蠢く世界
あれは虫だ。間違いない。
俺の世界はきっと特殊なんだろう。全ての人間が、人間に見えていないのだ。俺にはこのクラスの奴らが蛹に見えている。全ての人間は虫に過ぎない。罵っているわけではないし、馬鹿にしているわけでもない。
本当にそう見えるのだから仕方がない。クラスメイトは悉く蛹だ。クラスの机の前には、全て灰色の蛹が座っている。教卓の前には痩せた蠅が鎮座し、偉そうに出席簿を捲った。
「稲見」
「はい」
「上村」
「はい」
出席の確認をするのに、蛹が返事をしてみせる。どこに口があるのやら。
「白川」
「あ、はい」
俺の名前が呼ばれた。感情のない呼び方だ。そのまま全員が呼ばれて、何事もなくホームルームが始まる。
「今朝はまたショッキングなニュースが流れましたが、皆さんは犯罪や事件に巻き込まれないよう……」
ショッキング? ショックというならこの惨状こそがショッキングなニュースだ。犯罪や事件? 蛹同士がなにをするというのだ。この世界のあらゆることがニュースだよ。
さらりと当たり前のように授業が始まる。他の奴らも素直に教科書を開き始める。冗談だろう。なにも思わないのか? 全員が蛹なんだぞ。俺以外の全員が、人間の形を成していないんだぞ。それでも授業を始めるのか? 人間にするように、普通に。いいのかよ。
心の中でどれだけ言っても、周りはなにも思わないらしい。俺が異常者のようだが、異常なのはこのクラス、この世界のほうだ。きっと俺と同じ世界を見ている奴がいるはずだ。そいつこそが正常なんだ。
このクラスは異常者ばかりに違いない。だけど、隣のクラスは別だ。人間がいる。俺と同じ人間だ。肌はしっかり肌色だし、学生服もちゃんと着てる。しかも女子だ。
柄でもないが、アダムとイヴを思わせる。俺と彼女だけがまともな人間なのだから、そう思ってもしょうがない。運命的と言っても過言ではないだろう。
耳障りな音が聞こえて、俺の思考を遮った。教卓の前にいる蝿は時折羽音を鳴らしながら、前肢をカサカサと動かしてチョークを握り、黒板に重要らしいことを書きなぐっている。
世界が虫に溢れているとして、一つの疑問は大人は全て虫の形をしていて、学生は蛹であることだろうか。まあ単純に成虫かどうかという話だろう。大人か子供かの違いかもしれない。まあ、大人はあの五月蠅そうな蠅で、子供は蛹というなんとも言葉に困る有様だが。
授業中、蛹の前にある教科書は勝手に捲れていくし、ペンは自動的に動いてノートに文字を綴っていく。摩訶不思議と言わざるを得ない光景だ。
なんだろうか、これは。本当に気持ち悪い絵面だ。もう慣れたものの、一体俺はいつになったらまともな世界を見ることが出来るのだろうか?
小学校の頃はまだ普通だった。中学生になってからだ。ある日、突然友達の姿が霞んだんだ。それからは早かった。あらゆるものが姿を変えた。俺の視界はそれ以来虫に埋め尽くされてしまった。親ですらその有様で、友達と呼べる奴らは見分けがつかなくなってしまった。どれも同じ色の同じ形の同じ蛹になってしまった。
隣のクラスの、彼女も同じなのだろうか。人じゃないなにかを見ているのだろうか? おぞましいと思わないのか?
いいや、思うに決まっている。そうでなくては、彼女もまた異常なのだから。どうにか接触したいものだが、なんでか彼女は蛹どもと仲が良い。常に蛹に囲まれていて、近付けない。
普通の人間として接しているのだろうか。そうだとすれば大したものだ。俺には真似できない。彼女こそ聖女と呼べる。慈悲深い彼女。彼女だけが俺の安息、俺だけのオアシスだ。
授業が終わり、教室を移動する。廊下は見渡す限り直立した蛹だらけ。一斉に移動しているその様は不気味で異様だ。教師陣だけは成虫、蛹から羽化した奴らだが、それこそ巨大な虫でしかない。つまりは化け物だ。
蠅やら蛾やら、もう少しまともな生き物はいないものか。蝶でもなんでもいい。ただ、現実の昆虫と違うのは不完全変態をする生き物が、平然といることだろうか。例えば、カマキリやバッタなんかの昆虫だ。教師の中にはバッタがいる。体育の時にみるから体育の教師なのだろうが、あれは蛹にはならない虫だ。
だが、俺は蛹以外の人間は見たことがない。つまり、蛹にならない奴らも蛹から羽化するという、よく分からないことになっている。まあ、過程がどうでも俺の世界に変化はない。
蛹になる前は幼虫だろうが、俺の世界には蛹とその成虫しかいない。生まれてきた生き物全てが蛹のままか? それも妙なものだが……。
何度考えてきたことだろうか。まったく、どうして俺の世界はこうなった?
あれやこれやと悩んでいる俺の肩を誰かが――いや蛹しかいないのだが、とにかく誰かが叩いた。振り返ると、そこにいたのは人間だった。彼女だ。
「おはよう。白川君、だったよね?」
「お、お、おはよう。ええと……」
彼女だ。俺の、唯一救いの女神。だが、実のところ彼女の名前を俺は知らない。なぜか? クラスが違うし聞くにも蛹に阻まれるし、周りに聞ける人間が存在していなかったからだ。だが、彼女は今確かに俺の名前を呼んだ。どうして俺を知っているんだ?
「私、黒野だよ。黒野由夢」
「あ、ええと、どうも黒野さん」
「前から話したかったんだ。君は他の人とは違うから。いや、人っていうにはちょっと違うかな?」
その口ぶり、やはり黒野さんも俺と同じってことか? そして俺の存在にも気付いていた。やっぱりそうなんだ。俺の世界を共有できるのは、彼女だけなんだ。
感動だ。久しぶりの人間との会話がこれほど心震えるものだとは、想像の上をいっている。
「やっぱり、君も奴らが普通には見えていないのか?」
「……そうだね、うん。多分君と同じだと思うよ?」
「やはり、そうなのか。俺だけかと思っていたけれど、やっぱり黒野さんだけは違うんだな。奴らが蛹に見えるのも、教師が巨大な虫に見えるのも俺だけじゃなかったんだな!」
「うん、同じだよ」
同じ世界を共有できる友人ができた瞬間だ。嬉しい、なんて嬉しいことだ! やっと俺の世界に一輪の花が咲いたような気分だ! こんなに心躍ることはない!
「それでね、今日の放課後、ちょっと話せないかな?」
「もちろん! 俺も色々話したい!」
「うん、楽しみにしてるよ。じゃあ、放課後、クラスで待ってて欲しいな」
笑顔の黒野さんはとても輝いて見えた。今日はとても素晴らしい日だ。記念すべき日だ。俺はきっと今日という日を忘れることはないだろう。
そこからはあっという間だった。放課後、蛹どもは部活動やら帰宅者に分かれて徐々に教室から姿を消していき、俺は一人、彼女を待った。蛹どもがグラウンドで部活動に勤しんでいるのが窓から見える。
声は人の声なんだ。どうしてあんな見た目なのだろうか。蛹の中身に人間が……なんてことはないか。着ぐるみじゃああるまいし。
「ごめんなさい、お待たせ」
黒野さんが来た。ああ、久しぶりに話す普通の人。それだけでなんと至福なものか。
「いやいや、全然待ってないですよ!」
「じゃあ、行こうか」
「行くって、どこへ? ここで話すんじゃ?」
「ここはまあ、皆の目もあるし、落ち着けないじゃない? わかるでしょ? 私の家に来てほしいの」
「黒野さんの家に? 行ってもいいのか?」
「うん、親元離れて一人暮らししてるから、遠慮せずに来てよ」
一人暮らしの女子の家に行くのか。少し照れくさいが、せっかくの誘いを断る理由にはならない。むしろ語りたいことが山ほどあるんだ。人目が気にならないほうがいい。
俺は快くその申し出を受けた。帰り道、相変わらずの世界を眺めつつ、隣にいる人間に安心感を持ちながら歩き続ける。蛹や虫の中に、俺と同じ人間がいる。夢にまで見た普通の風景だ。
涙が出そうになるのをこらえながら、俺は彼女の住んでいるという家に案内された。一人の学生が住むには不相応なものだが、なんでも親戚の別荘を丸ごと借りているらしい。
中に入ると、家にある当たり前の家具がある以外、別段不思議に思うものはない。強いて言うなら、意外なほどに殺風景だと思うくらいだ。まあ、借り物の家らしいし、持ち主の家を勝手にアレンジはできないのだろうと勝手に納得することにした。
「今、お茶入れるね」
ソファーに腰掛け、彼女が淹れてくれた紅茶の入ったティーカップを渡される。いい香りだ。
「ありがとう」
「いえいえ。さて、なにから話そうか」
「もちろん、この世界についてだ。いつから奴らがそう見えるように? 俺は中学校の――」
紅茶を飲んだ途端に意識が揺らぎ、混濁する。彼女の笑みを見たような気がして、そのまま意識が途切れた。
次に目を開けたとき、俺は見知らぬ部屋にいた。薄暗く、ベッドに横たわって拘束されている。口も布で塞がれており、自由なのは目だけだった。部屋を見渡し、絶句する。
壁に張り付けられていたのは、中身の暴かれた蛹や、巨大な蝶だった。蛹を暴かれ、血と肉が混じり形状が不完全な中身を杭で打ち付けられたものが壁にいくつか張り付けられ、巨大な蝶は胸と羽を細長い針で貫かれて壁に張り付けになっている。
それはいわば、標本だ。一体これはなんだ。どういう状況だというんだ!? 俺はどうしてこんなところにいるんだよ!?
黒野さんは? どこに? いや待て、そもそも彼女の家に行ってこうなったってことは、彼女がこれを作ったのか? 俺を拘束したのか? そんな。どうして? なんでこんなことに?
ドアが開いた。光が差してくる。彼女だった。黒野由夢! 呻く俺を見て、彼女は特に思うものもないのか無表情で歩み寄ってくる。
「あら、もうお目覚め? 量が足りなかったのかしら」
ぶつくさとぼやくような言い方だった。俺と話す気がないのはすぐにわかった。この女、唯一の人だというのに、俺がずっと追い求めていた世界を共有できる女だと思ったのに! これはなんだというんだ。俺がなにをしたっていうんだよ!?
拘束を解こうと蠢くものの、手足はおろか体はベッドごと何重も鎖で巻かれて、錠でしっかりと固定されている。人間の力では破れない。
彼女は足掻く俺を冷ややかに見つめると、突然噴き出し大笑いを始めた。一頻り笑い終えると、部屋の隅から電動ドリルを手にし、それを俺の心臓部に当てた。
「これだけ大きいと、普通のやり方じゃ処理できないからね。先に死んでくれないとアルコールに漬けることもできないわ。あまり死体を汚したくないの。暴れないでね?」
無理な話だ。ふざけるなよ! なにしてんだ。そんなもので体に風穴でも開ける気なのか。殺す気なのか。冗談じゃない、やめろ、やめてくれよ!
「本当に、変わった虫ね」
耳を疑った。時間が静止した。今、なんて言った? 虫って言ったか。俺のことを、虫?
「しかも、蛹じゃない。幼虫って初めて見たかも。レアなものは欲しくなるのが人間の性ってやつよね」
幼虫? なにを言ってるんだ。蛹じゃない? 待てよ。俺は人間だぞ。他の奴らは全て蛹や虫で、俺と彼女だけが世界を共有できる人間のはずじゃないか。それが虫? レア? 思考が巡らない。何を言っているのか全く理解できない。
「ああ、次はどんな素敵な標本が、私の部屋に並ぶのかしら」
恍惚とした表情の彼女。ああ、考えもしなかった。彼女には俺が人に見えていなくて、彼女はこの世界に絶望すらしていなかった。むしろ彼女は虫が好きなんだ。この世界が楽しくてしょうがないのだ。
標本作りが、彼女の趣味。
今朝、教師が言っていた。ショッキングなニュースって、もしかしなくとも校内から行方不明者が出たというニュースじゃないだろうか。そしてそれは多分、数日以内にまた増える。
彼女の瞳に、俺が映った。ただ気色の悪い緑色の幼虫が映っていた。人間だと思い込んでいたのは――歪な姿の俺だった。
金切声を上げ、ドリルが回る。緑色の体液がばらまかれ、彼女は新たにコレクションを手に入れた。彼女にとってまったく価値のない、虫一匹の、重みのない命と引き換えに。