2話 (1/2)
九月三日。空は気持ち悪いくらいに青く澄み渡り、雲が気持ちよさそうに泳いでいる様子が水たまりに映っていた。今日は母のお葬式の日。しかし、式場に僕の姿はなかった。
「つらいのはわかる。でも変な意地なんかはってないで気持ち良く別れないか?」
父にはそう言われたのだが、僕にはそんな気持ちがなかった。この日の僕は狂っていておかしいくらいに空っぽで、そもそも気持ちという概念が僕から消去されたような感覚だった。
「僕の分までお別れしておいてよ」
そう父に言い捨て僕は逃げ出すように家を出た。
普通の人間が僕と同じ状況下に陥ったら落ち込んでしばらくの間は、悲しいだろう。しかし、僕はすれ違っていく通行人に避けられてしまう笑顔をしながら、街を散歩していた。
特に目的があるわけでもなく、ただただ両足と両腕を動かしたり、止めたりするだけの運動を午後6時を知らせるチャイムが鳴るまで永遠と繰り返していた。気づいた頃には全く見たことのない景色が僕の目の前に広がっていて、学生が帰宅していたり畑仕事を終えた老人が重たそうにたくさんの野菜を持って歩いている。
そんな景色を見ていると、なぜか自然と僕がこの世界に必要とされていないという世界に対しての劣等感が僕を襲った。今すれ違った見たことのある制服に身を包んだ女子高生は、金曜日ということもあって疲れ切った表情をしていたが、なぜだろうか。僕には生き生きとしているように見えた。それと同時に、今の僕からは最も遠い存在だと思った。ただの僕の思い込みかもしれないが、それが僕をもとの世界(現実)に連れ戻したのは確かであった。
「何してるんだか」
家に帰ろうとポケットからスマートフォンを取り出すと、父からの着信履歴が1スクロール分たまっていた。
これまで母ばかりを慕って来たものの、陰ながら僕ら二人を支えてくれていた父の存在を忘れたことはなかった。
小学校の運動会の時の事。がんばれと声を張って僕を応援してくれる母に対して、父は冷静に「良い」カメラを構えていた。がんばれの一言ぐらい言ってくれてもいいじゃないかと父に不安を抱いたことがあった。
くたくたになりながらも家に帰ると母が
「写真見ようよ。がんばってママさん軍団の前に出て撮ったんだら!」
と言って父の「良い」カメラではなく、ピンク色のデジタルカメラを持ってきた。どうせ父はろくな写真を撮っていなかったんだろうと思いながら、母の写真を見てびっくりした。百メートル走を走っている僕、玉入れをしている僕や組体操をしている僕も、すべての瞬間の僕が影分身のようにぶれていた。
「お母さん、全然よく撮れてない。ほら」
僕の言葉を聞いて、驚きと悲しさが混ぜ合わさったような顔をした母は、自分の撮った写真を見て笑い出した。
「こんなひどいなんて。笑っちゃうわね」
はぁとため息をしながら僕が椅子に座ると、それをソファーに座りながら聞いていたらしい父がパソコンを持って僕の隣に座った。そして、得意げにエンターボタンをカチャッと押すと、百メートル走で一等賞になり笑顔で人差し指を高く突き上げている僕が画面上に映し出された。
「ここ押せば次の写真見れるから」
そう言って席を立つと父は、もとにいたソファーに戻ってコーヒーを飲み始めた。それを見た母と僕は顔を見合わせてクスッと笑い合って、ゆっくりと写真を見ていった。
後日、父が頼んでおいた写真の現像を済ませて、僕のもとへ渡しに来てくれた。お礼を済ませて、アルバムにまとめようと写真を分けていると、母の撮った影分身の僕が出てきた。
出来上がったアルバムを母に見せると、「あ、私の!」と喜んでいた。
「ああ見えて、かわいいところがあるのよ」
父は照れくさそうにしながら、本を読み続けていたような。
母がいなくなって、一番悲しいのは父なのかもしれない。
***
父への謝罪も込めて今からでも式場に行って、母にお別れをしようと僕は式場へと走り出した。走ると嫌な思い出が甦ってくる。
現在地もわからない状態だったため、スマートフォンの地図機能を駆使して式場を目指した。スティー〇・ジョ〇ズには感謝しなければ。
「今から行くから!」
途中、父の電話にメッセージで今から向かうということも伝え、距離で言えばあと二キロのとこまでやってきた。ここまで三キロ走り息が切れていた僕を気遣うかのように信号が赤になった。
人気のない交差点で不気味だと思っていると、道路を挟んで向こう側にあるコンビニから悲鳴が聞こえた。反射的にコンビニを見ると、先ほどすれ違った女子高生が店員の格好をしてレジに立っていた。そして、その前には鋭利な物体を持って、サングラスとマスクで顔のほとんどを隠した男が立っていた。
「早くしろよ! 金出せばいいんだよ! 早くしないと刺すぞ!」
その男が大声で女子高生を脅すが、その子はは放心状態で石像のようだ。すると、男が別の定員を捕まえて、首元にナイフを当てた。
「早くしないとこいつ死ぬぞ!」
ここまで脅されていても、女子高生は固まったままだ。僕は、急いで警察に電話をしその場所から立ち去ってしまおうと思ったが、あの人たちが死んでしまって僕と同じような気持ちを味わう人が出てきてしまうと思うと、僕の手で止めなければ、いや、止めたい。そう思った。
あの時と同じように赤信号を無視して走り抜け、その勢いのまま入り口のドア開けた。そうすると、男が僕の存在に驚いてすぐにナイフをこっちに向けたが、僕は止まらずに体当たりした。
僕と男は結構な距離まで吹っ飛んで、商品棚にぶつかって止まった。
「何してくれてんだ。離せよ!」
「離すのはお前のほうだ。早くナイフを離せ」
僕は男を止めることで精いっぱいで、ナイフを奪うことはできない。
「誰かナイフを奪って」
すると、石像少女がやってきて、さっきまで固まっていたことが嘘の事のように冷静に男の手首を足で踏んで、ナイフを奪った。それを見たもうひとりの店員さんも男を取り押さえてくれた。
男はそれからも暴れたが、三人で必死になって止め続けた。三日間のうちに何年かに一度あるかないかの出来事に二度もあうのは、本当に運が悪い。少しすると警察の方々が男に手錠をかけて連れて行った。
「勇敢な対応ありがとうございました!」
若くて見るからに熱血系な警察官にお礼を言われたところで僕は気を失った。五十年分ぐらいの勇気を使ったのだから当然と言えば当然なのかも知れない。まぁ端的に言えば、疲れた。
こんな感じで母を救えていたら僕は今頃何をしていたのだろうか。また一つ後悔を見つけてしまった。