4話 (3/3)
前回の続きからです。お楽しみください!
朝のホームルームが終わり、やっと教室から出られた僕はコンパクトな筆箱を片手に速足で廊下を歩く。そして、上階へと続く階段を運動部員波の速さで上がり切った。
僕より一回り二回り体の大きい原始人がうろついている廊下を通り、資料室と書かれた教室に足を踏み入れた。
たくさんの空席がある中で僕は窓際後ろから二番目の席を選んだ。数秒の無音世界を邪魔した扉のスライド音で誰かが入ってきたことを確認し、顔を直視せずにテスト用紙を受け取った。効き慣れたチャイム音に導かれ、テスト用紙の顔面を拝見する。この拝見作業を後二回したのだが、最も僕の好みでない顔面をしていたのは数学だった。
”次の問いに答えよ”
いつもならその命令口調に怒りを覚えるはずだが、僕の感情は恐怖一色に染まっていてそれどころではなかった。夏休み中頭に入れたはずの二次方程式なんていう無駄な知識は、何かの拍子に溢してしまったようで国語、英語の回答用紙が半分文字で埋まったのに対して数学は四、五問しか埋まらなかった。こんなことは今までになかったが、悔しくなんかない。
「しょうがない。気にするんじゃないぞ。頑張れ頑張れ」
まだ名前の分からない体育科担当の先生という職を持った原始人は僕にそう言った。その言葉が何を指し、それをどう解釈したかのかわからなかった僕は、無視をして二人だけの教室を出た。
テストを受けていた教室が一年生の教室がある階ではないためあいつらに会う心配はなかったが、テストが終わった今僕の心は狂気の沙汰。自分をコントロールできていないことを倒れることによって確認した。
床に顔面を押し付けた僕を後ろから見ていた体育科原始人は「大丈夫か!?」と大きな声で僕が無様だということを仲間に伝達しようとする。
両肩を掴まれ、強制的に立たされた僕は一様会釈する。特に意味はない。
その大きな体を目で一回りした僕は、この原始人に高松という名前があることを知った。高松もまた華奢なな僕の身体を目で一周した後、もう一度「大丈夫か?」と言う。その時の顔は早田と驚くほど同じものだった。
驚きのあまり、今度は尻餅を搗いた僕は見えないように溜息を放った高松に腕を掴まれ再度立たされる。
思ったよりも自分がオカシイことを認識したため、僕は決死の覚悟で口を開く。決死の覚悟で・・・。
「……すみません。もうちょっと……もうちょっと教室に居ていいですか?」
やっと、やっと運が僕に味方したようで高松の返答はよいものだった。高松に肩を持たれながら、改めて窓際後ろから二番目の席に体重を預けた。すると、高松はボロボロの教卓においてある一枚のプリントを僕の前にある机の上に置いた。
「ちょうどよかった。夏休み中についてのアンケートがあるんだ。ゆっくりでいいから、休み休みやってくれ。あと、そんなに自分だけでいろいろ背負うなよ? 周りに少しは頼れ」
ここで僕は、高松が勘違いをしていることがわかった。
高松は僕のことを見透かしているようなことを言っているが、それはただ生徒のために何かをやっている自分に酔いしれているだけで、僕のこの表情を作っているものの本質をまるでわかってはいなかった。
「母のことはもう気にしていないんです。……悲しいとかは全然」
その言葉を聞いた高松は眉間に皺を寄せて考え始めた。多分一生出ることのない答えを探している。けれど、考えることをしてくれることには敬意を払うことにする。
高松”先生”は、突然顔を明るくして僕に強いまなざしを向けた。
「そうか! じゃあ、がんばれ!」
世界最大級に適当な答えは、僕に届いてしまった。僕はどれだけ頑張れば良いのだろうか? 僕は頑張っていないように見えているのだろうか? 頑張っているのになぁ。
僕は先生が教卓の近くにあった、教室にただ一つのパイプ椅子に腰かけたのを見て、アンケートに手を付けた。
Q、夏休みの思い出を一つ以上挙げてください。
僕は先生に聞こえないように溜息をする。これだから困るのだ。
夏休み=楽しい 楽しいもの=いい思い出 いい思い出=夏休み
こうした定理は小学校のころから僕を苦しめてきた。
あれは、僕が小学三年生の時だった。このアンケートと同じようなものが配られ、僕は何の変哲もなく母と本をたくさん読んだことと書いた。楽しかったから。
しかし、クラスメイトは僕を笑った。なぜ笑うのかは訊かなかったから未だにわからない。
でも、先生にどこかへお出かけしなかったの? お友達と遊ばなかったの? という問いで世間の普通を知った。けれど、僕は次の日も学校で本を読んだ。
そのせいで僕は、いじめられた。多分あれはいじめだと言っていいと思う。
僕が触れたものには渡邊菌というウイルスが感染するらしく、後ろの席だった主犯格の森山君は一度も僕の触ったプリントを受け取らずに、先生に新しい物をもらっていた。たしか、感染することによって現れる症状は”マザコン”と、わけのわからない目が悪くなるというものだった。ものすごいウイルスだった。
気が付くと僕のアンケートは終わりを迎えていた。六つある質問のすべての回答欄には「ない」の二文字が書かれていた。
「……色々な…ことがあったので、今の僕に……はこれしか書けません」
先ほどまで荒れていた息は元に戻り、いくらか体のコントロールができるようになった僕は高松先生の前に行き、心にもないことを言った。本当は書けたし、書かなかっただけなのだ。
「そうか。まぁしょうがないな。ゆっくりがんばれ」
繰り返しがんばれと言われることの退屈さと、”ゆっくり”が付くことでそれが和らぐことを知った僕は、誰もいない廊下に出た。
窓から見える薄暗い空には母の姿はなく、僕を俯かせた。
来た時より何倍も重い両足をどうにか動かし、踊り場で一休みを入れて三十段ぐらいの階段を下りる。
階段を下り切った時に落ちた筆箱と数秒にらめっこしたり、普段は目もくれない委員会のポスターを眺めたりしながら、クラスまでの短い道で時間をつぶした。それでも、助太刀のチャイムが鳴ることはなく僕は鬼門の前で足を止めた。
その先からは、僕に足りないものを持った原始人たちの笑い声や雄たけびが聞こえてくる。こんな言い方をすると、僕が劣っているように感じるがそんなことはない。僕は、奴らが持ち合わせていないものをすべてと言っていいほど持っている。なぜなら謎の生命体ですから。共通していることと言えば、呼吸に酸素が必要なことや、……あとは多分ない。
思考回路の復旧が出来ていないままの僕は、後ろの鬼門に手をかけてから嫌なにおいがすることに気づき、しょうがなく前の鬼門から入ることにした。
僕が鬼門をスライドすると、先程までパーティー会場並みに盛り上がっていた空間が一瞬で静まった。 ひょっとすると僕は超能力者なのかもしれない。
僕が開いた鬼門ではないもう一つの鬼門の周辺に固まったあの三人組は、ありがたいことに止まった時間を笑い声で動かしてくれた。僕の顔をそんなにおかしいのかと疑問を持ったのだが、この際そんなのはどうでもいい。彼らには、僕の力は無効なのだろう。使えない能力だ。
そして、徐々に耳が痛くなってくることを感じていると早田先生が僕に近寄って来た。
「どうだテストはできたか?」
自分の自然治癒力でやっと僕は体のコントロール権を取り戻せたようで、先程までのぎこちないしゃべりはいつものスムーズなしゃべりに戻った。
「国語と英語はいつも通りで、数学の出来は悪いと思います。すみません」
先生は僕を教室から追い出すときにはなったプレッシャーを忘れていたようで、「なぜ謝る必要があるんだ? 頑張ったならそれでいい」と言った。
僕は漫画のように数秒の時間の中で考える。先生に限らずこの世の者はなぜ「頑張る」という曖昧な価値観が大好きなのだろうか?
頑張っているかそうでないか。それは当事者以外には答えが出せないもので、もし答えを見つけられたとしてもそれはただのエゴの押し付けであり、少なからず当事者にプレッシャーを与えることになる。
しかし、この世界のほとんどはこの価値観を至って気軽に使ってしまっている。
そもそも人間は生きているだけで頑張っていると言えると思う。そう、生きているだけでもう頑張っているのだ。特に僕は頑張っている。
二秒経過したときに僕はあることに気が付く。それは僕の思考を停止させ、この二秒間の出来事を僕から奪っていった。
文化祭実行委員長候補 渡邊
先生は黒板に書かれたその文字を僕が見たことに気が付き、僕の右肩に左手をのせた。
「お! 気づいたか。
渡邊には実行委員長をやってもらおうと思ってな。肥塚が提案してくれたんだ。な! 肥塚」
「そうそう。渡邊君は真面目だし、実行委員長に向いてんじゃないかなーって。みんなも賛成してくれたし、ほんと良いと思う。マジで」
あの三人組は僕に向けて笑顔を送った。その時僕の時間は止まり、目の前の世界から色が消えモノクロの世界が広がった。
「渡邊どうだ? やってみないか?」
気が付くと僕は席に着いていて、黒板の候補という文字が消されていた。
五時間目の英語の授業を治癒のために使ったが、僕の世界はモノクロのままだった。その証拠に六時間目の美術の時間で恥をかいた。葉の色を黒の絵の具で塗りつぶしていた僕は、美術家担当の平山先生に心配され、休んでいていいよと言われてしまった。
言われた通り、休もうと机に突っ伏した時に見えた空は、黒一色だった。
このモノクロ症状はバックを背負って教室を出ても、靴を履いて外に出ても、自転車に鍵をかけても治らなかった。
次第に大変なことが起きていることに気が付いてきた僕は、全身が汗に覆われていた。モノクロのスマートフォンで気温を確認したが、それほど高くはなかった。
呼吸がうまく出来ないことを隠そうと僕は下を向きながら自転車を校門まで走りながら押していった。そして、流さないと決めていた涙が出そうなくらい苦しくなった僕は、また倒れた。自転車ごと。
このまま死んでしまえば楽になってしまえるのかもしれないといけない覚悟を決めたとき、僕は声をかけられた。色のある声。
その声を聴いた瞬間僕の中に酸素が一気に入ってきて、どうにか僕は一命を取り留めた。
「ねぇ! 大丈夫!? 息できる? どうしよう……」
まだモノクロのままの僕の世界の中で目の下に絆創膏を付けた彼女だけにはしっかりと色が塗られていた。 綺麗な肌色の手は震えながら僕のうなじに触れ、力ずよく僕の上半身を起き上がらせた。
「………色が…ある。」
僕の言葉の意味を理解できない彼女は、ますます焦った挙句僕に一つの命令をした。
「私の名前言って!」
「……く…ぜ……は…る。」
彼女は大きく頷いた後、僕に今最も必要のない二酸化炭素をいっぱい吐き出した。
「死なないで下さいよ~って言った人がこんなになっちゃダメでしょーが!」
全くその通りである。
ご拝読ありがとうございました。
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