錯覚に襲われるが、大きな庭つきの家々は一目で金持ちのものだと分かる。


 ラークはその中から一軒の民家に目をつけた。比較的逃げやすい十字路の角にあり、なおかつたくさんの庭木に囲まれた家。

 一見すると森の中に佇む隠れ家みたいな風情があるが、手入れが行き届いていないのか草木が生い茂っていて視界が悪い。ちょうど家の玄関あたりまで枝が垂れているせいで、出入りする人間の姿もろくに見えないのだ。


「ここしかない」


 自分を催眠術にかけるため何度もそう呟きながら、ラークは足早に玄関へ向かった。外套のポケットに両手を突っ込み、首を竦めてあたりを警戒する様はどう見ても不審者のかがみだが、今のラークに客観的見地から自己評価を下す余裕などあるはずもない。

 周囲に人影がないことを確認すると、素早く玄関前のデッキへ駆け上った。上品な手摺が回されたデッキの上にはニスのきいたロッキングチェアとハンモックがあって、住人の優雅な生活を物語っている。ここで酒でも飲みながら、風に吹かれて眺める庭の景色は絶景だろう。


 どうでもいいことを考えて気を紛らわせつつ、ついに玄関のベルを鳴らす。ドアの横のボタンを押すと、サイレンみたいな品のない音がした。

 ラークはここが誰の家なのかも、どんな人物が住んでいるのかもまるで知らない。ただ強盗を働きやすそうな金持ちの家に目星をつけただけだ。その選択が吉と出るか凶と出るか――


「――どなた?」


 ほどなく窓つきの玄関の向こうから誰何すいかする声が聞こえた。声の主の姿は薄いカーテンのせいでよく見えない。

 けれど低くしわがれた声の調子から、老齢の男性だろうと推測できた。――やった。当たりだ。ジジイ一人なら俺だけでも何とかなる。あとは彼に同居人がいないことを祈りながら、一旦覆面を外して声を上げる。


「すみません。こちらポーリーさんのお宅で合ってますか?」

「……いいや。うちはマデリンだが」

「あ、あれ? ここでもない? まずいな、完全に迷ったぞ……」


 迫真の演技で頭を掻きながら、道路を振り向き背中を晒した。有り難いことに禁酒法が成立してからというもの、カナダとの国境に程近いシカゴは荒れる一方だ。こっそり北から酒を輸入し、一儲けしようと企む荒くれどもが街に群がってきたおかげで、住民たちの防犯意識は最高水準に達しつつある。

 だから敢えて無防備な姿を見せることで、まず相手の警戒を解こうと思った。難しいのは破綻なくデタラメを並べて目の前のドアを開けさせることだ。

 踏み込む前から銃を振り回したりしたら、あっという間に鍵をかけられ警察に通報されるだろう。最近は自宅に電話を置く金持ちが増えているから。


「あ、あの、すみませんがジョー・ポーリーさんのおうちをご存知ありませんか? このあたりだって聞いてきたんですけど……」

「知らん。少なくともこの近所にそういう名前の者はいない」

「そ、そうですか……困ったな。あの、よければ市街地の方へ出られる道を教えてもらえませんか? 車でそこまで来たんですけど、フラフラしてる間に迷っちゃったみたいで……」


 ハハハ、といかにも頼りなさそうな笑みを貼りつけ、ラークは同情を引こうとした。向こうもこちらの顔は見えないだろうが、幼気な若者であることは声で分かっているはずだ。


 ――頼む。出てこい。出てきてくれ。


 そんなラークの祈りが通じたのかどうか。

 そのときカチリと鍵が外れた。

 次いで真白いドアによく映える金色のノブがくるりと回る。


 今だ。


「動くな。騒げば殺――」


 素早く覆面を引き上げ、わずか開いたドアの隙間に無理矢理銃口を捩込んだ。そうしてドアの縁に右手をかけ、強引に押し開こうとしたところで予想外の事態に遭遇する。

 何ってドアの向こうの老人が、ラークの左手を拳銃ごとガッと押さえ込んだのだ。

 まるで初めからこうなることが分かっていたかのような華麗なる手捌き。それに虚を衝かれている間に、いきなり飛び出してきた皺だらけの手がラークを屋内へ引きずり込んだ。


「うわっ……!?」


 慣性に逆らえずドアを潜った先で、足を引っ掛けられてつんのめる。そのまま派手にすっ転べば、一瞬で天地が逆さまになった。

 フローリングの床に背中を打ちつけ、痛みのあまり息が詰まる。だがとっさに上げようとした抗議の声は、額に突きつけられた銃口を見るなり尻尾を巻いて退散した。


「うちに何の用だ、小僧」


 鈍く光る四十五口径の向こう側で、ヘーゼル色の瞳がぎろりとこちらを見下ろしている。ふと左手へ目をやれば、さっきまで確かに握っていたはずのウェブリーが忽然と消えていた。……なるほど、こいつは大したお守り・・・だ。持ち主が劣勢と見るや否やただちに強者へ寝返るなんて。


「い、い、いや、あの……スミマセン、ちょっとした出来心で……」

「ほう。だが若気の至りにしては大層なオモチャを持ってるじゃないか。子供の小遣いで買えるようなモンじゃないだろう、これは」


 言いながら老人はウェブリーを持つ手を拈る。フロントサイトが首を傾げて、ラークの間抜け面を覗き込んだ。

 こうなるともう完全にお手上げだ。ラークは乗り込む家を誤った。

 というかそもそも強盗で稼ごうなどという発想が間違いだったのだ。このすらりと背の高い老人は、これから身の程知らずの悪ガキをたっぷり締め上げたのち、警察を呼んでただちに身柄を引き渡すだろう――終わった。俺の人生は。


「目的は何だ。金か?」

「まあ、えっと、つまり……そんなとこです……」

「だからと言って何故この家を選んだ?」

「それは……何となく……」

「何となくだと?」


 そんな馬鹿な話があるかと言いたげに、老人は白い眉を寄せた。シミの浮いた目尻の皺がいかにも気難しそうな老人だ。

 薄くなった毛髪も雪を被せたように白く、服装は質素ながらも上品だった。襟つきシャツの首からは高そうなループタイが下がっていて、金色の帯留めが何かの勲章みたいに見える。


「まったく最近の若いモンときたら、遊ぶ金欲しさに強盗までするのか。しかも何となく・・・・、たまたま目に入った家へ無計画に? 酒が飲めないあまり気でも狂って、妙なクスリをキメてきたのか、小僧」

「う、うるせーな、誰が好き好んで強盗なんかするかよ! 俺は他に方法がなくて仕方なく……!」


 カッとなってそう反論しかけてから、ラークは急に冷静になった。いや、冷静になったというよりは、生に対する情熱が突然冷めてしまったと言っていい。

 だって元々いい人生じゃなかった。家庭にも財産にも恵まれなかったラークはいつからかギャングたちの世界に片足を突っ込んで、刹那的な生活を送ってきた。どうせ自分のような人間に行き場などない。寿命もそう長くはないのだろうし、今を楽しめればそれでいい、と。


 そうだ。初めから何も期待なんてしていなかった人生だ。

 だったら手放すのなんか惜しくない。この数時間無様に足掻いてしまったのは、目の前で悪友を殺され気が動転していたから。ただそれだけ。

 そう思ったら何もかもどうでも良くなった。このままマフィアに殺されるか、刑務所にぶち込まれるか。もうどっちでも構わない。なるようになれ。

 すっかり観念したラークは、冷たい床の上にだらしなく四肢を投げ出した。老人はウェブリーの引き金に手をかけたまま、そんなラークを怪訝そうに見下ろしてくる。


「もういいよ、じいさん。おどかして悪かったな。警察を呼ぶなら早くしてくれ。でないとタイムアップになる」

「タイムアップだと?」

「ああ……こっちの話。電話とか持ってないの?」

「……うちにはそんなモン必要ない。立て」


 言うが早いか、老人はさも不機嫌そうな顔でラークの右足を蹴っ飛ばした。こんなに大きな家に住んでるなら電話くらい持ってるんじゃないかと思ったのに、意外と古式ゆかしい生活を重んじる人だったりするんだろうか。

 まあ何だっていいけど、と内心吐き捨てながら、ラークはよろよろ立ち上がった。銃を相手に取られてしまった以上、従わないわけにはいかない。老人は未だ銃口をこちらへ向けて、眼差しも険しく歩み寄ってくる。ああ、もしかして俺、殴られんのかな――とぼんやり思った、直後。


「バンッ!」


 とすさまじい音がして、ラークは思わず跳び上がった。撃たれたのかと思い、とっさに自身の胸を見下ろす。

 だが違った。それどころかラークは見た。老人がスリの達人みたいな手捌きで、ラークの外套のポケットに素早くウェブリーを戻したのを。


「マデリン!」


 次いで響いたのは知らない男の声。低く野太いその声は老人の背後から聞こえた。途端に老人の眉間の皺が深くなる。元々不機嫌だったのが、無遠慮な喚き声を聞いて更に不機嫌になったようだ。


「……何の用だ、クロウ。我が家に無断で上がり込むのはやめろと、何度もそう言っとるだろう」

「失礼。だがこの家に青年が引きずり込まれるのが見えたんでな。その子は誰だ?」


 ラークは目を白黒させながら老人の後ろを窺った。そこにはやや小太りで、ブルドックみたいに顔の皮が垂れた男がいる。

 鼻の下にちょこんと生えた口髭は愛嬌があるのに、瞳には刃物のような眼光を湛えた男だった。しかもよくよく目を凝らせば、どういうわけか拳銃を携えているじゃないか。

 何なんだこいつらは。ラークは事態についていけなくて腰を抜かしそうになった。けれども老人は至って平静で、クロウと呼んだ中年男を高みから見下ろすように言う。


「コレは儂の甥だ。もう何年も会ってなかったモンでな、つい嬉しくて家の中へ引っ張り込んだんだが何か問題が?」

「……え?」

「甥だと? あんたに甥がいたなんて初耳だが?」

「ああ、そうだろうさ。生憎この州の法律には、赤の他人に自分の家族構成を曽祖父の代まで遡って教えなきゃならないなんて法はないからな。仮にあったとしてもおまえにだけは教えないが」


 刺々しい語調で辛辣な言葉を投げつけて、老人はクロウをひと睨みした。

 だが待ってほしい。この廊下の一体どこに老人の甥がいるというのだろうか。現在居合わせているのはラークと老人とクロウという名前らしい男だけ。いや、あるいはこの老人には存在しないもう一人の誰かが見えているとか……?


「さあ、分かったらさっさと出てけ。そして二度と我が家の敷居を跨ぐな。次にまた同じことをしやがったら、不法侵入罪で警察に通報するからな」


 ラークが立ち尽くして混乱している間にも、老人はシッシッとクロウを追い出した。うるさい小蝿でも払うようにあしらわれたクロウは苦り切った顔をしていたが、彼が断りもなく老人の家へ踏み込んだのは事実なので、反論もできずに立ち去っていく。


「まったく最近の若いのときたら、つくづく礼儀ってモンがなっとらん……ときに甥よ。おまえ、名前は?」

「えっ……あ、ら、ラークです……」


 老人の気迫に気圧されて、馬鹿正直に答えてしまった。そこでハッと我に返り、ラークはようやく本来の自分を取り戻す。


「お、おい、ていうかちょっと待てよ。あんたの言う〝甥〟って、もしかして俺のことか?」

「他に誰がいるって言うんだ? それとも儂が霊能力者サイキックにでも見えるか?」

「い、いや、けど俺は強盗で……そもそもさっきの男は誰だよ?」

「ああ、クロウのことか。あいつには気をつけろ。――捜査局(BOI)だ」



              ×   ×   ×



「現実ってのは非情なもんでな。勇んでアメリカへ渡ったはいいものの、俺たちを待っていたのはシチリアでの暮らしより苦しい生活だった。アメリカンドリームなんてものは、結局のところ勝者の譫言だったのさ。父は移住を手引きしたブローカーの紹介で働き始めたが、与えられたのは港でのキツい肉体労働。しかも賃金は雀の涙で、俺たちはマルベリー・ベンドの崩れかかったアパートしか借りられなかった。他の仕事を探そうにも、イタリア人というだけで相手にしてもらえない。父は次第に荒れていった。脳裏に思い描いていたきらびやかな理想と現実があまりにも違いすぎてな」


 一息にそこまで話したところで、ふーっと深く息をつく。何やら無性に煙草が恋しくなってきた。かと言ってこの狭い密室を紫煙で満たすわけにもいかない。

 壁の向こうのミオリス神父は、先程からじっと黙ってこちらの話に耳を傾けていた。閉め切られた扉の上、わずかな隙間から零れる光が、網目のあちら側で両肘をつき手を組み合わせる神父の影を薄闇のキャンバスに描いている。

 その神父がいっかな口を挟んでこないのは、このまま話を続けろという意味だろうか。普段ほとんど口をきかない自分が一方的に喋り続けるという状況に具合の悪さを感じながらも、仕方なく言葉をつないだ。


「やがて父はなけなしの金をはたいて酒ばかり飲むようになっていったが、その一方で母は内職を掛け持ちし、俺たちを学校へ入れてくれた。英語を話せるようになれば、俺たちまで父のようにならずに済むと思ったんだろう。だがほどなく父の暴力が始まり、俺たちは怯えて暮らすようになった。いつまた酔った親父に殴られるかと、家族三人身を寄せ合ってな」


 窓ガラスもなく、四角い穴に板を打ちつけただけの粗末な窓。ところどころひび割れ、天井まで届くかびに侵されていた黒い壁。

 身を隠す場所なんてどこにもないボロボロの安アパートで妹と二人、母に匿われた日々を思い出す。我が子二人を抱き締めうずくまる母の背中を、怒り狂った父は何度も何度も酒瓶で殴りつけていた――息子が十四歳を迎えたあの日までは。


「だがアメリカへ渡って数年が経ったある日……俺はついに父を殺した」

「……お父上を殺した?」

「ああ。殺したんだ。確かにこの手で。母は事故死だと言い張ったが、あれは俺が……俺が殺した。狂ったように母を殴りつける父を見かねて、止めるつもりで突き飛ばしたんだ。すると酔った父は簡単に足を滑らせ、テーブルの角に頭を……あとは言わなくても分かるだろう」

「……」

「俺は自分の罪を恐れた。もちろんその頃には父への愛情など薄れていたが……それでも親子だったんだ。以来俺もまた父を真似るように荒んでいった。だが唯一父と違ったのは、ほとんど家へ帰らなくなったことだな。通っていた学校も中退し――やがて俺は悪友たちと、クラブ・ダドーネに入り浸るようになっていた」



              ×   ×   ×



 ここでいい、と運転手に告げて、市街地から乗りつけてきたタクシーを降りた。

 オークパーク。数日前に訪れたときと同じ肘当てつきの上着にキャスケット帽といういでたちで、ラークはとある民家へ向かう。

 草木に埋もれるように佇む、白い外壁の一軒家。玄関へと伸びる階段を上がり、デッキで一度深呼吸すると、思い切ってベルを鳴らした。


「……どなた?」


 いつかと同じ無愛想な声がする。ラークはちょっとばつが悪いのを感じながら「俺だよ」と短く告げた。

 すると静かにドアが開き、あの気難しそうな老人が顔を出す。老人は名をイアン・マデリンというらしかった。先日強盗ラークを撃退した身のこなしはとても老人とは思えないが、聞けばもうすぐ七十二歳になるらしい。


「……またおまえか。今度は何しに来た?」

「金を返しに来た」


 とやはり短く答え、ラークは懐に忍ばせた封筒を軽く見せた。それを見たイアンは物言いたげに眉を寄せたが、言葉の代わりにため息を吐くや「入れ」と踵を返す。

 上品ながらも過美でない調度品が並ぶその家は、ちょっとした大家族でも優に暮らせそうなほど大きかった。が、何でも住んでいるのはイアン一人だけらしい。

 「家族は?」と尋ねても答えが返らなかったので、かつて結婚していたのかどうかも定かでなかった。見たところ指輪はしていないようだから、ずっと一人で生きてきたのかもしれない。


 イアンがラークを通したのは広々としたリビングだった。四人がけのテーブルの後ろには大開口の窓があり、眩しいくらいに陽の光が射し込んでくる。

 奥にあるキッチンへ向かいながら、イアンはそのテーブルを顎で示した。座っていろ、という意味らしい。ラークは若干の居心地の悪さを感じながらも、陽だまりの中でぬくまった飴色の椅子に腰かけた。


「またここへ姿を見せたということは、例の何とかファミリーとかいう連中との話はついたようだな。まあ、これはおまえが幽霊でなければの話だが」

「自分は霊能力者サイキックなんかじゃないって、あんたこの前そう言ってたろ。おかげさまで生きてるよ。ダチの車は取られたけど……」

「そうか。まあ、だがあんなことをしでかして命まで取られなかったのは奇跡だと思うべきだな。どうだ、一生分の運を使い果たした気分は?」

「最高だよ。ついでに寿命も十年は縮んだことだしな」


 ため息混じりに言いながら、取り出した封筒をテーブルに置く。その封筒にはラークがこれまで手にした中で最も重い札束が入っていた。

 本当は喉から手が出るほどこの金がほしい。けれどラークがそうすることを選ばなかったのは、これがイアンの金だからだ。


 ラークがコロシモファミリーに追われてこの家へ駆け込んだあの日、事情を聞いたイアンは呆れながらも金を都合してくれた。彼は二〇〇〇ドルなんて大金を当たり前のように持っていて、家の金庫から出してきたそれを丸ごと譲って・・・くれた・・・のだ。

 どうして彼がそんな真似をするのか、ラークにはさっぱり見当もつかなかったし、必要なのは六〇〇ドルだけだと言ってもイアンは「いいから持ってけ」と押しつけた。そのまま追い立てられるようにして家を出たラークは仕方なく市街地へ引き返し、コロシモファミリーに無事一〇〇〇ドルを支払ったのだった。


 たった今テーブルに上がっている封筒の中身は残りの一四〇〇ドルだ。イアンは数日前の別れ際「余った金は好きに使え」と言ってくれたけど、他人の金で気兼ねなく豪遊できるほどラークはできた人間ではなかった。

 それでどうすべきか考えあぐねた末に、こうして本人へ返しに来たのだ。問題のイアン老人は無愛想なしかめっ面でキッチンから戻ると、コーヒー入りの白いカップをラークの前に差し出した。


「……死んだ友達とやらの葬儀は?」

「済んだよ。ファミリーの報復を怖がって、ほとんど誰も来なかったけど」

「だが金は払っただろう?」

「ああ。だから特に問題もなく済んだものの、牧師はお疲れ気味だったよ。シカゴがマフィアの街になってから、毎日が葬式みたいなもんだからな」


 実際この三、四年の間にラークが参列した葬儀は一度や二度じゃない。共に羽目を外した仲間の中にはマフィアの逆鱗に触れて殺された者や、彼らの抗争の巻き添えになった者もいた。

 そうした不幸から市民を守ってくれるはずの警察は、今やすっかり骨抜きにされて役に立たない。警察どころか市議会議員までマフィアに買収され、彼らが何をしでかそうが見て見ぬふりだ。

 だからラークもジョーの死について警察に訴えることはしなかった。いくら生前の彼が善人とは言い難かったとは言え、死者の尊厳をこれ以上踏みにじられたくはなかったから。


 暗い気持ちでそんなことを考えている間に、イアンが向かいの席へ座る。彼は生まれたてのイエス・キリストみたいに神々しい陽光ひかりを浴びた封筒を手に取ると、無造作に札束を引っこ抜いた。

 内訳は一〇ドル札が四十枚と五〇ドル札が二十枚の計六十枚。イアンは手の中でざっとそれを確認すると、再び札束を封筒に戻し、何を思ったかラークの方へ投げて寄越した。


「これはおまえにやると言ったはずだ。例の金を工面するために、友人知人からも借金をしたと言ってたろう。その返済に充てればいい」

「それくらいは自分で働いて返すよ。できればあんたに借りた金も返せたらとは思ってるけど……」

「おまえは若いくせに耳が悪いようだな。儂はこれをおまえにくれてやる・・・・・と言ったんだ。貸したわけじゃないんだから返さなくていい」

「そういうわけにもいかないだろ。そもそもあんたはなんで見ず知らずの俺にあんな大金を寄越したんだ?」

「おまえが言ったんだろう、金が要ると。マフィアの酒なんぞに手を出して荒稼ぎしようとしたのも、他に大金が必要な理由があったからじゃないのか?」


 ずばり核心を言い当てられて、ラークは驚くというよりショックを受けた。今回の件ですっかり懲りて、諦めようと深く深く埋めたはずの理由を掘り起こされた胸が痛む。


「……学校に行きたかったんだよ、俺」

「学校だと?」

「そう。正確には短期大学(CJC)

「何だ、そのCJCとかいうのは?」

「コミュニティ・ジュニア・カレッジ。まあ、なんていうか……職業技能を身につけるための学校さ。看護婦とか写真家とか飛行士とか……その他色々」

「そこへ行ってお前は何がしたい?」

「それは……いや、別にいいだろそんな話は」

「何も良くない。おまえはマフィアの酒を売ってでもそのCJCとやらに行きたいんだろう。なのに何故この金を受け取らない?」


 ラークは返答に窮した。前回ここを訪ねたときも名前から住所まで洗いざらい吐かされたが、まただ。

 CJCに行くという目標はラークにとっての夢であり、同時に過去の遺物だった。ずっと忘れているべきだったのだ。何せその夢がちょっと息を吹き返して欲に駆られた結果、ジョーは死に自らも九死に一生を得る羽目になったのだから。


「その金はあんたの金であって、俺の金じゃない。確かに俺は高潔な人間じゃないが、他人の金で夢を叶えようと思えるほど図々しくもない。あんたはなんで自分の金を赤の他人に押しつけようとする? 俺は強盗だぞ」

「強盗? ハッ、そうかな。自分の面倒も見切れないションベンタレの間違いだろう」

「話を逸らすな。俺は理由を訊いてる」

「〝力ある者は力なき者の弱さを担うべきであり、自らを喜ばせるべきではない〟」

「は?」

「ローマ信徒への手紙十五章一節だ。聖書くらい読まんか、馬鹿者」


 ……なるほど。ラークはこのおよそ信仰心とはかけ離れたところにいそうな老人が、意外にも熱心なキリスト教徒であることを知った。

 今の言葉をそのまま受け取るならば彼には金という名の力があり、それによって(ちから)なきラークの弱さを担おうとしているというわけか。人並みの信仰心も持たないラークにはまったく理解不能な世界の話だ。


「だけどそんなことしてあんたに何の得があんの?」

「主イエス・キリストの御心にほんのわずかだが近づくことができる」

「あっそ。つまり二〇〇〇ドルなんて大金もあんたにとってははした金であって、いくら身銭を切ろうが痛くも痒くもないってこと」

「言い方は癪に障るがそういうことだ。見てのとおり、儂はもういつお迎えがきてもおかしくない歳なモンでな。しかし有り余っている金を大事にしまい込んだまま逝くというのも、何とも虚しい話じゃないか。だからずっと探していたのだ。この金の使い道を」

「けど、あんたのその金を欲しがってる人はもっと他にいるんじゃないの」

「たとえば?」

「そりゃ、あんたの息子とか……兄弟とか」

「儂の周りにそんな連中がいるように見えるか?」


 昂然と喉を反らし、やはりこちらを見下ろすような態度でイアンは言った。……とするとこの老人は予想どおり独り身か。しかも天涯孤独ときた。全然まったく胸を張るべきところではないと思うけど。


「だけどCJCに入るには、義務教育をきちんと修了してなきゃならない。俺は四年前から学校には行ってないし、復学しようにも親がいなくちゃ無理だ。そもそも学校の勉強なんて、ペンの握り方すらもう忘れたしな。だから……」

「楽しいか?」

「は?」

「叶えたい夢があるのに、できない理由をずらずら並べて自分を捩じ伏せるのは楽しいかと訊いとるんだ」


 抑揚のないイアンの言葉は、ラークの胸にぐさりと刺さった。

 そうかもしれない。自分はこの四年間、できない理由ばかり掻き集めて、山をなしたそれらの中に夢を閉じ込め隠してきた。

 その気になればそこから夢を引っ張り出し、共に歩むこともできたのかもしれない。けれど今となっては……。


「保護者には儂がなってやる」

「……え?」

「別に保護者が必ず血縁者でなければならないという決まりはないだろう。まあ、その方が話が早く済むのは確かだが」

「ちょ……じいさん、マジで言ってんの?」

「じいさんではない。イアンと呼べ。乗りかかった船だ、おまえのことは最後まで面倒を見てやる」

「だけど」

「〝夢、これ以外に未来を作るものはなし〟だ。とは言えおまえの人生だからな。このまま落ちるところまで落ちるか、それとも逆境を撥ね除け夢に挑むか。どちらでも好きな方を選ぶといい」


 茫然とするラークの前で、イアンは自分のカップを取り上げた。


 そうして優雅にコーヒーを啜る横顔に、天の光が射している。



              ×   ×   ×



「その当時クラブ・ダドーネと言えば、善良な市民なら決して近寄らないギャングどもの巣窟でな。この世のゴミの吹きだまりと言って良かった。俺は毎日そこで球を突いたりカードを切ったり……毎日が酒、喧嘩、酒、喧嘩の繰り返しだったよ。だが不思議と楽しかった。若かったんだな、きっと」


 命の終わりが太陽のようにすぐそこにあって、いつもヒリヒリと肌を焼く感覚。当時はそれが快感だった。いつ死んだっていいと思っていたし、この世に未練もなかったから。

 けれど今だって状況は変わらないのに、快感が苦痛へ姿を変えたのはいつからだろう。死ぬのが怖いわけじゃない。思い残すことも何もない。なのに太陽は忽然と自分の前から消えてしまった。

 残ったのは果てのない暗闇だけ。自分は今も立ち竦んでいる。右へ行けばいいのか左へ行けばいいのか、それすらも分からない――この懺悔室のように暗く息苦しい場所で。


「……ご家族は快く思わなかったのではないですか?」

「ああ、だろうな。現に妹は街で偶然俺を見かけると、しつこく呼び止めて〝家へ帰ってこい〟と促した。母も妹も、俺には感謝しているのだからと」

「けれどあなたは従わなかった?」

「そうだ。あの家にはもう俺の居場所なんてないと思っていた。思い込んでいた。けれどある日、そのことに業を煮やした妹が俺の居場所を突き止めて、クラブ・ダドーネへ乗り込んできた。俺はそれが腹立たしかったんだ。妹は俺の苦しみを何一つ分かろうとしていないとな。だから……」

「余計に意固地になった」

「まあ、そうだな。そんなところだ。そして妹をすげなく追い払い……泣きながらクラブを出ていった妹は、二度と姿を見せなかった」

「お兄さんを連れ戻すことを諦めてしまったのですか?」

「いいや、違うな。あいつは諦めてなんかなかっただろうさ。気の強い娘だったから。けれどもう会いたくても(・・・・・・)会えなかった(・・・・・・)

「会えなかった?」

「ああ。妹はその日、クラブ・ダドーネからの帰り道――暴漢どもに襲われて、殺されたんだ。遺体は裸のまま、路地裏のゴミ溜めに捨ててあったよ」



              ×   ×   ×



 誰かからクリスマスカードをもらうなんて、母が死んで以来のことだった。

 昨日アパートのポストに投函されていたカードを手に、学校までの道を歩く。二つ折りのカードの上部にはソリに乗ったサンタクロースの姿。下部には必要最低限のメッセージ。


『クリスマスのご挨拶を申し上げます。良い休日を』


 あの老人は文字まで無愛想なのだな、と思いながらラークは笑った。何を書けばいいのか丸一日悩んだ自分でさえ、もう少し気のきいた言葉を綴って送ったというのに。

 感謝祭も終わり、いよいよクリスマスムードに包まれつつあるシカゴ。不思議なことに、どんな暗いニュースが続いてもクリスマスとなると住民たちは浮き足立ち、マフィアの街にもビール戦争という分厚い雲の隙間から一条の光が射していた。

 針の筵のごとく肌に押しつけられる冬の寒さも、浮かれた空気がわずかばかりやわらげてくれる。ラークは鼻のあたりまで引き上げたマフラーの隙間からふっと白い息を吐いた。


 あと一週間もすれば高校は冬休み。イアンの援助のおかげで無事復学を果たせたのは九月のことだが、この三ヶ月はとにかく一瞬で過ぎ去ったように思う。

 初めは四年ぶりに戻った学校での生活に慣れるので必死だったし、授業の内容なんて半分も理解できなかった。同級生は十七にもなってようやく九年生のクラスに戻ってきたラークを遠巻きにしていて、なかなか場の空気に馴染めず苦しんだからというのも大きい。


 けれど今はそこそこ話せる友人も増えたし、毎日が充実していた。ジョーたちとつるんで盗みや喧嘩に明け暮れていたあの頃の記憶は幻のようで、思い返す度に現実感が薄れていく。

 そんな自分を薄情者だと思い、落ち込んだ日々もあったが、それでいいのだとイアンは言った。苦しむだけ苦しむがいい。喜びとは苦悩の大木に実る果実なのだから、と。


「――なーに一人でニヤけてんの? 気持ち悪いわね」


 と、不意に行く手から声がして、ラークははたと足を止める。手を振るサンタクロースから顔を上げ、目をやった先には不敵に笑う少女がいた。


「マリア」

「おはよう、ラーク。それ、誰からのクリスマスカード?」


 温かそうなコートに身を包んだ少女は、無邪気な羊みたいに笑ってそう尋ねてきた。彼女の名はマリア。一言で言うならラークのクラスメイトだ。

 そこそこ金持ちの家の娘らしく、華やかな容姿の彼女はそれなりの場でそれなりの格好をしていればイギリスの貴族令嬢だと言っても通用しそうだった。その正体は何の変哲もない女学生だというのに、高貴な印象を受けるのは美しく波打つ金髪のせいだろうか。


「おはよう。君からのカードはまだ届いてないよ」

「ふーん。つまりそれは私以外の誰かが出したカードってこと。まさかエポナじゃないでしょうね?」

「いいや。これは例の世話好きなじいさんから届いたカードさ。ていうか君がなんでここに? 朝はいつも車で送ってもらってるはずだろ?」

「そうだけど、あなたの姿が見えたから途中で降ろしてもらったの。せっかくだから一緒に登校しましょ」


 口紅を塗ったみたいに紅い唇を弓形ゆみなりにして、マリアは身を翻す。ふわりとコートの裾を舞わせた彼女の姿は、ヨーロッパの伝承に出てくる妖精を彷彿とさせた。

 この寒いのにわざわざ車を降りるなんて物好きだなと思いつつ、ラークもその妖精に誘われ歩き出す。中身を見せてと言われるとばつが悪いので、カードは大事に懐へしまった。別に見られて恥ずかしい内容ではないのだが、今は何となく自分だけの秘密にしたい。


「だけどもうすぐ冬休みねー。前にも訊いたけどクリスマスの予定、変える気はないの?」

「ああ。俺はイアンの家で過ごすよ。君の誘いも有り難いとは思ってるけど」

「だったら遠慮しないでうちに来ればいいのに。そのイアンっておじいさんも一緒に連れてきて構わないって、お父さんもそう言ってるのよ?」

「それは嬉しいけど、どうもイアンは大勢でわいわい過ごすのが好きじゃないらしくてね。何度誘っても〝行くならおまえ一人で行け〟って言われるし」

「だけどあなたは一人で来るつもりもないのね?」

「悪い。でもせっかくのクリスマスに、イアンを一人にはできないよ」


 あれでも一応恩人だから、とラークが付け足せば、マリアはつまらなそうに口を尖らせた。普段は十四歳とは思えないほど大人びた見かけなのに、そうしていると年相応の少女に見えるから不思議なものだ。


「そこまでその恩人が大事なら、いっそ一緒に暮らせばいいのに」

「それじゃ本格的にイアンにおんぶにだっこだろ。俺、嫌なんだよそういうの」

「あなたは自立心溢れる大人の男ってわけ?」

「そんなんじゃないけど、イアンには学費を払ってもらってるし、時々生活も援助してもらってる。なのにその上衣食住すべてをあの人に頼りきるってのはな。さすがに気が引けるだろ?」

「それは何もかも親に任せっきりな私に対する皮肉かしら?」

「君の場合は血のつながった親だからいいさ。だけど俺とイアンは赤の他人なんだ」


 つい三ヶ月前ひょんなことから出会っただけの、親戚でも何でもない老人と青年。そんな二人が保護者と被保護者の関係を築いている今の構図はとても奇妙だ。本当なら強盗と被害者になるはずだったことを思えば、なおさら。

 だからラークはこれ以上イアンに頼ることを選ばず、今も安いアパートでの一人暮らしを続けていた。家賃や生活費のほとんどは学業の合間に働いて稼いでいる。


 朝は早くから起き出して新聞を配達し、学校が終われば街で通行人の靴を磨く――といった具合だ。ジョーたちとつるんでいた頃には考えられない暮らしぶりだが、ラークはこれでいいと思っていたしイアンも何も言わなかった。つらくないと言えば嘘になるけれど、盗みを働いたり暴力に物を言わせて誰かから奪うよりは遥かにマシだと思うから。


「だけど何だか妙じゃない?」

「妙って何が?」

「そのイアンっておじいさんよ。信仰心豊かで献身的なのは褒められるべきことだけど、だからって普通、他人のためにそこまで尽くせるかしら。少なくとも私には無理だわ。いくら寿命が近いとは言え、自分の財産を擲って見ず知らずの子供の面倒を見るなんて」

「まあ、俺も簡単にできることだとは思わないけど……世の中にはそういう奇特な人種もいるんじゃないか?」

「だとしてもお金の出所は? あなたの話じゃ結構な豪邸に住んでるんでしょ? 家族はいないって話だったけど、それにしたって謎だわ。一体どうやってそんな大金を手に入れたのかしら」

「……マリア、何が言いたいんだ?」

「アル・カポネがどうして大金持ちになったか知ってる?」


 ラークは自然と足が止まった。気づいたマリアも立ち止まり、挑戦的な目でこちらを見上げてくる。

 ――アル・カポネ。突如としてシカゴに現れ、今では影の市長とまで呼ばれている男。

 その正体はこの街のマフィアたちを束ねる親玉だ。もちろん彼に靡かず抵抗を続ける勢力もあるにはあるが、カポネは自分に従わないものを一つ一つ丁寧に潰しているとかいないとか。

 おかげで街の人々はほとんどがカポネの言いなりだった。最近の彼らの動静は、裏社会から足を洗ったラークにはまるで伝わってこないけど。


「――その娘の言うことはある意味正論だな。イアン・マデリンには近づくな、ボウズ」


 瞬間、背後から聞こえた声にラークはびくりと跳び上がった。何事かと振り向けば、そこにはこの三ヶ月の間にすっかり見飽きてしまった顔がある。


「またあんたかよ、クロウさん」


 苦々しく吐き捨てた先には、黒い外套に黒い中折れ帽というマフィアさながらの格好をしたブルドッグがいた。

 このブルドッグはかなり大型で、二足歩行の上に英語を話す。名前はジェフリー・クロウ。イアンの話ではBOI――数年後連邦捜査局(FBI)と改称される――の捜査官らしく、それについて本人に問い質したところ否定も肯定も返らなかった。つまりYESということだろう。


「あら、ラーク。その人は誰?」

「強いて言うなら俺の追っかけかな。いつどこに行っても目の前に現れるんで驚いてるよ」

「人をストーカーみたいに言うのはやめろ。俺はお前が警告を聞かんからこうしてしつこく現れている。逆に言えば、お前があの家に近づくのをやめれば二度と俺の顔を見ずに済むということだ」

「まあ、〝あの家〟ってイアンさんのお宅のこと? どうして彼とお近づきになっちゃいけないの?」

「マリア、やめろ。この人の話は聞くだけ無駄だ」

「本当に無駄かどうかは、彼女が自分で聞いて判断するべきじゃないか?」

「いいや、聞かなくても分かる。あんただって何の根拠もない他人の妄想話を延々聞かされるのは苦痛だろ」


 棘と拒絶を多分に含んだ言葉を投げつけ、ラークはさっさと踵を返した。BOIの捜査官だろうが何だろうが、今はただの学生であるラークには関係ない。


 ――ボウズ、訊きたいことがある。お前とイアン・マデリンはどういう関係だ?


 ラークがイアンに金を返しに行った数日後。ぶしつけにアパートへ現れ、そう尋ねてきたのがこのジェフリー・クロウだった。ラークの居場所をどこで聞きつけてきたのかは知らないが、詳しく調査した結果イアンに甥などいなかったと、遥々尋問しにきたのだ。

 だがイアンもそうなることは予測済みだったようで、もしもクロウが聞き込みに現れたら、甥というのは彼をさっさと追い払うための口実だったと正直に答えるよう言われていた。その上でラークが強盗だったことは隠し、イアンとは元々顔見知りで、あの日は金を無心しに行ったのだと言うように、とも。


 合衆国を股にかける捜査局の人間に嘘をつくのは恐ろしかったが、それでもラークはイアンを信じることを選んだ。理由は実に簡潔明瞭、彼が命の恩人だからだ。

 いや、もちろん他にもある。何よりラークの心を動かしたのは、潔いイアンの告白だった。ラークの保護者になってやると言い出したあの日、彼はこう付け加えたのだ。自分はBOIに監視されている、と。

 何でもこのクロウという男は、過去に起きたとある殺人事件の捜査を続けていて、その犯人がイアンであると思い込んでいるらしい。真犯人はとっくに捕まり、当局も既に解決した事件と認めているにもかかわらず、だ。


 実際ラークも本人に確かめてみたが、クロウはおおむねイアンの言い分を認めた。自分はイアンこそが事件の真犯人だという証拠を掴むため――そして彼が再び犯罪を犯さないよう見張るため監視を続けているのだ、と。

 だが詳しく聞けば未だ確たる証拠はないというし、イアンを犯人とする根拠を尋ねてみても「捜査情報は教えられない」の一点張りで話にならない。これではクロウの話に説得力を感じられないのは当然だ。

 むしろラークが受けた印象としては、クロウは何らかの理由で、どうしてもイアンを犯人に仕立て上げたがっているように見えた。そんな悪意の下に職権を乱用する捜査官と敬虔な宗教家である恩人のどちらにつくかと言われたら、誰だって後者を選ぶだろう。


「あくまで俺の忠告を無視するつもりか、ボウズ。あんな男と関わって、あとで泣きを見ることになっても知らないぞ」

「ご高説どうも。だけど本当に親切にしたいなら、俺のことは放っておいてくれないかな。自分のことは自分で決めたいタチなんでね」

「やつの外面に騙されるな。でないといずれ後悔することになるぞ」

「はいはい、分かりました」


 一生言ってろ、と内心そう吐き捨てて、ラークは足早に学校を目指した。置き去りにされかけたマリアはラークとクロウとを見比べると、最後は慌てて追いかけてくる。


「――メリークリスマス」


 その年のクリスマスイヴ。靴磨きの仕事をいつもより早く切り上げたラークは、宣言どおりイアンの家を訪ねた。

 ベルを聞いて迎えに現れたイアンは、相変わらず不機嫌そうだ。眉間に皺を寄せて顎を上げ、今宵もちょっと見下ろすような仕草で言う。


「……本当に来たのか」

「来るって言っといたろ?」

「その手に持ってるのは何だ」

「コーン・ウイスキー」

「おい、儂の知らぬ間に禁酒法は終わったのか。そんなものどこで手に入れた?」

「まあちょっと、昔のツテでね。クリスマスなんだから今夜くらいいいだろ? 酒だとバレないように持ってきたしさ」


 ニヤリとしながらそう言って、ラークは右手の紙袋を掲げた。ウイスキーのボトルは箱に入れて包装紙で包み、赤いリボンもかけてきたので、傍目にはごくごく平凡なクリスマスプレゼントにしか見えないはずだ。

 そんなラークの小細工を見抜いたイアンは、呆れのため息と共に踵を返した。何も言わず顎で奥を示したところを見ると、とりあえず追い返される事態は免れたらしい。


「結局、例のマリアとかいう子の誘いは断ったのか」

「でなきゃ俺がここにいるわけないだろ?」

「フン、まったく物好きなことだな。せっかくのクリスマスをこんな老いぼれと二人きりで過ごそうとは」

「強盗に進んで金を恵む物好きには敵わないけどな。俺は酒さえ飲めれば、豪華なクリスマスツリーもプレゼントの山も必要ないし――」


 と言いながら応接間に入ったところで、ラークは思わず絶句した。何故ならビロードのソファが並ぶその空間の片隅に、驚くほど堂々としたモミの木が佇んでいたからだ。

 暖炉の火に照らされてキラキラ輝いているのは、枝に下がった無数のクリスマス飾り。木には電飾も巻きつけられているようで、遠目に見るとツリーが星をまとっているみたいに見えた。

 更にツリーの麓には山をなす箱、箱、箱。いや、中には紙袋のようなものも見て取れるが、いずれも綺麗にラッピングを施され、誇らしげにラークを待ち受けている。


「……あの、もしかして俺の他にも誰か来るの?」

「いいや? おまえはこの家に儂以外の人間がいるのを見たことがあるのか?」

「い、いや、ないけど……だとしたらこの飾りつけ、全部自分でやったわけ?」

「ああ、儂は別にユダヤ教徒ではないからな。クリスマスとなればツリーの準備くらいするさ」


 澄ました顔でそう言ってキッチンへ引き返していくイアンを、ラークは唖然と見送った。他に来る人もいないのに、彼はあんな豪勢なツリーとプレゼントの山を用意したというのだろうか?

 ラークはますますイアンのことが分からなくなった。怪訝な顔で目をやれば、いつもは無愛想な老人が、ピカピカのグラスを電灯にかざして口の端を持ち上げている。



              ×   ×   ×



 長い長い息をつき、隙間明かりに照らされる懺悔室の天井を見上げた。

 木製の壁に頭を預け、喉を反らす。遠き日の思い出が幻となって現れないかと目を凝らしてみるも、自分を包む闇は不動にして不変だ。

 壁の向こうにいるはずの神父は何も言わない。善良な聖職者の耳に入れるには残酷すぎる話だっただろうか。あるいは目の前の男の悪行に呆れて物も言えなくなっている?


 どちらかと言えば自分は後者だ。誰にも打ち明けたことのない半生を振り返っているうちに、だんだん口が重くなってきた。

 それは己の罪が後ろめたいからというよりも、自分自身に心底愛想が尽きたからだ。日の当たらない道を歩いてきた男のつまらない人生譚など語ってみたところで、話す方も聞く方も得られるものなど何もない――はずだった。


「それで、お母様は?」


 不意に響き渡った神父の声に、ほんのわずか闇が震える。天井付近を漂う埃を眺めていた視線は、再び網目の向こうへ向いた。


「……事件後、母には会わなかった。いや、会えなかった・・・・・・、だな。今度こそ帰るべき家を失くしたと思った。妹まで死なせた俺に、母のもとへ帰る資格はもうないと」

「ですがそれでは、お母様がお一人になってしまわれたのでは?」

「ああ。急に母のことが心配になったのは、妹の死から何ヶ月か経ったあとのことだったよ。夫も娘も失い、母は今あの汚らしいアパートに一人きりでいるのかと思ったら、居ても立ってもいられなくなった。だから様子を見に行ったんだ」

「お母様には歓迎されなかった?」

「いや、いや。とてもじゃないが母に会わせる顔がなくてね。そのときはこっそりアパートの外から様子を窺った。ところがそこで見てしまったんだ。ほんの二、三年まともに会わない間に、すっかり老婆のようになってしまった母の姿を」

「当時お母様はおいくつで?」

「確か四十六か七か……ずっと苦労してきたから、元々実年齢より老いて見える人ではあったが、それでもあの老け込みようは異様だった。何も知らない者に何歳に見えるかと尋ねたら、八十より下の数字を上げる者はまずいなかっただろう。物陰から盗み見た母はまるで……そう、枯れ木が歩いているようで……体も二回りほど縮み、髪は色褪せて、初めは母だと気づかなかった。だがあのとき母は、ボロボロの赤いセーターを着ていて……」

「セーター?」

「ああ……俺と妹が何ヶ月も前から小遣いを溜めて、母の誕生日に贈ったものだ。母はそれを着て亡霊のように歩いていた。ところどころ虫に喰われてシミだらけで、床を拭く雑巾みたいになったあのセーターを」

「……」

「俺はそこでようやく目が覚めたんだ。これ以上母を一人にしてはいけないと思った。しかし父と妹を殺しておいて、おめおめと家に帰るわけにもいかない。母に許しを乞うためには、まず償いが必要だった。たとえば母がもう二度と飢える必要のない大金を捧げるとかな」

「ではクラブ・ダドーネを離れて真面目に働く道を?」

「……いいや。ちょうどその頃だったのさ――俺がマフィアの幹部から、ファミリーに入らないかと誘われたのはな」



              ×   ×   ×



 東海岸まで、およそ八〇〇マイルの旅だった。

 ニューヨーク方面へ続く道を、イアンと交互に運転しながらひた走る。

 二人を運ぶのは黒塗りのコーチ。いかにもイアンの車といった感じの、古めかしくて格式張った見た目の車種だ。


「地図でいうと今どの辺?」

「もうすぐトレドだ。昼はそこで食うか」

「通りすぎてもダイナーくらいならありそうだけど?」

「別に急ぎの旅じゃない。せっかくシカゴを出たんだから、たまには違う街のメシと空気を楽しめ」


 窓を開けながら走っているので、自然とどちらも大声になる。今はラークが運転手だった。助手席に座ったイアンの手の中では、北部の地図が風に吹かれてバタバタと音を立てている。

 ラークがイアンと知り合ってから、丸一年が過ぎた。学校は夏休みに入っていて、九月になればラークは十年生に上がる。

 成績はお世辞にも良いとは言えなかったけれど、何とか留年は免れた。夏休みの間は新聞配達と靴磨き以外の仕事を探しつつ勉強の遅れを取り戻すつもりだったのだが、この一週間は特別だ。


「そういや俺、海って見たことないかも」


 とラークがイアンに漏らしたのは、シカゴの気候もようやく春めいてきた頃のことだった。とある休日、イアンの買い物に付き合ったラークはそのままミシガン湖方面へドライブし、二人で湖を眺めたのだ。

 あのときは別に旅行に行きたくて言ったわけじゃなかった。ただ湖畔をぶらぶらしているときに海の話題になり、本物の海を知らないことを何の気なしに打ち明けたのだ。


「おまえ、シカゴを出たことがないのか」

「ああ、ないよ。出る用事もなかったから」

「街の外に親戚くらいいるだろう」

「さあ、いるかもしれないし、いないかもしれない」

「どういうことだ?」


 イアンは老人のわりに健脚で、いつもはかなりすたすた歩く。けれどのんびり散歩を楽しむときだけは別で、そのときの彼の足取りは晴天の下のミシガン湖と同じくらい穏やかだった。


「言わなかったっけ? 俺、いわゆる婚外子ってやつだからさ。父親が誰かも知らないし、母親は自分のことをあんまり話さなかった」

「……初耳だな。片親だとは聞いていたが、まさか未婚の母だったとは」

「まあ、なんか事情があったんだろ。知らないけど。金を稼ぐために売春までやって、最後は頭がおかしくなって死んだ。今にして思えば可哀想な人だったよ。当時の俺はあの人が嫌いで嫌いで仕方なかったけど」


 一応成長したってことなのかな、と呟きつつ、輝き渡る湖を見やる。真昼の星を散りばめたみたいなミシガン湖は広々として美しかったが、イアン曰く、海はもっと雄大で見る者の心を奪うという。


「なるほどな。それでおまえはグレたわけか。学校にも行かなくなり、足を踏み外して悪の道へ」

「あれは一時の気の迷いだって。今は真面目に生きてるだろ?」

「まあそうだな。途中で道を誤ったことに気づき、引き返せたのだから上出来か」

「それもこれもあんたのおかげだよ。これでも一応感謝してる」

「選んだのはおまえだろう。儂は金の世話をしただけだ」


 着古したカーディガンのポケットに両手を突っ込んで、ぶっきらぼうにイアンは言った。でもその頃にはラークも彼のそんな態度に慣れていたから、「あっそ」と笑って足元の小石を蹴る。


「……おまえはもうすぐ夏休みだったな。何か予定は?」

「まだはっきりとは決めてない。ただ学校が休みの間は昼も働こうかと思ってる。冬休みはあんまり稼げなかったから」

「なら最初の十日間は空けておけ。車を出してやる」

「車を出すって、どこへ?」

「決まってるだろう。――海だ」


 という経緯があって現在、二人は東に向かっている。ラークはシカゴを出たことがないどころかこうして旅行するのも初めてで、実を言うと心が弾んでいた。

 だけど隣のイアンには、なるべくそれを覚られないよう振る舞う。自分で提案したくせに、シカゴを出てもムスッとしている彼の前ではしゃぐのは何だか癪だ。

 というより一人だけ浮かれているのがバレて子供扱いされるのが嫌だった。何せイアンは、時折イギリス生まれなんじゃないかと疑うくらいの皮肉屋だから。


 東海岸までは三日かけて移動した。ろくに下調べせず街を出たせいで、一日目は泊まる場所が見つからず車中泊する羽目になった。

 二日目の夜は運良くモーテルを見つけて泊まり、三日目はイズリンのホテルへ。

 ラークがついに大西洋と対面したのは、四日目の未明のことだ。


「……すげえ」


 薄暗い砂浜に、打ち寄せる波の音が轟いていた。胸にぶつかってくるようなその音のなんとダイナミックなことか。

 嵐でもないのにこんな大きな波が立っているなんて、ラークは想像もしていなかった。だがそれ以上に目を奪われたのは、水平線の向こうから顔を出した太陽の眩しさだ。


「間に合ったようだな」


 ホテルの客室係に無理を言って、早めに出てきた甲斐があった。

 時刻は五時を回ったばかり。イアンとラーク以外人影のないローレンス・ハーバーの砂浜は、時間をかけて黄金色に塗り潰されていく。

 立ち尽くしながら見上げた先には、混ざり合う朝と夜。頭上を覆っていた濃紺は、世界の端から陽の光に溶け始めていた。

 学のないラークの語彙力では、とても表現しきれない神秘的な色合いだ。更に海の向こうから伸びる光の道が、風に乗せて嗅いだことのない匂いを運んでくる。ちょっと生臭いような、それでいてほんの微か甘いような、何とも言えない不思議な匂いだ。


「どうだ、初めて見る海は?」

「ここから見ただけじゃ、広さについてはよく分かんねーけど……でもなんて言うか、ミシガン湖とは迫力が違うな。特にこの音! 誰かが大砲でもぶっ放してるみたいだ」


 寄せては返す波を指差しながらそう言えば、イアンはフッと鼻で笑った。そうして再び彼方を見やった彼のにも、金色こんじきに燃える太陽が映り込んでいる。


「儂も海を見るのは久しぶりだがな。昔はよくこうして眺めたモンだ。まあ、あの頃は大抵一人だったし、錆び臭いニューヨーク港から眺める海はあんまりいいものじゃなかったが」

「あんた、前はニューヨークに住んでたの?」

「ああ。遠い昔のことだがな。故郷が海に近かったんで、波の音を聞くと気が紛れた。つらい現実を忘れて、懐かしい思い出の中に逃げ込むことができたからだ」


 ザバン、と波の砕ける音がする。その音に呑み込まれるような錯覚を覚えながら、ラークはイアンを顧みた。

 少し意外だったのだ。普段は自分のことをほとんど話さない彼が、過去を打ち明けてくれたことが。


「じゃあ、ニューヨークに住む前はどこにいたの?」

「イタリアだ。実家は海沿いの村で小作をしていた。最後は地代が払えなくなって、アメリカへ逃げてくる羽目になったが」

「イタリア!? ってことはあんた、イタリア人なのか!?」

「ああ、そうだが。イタリア人には見えんか?」

「い、いや、俺はてっきり、あんたもアメリカ生まれのアメリカ育ちだと思ってたから……だいたいイアンって英語の名前だろ?」

「この国ではイタリア人であることがバレると色々都合が悪いんでな。改名したんだ。元の名前はジョバンニ・ヴォルジアン」

「ジョバンニ……」


 茫然とその名を口にして、ラークはイアンの横顔を眺めた。英名で呼ぶことに慣れてしまったからだろうか、ジョバンニという名前は何だか彼にそぐわないような気がする。

 何より彼の話す英語には訛りがなかった。シカゴの街を闊歩するマフィアたちは大抵、英語なのかイタリア語なのか判然としない言語を喋るのに。


 ……そう、マフィアだ。


 ラークがよく知るイタリア人と言えばマフィアしかいない。彼らはイタリアからの移民の成れの果て。アメリカ社会に馴染めずあぶれた者たちが、生きるために徒党を組んだのが始まりだと聞いている。

 イアンが〝イタリア人だとバレると都合が悪い〟と言ったのも、恐らくそのためだろう。イタリア人と聞けばアメリカ人はまずマフィアを連想する。もちろん中にはイアンのように善良で、勤勉かつ誠実に暮らしているイタリア移民もいるはずだ。でも。


 ――アル・カポネがどうして大金持ちになったか知ってる?


 いつか聞いたマリアの言葉が耳に甦ってぞっとした。

 現在シカゴの街を牛耳っているあのアル・カポネも、元を正せばイタリア人だ。彼はこの十年間、禁酒法を逆手に取って儲けに儲けた。噂によればその年収は二〇〇〇万ドルを超えるという。

 一般的な労働者の年収が一〇〇〇ドルにも満たない現状を鑑みると、途方もない大金だ。ならばあの日、二〇〇〇ドルなんて大金をポンと寄越したイアンは?


「どうやって稼いだ?」


 とっさにそんな言葉が口を突いて出そうになり、ラークは慌てて飲み込んだ。途切れることのない波音がノイズとなって思考を乱す。

 そう言えば彼がどうやってあんな大金を手にしたのか、ラークは一度も詳しく訊かなかった。若い頃しゃかりきになって稼いだものだとは聞いたが、手段までは聞いていない。

 細波が浜辺を撫でるザワザワという音が、ラークの胸騒ぎとシンクロした。どういうわけだか、イアンを振り向くことができない。立ち竦んだラークの足元で、海より生まれた白い泡が溶けるように消えていく。


「……じゃあこれからは、あんたのことジョバンニって呼んだ方がいい?」

「好きに呼べ。おまえの自由だ」


 隣から聞こえるイアンの声は、何一ついつもと変わらなかった。ただ、彼が一体どんな顔でその声を紡いでいるのかは分からない。


「なんで今更……」

「何か言ったか?」

「なんで今更、そんなこと教えてくれる気になったんだ?」

「簡単なことさ。この世には海よりも壮大なものがある。それは空だ。そして空よりも壮大なものがある。それは人の良心だ」

「……良心?」

「ああ。儂はそのことを身をもって知っている。真の良心に応えられるのは、良心だけだということもな」


 彼が何を言おうとしているのか、ラークにはよく分からなかった。盗み見たイアンの横顔は朝日ひかりに遮られている。


 シカゴまでの帰り道、二人は言葉少なだった。


 波音がいつまでもこびりついて、ラークの耳を離れない。



              ×   ×   ×



 ニューヨークには、ピンツォーロファミリーと呼ばれるシチリア系のマフィアがいる。

 彼らは当時、アメリカでの勢力拡大を狙って縄張りを広げる一方、優秀な人材――この場合は喧嘩や狡智という意味で――を見繕ってはヘッドハンティングするという行為を繰り返していた。

 そのための求人所のような役割を果たしていたのがクラブ・ダドーネだ。あのクラブはそもそもファミリーの所有物で、彼らはゴミ溜めに群がる無法者の中からシチリア出身の者を選り分けると、注意深く性格や能力を検分した。


 そこでマフィアたちのお眼鏡に適った者だけが、秘密のベールに包まれた彼らの世界へ招かれるというわけだ。

 クラブ・ダドーネに通う非行少年たちの間では、もしもファミリーの幹部に肩を叩かれることがあったらそれは長い人生の中で最高の名誉だと考えられていた。ニューヨークの裏社会を瞬く間に駆け上がっていったピンツォーロファミリーは一種の信仰対象として、クラブ・ダドーネの愛好者に仰がれていたから。


「俺はファミリーからの誘いを一も二もなく承諾した。何しろマフィアになれば、働き次第で大金が懐へ転がり込む。ケチな喧嘩や賭け事で日銭を稼ぐ生活ともオサラバできるというわけだ。加えて俺には、組織の下で金を掴む自信があった。その実現のために全力を尽くす覚悟と理由も」

「……お母様のもとへ帰るため、ですか」

「そうだ。そこから第二の人生が始まった。初めはタダ働きみたいな下っ端からのスタートだったが、俺は文句も愚痴も言わず淡々とファミリーに尽くした。それが上の好評価につながってな。幹部たちに一目置かれるようになるまで、そう時間はかからなかったよ」

「……」

「だが十九歳を迎えたある日……転機が訪れた。当時目をかけてくれていた幹部の一人が、銃を差し出してこう言ったんだ。〝おまえの忠誠心を見込んで大役を任せたい。この仕事をやり遂げたなら、組織は相応の待遇でもっておまえを迎えるだろう〟とな」

「その大役とは?」

「殺しだよ。俺は器量と腕っぷしを買われて、組織の殺し屋ヒットマンになったのさ」


 再び暗闇と静寂が垂れ込める。懺悔室の中を来たときよりも暗く感じるのは、日が暮れ始めたからだろうか。それとも神か聖霊が、自分たちの未来を暗示しようとしているのか。


「つまりあなたは、殺人を犯した」

「ああ。それも一人や二人なんてものじゃない。数え切れないほどだ。俺は上から言われるがままに殺し続けた。取るに足らないチンピラから敵対組織の幹部まで」

「抵抗はなかったのですか。他人の人生を奪うことに」

「今じゃ感覚が麻痺しちまって何も感じないがな。最初は当然動揺したさ。俺は父を殺したことで道を踏み誤った。なのにまた人を殺すのかと」

「……」

「だが断ることはできなかった。金の問題もあったがそれ以上に、そんな真似をすれば自分が消されると分かっていたからだ。俺は差し出された銃を受け取り、引き金を引いた。次の日には目の玉が飛び出るほどの大金が俺の手の中にあった」


 殺しの任務は難易度が高い上に、実行者の身にも危険が及ぶ。だから数あるマフィアの仕事の中でも特別に割が良かった。

 当時はそうして手に入れた金を握り締め、自分に言い聞かせたものだ。これで母を苦労の淵から救ってやれる。人殺しはそのためにどうしても欠かせないことだったのだ、と。


「お母様は喜ばれましたか?」


 ところがそんな欺瞞を打ち消すように、神父の鋭い声がする。

 先程までの穏やかな調子は一変していた。問い質す神父の声は硬く、きっと彼は神の法に従わぬ者に怒りを覚えているのだろうと察した。

 同時に彼の問いかけが胸の中を攪拌する。答えようとした言葉は喉につかえた。

 らしくないな、と内心苦笑してから思い直す。いいや、そもそもこの懺悔室に足を踏み入れた瞬間から、自分はずっとらしくないじゃないか、と。


「母は喜んだよ。大金を携えて戻った俺を見ると、まるでキリストの復活でも目の当たりにしたかのように泣いて喜んだ。数年ぶりの対面だったし、俺がどうやってその金を稼いだのか、母は知る由もなかったから」

「真実を隠したのですか?」

「あんただったらどうする? 息子との再会に咽び泣く母親を前にして、これは人を殺して得た金だと宣言できるか? 少なくとも俺にはできなかった。だから適当に誤魔化した。この国で成功したイタリア人の富豪に、同郷だからと可愛がってもらったとか何とか言ってな」


 嘘の中にほんの少しの真実を織り交ぜる。それが人を欺く上で最も有効な手段だということは、裏社会における駆け引きの中でよく学んだ。

 おかげで母は、数年ぶりに戻った息子をすっかり信じきっていたように思う。彼女は知らなかったのだ。腹を痛めて生んだ子がその頃には皮だけ残し、中身はまったくの別人になっていたことを。


「俺はそれからの数年間をまやかしの中で過ごした。母の幸福を守るためならと、重ねた嘘の陰に隠れて邪魔者や裏切り者を殺し続けた」

「……」

「真実を知らずにいることが本当に幸福か、と言いたいんだろう? だが実際母は幸せそうだった。貧困のどん底にあった生活は安定し、リッチモンド・ヒルに家も買い、周りのアメリカ人にも一目置かれて……しかし、あの日――」


 言いかけたところで、またも言葉が喉につかえた。しかも今度は飲み下せない。代わりに体が震えて息が詰まる。

 自分を落ち着かせるために、額に手を当て深呼吸した。だが状況は一向に良くならない。神父もこちらの異変に気がついたのだろう、網目の向こうで身を乗り出した気配がある。


「どうされました?」


 さすがに心配そうな声色に、答えようとして無理だと悟った。クスリが切れた薬物中毒者みたいなものだ。素面のままではこれ以上、この場を満たす聖浄な暗闇に耐えられない。


「……すまない。煙草を一本吸ってもいいか?」

「それは困りますね。見てのとおりこの部屋は木造ですから、火気は厳禁です。灰皿だってありませんし」

「だったら外で一服してくる。悪いがちょっと待っててくれ」

「いいえ、お待ち下さい、マグダレーノさん――実は煙草などよりもっといいものが、ここにはあるのですよ」



              ×   ×   ×



「ラーク。今日はあなたにお願いがあって来たの。イアンさんと付き合うのは今すぐやめて。他の誰でもない、あなた自身のために」


 マリアが深刻な表情で現れて、前置きもなくそんなことを言い出したのは八月の終わりのことだった。

 シカゴの街角、うらぶれた路地の入り口に座り込み、引き揚げの準備をしていたラークは怪訝な顔で視線を上げる。マリアが黒い傘を差しかけてくれたおかげで、雨水が目に入るのは避けられた。

 あたりは滝のような豪雨だ。ついさっきまで晴れていたと思ったら、雷鳴と共に突然雨が降り出した。おかげで今日は店じまい。こんな雨ではいくら丁寧に靴を磨いたって、第七のラッパが鳴った日に道端で小銭を探すくらい無意味な結果に終わるだろうから。


「……急な雨なのにちょうど傘を持ってるなんて、ずいぶん準備がいいんだな」

「天気予報士が今日はにわか雨に注意って言ってたから」

「天気予報士?」

「ラジオの話よ」

「へえ、そりゃすごい。見事大当たりじゃないか。てっきりラジオってお笑いとか朗読とかお悩み相談とか、そんなのばっかりだと思ってたが違うんだな」

「ラーク。話を逸らさないで」


 怖いくらい真剣な目つきで、マリアが上から覗き込んできた。けれどラークはそれに応えず、手元の仕事道具へ視線を戻す。

 道行く人々は路地のちょっと奥まったところにいる二人になど目もくれず、慌てて通り過ぎていった。激しい雨音で会話なんか聞こえているわけがないのだけれど、そんな彼らの当たり前の無関心が、ラークには少しこたえる。


「私の話、聞こえてなかったわけじゃないでしょう? とにかくイアンさんは危険なのよ。あのクロウって人が言ってたことは本当だったの。だから彼とは距離を置いてもらいたくて――」

「話が見えないな。どうしてイアンと直接会ったこともない君が突然そんなことを言い出すんだ? まさかクロウさんに脅されてるとか?」

「違うわ、私は……!」

「クロウさんはイアンのことを悪く言うけど、あの人の話には何の確証もない。悪いがそういう話に振り回されるのはもううんざりなんだ。目の前で恩人の悪口を言われたら、誰だっていい気はしないだろ」


 軒下に広げていた仕事道具を、手早く箱に収めながらラークは言った。その際無駄にガチャガチャと音を立てたのは、掻き消してしまいたかったからだ。自分の心の片隅から聞こえる、イアンの過去を疑う声を。

 それが聞こえるようになったのはイアンと二人、ローレンス・ハーバーのビーチを離れてからのことだ。イアンが実はイタリア人だったという事実は、想像以上の破壊力でもってラークの純情を打ち砕いた。

 正体を知るまでは手放しで彼を信じていたのに、今や会う度に疑念が募る。イアンは自分に嘘をついているのではないか。他にも隠していることがあるのではないか。本当は彼も自分のよく知るイタリア人と同じなのではないか――?


 だけどもしそうだとしても知りたくない。知れば傷つくことが目に見えているからだ。他の誰でもない、自分が。

 仮にイアンがアル・カポネの同類なかまだったとして、そんな相手から金を借りていることが知れたら自分の未来は閉ざされる。いや、そもそもクロウの話が本当に真実で、なおかつそれが明るみに出たら、ラークは学校に通い続けることすら不可能になるだろう。

 しかし何も知らずにいればこの平穏は守られる。余計な詮索というやつは、ようやく手にした日常を粉々にする爆弾だ。


 何よりもう戻りたくない。あの孤独で空っぽな日々には。


 だから――


「――確証ならあるわ」

「……は?」

「言っても信じないかもしれないけど、うちのお父さんはBOIの高官に顔がきくの。何せ仕事が検察官だからね。そこで聞いた話によれば、あのクロウって人もBOIの捜査官らしいじゃない。確かにあの人は変人で、局内でも鼻つまみ者だって言われてたけど、主張は間違ってないらしいわよ。イアン・マデリンは確かに殺人犯で、十年間刑務所に服役していた過去がある」


 雷鳴が轟いた。雨脚が一層激しくなる。遠くで誰かの悲鳴が聞こえた。車までもが盛大な水飛沫を上げて、大急ぎで逃げ去っていく。


「……冗談にしては笑えないな、マリア。そんな作り話、俺が本当に信じるとでも――」

「イアンが殺した人の数は、正確には分かっていないらしいけど少なく見ても数十人。彼はニューヨークにいるマフィアの一員だったの。そして彼に殺された被害者のリストには、クロウさんのご両親の名前が」

「そんな話、BOIの高官がペラペラと話すわけがない。適当なことを言うのもいい加減に……!」

「イアンが今も財産を持ってることや、たった十年で刑務所を出てきたことを言ってるならそれは組織を裏切ったからよ。彼はファミリーの秘密をすべて暴露する代わりに減刑された。その後BOIに守られて名前を変え、身分を偽り、他人のふりをして今日まで過ごしてきたの。彼の本当の名前は――ジョバンニ。ジョバンニ・ヴォルジアン」


 世界が割れるような雷鳴おとがした。

 それはラークの心を引き裂き、容赦なく地に叩きつける。


 ジョバンニ。


 ジョバンニ・ヴォルジアン……。


 間違いない。あの日イアンが名乗った名前だ。

 どうしてその名をマリアが知っている? 少なくともラークは教えていない。

 ということはたった今、彼女が打ち明けてみせた話は――

 ラークは空っぽの木箱の上に座り込んで、立ち上がることもできなかった。激しい雨が、魂を酸のように溶かして無にしてしまう。


「……マフィアの検挙に協力したジョバンニのその後の行方は、BOIの一部の捜査官しか知らないそうよ。だからクロウさんは自力で彼のもとに辿り着き、確証を得るために張り込みを続けているの。イアン・マデリンこそが自分の両親を殺したジョバンニ・ヴォルジアンだという証拠を掴んで……それからどうしたいのかは知らないわ。私には関係のないことだしね」

「……」

「だけどあなたのことは心配だからもう一度だけ言うわ。ラーク、イアン・マデリンと付き合うのはもうやめて。お金のことなら、相談に乗ってくれる人を一緒に探すわ。私のお父さんは本当に顔が広いから――」


 そこから先のマリアの話は、あまりよく覚えていない。どこでどうやって彼女と別れたのかも、いつの間にアパートへ帰ってきたのかも。

 ベッドを覆う粗末なシーツの上に座り込み、微かな水音を聞く。髪から滴る雨水が板張りの床に水溜まりを作りつつあるが、それすら今はラークの瞳に映らない。


 その日を境に、ラークはイアンの家を訪ねることをやめた。


 彼は半年ほど前自宅に電話線を引き、ラークも近所のダイナーから度々電話をかけていたが、それもぱったりやめにする。


 イアンがそのことをどう思ったかは知らない。だが九月に入ればすぐ新学期だ。再び学校が始まり、ラークが忙しくなったとでも思っただろうか。

 彼がアパートを訪ねてきたらどうしようという不安はあったが、九月の半ばになってもそうした事態は起こらなかった。ラークが手に入れた日常は相変わらずそこにある。何の変哲もなく、ただイアンという存在が欠けただけで。


 とは言えこのままずっと彼に会わないわけにもいかない。何しろラークには学費の問題がある。

 今後も日常を維持し、学校に通い続けようと思ったら金が要るのだ。その金をどう工面するか。自分の稼ぎはほんの一瞬で家賃と生活費に消えてしまうし、貯金なんてほとんどない。

 マリアの言葉に甘えて新しいパトロンを探してもいいが、家柄も将来の保証もない学生を支援してくれる人間なんてそうそういるとは思えなかった。仮に巡り会えたとしても、イアンにどう伝えるか――


「――よう、ラーク」


 学校からの帰り道。ジャケットのポケットに手を突っ込み、足早に街を歩いていたラークは後ろから呼び止められた。

 聞き覚えのある声だ。しかし同時に懐かしくもある。ラークはキャスケット帽の庇をわずか上げながら振り向いた。

 そこには高そうなコートを羽織り、カーキ色の中折れ帽を被った男がいる。が、帽子が邪魔で顔がよく見えず、誰だかはっきりと分からない。


「……誰だ?」

「おいおい、誰だとは冷たいじゃねえか。俺だよ、俺。まさか覚えてないなんて言わないだろうな?」


 男がそう言って帽子を軽く持ち上げたところで、ラークは目を見開いた。一緒に頓狂な声まで上げてしまう。

 やたらと濃い黒眉に、乾いていて薄い唇。彼の名はトーマス、ラークがつい一年前までつるんでいた旧友だ。


「トム! トムじゃないか! お前、何だよその格好? おかげで誰だか分からなかったぞ!」

「はは、悪い。そう言うお前はあんまり変わらないな。まあ、顔つきはちょっと変わったか」

「顔つき?」

「ああ。何と言うか、突っ張ってた頃より雰囲気が少し丸くなった。学校とやらは楽しんでるのか?」

「まあ、それなりにな。……あのときは悪かったよ、急にチームを抜けるなんて言って」

「いや。あれはジョーが死んだ直後だったしな。ビビッてチームを抜けたいって言い出したのはお前だけじゃないし、気にしてねえよ」

「そう言ってもらえると気が楽だよ。あれからどうしてた?」


 懐かしい友との再会は、ラークに久しぶりの昂揚感を与えてくれた。少し前まで共に悪さばかりしていた身だが、マフィアのそれに比べれば可愛いものだ。

 二人は近況を話し合いながら、街路樹が並ぶノース・クラーク・ストリートを歩き始めた。そうしていると少し昔に戻ったみたいで、このところずっとラークを悩ませていたイアンへの恐れや失望も薄れていく。


「……そうか。あのあとチームは解散したのか」

「ああ。この街もすっかり変わっちまって、俺たちみたいなガキが粋がれる場所じゃなくなったからな。ちょっと騒ぐとすぐマフィアが飛んでくるような状態じゃ、みんな離れてくのもしょうがないさ」

「じゃあ、お前は今何やってるんだ?」


 七、八人の悪タレが集まっていたあのグループには、明確にリーダーと呼べるような者はいなかった。しかしそんな中でもトーマスは中心的な存在で、何かあると皆彼を頼っていたように思う。

 何せトーマスは頭がキレるし、腕も立つ。決してゴツくはないのに度胸もあって、常に冷静沈着なイメージがあった。

 自分の感情や欲望に忠実だったジョーとは対称的な存在だったのだ。その分ジョーには愛嬌があって親しみやすく、反対にトーマスは何を考えているのか分からないという評もあったけれど。


「吸うか?」


 と、不意にトーマスが煙草を取り出して尋ねてくる。復学するまでラークは喫煙家だったから、今もそうだと思ったのだろう。

 しかし煙草なんか吸っているところを見つかったら、学校で何を言われるか分からない。だから「いいよ」と断ると、トーマスはちょっと意外そうに「そうか」と言って、煙草は自分の口に咥えた。


 彼がその先端に火をつける頃、二人の足はノース・クラーク・ストリートを東へ折れてリンカーン・パークに入っている。あと一月もすれば一面枯れ葉色になるであろう、ミシガン湖沿いの公園だ。

 ラークは何となくトーマスにつられてやってきたが、このあたりをぶらつくのはイアンと湖を見に来て以来だった。それを思い出した刹那、彼がいるのではないかと心臓が縮んでとっさに視線を走らせる。

 しかし幸いというべきか、そこには広々とした芝生が広がるばかりで人影はまったくなかった。まあ今日は平日の昼間だし、レイバー・デーも終わってしばらくはイベントらしいイベントの予定もないから当然だろう――なんて思いを巡らせていたら、不意にトーマスが足を止める。


「さっきの質問だけどな。俺は今、コロシモファミリーの下にいる」

「……え?」


 一瞬彼の言葉の意味が分からず、ラークも自然と足を止めた。

 するとトーマスは白い煙を吐きながら、意味深に笑ってみせる。


「コロシモファミリーだよ。お前もよく知ってるだろ?」

「い……いや、知ってるってお前……何の冗談だ? あのファミリーの下にいるって? やつらはジョーを殺した連中だろ……!?」


 思わず叫んでしまってから、ラークはここが公共の場であることを思い出した。しかし混乱は収まらず、どうして、という意味を込めて、揺れる瞳でトーマスを見やる。


「まあ、そうだな。だがジョーの死はヤツの自業自得だ。いくら馬鹿なアイツでもマフィアの酒に手を出せばどうなるか、それくらい分かってただろう。つまり本人も殺される覚悟でやったってことだ」

「お……お前、何言って……」

「ラーク、お前さ。そもそもあのとんまのジョーが、一体どうやって組織プロの酒をちょろまかしたと思う? ウスノロだったアイツにそんな芸当ができると思うか? 悪いが俺はそうは思わない。だから手引きしてやった。あの豚野郎でも簡単にファミリーの酒をくすねられるようにな」

「は……?」

「俺の目的は最初からコロシモファミリーに入ることだったってことだよ。そのためにジョーを利用した。アイツが組織の酒を盗んだことを密告して、ファミリーに恩を売ったってワケだ。ジョーとお前には感謝してるんだぜ? おかげで今はそこそこの地位に収まってるしな」


 足元がぐらぐら揺れている気がした。

 視界は歪み、ねじけて、ゆっくり渦を巻いている。


 ――一年前のあの事件は、すべてトーマスに仕組まれたものだった……?


 たった今聞いたばかりの話を、咀嚼するように反芻してみる。ところがまったく奇妙なことに、現実としての手触りを感じない。

 だってそんな馬鹿な話があるだろうか?

 ラークはジョーと一番親しかったが、同時にトーマスを一番尊敬してもいた。ただ腕っぷしが強いだけでなく、理性的でいつも中立を守っていた彼が、とてもストイックな男に見えていたからだ――なのに。


「だがどうも最近雲行きが怪しくてな。このところカポネ派は勢いを増すばかりで、非カポネ派のコロシモファミリーは劣勢だ。もう少し骨のある組織かと思ってたんだが、期待を裏切られた。というわけで俺はドン・コロシモの情報を手土産に、カポネ派へ寝返ろうと思う」

「トム、お前――」

「とは言えそのためにはまず根回しが必要だ。明け透けな言い方をすれば金が要る。上の人間に取り次いでもらうためには、カポネ派の下っ端を手懐ける必要があるってワケだ。だがそれには俺の手持ちじゃ足りそうにない。そこで目をつけたのがラーク――お前だ」


 いくらか短くなった煙草を、トーマスは用済みだとでも言うように無造作に手放した。コートと同じく高そうな黒革の紳士靴が、容赦なく吸い殻を踏みにじる。

 そうしながらトーマスは笑っていた。一年前と変わらず楽しそうに、それでいて本性は隠したまま。


「お前が通ってるあの学校、私立だろ? あんないいトコに通えてるってことは、今はそこそこの金が懐にあるってワケだ。そんな大金どうやって手に入れたのかは知らないが、昔の誼で俺に貸してくれないか? この計画が上手くいったら、お前にも甘い蜜を吸わせてやるからよ」

「……冗談じゃない。なんで俺がジョーを殺したやつに協力しなきゃならないんだ? お前はとんだクソ野郎だよ、トーマス! 俺はお前のこと、ずっと信じてたのに……!」

「ああ、そうかい。そいつは信頼を裏切って悪かったな。だが俺は信じてくれなんて一言も頼んでないし、お前が勝手に信じて勝手に裏切られた気になってるだけだ。俺の知ったことじゃない」

「だったらお前の事情だって俺の知ったことかよ! 金が必要ならファミリーの酒でも盗んで稼ぐんだな! 分かったらもう二度と俺の前に現れるな! お前に払う金なんか一セントもねーよ!」


 ラークは怒りに任せて怒鳴り散らすと、間を置かずトーマスに背を向けた。このまま同じ空気を吸っていたら、たぶん自分は彼を殺してしまう。そんな気がして遠ざかろうとする――けれど。


「じゃあ秘密を知ったお前には死んでもらうことになるが、いいんだな?」


 ジャリ、と不快に砂が鳴った。いや、あるいはそれはトーマスが銃を抜いた音だったのかもしれない。

 現に足を止めて振り向けば、数分前まで友人だと思っていた男は拳銃を構えていた。こんな見晴らしのいい場所で堂々と銃を抜くとはさすがの胆力だ。人が来れば間違いなく騒ぎになる。

 だがトーマスは恐らく確信しているのだろう。今、公園に現れてラークを救う人間などいるわけがないということを。


 彼は初めからそのつもりでラークをリンカーン・パークへ誘った。ここなら目撃者を最小限に押さえられると分かっていたからだ。

 そしてわざわざ知られてはまずい事情を暴露したのは、ラークを脅す口実が必要だったから……。

 そこまで理解したところで、額から冷たい汗が流れた。トーマスがああいう退屈そうな目をするときは、決まって本気のときだということをラークはよく知っている。


「ラーク。俺はあのチームの中じゃ、お前を一番買ってたんだぜ。お前はジョーと違って馬鹿じゃねえし、頭も回る。だから学校にもすんなり戻れたんだろうが――そのお前なら、分かるよな?」

「……」

「ファミリーに知らせようとしても無駄だ。この一週間、俺は遠くからお前のことを観察してた。おかげで今のお前の交友関係がよく見えたよ。あの背が高い金髪のコ、べっぴんだな?」

「……!」

「名前は確か……そう、マリアだったか。彼女の家の場所はあとを尾行けて把握した。お前は義理堅い男だからな、ラーク。自分の過ちのせいでガールフレンドとその家族が血の雨を見るなんて耐えられないだろ?」

「トーマス……!!」

「幸いなことにこの街の警察は役に立たない。それどころかカポネの息がかかった警官も多いからな。お前が今の話を警察に知らせれば、かえって俺の有利に働くだろう。カポネはドン・コロシモの急所を知りたがってるからな」


 地面はまだぐらぐらと揺れていた。おまけにラークの周りの空気だけが急激に冷え込んで、指先から凍ってしまいそうだ。

 青い顔で震えているラークを見ると、トーマスは満足そうに銃を下ろした。アイルランド系であることを示すダークグリーンのを細めながら、まるで客引きする娼婦みたいに微笑んでくる。


「次の火曜まで待ってやる。十六日の零時までに五〇〇ドル用意しておけ。――俺はずっとお前を見てるからな、ラーク」


 次に気がついたときには、トーマスはもうどこにもいなかった。


 彼に蹂躙された吸い殻だけが、砂利の上に無惨な姿で転がっている。



              ×   ×   ×



 男のものにしてはずいぶんと白い手が、扉の向こうから差し出してきたのは一杯のウイスキーだった。

 標準的な大きさのロックグラスの中では、琥珀色の液体と一緒にいくつかの氷が揺れている。唖然としながら受け取れば、神父は特にこちらを覗くでもなく、ごく静かに扉を閉めた。

 互いの顔を知ってしまえば、話がしづらくなると思ったのだろうか。確かに人相というのは厄介な記号で、相手の顔や身体的特徴によって態度を翻す者も世の中には少なくない。

 しかしそれにしたところでこの酒は何だ。改めてグラスの中を見やり、ぷかぷか浮かんでいる氷ののんきさに激しい場違い感を覚えた。

 網目状の壁の向こうでは、神父がまた席に着いた気配がある。グラスから匂い立つアルコールの香りを嗅いで、彼は微笑んだようだった。


「……聖職者は酒を飲まないものだと思っていたが」

「まあ、そうですね。中にはそういう方もいらっしゃいますが、うちはカトリックですから。そのあたりはプロテスタントの一部の教派に比べると、だいぶおおらかなものですよ」

「しかし懺悔室で酒を出す教会なんて聞いたことがない」

「それはそうでしょう。あなたはこれまでのお話を伺う限り、神の愛から最も遠いところにおられたようですから」


 笑いながらそう言うと、神父は飲酒を促した。聖堂の片隅で人目を盗んで酒を呷るなんて、これまで犯してきたどんな罪より背徳的な気がするが遠慮するなと言うなら有り難い。

 氷が鳴るのを聞きながら、ひと思いにグラスの中身を飲み干した。なかなか悪くない酒だ。香りもキックも強くて舌に絡み、体をカッと熱くしてくれる。

 なるほど、確かにこれは煙草などよりもっと・・・いいもの・・・・だった。ミオリス神父の私物だとしたら意外だが、もしもそうなら彼はなかなかの酒好きだろう。


「それで? 告解は続けられそうですか?」


 という神父の言葉で我に返る。そうだ、自分は今行きつけの酒場ではなく懺悔室の中にいるのだ。

 そのことを思い出すと同時に、グラスは一旦腰かけに置いた。どこまで話したのだったかと記憶を辿り、直後にフラッシュバックした映像が暗澹たる気持ちを甦らせる。


「……ああ。おかげですべて白状する覚悟が決まったよ」

「では教えていただけますか。あなたとお母様がそれからどうなったのか」


 ――気が進まないなら無理に打ち明ける必要はない。そもそも自分はここへ懺悔をしに来たわけではないのだ。

 本当の目的は別にある。だったら、と現実へ逃げようとするもう一人の自分を捕まえて、アルコール色に染まった息を一度深く吐き出した。

 確かに今日、自分が彼を訪ねた目的は違う。けれどここまで来たのならすべて吐き出してしまいたい。

 誰かに許されたいとか、何もかも吐露して楽になりたいとか、そういうわけではないのだ。ただ彼にだけは話しておきたい。この先誰にも語ることはないであろう、哀れな男の物語を。


「あれは確か、リッチモンド・ヒルに家を買って一年が過ぎた頃のことだ。俺は再び母と暮らすようになって……気が緩んでいたのかもしれないな。おかげである日くだらないヘマをやらかした。殺しの現場を人に見られていたんだ。だが俺は目撃者の存在に気づかず、上司に任務完了を伝えて家へ帰った。……その翌日のことだったよ。当時敵対していた組織の連中がうちに銃弾を浴びせていったのは」

「報復された、ということですか?」

「ああ。やつらは俺が殺した男の仲間だった。幸い母にも俺にも怪我はなく、家が銃痕だらけになっただけで済んだが俺は母に問い詰められた。何故自分たちがこのような仕打ちを受けるのか、理由を知っているならすべて話せとな」


 そして隠しきれなくなった。

 自分の正体。重ねてきた悪業。金の出所まで一つ残らず。


「……それを聞いて、お母様は?」

「泣き叫んでいた。今度はゴルゴタの丘での悲劇でも目の当たりにしたかのように。そして俺を罵倒したよ。おまえの罪はユダよりも重いと……おまえなど生むのではなかったとな。その言葉を聞いて、俺は――」


 当然の仕打ちだった。母の反応は至極まっとうで、実の息子がいつの間にかサタンの下僕しもべになっていたなどと知ったなら、誰もがあのように取り乱しただろう。

 しかし自分はそれが許せなかった。怒りで目の前が真っ赤になった。

 そして叫んだのだ。


 俺が一体誰のために手を汚したと思っている、と。


「気がついたとき、母は俺の足元に倒れていた。頭から血を流して」


 神父からの答えはない。それでもただ真実を、この空間やみに刻みつける。


「我に返ってみると手の中には銃があり……すぐに理解したよ。俺が母を殺したのだとな」

「……」

「なあ、神父殿。あんたにぜひ聞いておきたい。こんな俺でも、神はお許しになるのだろうか?」



              ×   ×   ×



「クソッ、クソッ、クソッ、クソッ……」


 その日、ラークは焦っていた。

 木々がざわめくオークパークを、右へ左へ当て処なく歩く。

 三週間ぶりに訪れる住宅街には、相変わらず高そうな家ばかり並んでいた。家だけじゃない。車も、自転車も、窓辺に飾られた鉢植えさえも。何もかもが高そうだ。忌々しい。この世には生まれた瞬間から片親で、どんなに必死に働こうとも報われない貧乏人がいるというのに。


「あの人どこにいるんだよ……」


 聞き手のいない悪態を吐きながら、不安のあまり爪を噛む。こんなところをうろつき回っていたら、いつイアンに見つかるか分かったものじゃない。

 運命の十六日まであと三日。ラークは休日を利用して、朝からクロウを探していた。イアンに両親を殺され、虎視眈々と復讐の機会を窺っているあのジェフリー・クロウをだ。


 ラークがトーマスから脅迫を受けたのは昨日のこと。彼はこちらの行動を制限する過程でこう言った。〝この街の警察を頼るだけ無駄だ〟と。

 ならばどうすればこの窮地を脱せるか。ラークは一晩考えた。

 そして一つの答えに行き着いたのだ。

 そう、警察が駄目ならBOIに頼ればいいと。


 幸いなことにトーマスが自分を見張っていたという一週間、クロウは一度もラークの前に姿を見せていなかった。一週間どころかここ半年以上、ラークは彼を見ていない。

 かつてはしつこくつきまとい、イアンと距離を置くよう忠告してきたクロウだが、さすがに拒み続けると諦めたのかぱったり姿を見せなくなった。イアンの監視自体諦めたのかとも思ったが、見張られている当人の話では、彼はあのあともこのあたりをうろついているらしい。


 その話が事実だとすれば、クロウはまだオークパークのどこかにいるはず。彼を見つけてトーマスの悪事を暴露すれば、きっと事態は好転するだろう。何せトーマスはクロウの存在も正体も知らないのだから。

 だがラークは肝心な情報を持ち合わせていなかった。つまりクロウがいつもどこに身を隠してイアンを監視しているのかということだ。

 路上に停められている車の中や、近所の家。まずそのあたりを当たってみたが、クロウの姿は見当たらなかった。向こうも不審な行動を繰り返すラークを見たら寄ってくるのではないかと期待したのに、そんな気配もまったくない。


 捜索を始めて三時間。

 昼時が近づき、空腹がラークの焦りと苛立ちを増幅させた。

 半年前までは顔も見たくないほど頻繁に会っていたのに、こういうときに限って見つからないとはどういうことだ。ラークは腹立ちまぎれに、路傍で見つけた木の枝を蹴っ飛ばした――と、そのときだ。


「おい、ラーク」


 背後から近づいてくるエンジン音。ドルッ、ドルッ、ドルッという唸りのようなその音に、ラークは聞き覚えがあった。

 反射的に振り向けば、道の向こうからやってくるのは黒のコーチ。――間違いない。三ヶ月前、ラークをこのシカゴから連れ出してくれたイアンの愛車だ。


「久しぶりだな。こんなところで何してる?」


 運転手側の窓が開き、白髪の老人が顔を出した。しまった、と思ったときにはもう遅い。両足は見えざる手によって地面に縫いつけられ、体からは血の気が引いていく。


「しばらく連絡も寄越さなかったな。忙しくしてたのか?」


 イアンは歩道に突っ立ったラークの傍へ車を寄せ、唸り続けるエンジンを切った。コーチがブルルッと身震いすると、あとは風の音だけが二人の間を流れ始める。


「もう学校は始まったんだろう。どうだ、新しいクラスは?」

「……」

「勉強にはついていけそうか? 体を壊したりしてなかっただろうな?」

「……」

「おい。何とか言ったらどうなんだ」


 窓から顔を出したイアンは当然ながら不審そうで、眉を寄せてラークを見た。口を開けばそのヘーゼル色の瞳にすべて見透かされてしまいそうで、ラークは震えることしかできない。

 ――もし。

 もしも自分がイアンの正体を知ったと気づいたなら、彼はどういう反応をするだろうか? 彼がジョバンニ・ヴォルジアンという名前を捨て、アメリカ人として生きているのはかつての仲間の報復を避けるためだ。


 だとしたら口封じのために自分を殺す?


 有り得ない話じゃない。マリアの話が事実なら彼は元殺し屋で、非力な半端者の息の根を止めることなど、赤子の手を拈るようなものだろうから。


「……顔色が悪いな。どうかしたのか?」

「……」

「この方角は儂の家とは反対だが。それともこのあたりに友達でもできたか?」


 限界だった。このままでは気づかれる。三週間も彼から隠れていた理由。

 知られたら一巻の終わりだ。逃げなければ――彼からも、トーマスからも。


「おい、ラーク。おまえ――」

「――何でもない。何でもないから、もう俺に構わないでくれ!」


 叫ぶと同時にラークは駆け出した。相手は車に乗っているのだ。こんなことをしたって無意味だと分かっている。

 それでも走り出さずにはいられなかった。今は一フィートでもいいから彼から離れたい。夢中で走った。途中で帽子が風に煽られ、転げ落ちたことにも気づかずに。


 そうしてどれくらいの距離を走っただろうか。

 振り向くと、イアンは追ってきていなかった。

 結局クロウを見つけることもできず、途方に暮れて帰路に就く。翌日もオークパークへ行く勇気はなかった。だってまたイアンに見つかったら、もう誤魔化せる自信がなかったから。


 日曜は失意の淵で頭を抱えて過ごし、月曜を迎えた。トーマスが金を受け取りにくるまであと二十四時間もない。

 休みの間に手持ちの財産を掻き集めてみたが、五〇ドルにもならなかった。こうなるともう、頼みの綱は一つしかない。


「――ラーク、どういうことなの。授業中にこんな手紙投げて寄越したりして」


 学校での昼休み。教室でマリアが来るのを待ち侘びていたラークは、背後から聞こえた声に大層胸を撫で下ろした。

 机に腰を下ろしたまま振り向けば、そこにはくしゃくしゃになったノートの切れ端を持ったマリアがいる。白い丸襟がよく映えるワンピースを着た彼女は、今日も妖精みたいだった。細い眉が不機嫌そうに吊り上がってさえいなければ。


「来てくれて良かった、マリア」

「おかげで私はサンドイッチを一つしか食べられてないんだけど。話なら食堂でもできるでしょ? なんでわざわざこんなところに呼び出すの?」

「教室に人がいなくなるこの時間しかチャンスがなかったからだよ。マリア、君に聞いてもらいたいことがある」


 昼食を食べ損ねてムッとしていたマリアだったが、ラークが弁解すると何故か表情がやわらいだ。

 と言うより何か期待するような目でこちらを見ると、足取りも軽く隣の机に腰かける。……もしかするとこれから愛の告白でも始まると思っているのだろうか。だとしたら申し訳ないが、今のラークには猶予がない。


「いいわよ。帰りに何か奢ってくれるなら話を聞いてあげる」

「ああ、別にいいけど……この話を聞いても君が放課後に寄り道したいなんて言い出すとは思えないな」

「それは聞いてみなくちゃ分からないわ。話してごらんなさいよ」


 白い顎を上げ、自信たっぷりにマリアが言うので、ラークは迷いながらもトーマスとの一件を話し出した。するとマリアの表情はみるみる驚きに彩られ、余裕を失い、やがて混乱と恐怖に染まっていく。


「――何なのよそれ。つまりあなたはお父さんに金を用意させろって言ってるの?」

「そうじゃない。確かに君の家は金持ちだがそれ以前に、お父さんは検察官だろ? だったら何とかトーマスを逮捕できるんじゃないかと思って……」

「あのね、証拠もないのに逮捕なんかできるわけないでしょ。あなたの他にそのトーマスって男の話を聞いてた人がいるなら別だけど、うちのお父さんは怪傑ゾロじゃないのよ。そいつがもし本当に暴力に訴えてくるような相手なら、警察の力も借りないとどうにもならない」

「だがこの街の警察がマフィア絡みの話に手を貸してくれると思うか? クロウさんも見つからないし、もう君しか頼れる人がいないんだよ」

「私じゃなくて私のお父さん(・・・・・・)でしょ。まったく何てことなの……」


 机に腰かけるのをやめ、改めて椅子に座ったマリアは顔色を失っていた。白い指先は小さく震え、宙空をさまよう視線も焦点が合っていない。

 無理もなかった。何せこのままラークが金を払えなければ、彼女は家族諸共殺されるかもしれないのだから。


 ふと壁に掲げられた時計を見れば、昼休みの終わりが刻一刻と近づいていた。

 あと数分もすれば昼食を取り終えた生徒たちが教室へ戻ってくる。そうなればもう二度と、マリアとこの件について話し合うチャンスは得られないだろう。

 学校の中だろうと外だろうと、マリアと二人きりで話しているのがバレたらトーマスに警戒される。あの男ならマリアの父親の職業まできっと調べ尽くしているはずだ。


 タイムリミットまであと十一時間。


 ラークがどうすることもできず座り込んでいると、唐突にマリアが席を立った。


「……マリア? どこ行くんだ?」

「教員室。先生に言って電話を借りるわ」

「そんなもの借りてどうする?」

「具合が悪いから早退するの。運転手に迎えにきてもらわないと」

「おい、自分だけ逃げるのか?」

「人聞きが悪いわね。そもそもこれはあなたが招いた問題でしょ? 私は巻き込まれた被害者よ。だけど――」


 直後、ふわりと花の匂いが鼻孔をくすぐり、時間が止まったような気がした。

 やわらかなマリアの唇がラークのそれにそっと触れる。その瞬間がラークにはほんの一刹那のようにも、永遠のようにも感じられた。

 やがて互いの唇が離れても、マリアの大きな瞳が目の前にある。彼女は濡れた青色の中に不安を湛えながら、しかし微かに笑ってみせた。


「あなたは私が守るわ、ラーク」

「マリア」

「私に考えがあるの。――任せて」


 囁くようにそう言ったのを最後に、マリアは身を翻した。妖精の残り香が遠ざかり、こんなときなのにラークは胸が切なくなる。

 とっさに呼び止めようと思った。けれど彼女が教室のドアへ向かうと同時に、食事を終えた生徒たちが流れ込んでくる。

 その人混みに紛れてマリアは消えた。

 去り際にこちらを振り向き、微笑んだ彼女の顔が瞼の裏に焼きついている。



              ×   ×   ×



 長い長い沈黙があった。

 懺悔室の中の暗闇は、やはりその濃さを増している。

 世界に終わりがあるのだとしたら、こんななのかもしれないと思った。

 暗くて、静かで、後悔しか残らない。

 だから人は終焉を恐れるのだ。もっとも自分のような人間にとっては、慣れ親しんだゆりかごみたいなものだけど。


「……質問にお答えする前に一つ、私も告白してよろしいでしょうか」


 だが暗闇の向こうからは、意外な答えが返ってきた。こちらが虚を衝かれて面食らっていると、沈黙を肯定と受け取ったのかミオリス神父は話を続ける。


「実は今から一週間前、ちょうど今のあなたのように、当教会へ告解にいらした男性がいました。名前はフランコ・アラリー。あなたよりもう少し年配の男性です」

「……」

「彼はこう話していました。自分はイタリアからの移民で、金を稼ぐためなら何だってしてきたが、その暮らしにももう疲れた。だから今日ですべて終わりにしたいと思っている、と」

「……」

「彼はとある組織から足を洗い、自由の身になろうとしていたのですよ。ですが今から四日前、何者かによって殺害され、帰らぬ人となってしまいました。彼の相談に乗っていたニューヨーク市警の刑事も、弁護士もです。私はその事実を新聞で知り、こう思いました。ああ、次は恐らく私の番であろう、と」


 教会の鐘が鳴り始めた。

 気高く聖朗なる響きに暗闇は揺れ動き、一つの終わりを予感させる。


「マグダレーノさん。あなたがお探しのものは、ここにはありませんよ。ですがそれでも務めを果たさなければ、あなたは救われないのでしょうね」

「……救われる価値があると思うのか。俺のような人間に」

「人間は誰もが肉体と魂、そしてひとかけらの良心を神より授って生まれてきます。ならばすべての人に救われる価値はあると、私はそう考えていますよ」

「殺し屋に良心があると言うのか?」

「あなたに罪を告白させたものが良心でないと言うのなら、我々はそれを何と呼べばいいのでしょう?」


 今日は夕焼けが綺麗ですから、明日は晴れますね。そんな天気の話でもするように、至極自然な口振りで神父は言った。六時を告げる鐘はもう鳴り止んでいる。


「そうじゃないんだ。俺はただ……羨んだ。フランコを。死ぬ間際、あいつは何て言ったと思う? 命乞いでもなく、釈明するでもなく。ただ笑ってこう言った。〝これでもう自分を偽らなくて済む〟と」


 言いながら、上着の懐へ手を入れた。そこには硬く冷たい己の半身がある。この十年どんなときも共にあり、すべてを見届けてきた半身が。


「だがあいつを羨むのはもうやめだ。俺にはこうすることしかできない。死ぬまで苦しみ続けることしか……」

「……」

「神父殿、あんたには感謝している。薄っぺらい言葉に聞こえるかもしれないが、本当に」


 上着の中でコッキングした。カチリというその音は、きっと彼にも届いていたに違いない。

 暗闇で見えない神父の顔は、恐れ慄いているのだろうか。それとも不快に眉をひそめているのだろうか。

 できれば彼を殺したくなかった。

 しかし母を殺めたときのあの映像が、右手に銃を構えさせる。


「マグダレーノさん」


 そのとき壁の向こうから、穏やかな神父の声がした。


「あなたの感謝は受け取りました。その見返りと言っては失礼ですが、最後に一つお願いがあります。どうか死ぬ前に、主の御前で祈らせては下さいませんか。――あなたと、あなたのお母様のために」



              ×   ×   ×



 シカゴの街に佇む鉄橋のほど近く、高架電車の音は聞こえるが決して煩わしくないあたりに『コロシモズ・バー』という名のバールがある。

 名前で一目瞭然だが、そこがコロシモファミリーの拠点だ。表向きにはリストランテ・バールを謳っているものの、この禁酒法の時代に堂々と酒を出していることは公然の秘密。店の裏は事務所になっており、最近ではファミリーの関係者しか出入りしない。

 だがその日、バーには珍客が現れた。

 涼やかなカウベルの音と共にドアを潜ったのは長身の老人だ。やけにくたびれたキャスケット帽を除けば、そこそこいい身なりをしている。背筋もしゃんと伸びていて、ヘーゼル色の瞳に怯えや卑屈の気配はない。


「……いらっしゃいませ」


 と低く声をかけながら、店主はカウンター越しに注意深く彼を観察した。初めて店に来る顔だ。すなわちファミリーの関係者ではない。

 同じく店内にいた数人の顔馴染みも、怪訝そうに目配せし合って老人の様子を窺った。少なくともこの中に彼を知る者はいないということだ。かと言ってただの客とも思えない。カポネ派と揉めるコロシモファミリーの店に好んで来たがる客なんて、今のシカゴにはまずいないだろうから。


「……ご用件は?」

「この店にトーマスという若者がいると聞いてきたんだが」


 と、胸を張って老人は言う。ほんの少し顎を上げ、昂然とこちらを見下ろす様は店主を蔑んでいるように見えなくもなかった。


「ああ、トーマス・オヘアのことなら確かにいるが……あんた、あの小僧の知り合いか?」

「まあ、そんなところだな。彼は今どこに?」

「生憎今は出かけてる。やつはどうも近頃ふらっといなくなるんでな。いつ戻るか分からんが、何か飲んでいくかい?」

「いいや。いないなら好都合」

「何?」


 話が見えず、店主は眉をひそめて聞き返した。が、次の瞬間、この不審な老人をすぐさま敵と見なさなかったことを後悔することになる。


「彼が戻ったら伝えてくれ。金は用意できんから、代わりに手土産を置いていくとな」


 銃声が弾けた。老人の右手から放たれた弾丸は店主の額をまんまと撃ち抜き、カウンターの中を血の海へ変えた。

 色めき立った店内の者たちが一斉に立ち上がる。だが彼らが銃を構えるより、老人の射撃の方が正確で速かった。

 ほんの数瞬の動揺のうちに五人が撃たれて倒れ込む。西部劇のガンマンも顔負けの早撃ちだ。彼はいち早く銃を抜いた者から順に撃ち殺し、そして最後の一人に銃口を向けた。


「くそっ! ジジイ、てめえ何者だ!?」


 唯一の生き残りがボックス席の陰から叫ぶ。彼も銃を手にしてはいるものの、見知らぬ老人の奇襲に肝を潰され情けなく震えていた。

 だが老人は急に構えを解いて立ち尽くす。彼は弾倉が空になった己の半身を見下ろすと、最後に銃把を手放して、言った。


「イタリア人さ」


 時代遅れのリヴォルバーが落ちると同時に、最後の一人が立ち上がった。彼はすかさず銃を構え、震える両手で狙いをつける。

 フロントサイトの向こう側で、老人は微笑んでいた。

 高架電車の警笛が、銃声を掻き消していく。



              ×   ×   ×



 無人の教会に虹色の光が射していた。

 太陽の残り火が美しいステンドグラスを透かし、静寂を彩っている。

 ミオリス神父はその七色の光の中で、キリスト像の前に跪きじっと祈りを捧げていた。黒い祭服の胸元には、銀の十字架が垂れている。


 暗闇の中で聞いた声の印象どおり、神父はまだ若い男性だった。若いと言っても三十五、六と言ったところだが、歩き方すら聖職者然としていて、彼が生まれついての信仰者であることを物語っている。

 丸い眼鏡は彼の知性を象徴し、広い額も人柄のおおらかさを表しているような気がした。壁の上で十字架にかけられたキリストには、彼がどのように見えているのだろうか。尋ねてみたい気もしたが、主は恐らく自分のような人間と口をきいてはくれないだろう。いや、そうであるべきだ。


「……もうそろそろいいか」


 彼が祈り始めてどれくらいの時間が流れただろうか。本当はそのまま永遠に時が止まってしまっても構わなかったが、この聖なる静謐の中に殺し屋が留まるのはおこがましいような気がして、思わずそう声を上げた。

 すると神父は顔を上げ、最後にキリストへ視線を注ぐ。それから彼は立ち上がった。ゆっくりとこちらを向いた瞳には、澄み切った穏やかさだけがある。


「その前に、マグダレーノさん。あなたにお伝えすべきことがあります」

「何だ?」

「先程私は、あなたがお探しのものはここにはない・・・・・・と言いましたね。その言葉に偽りはありません。ですが、探し物の所在は知っています」

「別に無理に話さなくてもいいが」


 本当はそんなものに興味などない。正直に言ってしまえば、組織がどうなろうが知ったことではないのだ。

 自分はただ殺すだけ。それ以外のことはやらないし、やる意味がない。死者の反逆を恐れるお歴々とは違って、自分には失うものなど何もないから。


「そういうわけにもいかないでしょう。どうかこれをお持ち下さい。ニューヨーク銀行の金庫の鍵です。あなたがお探しのものはそこに」


 しかし神父はそう言うと、懐にあった鍵を差し出してきた。彼が何故素直にそんな真似をするのか分からない。

 その金庫の中身さえ死守すれば、彼はニューヨーク市民を苦しめる原因の一つを取り除けるかもしれないのだ。それこそが聖職者として真に為すべきことではないのか。鍵を見つめる眼差しに疑問を乗せると、若い神父は微笑んだ。


「この鍵はあなたが手にしてこそ意味があるのですよ、マグダレーノさん」

「……まったく話が見えないが?」

「いいえ、あなたには分かるはずです。少なくとも十分後には」

「それは神託か?」

「ふふ、まさか。そうであってほしいという私の願いですよ。そして同時に、確信でもあります」


 言って、神父はそっと鍵を握らせた。彼の懐で温められた鍵はに馴染まず、何だか妙な感じがする。

 その鍵の温もりに気を取られた、一瞬の間の出来事だった。

 神父が殺し屋の右手から銃を奪い取ったのは。



              ×   ×   ×



「……どういうことだ?」


 ラークは耳を疑った。

 目の前には真っ青な顔をしたマリアと彼女の両親、そして神妙な面持ちのジェフリー・クロウがいる。

 いや、彼らだけじゃない。突然連れてこられてどこなのかも定かでない建物には、他にも数名の警官らしき人物がいた。制服を着ていないところを見ると警官ではなくクロウの仲間かもしれないが、ラークにとって今重要なのはそんなことじゃない。


「なんで……なんでイアンがコロシモファミリーのところに? 俺はやつらのことなんて一言も……!」

「あの男がバーに乗り込んだ経緯は知らん。だがはっきりしていることは、やつは今病院にいて、死の淵に佇んでいるということだ」


 淡々としたクロウの宣告が、ラークの全身から力を奪う。膝から崩れ落ちそうになって、どうにか椅子の上に落ち着いた。

 元は空きビルだったのだろうか、粗末な椅子と曇った窓ガラスくらいしか目につくもののない部屋は異様な空気に包まれている。その中でクロウは嘆息し、心なしか苛立たしげに取り出した煙草を咥えた。


「まあ、おかげで俺たちの任務は完了した。コロシモファミリーはマデリンをカポネ派に寝返ったトーマスの刺客と判断し、やつを殺害したそうだ。これでお前たちを脅かす者はもういない。代わりにカポネとコロシモの戦争が起きるだろうがな」

「いや、待てよ……そもそもあんたらはなんでいきなり俺のところに現れた? それもイアンの差し金か?」

「ああ、そうとも。今からつい二時間前、やつは俺の目の前に現れてお前とそこにいる家族を保護しろと要求してきた。協力すれば、俺の求める真実をすべて話してやると言ってな。だがまんまと乗せられた俺が馬鹿だった。やつは最初から死ぬつもりだったんだ。俺はやつに上手いこと利用されたってわけだ、くそっ……!」


 忌々しげに悪態をつき、擦っても擦ってもつかないマッチをクロウは床へ叩きつけた。半ばから折れてしまったそれは悲しげな音を立て、罅割れの上を転がっていく。

 しかしラークの混乱は解けなかった。いや、思考がこんがらがっているようで、その実頭の中は真っ白だ。

 何も考えられない。イアンの正体を知ったあの日のように。


「そ……そんなつもりじゃ、なかったのよ……」


 と、ときに掠れた声がした。茫然としたまま目をやれば、依然蒼白な顔をしたマリアがうつむき、大袈裟に肩を震わせている。


「……マリア?」

「違う! 違うの! 私は彼を焚きつけたりなんかしてない! ただラークのためにお金を用意してほしいって……そう頼みに行っただけよ! だってそうでしょう? あなたが大金を持ってるなんて誤解されたのは、彼のせいなんだから……!」


 突如ヒステリックに叫び出したマリアは、決してその人物の名を口にしなかった。けれどラークにはすぐに分かる。彼女の言う〝彼〟とは、自分を庇って銃弾を受けたあの老人のことだということが。


「だけど彼は、それなら銀行へ行ってくるから家へ帰ってろって……! マフィアのところへ乗り込むなんて一言も言ってなかったのよ! 分かるでしょう、ラーク? 私はただ、あなたを守りたかっただけ……!」


 視界が暗転した気分だった。何かしら答えようとしたはずなのに、喉が渇いて声が出ない。

 気がついたときにはふらふらと立ち上がっていた。そうしてマリアからあとずさり、身を翻して走り出す。


 呼び止めるクロウの声を聞いたような気がしたが、構わず部屋を飛び出した。来るときに通った階段を駆け下り外へ出る。しばらくがむしゃらに走ったのち、タクシーを見つけて乗り込んだ。

 イアンがいるという病院の名を告げ、運転手を急がせる。窓の外ではいつもどおりの景色が流れているのに、自分が乗ったタクシーの中だけ時間が引き伸ばされているように感じた。

 クロウたちに匿われた廃ビルから、病院まではそんなに遠くなかったと思う。けれどタクシーを下りる頃には日が傾き始めていた。

 財布に入っていたドル札を数えもせずに運転手へ押しつける。震える指先は財布を取り出すのにも難儀して、失われる一秒に苛立った。


 タクシーを降りてからの記憶は曖昧だ。ただイアンの病室を訊かれた看護婦の、「良かった、マデリンさんには親族がいらっしゃらないそうで……」という台詞だけが耳にこびりついている。

 真夏の太陽の下でも駆けてきたみたいに、体中汗だくだった。呼吸する度に口の中が不快な血の味で満たされる。

 けれど足を止めることなく教えられた病室まで行くと、ドアの前に見知らぬ男が立っていた。胸のバッジが偽造品でない限り、彼はこの街の警官だ。


「マデリンさんの関係者?」

「甥です」


 尋ねられ、とっさにそんな答えが口を衝いた。どうして嘘をついたのかは、自分でもよく分からない。

 案の定警官には怪訝な顔をされた。看護婦ですら知っているくらいだから、彼もまたイアンが天涯孤独の老人であることは既に聞いているのだろう。


「マデリンさんに親族はいないと聞いてるが……」

「詳しいことはBOIのクロウ捜査官に聞いて下さい。それよりイアンは」


 かつての悪い遊びが役に立った。ジョーのおかげで警官を欺くのはわりと得意だ。人生に無駄なんてないことを、こんなときに実感する。

 警官はなおも首を傾げつつ、しかしラークを通してくれた。ドアの向こうには医者と看護婦が一人ずつ待機していて、彼らが寄り添うベッドの上に、白髪の老人が横たわっている。


「君は?」

「その人の甥です」


 もう一度同じ嘘をついた。彼の甥を名乗る資格なんて、もう自分にはないと知りながら。

 医者は看護婦と顔を見合わせると、すぐに退室する素振りを見せた。彼らは外の警官のようにラークを問い質さない。ただすれ違いざま、余計なことは何も言わずにラークの肩を叩いて去った。

 背後でドアの閉まる音がする。病院内の喧騒が遠慮したように遠のいた。

 ラークはベッドに歩み寄り、傍にあった椅子に腰を下ろす。すぐ脇の点滴台には誰かの血がかけてあった。輸血をしているようだが、それがただの形式に過ぎないことをラークは何となく予感している。


「……来たのか」


 不意に嗄れた声がした。ラークははっとして視線を上げる。

 白い枕に白い頭を預けたイアンは、起きていた。今は顔まで真っ白だが、イタリア人だって白人だから、と気休めにもならない呪文を心の中で唱えておく。


「聞こえたぞ。〝甥〟というのはおまえのことか?」

「他に誰がいるって言うんだ? それとも俺が霊能力者サイキックに見える?」


 無理矢理笑ってそう言うと、イアンもいつものように鼻で笑った。彼はそのあとすぐに咳き込んだが、血は吐かないので肺をやられたわけではないらしい。


「は、くそ。人並み外れて頑丈というのも考えものだな。コロシモのバーで大人しく人生に幕を引くつもりだったが、うっかり病院なんぞに運ばれちまった。医者どもめ、無駄な延命をするくらいならさっさと殺せばいいものを」

「そんな寂しいこと言うなよ。あんた、俺に謝らせもせずに逝くつもりだったのか?」


 憎まれ口は相変わらずだが、イアンはだいぶ呼吸が苦しそうだった。自分にも何かできないかと考えて、とっさに彼の手を握る。

 けれどその指先の冷たさに、思わず手を放しそうになった。

 思い出したのだ。目の前で悪友ジョーを失ったあの日のことを。


「……なあ、イアン。逝くなよ。俺に償いをさせてくれ」

「それは無理な相談だな。儂は地獄で人を大勢待たせとるんだ。そろそろ行ってやらんと、さすがに何をされるか分からん。第一おまえに償うことなど何もない」

「けど、俺はあんたを」

「誰かを愛するということは、神のお傍にいることだ。ラーク、おまえは儂に神の顔を見せてくれた。これ以上何を望めと言うんだ?」


 情けなく唇が震えて、思いは言葉の形を取ることなく零れていった。

 イアンの瞳は穏やかさに満ちている。今より千年以上前、無知なる子らの罪を代わりに背負ったイエスのように。


「まあ、だがどうしてもと言うのなら、冥土の土産に一つ訊こうか」

「……何を?」

「おまえの本当の夢はなんだ?」


 そうだった。訊かれて初めて、ラークはまだ自分の夢を彼に打ち明けていなかったことを思い出した。

 一年も一緒にいたくせに妙な話だ。ラークはもう一度口の端を持ち上げる努力をして、答える。


「俺、映画を作りたいんだ。ガキの頃、お袋が一度だけ連れて行ってくれた映画が忘れられなくて……俺もあんな風に、誰かを笑わせたり泣かせたりしてみたい。変かな?」

「いいや、できるさ。おまえなら」


 ラークはこんなにも短くて、こんなにも力強い言葉を他に知らなかった。

 だから頷く。皺だらけの手を擦りながら。

 イアンは他にも何か伝えようとしたようだった。けれど唇を開きかけ、まるで天国でも見つけたみたいに微笑むと、あとは静かに目を閉じる。

 ほどなくイアンは眠りに就いた。

 二度と醒めない安らかな眠りだった。


 それからおよそ二十年後、新進気鋭の映画監督が一人の老人の生涯を描いた映画で大ヒットを飛ばすのだが、それはまた別のお話。



              ×   ×   ×



 一発の銃声が、何よりも如実に終焉を物語った。

 目の前で腹部から血を流した神父がくずおれていく。

 ステンドグラスから注ぐ色彩が、倒れゆく彼の姿をまるで神話の中の出来事みたいに見せていた。立ち尽くす殺し屋の足元に、神父の手を離れたリヴォルバーが転がってくる。


「……おい、あんた」


 再び訪れた静寂の中。初めはそう声を絞り出すだけで精一杯だった。

 しかし思考がついに事態へ追いついたとき、打たれたように神父へ駆け寄る。彼は自分で自分を撃った。何故だ。理由が分からない。


「神父殿、あんた何をしてる」

「いいのですよ、これで。さあ、行って。じきに人が、集まってきてしまいます」

「いや、何もいいものか。神父が自殺するなんて聞いたことがない。そもそもあんたはなんで」

「〝力ある者は力なき者の弱さを担うべきであり、自らを喜ばせるべきではない〟」


 は、と聞き返した声が声にならなかった。

 ミオリス神父は微笑んでいる。腕の中で、七色の血溜まりを作りながら。


「マグダレーノさん。いえ……最期にあなたの本名を、伺ってもいいですか?」

「ジョバンニだ。ジョバンニ・ヴォルジアン」

「そうですか……ジョバンニさん。聖ヨハネにちなんだ、お名前ですね……彼は、力ある者の罪を糾弾し、そして死んだ。私は聖書の中で、主の次に彼を、尊敬しているのですよ……」

「もういい、喋るな」


 自分でもどうしてか分からなかったが、ジョバンニは気づくと神父の傷を押さえていた。このままここに群衆が押し寄せてきても構わない。ただ何に代えても彼だけは救わねばならないとそう思った。

 けれど神父は、そんなジョバンニの使命感をやんわりと拒絶する。彼は血まみれの手をジョバンニのそれに重ねた。包み込むようでいて、促すために。


「ジョバンニさん。あなたは先程、尋ねましたね……こんな自分でも、神はお許しになるのだろうかと」

「今はそんなことは」

「たとえ神がお許しにならずとも、私が、あなたを許します。そしてきっと、あなたのお母様も……」


 血がぬめった。神父の右手はそのせいで滑り落ち、床の上に力なく横たわる。

 聖堂は静謐に満たされていた。群衆の影などどこにもない。

 ジョバンニは穏やかに眠る神父の顔を見つめたのち、ゆっくりと立ち上がった。

 彼の手から零れた己の半身を懐に収め、歩き出す。

 扉は開かれた。溢れた夕陽があんなに暗かった懺悔室の中をも照らし出す。

 ジョバンニは振り向かなかった。

 誰もいなくなった部屋で、グラスがカラン、と小さく鳴いた。







Victor Marie Hugoと彼の著作『Les Misérables』に尊敬と感謝と愛を込めて。

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[一言] 面白かったです。ヴィクトル・ユーゴーのレ・ミゼラブルも読んでみたくなりました。
2017/12/09 08:29 退会済み
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