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どうせ死んでしまうなら  作者: 冬次 春
18/21

6話 (3/3)

僕が占領していたはずの廊下は何時の間にか異常に澄んだ空気が漂い、僕の雫を丁寧に吸い取った。何度かの瞬きで、最近低下しがちの視力を正確にする。それに追いつくように聴覚、嗅覚それぞれがそれぞれの位置にピタリとハマる。

 今まで感じなかった、いや、感じることができなった音や匂いに程よく緊張感を持った。通常であればこれは入学当初に感じるものなのだろう。物理的に見えるものだけを育ててしまっていたらしい数か月に生まれた後悔に嘆息しつつも、いつかそれが星より明晰に輝くことを願いながら、今は明るい空の中心で微笑む太陽に感謝と別れを告げた。すると太陽は最後のプレゼントを僕に渡し、再びゆっくり世界を丁寧に人間が溶けない程度に温め始めた。


 「なんでそんなとこで突っ立ってんのー?」


 久しくピントを合わせることがなかった自分の前には僕の中で色々なものが180°ひっくり返った彼がいた。優しい彼は僕を見てほんのり笑みを浮かべている。

 どうすればいいか緊張し、不安でいっぱいになり、また一人で先のことを考えて悩んで落ち込んでの作

業が僕の頭の中で始まる。しかし、僕は落ち着いている。

 ゆっくりと取り繕わない準備をして尖った心を徐々に丸くしていく。そして彼と目が合ってから最初に出てきた自分を信じた。すると僕は少しばかり、小さじ一杯程度の「余裕」を手に入れた。


 「空を見てた」


 彼は即座に「は?」と言う顔をして眉を寄せた後、僕の真上周辺の天井を見て、今度は「は?」と声に出した。今の五文字でほとんどの余裕を使ってしまったことに焦りながらも、僕は手に張り付いた僅かな余裕を集めて、願いを込めて心に投入した。

 

 「冗談」


 彼は納得した顔をすると、再び笑みを浮かべた。彼が僕に向けてくれた笑顔をやっと素直に受け入られたことに、この上ない安心感を抱いた。小さじ一杯は丁度良かったのかもしれない。

 

 「あ! また鼻血」


 「え」


 「冗談。はい! これさっきのお返しね」


 自意識過剰な僕の勘違いかもしれない笑顔を途中で止めようとして辞めた。それはどうやら正しかったようで、彼は「お! 笑った」と言って近づいて来てくれた。僕と違い余裕のありふれた彼は、優しく話の舵を取ってくれる。僕はしっかり本物で答える。


 「俺の事ヅカって呼んでよ。みんなそう呼んでるから」


 「うん。じゃあそうするよ」


 最後にヅカ君と呼ぼうとしたのだけど、恥ずかしくて頬を赤くしただけで終わった。そんなことよりも、今彼とこうして話していることが信じられなくて、何より嬉しかった。今まで僕が眺めていた壁は確かに高かったのかもしれないけれど、横から見れば驚くほど薄いものだった。


 「俺は何て呼べばいい?」


 先生以外の誰かに碌に名前を呼ばれたことのない僕は、シンプルに夏樹や夏の案を出そうとした。しかし、直前で思い出した記憶の世界の中での女子の言葉が気に入り、またそれが自分でも納得できたため、彼に提案してみた。


 「幽霊とか?」


 「へ?」


 彼の返答はおおよそ想像できていたものの、彼の間抜けなその顔に口角が躍った。


 「冗談?」


 僕は軽く首を横に振る。


 「違うよ。怪談」


 我ながらセンスのある回答に彼は表情を躍らせた。そしてそれをそのままに彼は僕のついていける程度の速さで会話を進めていく。彼は心に生まれた感情を言葉にすることがスムーズで上手い。


 「じゃあさ、レイとかどうよ。ユウはうちのクラスにいるからさ女っぽいけど、レイには似合うと思うよ」


 「もう呼んでる……」


 人気アニメのヒロインの名前をるけてもらえることは嬉しかったけれど、名前には何の関係性もない。 「なぜ?」という疑問を高確率の人々が持つだろう。そうゆうときは経緯を説明すればきっと納得してくれることだろうそれ以上のことは何も考えない。もう杞憂の感情には懲りた。


 「じゃあレイで」


 「おっけ、じゃあ行こうぜ」


 満足そうな顔をした彼が、教室に振り返るのと同時に、僕は影のように彼の後ろを歩く。教室との距離が近くなるにつれて、僕と彼の距離も近づいていく。教室の引き戸(元鬼門)の前でそれに気づいた彼は声をかけてくれる。


 「緊張してる?」


 頷くのはなんだか恥ずかしくて、右手の親指と人差し指で角砂糖を掴めるくらいの感覚を作って自分の体の前に登場させた。それを見た彼は引き戸に手を掛けながら歯を出し、しかし、声を出さずに笑った。


 「可愛いなお前」


 「お前じゃない」


 折角のあだ名で呼んでくれない彼に僕が前髪の間から目を光らせる。すると、彼は急に戸をスライドさせて、僕を先に教室へ放り込んだ。


 「いけー! レイちゃん!」


 彼の左手に力強く押された僕は陸上選手並みの前傾姿勢になってどんどんと前へと進んでいく。バランスを自力で回復させることのできない僕の視界には木製の教卓が目に入った。多少の痛みを覚悟した僕は正面衝突を防ぐために右肩を中心とした右半身を前に出す。僕の咄嗟の判断は見事に実を結び、結果的に然程痛みは受けずに済んだ。寧ろ、痛みを受けたのは優しい彼の方だった。


 「肥塚ー! 怪我したらどうすんだ!!」


 「スイマセーン!! 許してー」


 そのちょっとしたやり取りで盛り上がる教室の空気の波に、一人取り残された僕はキョトンとした顔でその後の一連の流れを鑑賞した。どうにか早田先生の怒りをすり抜けた彼は、定位置から少しずれた教卓を元に戻し、その下で座っている僕の前にしゃがんだ。


 「ごめんレイちゃん。気合入りすぎちゃった」


 「それより”ちゃん”じゃなくて”くん”にしてくれないかな。これでも男なんだ」


 「いーじゃん。レイちゃん」


 僕と彼の会話は妙に教室中に広がる。違和感を感じて、ピントを彼から少し奥へとずらしてみるとその原因はすぐに分かった。クラスメイト全員としっかり目が合ったのだ。彼らの中の一部はゲームセンターの機械を使ったかのように目を大きくしているから眼力が凄まじい。その状態から自然と、数十人vs僕のにらめっこが始まりそうになったが、開始のゴングが鳴ることはなかった。


 「おはよう。渡邊」


 「おはようございます」


 昨日と同じく早田先生の力によって立ち上げられた僕は、どうしてよいかわからず早田先生の目に視点を固定したまま周りの様子を見ようと思ったのだが、止まらない彼に肩を組まれた僕はまた数十人と目が合う。どこに視線をずらしても誰かと目が合う状況を僕は下を向いてやり過ごそうとする。しかし、それは案外正解だった。


 「下向くとまた鼻血出るよー」


 僕を拘束している彼の友達である山下君が一つ声を上げると、それを筆頭に少しずつ教室の体温が上昇していく。その倍くらいの体温を溜めた僕は、それを解き放つように、一か八か視野を広く持った。

 するとどうだろう。そこには僕に向けられた無数の笑顔が広がっていた。隣にいる彼の笑顔でいっぱいの僕はそれらを溢れさせてしまう。


 「ヅカーなんでレイちゃんって呼んでんの? 夏樹君でしょ?」


 「えっとね……」


 口を一度開けてからそのままの状態で固まってしまった彼は、僕の耳元で「よろしく」と言って僕の背中を、先程よりは軽く優しく押し出した。思ったよりも早く訪れたあだ名説明の機会、僕は慎重に伝える。


 「……なんて呼べばいいかとヅカ君に訊かれたから、幽霊って僕が提案しました。そしたら、ヅカ君がレイでいいじゃんって言ってくれて……」


 「そう! だからみんなレイちゃんって呼んであげて!」


 僕が言葉に詰まると、彼は上手くフォローしてくれた。しかし、「ちゃん」は余計だ。


 「へー、いいじゃん。よろしくレイちゃん」


 「なーんか可愛い! レイちゃんよろしく!」


 様々な方向から飛んでくる優しさのボールに、僕は後退りながらもすべてを完ぺきにキャッチしきった。そして、それらに僕の感謝を入れて彼らに投げ返す。


 「よろしく」


 

 ***



 二度と訪れないであろう素敵な朝のホームルームは、早田先生のいつもより張り切った笑顔で幕を閉じた。

 窓から見える空には雲一つなく、あるのは輝きを強くした太陽だけだった。自席からその風景を誇らしく感じていると、本日二度目、右肩を叩かれた。


 「レーイちゃん! 1限生物だから移動でーす。いこーぜ」


 つい先程まで彼ら3人に怯えていた自分が馬鹿馬鹿しくなる。


 「うん。是非」


 僕が席を立ちあがるなり、僕を引っ張っていく彼らにまた違う種類の恐怖を感じながらも、廊下を走ることの気持ち良さを知る。


 「廊下を走るんじゃなーい!!」


 精神的に僕らの背中を掴んだ手の正体は当然の如く早田先生。急ブレーキをかけぜるを得なかった僕は、その反動でブレザーのポケットから携帯を落とす。


 「レイちゃんだいじょぶ? 全くセンセーが脅かすから」


 「大丈夫。でもちょっと待って」


 片手で携帯を拾い上げた僕は、親指一本で一本のメールを打つ。とても短いから時間はかからない。送信ボタンにしっかりと気持ちをのせた僕は、今度は彼らと共に歩き出す。


 宛先:春さん


   頑張ったよ。


 


  





 


 



 


 

 

 




 

ご拝読ありがとうございました!よろしければブックマーク等よろしくお願い致します。

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