理性ある獣
ふと思いついて書いてみました。R-15は保険です。
『理性なき人間は獣と同じ』ならば、『理性ある獣』は人に等しいのか?
そもそも理性とはなんなのか?
理性とは、本来心の働きを意味する言葉だ。
善悪の分別をつけ、物事の道理を判断する力。それは先天的に備わっているのか?それとも、後天的に身に付けていくものなのか?
そもそも、善悪とは何だ?
何を持って善として、何を持って悪とする。
それは人間が判断することではないのか?性善説や性悪説など、諸説人の心を表す説はあるもののそれは結局人が定義し、人にのみ当て嵌めている言葉ではないのか?
そのことを踏まえた上で、私は我が友の話をしよう。
我が友、コロヴァス。彼は虎だった。
彼との出会いは偶然によるもの。彼の母親が我が家の近くにやって来たことがきっかけだった。出産直後で空腹を抑えきれなかったのだろう。母虎は人里に下りてきてしまった。
それを私の父が射殺した。
私たち家族を守るためとはいえ、彼から母親を奪ったのだ。
そして、その傍にいたのが彼だった。
父は、彼を殺すことができなかった。
そして、彼をコロヴァスと名付け、家族へと迎え入れた。
父は彼を育てた。
まるで人に接するように、根気強く。それでいて自然の中のように厳しく。
まずは人を襲わないように躾け、野生動物の捕り方を教えていった。
日々強くなっていくコロヴァス。私にとってはまるで弟のような存在は日々たくましく成長していった。
そんな日々が続いたある日、私は虎に襲われた。
コロヴァスではない、虎に。
幼かった私には、コロヴァスと他の虎の区別ができなかった。彼が私の家族であるように、他の虎も私と家族になれる。そう信じて疑わなかった。
だが、違うのだ。
家族として過ごしてきた彼と自然の世界で世界の掟の下に生きている彼らではすべてが違っていた。
私は襲われ、鋭い爪によって切り裂かれた。
幸いにもあまり大きな傷にはならなかったが、私は恐怖で動けなくなった。
悲鳴を上げ、泣き叫ぶ。
本来ならば逃げなければならない場面で、私は動かなかった。
そして、虎が私の喉笛に喰い付こうとしていた時、コロヴァスが助けてくれた。
彼は同族である虎に襲いかかり、そして虎が私にしようとしていたように喉笛に喰らい付いた。
彼が同族を殺す様を目の当たりにし、本来ならば恐ろしい光景が私には安堵を齎した。
父が駆け寄ってくるのも見える。
安心しきった私は口元から血を滴らせる彼に抱き着こうとした。
しかし、抱き着く前に私の頬に衝撃が走った。
何が起こったのか、一瞬わからなかった。
頬に走った痛み。それは彼が尾で私の頬を叩いたことによるものだった。
彼は哀しげな瞳で私を見つめ、同族の傍に座り込んだ。
父からはコロヴァスは私を家族だと思うから危険なことをするな、そう言っていると言われたが私にはそうは思えなかった。
彼は同族を殺してしまったことを悔いていたのだ。
人間ならともかく、野生の世界においては同族殺しなど珍しいことではない。
時には縄張りのため、時にはエサのため、時には優秀な伴侶を手に入れるため、自然界ではありとあらゆる場面で同族殺しが行われている。
人間がしないのはそれが倫理に反する行動だと位置付けているからに他ならない。
では、この場面で彼が悔いていたのはなぜか?
おそらく、自然の摂理に反した行動をしたからだろう。
空腹だった同族。目の前にいたエサである私。本来ならばエサを奪うために攻撃をすることはあってもエサを守るために攻撃することはなかっただろう関係。
摂理を犯したのは私。従ったのは相手。
それなのに、彼は感情によって私を守った。それを悔いていたのではないだろうか?私はそう考える。
今、私の目の前には死体がある。
男の死体だ。
この男の名前を私は知らない。
そして、私の手には猟銃が握り緊められている。
そう、私がこいつを撃ったのだ。
こいつは私の父と彼を殺した。
彼の毛皮を欲したこの男は父に彼を殺して譲るように頼んできた。
当然、父はそれを断った。もう十年以上共に過ごしてきた彼は私たちにとってはかけがえのない、家族であり、友だった。
そんな彼を欲のために殺すなど、できるはずがなかった。
断られた男はその場は引き下がった。
だが、その時の苦々しげな表情と物欲しそうに彼を見ていたその眼を私は忘れることはできなかった。
その日は、妙な胸騒ぎがした。
私は急いで家に帰ると、そこには頭から血を流す父とその傍らで父を無視して一心不乱に彼の毛皮を剥いでいる男がいた。
男は私に気付くとゾッとするような笑みを見せながら何があったのかを語った。
再度彼の毛皮について交渉しに来た男に、彼が襲いかかったのだと。そして、襲われている男を見て、父がやって来たが、コロヴァスを撃つのを躊躇った。だから、自分が持っていた猟銃で彼を打ち殺したのだと。その際、運悪く流れ弾が父に当たってしまったと。
確かに男の言う通り、父は猟銃を握り緊めて倒れていた。
だが、おかしいのだ。
確かに父は猟銃を握り緊めてはいた……が、それは片手にだ。
普通、猟銃を構えた状態で撃たれたのなら両手で持っているべきではないのか?
それ以前に男が彼の毛皮を剥いでいた位置で襲われたというのならば父の死体の位置はおかしい。
父はこめかみ辺りを撃たれているが、男の位置からではどうあってもこめかみには当たらない。
何よりも父の死体には動かされた形跡があった。
それを見て、私は悟った。
涙を流し、父の死体に駆け寄っていく。男はそんな私を見つめながらも、彼の毛皮を剥ぐ作業を再開する。父の死体に駆け寄った時、私の涙はとうに収まっていた。
父の手に握られた猟銃をそっと動かし、男を撃ち殺した。
男は何が起こったのかわからないという表情で呆気なく死んだ。
私はそれを確認すると、男の死体を思い切り蹴り飛ばした。
汚らわしい男が彼に触れているという状況が我慢できなかったからだ。
おそらく、この男の話で本当なのは再度交渉しに来たところまでだろう。
そもそも、交渉に来るだけで猟銃を持ってくる理由がどこにある?
この男は元々、彼を殺すつもりで来たのだ。
父と交渉し、父が断った段階で男は彼に銃を向けた。だが、彼の方が速かった。彼は男を組み敷き、圧倒して見せた。男の服が鎚で汚れているのはそのせいだろう。
だが、彼は男を殺さなかった。
殺されそうになったから殺す。それは簡単だ。だが、彼の理性はそれを許さなかった。
そして、その場から離れようとした彼を男は撃った。それを見た父は銃を持って彼の傍らに。彼の死を確認し、嘆いている父をこいつはさらに撃ち殺したのだ。
理性のあった彼は理性によって殺された。
理性なき男は躊躇なく殺した。
では、私は?
私はどうなのだろう?
男を殺すことに躊躇などしなかった私は?
男を撃った時は至極冷静だった。
怒りで男を殺すと決意はしたものの、撃つ時にはまるで的を撃つかのようにスムーズに流れ作業のように撃っていた。それは自分でも驚くほどに。
そして、人を殺したというのに私の中には哀しみはない。
いや、父と彼を喪った悲しみはあれども、人殺しになった哀しみはなかった。
人は理性で生きている。
理性があるから人は人足りうる。
では、理性を失くした私たちは人ではなく獣なのか?獣でありながら、人以上に理性を持っていた彼は獣ではなく、人だったのか?
その答えは永遠にわからない。
わかるとすれば彼と再び会った時だろう。
語り部はその後、死んだのか生きているのか。それは読者の皆様のご想像にお任せします。