01
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Oasis 『WonderWall』
祇園をんる。
一聞したところで、この言葉が人の名前だとわかる人はあまり、とういうか、ほとんどいないだろうが、これはれっきとした彼女の名前であり、彼女はいつだって堂々とこの名を名乗るのだった。
「祇園をんるといいます」
少女らしい恥じらいのようなものもなく、こんな感じの、堂々とした言い草だったと思う。
あの訥々としていたくせに、あまりにも突然すぎた彼女との初めての接触には忘れがたいものがある。
姓が、祇園で、
名が、をんる。
実に変な名前だ。
いや、まあ、僕の名前であるところの此田というのもかなり珍しなので、あまり人のことは言えたものではないが。
だが、彼女の場合、名前だけでなく、なんというか、行動というか、日常生活も変なのだ。ここでは、あえてそのことについて色色と語ろうとは思わないけれど。
彼女は。
不思議だ。
とても。
掴み処がない、とでもいうべきなのだろうか。
一緒にいて約三ヶ月たった今でも、僕は彼女を毛ほども理解していないだろう。まあ、最初から人間が他の人間を完全に理解できるはずがないのだけれども。勝手に勘違いしたまま、すれ違いながら、死んでいくのだろうな、と十七歳なりにそんなわかったようなことを思っている。だから、色色も、彼女のことを、彼女の本質めいたことを、僕は語れない。
それでも、一つだけ彼女の特徴を語ってみれば、彼女はアコースティックギターを常に持ち歩いているのだった。黒いケースに入れて。そして、ギターを弾くのかと思いきや、只只それは振り回すだけなので、初めて僕がその矛先(?)を向けられたときは、かなり驚いた。
あの空っぽな死んだ木の塊を。
彼女は振り回す。
壊れたように。狂ったように。
…いや、狂ったのは、別の人間の話でもある。
とりあえず、彼女はアコースティックギターを振り回す。
彼女は本来の使い方をわかっていないようだ。鈍器か何かだと思っているのだろうか。
…彼女は、何と戦っているのだろうか。その凶器、鈍器で。
この頭のおかしい世界で、彼女だけ、いや、もしかしたら狂っているのは僕らなのかもしれない。
わからなくて、わかった様な気がして。
繰り返して、勘違いして、また間違って。
僕は彼女が発した言葉を考えてみる。
「ボクは君の全部が知りたくて、多分そのためだったらこの世界が滅んだってかまわないし────世界中の人間が死んだって構わない。むしろその方が都合がいい。それが家族だって、ボクは思う」
彼女は、少女の笑顔で。
そんなことをいう。
やっぱり、僕は彼女を全然理解してなくて、彼女は不思議な存在なのだけども。
…僕を救ってくれるのは、彼女しかいないようなのだ。
だから、これはそんな、どこにでもある、救われたようで、救われない、日常的で非日常的で、変わったようで、不変的な、ハッピーエンドで、バッドエンドな、空っぽで、満たされたような、そして、壊れたようで、壊れていない、彼女と僕の物語なのだと思う。
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「そうだね。例えば。例えばの、話だ。地球の裏側で、子供が地雷を踏んで、誰かが射殺され、どれだけ大きい紛争、戦争、虐殺がおきても、君らは何も感じないわけだ。当たり前だな。自分たちには関係ないわけだから。多分それが世にいう『人間』だよな。僕もそうだったよ。それにしても、笑ってしまうよ。こんな世の中のネガティブな志向、思考、嗜好が僕の中にまだあるなんて。いやいや、自己嫌悪は嗜好だよ。結局のところ自分に酔っているだけなのだから。これはやっぱり最近の話なのかな?いや、違うよね。ずっと前からあった。…ああ、話がずれたな。閑話休題、っていうのかな、こういう時は。なんの話だっけ?ああ、地球の裏側の話だったね。で、募金活動を始めれば偽善者で、宗教活動を始めれば詐欺師なわけだ。あるいは、僕等がそれらと繋がって、いや、これは地球の裏側の話だよ、そう、で、僕等が壊れ始めると君らは僕等を精神病患者、時には化け物扱いするわけだ。
……僕等から見れば君らのほうがよっぽど壊れているとおもうけどね」
「世界なんてくだらないものなんだよ。あの《LULU》がいってたように、ね。これは、そんな世界と、『恋』の話だ。いや、『愛』といってもいい──くだらない『世界』と、くだらない『恋』と『愛』の話──」
01
戦闘機が上空を飛行しているのだろう。エンジン音が、上から、教室の中まで聞こえてくる。
「うるさいなー。私たちもいつか乗ることになるのかな、あれ」
扇町楓は、机に座りながら、天井を指差して、そう言った。上空の戦闘機のことをいっているのだろう。夕暮れのオレンジ色の教室で、僕は目を合わせずに、彼女に答えた。
「今は無人機だから、乗ることはないと思うよ」
「ふーん。そうなんだ、よく知ってるね」
本当に興味があったのだろうか、彼女は間の抜けた返事をした。
「…別に」
こんなことで感心されても、困った。
「素っ気無いなあ、此田君は」
「…そんなことないよ」
「素っ気無いよ。ほとんど初対面なんだし、もうちょっと愛想よくていいじゃない。それとも初対面だからこそ、かな?」
にまにま、と彼女は笑いながら、首をかしげながら、僕の顔を覗き込んでくる。弱冠、毒気を抜かれる気がする。
「はぁ…」僕は溜息のような返事をする。窓の外に、戦闘機が残した飛行機雲が空にのびている。彼女もそれに気付き、彼女も溜息をつく。
「それにしても───それにしても、私達はどうなっちゃうんだろうね」
僕はその彼女が見せた、真剣な顔にすこし驚く。
鞍馬高校二年B組、出席番号二十二番、扇町楓。セミロングの薄いピンクがかった髪の毛と、丈が短いスカートの軽薄な格好が目立つ。クラス委員長を務めているが、あまり真面目に仕事をしているのを、僕は見たことがない────僕がかろうじて教室にいた時、学校に入学したての時でさえ。僕のイメージとしてはへらへらしている。僕の中では、彼女は、明るかった。底抜けに。
「それは、来年になったらわかるんだし」
僕はまたわざと、素っ気無く答えた。警戒のレベルはさげない。
「そっか、来年、もう私達十八歳か。チョウへイがあるんだね」徴兵、と彼女はいいたいのだろう。本来、十七歳の女子高生が、日常的に使う言葉ではない。彼女のいうその言葉には、少しばかりか、使い慣れない言葉をつかうときのイントネーションが含まれる。
徴兵。いつの間にか、始まっていた─否、蘇ったあの制度。自衛隊が壊滅した翌年に発足した、国家安全保障理事会が企図した、前制度の復活。身も蓋もなければ、ここで詳しく語りたくもない事だ。
「で、何の用なの?」僕は先刻から思っていたことを切り出す。
「あ、いや、別にコレといった用事はなにもないんだけど」
「あー、じゃあ、もう帰っていい?」
少々の疑問符が頭に残ったが、別に用がないなら別に構わないだろう。僕は床に転がしておいたカバンを手にする。
「あっと、それはだめだよ」彼女は、机から立ち上がる。
「…じゃあ、何?」僕は少々イラつく。急いではないものの、僕にはこの後いくところがあった。
「頼まれているの」彼女は、端的に言った。
「何を?」
「いや、その、頼まれてるの、山岸先生に。君をどうにかしてくれって」
「…あー…そういうこと」
扇町が、担任の名前を口にするってことはそうなんだろう。一瞬考えて、僕は一応納得する。カバンを再び、床に転がす。また溜息をつきたくなった。
「で、山岸先生はなんて?」
「不登校生徒をどうにかしてくれ、委員長って」
「別に僕不登校じゃないんだけど」
「知ってる。図書館にずっといるんでしょ」
「図書館じゃなくて、図書室だけど」
あの広さじゃ図書館とはいえまい。扇町は僕の言っていることがよくわからなかったようで、そのまま、話を続ける。
「いやーまあ、なんでもいいんだけど、クラスに顔、だしなよ」
「あーまあ、いつかね」
「いつかっていつ?」
「わからない」
「皆、心配してるよ」
僕は思わず、その言葉に吹きだす。
「それ、おもしろいね。皆って誰?」
「わたし」
「え?」
「壊れちゃだめだよ」
扇町は、あの真剣な表情を、再度、見せながら、そんなことをいう。
「それは、欠陥するな、ってこと?」
「それもあるよ。後、山岸先生も心配してる」
扇町は気まずそうに、目をそらす。意外と感情の起伏が激しい。表情もころころと変わる。今更になって、クラスメイトの新しい一面を知ったように思えた。
「欠陥だなんて、大仰じゃないかな」
「そんなことないの、それが。今年で四人。何の数かわかる?」
「わからない」
嘘だ。僕にはわかっている。その数字を。その連中を。
「欠陥処分。四人の生徒が」
「へえ。だからって僕が壊れるとは限らないじゃないか」
「皆、学校に来なかったの。いや、来なくなった」
「僕は学校に来てないわけじゃないよ」
「そうだけど…」
扇町は心配そうに僕の表情を伺うような仕草をする。なんだかんだ僕との距離を測りかねているみたいだった。当たり前か、欠陥の可能性あり、だもんな。本来なら近づきたくもないだろう。担任の教員も無茶なことを頼む。
「大丈夫だから」僕はまた素っ気無く答える。
「で、でも」扇町は僕に呼びかける。焦っている、というのが良く伝わる響きだ。それでも僕は黙って、カバンをとった。教室を出た。彼女と話すことはもうなにもない。
これ以上話をしても無駄だ。したところで行き着く果ては、どうしようもない堂々巡りなような気がするのだ。いや、気がするではなくてきっと、そうなるだろう。僕等の壊れた壊れてないの判断は初期の段階では曖昧なものだし、僕は少しばかりか憤りをも感じていた。自分がそのような懸念を抱かれていることに、いい気分になるわけもなかった。
今度は僕を、扇町は、止めなかった。結局は僕のことが怖いのだろう。
…僕が壊れて、壊しそうで。
*
学校での用事を済ませ、校門をでて、僕は家への帰路につく。
両耳にヘッドフォンをする。音楽プレイヤーの電源をつけ、再生ボタンを押す。レッドツェッペリンの『BLACK DOG』のディストーションギターが僕の両耳に突き刺さった。僕の好きな曲だ。
僕は、歩き出し、今日の放課後のことを少し思い出す。
扇町楓。僕に欠陥容疑をかけたあの少女との、とってつけたような会話。
ああいった類の話をする時、気まずいというか、ぎこちないというか、そういったことなしに会話をする人間は、今の御時世、ほとんどいない。なんせ、命にかかわる話といえば、それはそうだし、決して楽しい話ではない。
むしろ、深刻すぎる話だ。
いや、この言い方はいささか語弊を生みそうだ。
でも、やはり深刻な話に変わりはないだろう。
なんせ処分されてしまうのだから。始末───といってもいい。あのレッテル、『欠陥』を貼られてしまったら、人間扱いはされなくなる。
ただし、『物』として処分されるのもまた違う。
化け物。これはいいすぎだろう。しかし完全な不正解ともいえない。そう呼ぶ人もいる。そういう話だ。
一般的に、『欠陥者』と呼ばれている。
何かが欠けた者、ということだ。
しかし彼らは、圧倒的に強い。肉体的にも。そして、精神的にも、ある意味そうなのだろう。
科学者にいわせれば、彼らはカラダのリミッターが外れていて、とかそういう話で、一部の宗教者に言わせれば、彼らは神の意志なのだ。
といっても、彼らはなにかが欠けている。
それは、変わらない。そう。
そして、彼らの出自、変化とは。
原因はわからない。不明だ、いや、不明瞭だ。
彼らがどういう風に削れ、どのように欠けていき、どうやって狂い、壊れていったのかは誰にもわからない。
一つだけ確かなことは、彼らは「何か」と繋がって、おそらく、それ故に、「何か」を失うということだけだ。そう、さも何かに操られているように。
そして、また彼らは強さを得る。あの自衛隊をたった一人で壊滅に追い込むほどの強さを。また、それは能力の目覚めとか、超能力だとか、そういう類の話ではない。
そんな、格好のいいものではない。
核心はもう少し深いところにある。
例えば、やけくそ。自暴自棄。捨て身。彼らのそれはそういう類の強さだ。
今でこそ、常套句である。何も失うものがない者は、強い。
強いものは、欠けていて、空っぽな、『欠陥者』ということになる。またそれも、確かな話とは限らないが。そんな「欠陥者」という言葉が生まれ、使われるようになったのは、そんな遠い昔の話でもない。
それでも──僕等は、なにも変わらない日常を送っている。
世の中がどうなろうと、僕等は僕等の生活を続けるしかない。その変化が、地球の裏側のような出来事が、自分たちに直接影響を及ぼすまで。
そんなことを考えていながら、歩いていると、 正面に横にのびる線路が見えてくる。この線路を渡るべく僕は踏切に近づく。この踏切を渡ればすぐに最寄駅だった。しかし、急いでいる僕とは裏腹に、遮断機は降りたままである。カンカンカンカン、と遮断機の縦に2つ並んでいる赤いライトが点滅を交互に繰り返している。少し苛つきながら、電車が横切るのを、遮断機手前で待つ。待っている間、カバンを地面に置くか迷ったが、また持ち上げるのが大変そうだったのでやめた。今、僕のカバンには図書室から借りた、二十冊の本が入っている。
電車が汽笛を鳴らしながら横切り、僕に微かな風を送る。
電車が通り過ぎると、黒と黄色の斑の遮断機が、腕を持ち上げ、なんとなく視界が広がったように感じた。遮断機にGOサインをもらい、僕は踏切を渡り始める。僕以外に渡る人も、モノもいない。――――――と思っていたが―――少女が――――
僕の後ろから、一人の少女が――僕よりも早い早歩きで、踏切を渡ろうとしていた。おそらく、遮断機が開いた頃合いに渡り始めたのだろう。僕が、踏切が開くのを待っていた時には、確かに誰もいなかったのだから。
その少女は、いや、少女、といっても、彼女は我が校のと思われる制服を着ていたし、さっそうと歩く姿は少女のそれとは言い難かった。が、彼女の短く切りそろえられた黒いおかっぱ頭(今はボブカットともいうだろう)と、背の高くない、小柄な体格を見ると「少女」と表現するのが一応は適切に思えた。首にまかれた彼女には長すぎるであろうマフラーが、なんとなくますます彼女を幼く見えさせている。また、彼女は、彼女の背丈ぐらいはありそうな、黒い、縦長のケースを背負っていた。
「楽器ケース…?」
そう口の中だけで呟く。なんだっていいのだけれど、目につく代物であった。 そして、歩き続ける彼女は僕を追い越す、その瞬間に僕の方向に目を向けた。 視界に僕を、いれた。
振り向く様な形で、僕の顔を見た彼女は、
『あれ』、と。
もし、彼女が声に出して反応するなら、そういったであろう表情を彼女は浮かべた。なぜか彼女は立ち止まる。僕の顔を凝視する。僕はそのまま、歩き続けて構わなかったのだろうが、なぜか僕はそうしなかった。僕も歩くことをやめた。僕達は、目をあわせながら立ち尽くした。
遮断機の腕が下がりはじめる。
カンカンカンカン、と。遮断機の警告音がヘッドフォン越しに聞こえた。
それだけで。
僕らは立ち尽くし続けた。
ここまで約三秒。 別に数えてなんかいないけど。 多分そのぐらいの時間、僕らは互いの目を見合った。
「…………」
死んだ魚の目のようだ、なんてよくいうけれど、彼女の目は―――――――――――澄んでいて、綺麗で。
なんて。
なんて、思わなかった。目。目玉。眼球。
それだけ――――――――――――
「えと、それ、重くないのかな?」
彼女の口が動いたのが見える。
「……?」
「カバン。重そう…」
遮断機のけたましい警告音は聞こえても彼女の声は、ヘッドフォンを耳にあてている僕には聞こえなかった。これは、僕が、この後の展開と彼女の口の動きから推測した発言で、もしかしたら彼女は別の、全然違うことをいっていたのかもしれなかった。
「このままだと、電車にひかれて死ぬから…、私は渡るけど」
これも推測。というより、なぜか僕にはそういっているようにしか聞こえなかった。人間の思い込みというのに少し感心する。
「えと、どうします?」
別にどちらでもいいのだけれど、と、彼女はいった。否、いったと思われる。
「…………………」
少女は再び歩きだす。彼女の背に負われている黒いケースが、遠のいていく。
「あ…」
刹那、もう少しだけ、彼女の目を見ていたい、なんて、自分でもなんでそんなこと思ったのかわからないようなことを――――――――――――僕は――思って――、―――――「……………………」―――次に待っていたのは、
時間経過と。
茫然自失。
「………………………………………………………、…………………………………………」
――――突如―――
ビュン、と音がして、僕の後ろすぐに、電車が通過した。
カンカンカンカン、と。後ろからの風に体が少し押される。体に力が入っていない。
「ホントに、死にたかったの…?」
今度は彼女の声が明瞭と聞こえた。耳にあてていたヘッドフォンは首にぶらさがっている。彼女が外してくれた、のだろう。
「あ、…あの…」
と、いいかけて、手首に感触がしているのに気が付いた。 彼女の小さな手が、僕の手首を掴んでいた。
「どうしたんですか。踏切の真ん中でボーッとして」声色こそ呆れている調子だが、彼女の表情はうごかない。
「えっと、助けて、くれたの…?」
助けて、という言葉に、自分の言葉ながら困惑する。
「んーそうなるのかな…。線路の上で、電車来ているのにボーッとしてるから。無理矢理、外まで引っ張っていった」
別に放っておいても良かったのだけれど、と。彼女は言って。「で、でも、決めたから」、と。
決めた?一体何を決めたというのか。頭が回らず、混乱する。彼女が何を言ってるのかわからなかった。
「あ、ありがとう」とりあえず、礼を言う。
すると彼女は
「れ、礼には及ばない…よね」
と、彼女は少し顔を赤くする。
「えと」と、彼女は僕の手首をぐいっと引っ張る。「こっちです」
「え、あ…」
戸惑う僕。
僕を引っ張り歩く彼女。引きずられるように歩く僕。
「いや、ちょ、ちょっと待って。ど、どなたですか?」
歩みを止め、止めさせる。
「え?ボク?あ、えと…」
彼女は依然顔を赤くしながら、どもる。
「ボクは祇園をんるっていいます」
その癖、彼女は自分の名前を口にする時は、堂々と、どもらずにいった。
祇園をんる。それが彼女の名前らしかった。
「ああ…どうも」
別に名前だけをピンポイントだけで聞いたわけじゃないけどなあ、と僕はそんなことを思ってから、僕も名乗ったほうがいいのだろうか、という思考に行き当たる。
今から思えば、あの奇妙な出来事の始まりは、この時から始まっていたのだろう。
「えと、お、お名前は?」彼女のほうから聞いてくる。
「…………」
そう思ったものの、言っていいのだろうか、名前を。見も知らぬ人間に。と、そんなことを考えながら僕は黙る。
すると、彼女はいきなり、
「ううう…」、と顔を手で覆った。
「…え?」僕は彼女のその動作に戸惑う。
「うう…教えてくれないんですか?うううう…悲しいです…」
…泣いている?
「え、いや、え?いやいや…」
「…教えてくれないんですか?うっ…ひっく」と、彼女は嗚咽をもらしながえら 泣きつづける。僕は更に戸惑う。どうしたというのだ。僕はなんと言葉をかければいいかわからず、
「あ…、いや、ごめん」、と、僕は謝る。とりあえず。今日はとりあえずばっかだ。なにか彼女を悲しませるようなことをしてしまったのだろうか。そもそも、その涙は何の涙なのだろう。
悲しみ?
それとも? なんにせよ、覚えがない。
「うっ…ひっく…ひく…別にいいです…」
「…………」いいんだ。
「ぼ、ボクのほうこそ、ごめんなさい…あ、あの、急に泣いたりして…ひっく…」、と彼女はそういったものの、泣くのをやめない。過呼吸気味のようだ。
「あー、大丈夫…?」
といって、「これ」、と僕はカバンからハンドタオルをだして、彼女に差し出す。僕が一応常に携帯しているやつだ。
「え…?いいんですか…?ひっく」彼女は少し驚いたように、顔を覆っていた片 手の間から、僕の顔と差し出されたハンドタオルを交互に覗くように、見る。
「…いや、いいよ。顔、拭いてくれ。泣かないで」
…どうして、泣いているのすらわからないけど。
「…優しい…」、と彼女は両手を顔から離して、タオルを受取る。
この状況のどこをどう見てそんなことを言ってるのだろう。
「あ、ああありがとうございます…」、と彼女はタオルで顔の目を中心とした周辺を拭う。彼女の顔が少し赤くなっている。目が少し腫れぼったい。
「…いい匂い…」、と。
「え…?」
「あ、いや、なんでもないです…ありがとうございます…」
どうやら、涙は止まったようで、彼女はタオルを手のうちで畳む。
「これ、洗濯して返します…」
「いや、いいよ、別に」
「え、でも…」
「…あー、僕の名前を聞いたんだっけ?」僕は話の転換をする。
「あ、そうです…」、と彼女は俯く。「あの、無理なら、いいです…」
「いや、無理なわけじゃないよ…」
名前ぐらい別にホントはどうだってよかった。念のため、というか、一応、用心のためだ。見ず知らずの人に個人情報は教えてはいけないという、いたって一般的な危機意識。
「僕は、此田っていいます。…さっきはありがとう…。あの、踏み切り」僕は再度礼をいう。
「いや、いいです」彼女は言う。もう完全に泣き止み、どもらずにはっきりと喋っている。ただ、顔は依然として赤い。どうしたのだろうか。
「あ、あ、、あああああああ、あの、」再度、どもり始める彼女。
「え?」
「ああ…、あ、ああの、」
「何?」
「う、うん、そうだ…。結婚しかない…」
「……?」
僕は彼女が、何を言おうと、何をしようとしているのかが理解できず、ただただ彼女の前に立ち尽くす。
「あ、あ、あ、ああ、あああ、ああああああ、あの」彼女は、ほぼ叫ぶように、言う。
「どうし…」、と、僕が言い切る前に、彼女は───
僕の袖口をぎゅ、っと引っ張る。
体を寄せて──、それでも、体が彼女よりに少しだけ近づいた程度で。あれだけの声量で、言うのならば、あれほど近くに寄らされる必要もなかったと思うが。
彼女は、すぅ、と。息を吸って。
「ぼ、ぼぼ、ボクと結婚してください」
祇園をんるはそう言った。確かに。
02
「事実は小説よりも奇なり」という慣用句の意味を改めて考えてみると、まさしくそうだという気になってくる。
イギリスの詩人、バイロンが残した言葉であり、こんなこともあるんだなぁ、言い得て妙だよ、などと何時かは嘯いてみたかったのだが、あの時僕にはそんな余裕は微塵もなかった。 あるわけ、なかった。
逃げた。 そりゃ、もうすごいスピードで。
逃げ足だけは昔から速い。逃げることは昔から十八番。 今だって色色なことから─ああいや、とにかく、逃げたのだ、僕は。あの得体の知れない少女から。
そして、逃げたのはいいが、僕の状況は非常にまずい。
それは、僕はカバンを放り投げて、走り逃げるという失態を犯したということにある。またさらに不味いことに、僕はカバンの中に、定期券、学生証、財布、携帯電話などおよそ貴重品だと思われる所持物をカバンにいれていた。それは、僕がポケットに物をいれるのを嫌うということから起因している。なんというか、ズボンがダボついて嫌なのだ。せめてもの救いは家の鍵はさすがにズボンのポケットにいれていたことだろう。
もちろん、かなり遠くのところまで走りきり、ふと我に返り、カバンの不在に気付いた。あの踏み切りに、僕は戻ってみた。ものの、僕のカバンは綺麗さっぱり、あの少女と共に消えていた。それは、まずいことに。
このままでは帰れない。定期券がないので、電車に乗れないのだ。いや、帰れないわけではないが、歩いて二時間はかかる。そしてなにより、彼女───「祇園をんる」が所持しているであろうカバンのことが心配で、おちおち歩いて帰るなどできないのだった。こうゆうところにおいて、僕は臆病鳥である。
ということで、現在、午後七時、僕は図書館にいる。いや図書室にいる。僕が一日の大半を過ごす場所だ。どうも何かがあってどうしようもない時は、僕はここに来てしまう向きがある。居心地がいいのだ。居座りなれているというのもあるだろうが。
鞍馬高等学校、図書室。この四十帖ぐらいの図書館というには狭すぎる空間は、僕の第二の故郷だ。いや、それは言い過ぎにしても、ここは僕にとって必要不可欠な場所なのだ。少し、いや、かなり散らかり放題になっているが。なにせ、僕は学校にきてはいるものの、授業にはでず、ここで一日を過ごす。保健室登校よろしく、図書室登校をしているのだ、僕は。本を読んで過ごすことが大半だ。なぜ、授業にでないかというと、そこには単純明快な答えしかない。「つまらないから」。いまどきの不良もいわない(というか、最近は不良という存在すらあまり見かけない)、授業サボりの常套句だが、僕にとって「授業」とは結局は「つまらない」存在でしかないのだ。知りたくもない数学の公式を教えられ、日常生活で必要となるとは到底、思えない歴史の年号を覚えさせられる。これを「つまらない」という以外にどんな表現があるのだろう。まあ、「くだらない」でもいいわけだが(こんなことをいっている僕がくだらない、つまらないというなら、勝手にそういえばいい)。
とにかく。僕は、授業にはでずに図書室にいる。授業にでないで、ここで自分の、自分が選んだ勉強を、本を読みながらやっている。その方がよっぽど有意義だろう。また、僕が学校をなんだかんだやめない理由も、やはりこの「鞍馬高等学校図書室」の存在に一つある。別に、図書室ならなんでもいい、どこでもいいってわけじゃない。ここの図書室がいいのだ。
まず、ここの図書室は人がほとんどいないということがある。あまり、真面目な生徒がいないこの学校では、生徒は図書室にほとんどこない。今時の高校生は本なんて読まないのだ(まあ、真面目な生徒が本を読むとは限らないし、その逆も然りだが)。読書の他に、夢中になることは、この時代、いくらでもある。この御時世、読書は流行らない趣味のようだ。
別にそのことに関しては非難するつもりは全くないし。
まあ、普通の高校生なら、社会的にも、学校の授業が大事だろう。
だけど。
あの高校三年間が終わったら。全てが終わるのに。
そこに関しては、僕は否定的な見方をせざるを得ない。
あんな、授業を受けている余裕なんてものはない。だから、僕はこの図書室にいる。逃げ、といえば、それはそうなのだろう。現実逃避、と呼ばれるやつだ。
それでも。僕は、逃げるしかない。そして、どうにかするしかないのだ。僕の抱えている「何か」を。また、それゆえにあのような疑いをかけられたりするわけだが。
まあ、話を戻すと、この図書室には人が滅多にこない、という話。そしてもう一つ言っておくと、いわゆる「勉強」目的、いわゆる試験勉強とかを目的とした生徒が図書室というものには来そうだが、この図書室においてそれも滅多にないということには、ある一つの要因をここは孕んでいる。
「おい、此田」
まあ、そのことに関しては、この図書室のメリットであり、同時にデメリットでもあるのだが。この人が図書室で試験勉強をすることを許さないのだ。図書室は本を読む場所だ、とか。
「あー、なんですか、地球儀さん」
「お前はここでなにしてるんだ。さっき帰ったじゃないか」
地球儀さんはデフォの不機嫌な顔で、乱雑に散らかったカウンターに両足を乗せながら、本を片手にそう言った。見ようによっては、なんとも尊大な座り方である。
「あ、いや、ちょっと、色色ありまして」
僕は少々ばかり言葉を濁す。そりゃあ。
えーっと、なんか変な少女に告白というかなんというか、なんなのかもうそれすらわからないよくわからない絡まれ方をして怖くて逃げたらカバンを忘れてそのカバンに定期券とか諸々いれていて実はお家に帰れなくなっているんです。なんて。
いえるわけがないのだ。
「ふん、まあ、いいよ」
そういって、これで話は終わり、とばかりに地球儀さんは僕のほうから本へと目を落とした。相変わらずマイペースというか。
地球儀さん。我が校───鞍馬高等学校の図書室司書教諭を勤めている、年はおそらく、二十代後半の、綺麗な女性といった感じの人だ。栗色のロングの髪の毛と、とスラリとした手足がよくマッチする。
───綺麗な女性、といったものの、果たしてそれが彼女に対する適切な表現なのかよくわからないがもう少し世俗的な言い方をすれば、「大人の女性」ということになるのだと思う。ただ、それは彼女の見た目や雰囲気に限った話で、彼女の生活や言動というのは有体に言って通常、というか、見た目通りにはいかないのだった。まず、彼女の生活だが、地球儀さんはこの図書室にて寝食をしている。概していえば、彼女は学校の図書室を寝床、住居、「家」としているのだ(現にこの図書室の入り口には、『地球儀の家』と書かれたプレートがぶら下がっている。そして、それが人を寄せ付けない一要因となっているのは言うまでもない)。なので、この余り広いといえない、せいぜい四十帖一間の図書館、もとい、図書室には少なからず彼女の生活感が漂っていて、異質な空間と化していた。また、かなり大雑把な性格の持ち主らしく、図書室には彼女の私物がちらかり放題という有様である。
本の間に靴下が挟まっているなんてのは、日常茶飯事で。
どうやらそこら辺の日用品を栞の代わりに挟んでしまうようだ。
「地球儀さん…靴下がまた…」
「あ?なんだ?」
また、言葉遣いも綺麗とはいえなかった。見た目に反して。完全に男言葉である。地球儀さんは僕に片目だけの鋭い視線を寄越す。
「ああ、いや…。ちょっと散らかりすぎじゃないですか?」
靴下が挟まった本を棚に戻しながら僕はそう言った。
「ん、あ、そうか?」
「この間、僕が片付けと掃除と洗濯をしたばっかな気がするんですけど…」
すると、彼女は、あー、といってパタンと読んでいた本を閉じた。そして、
「じゃあ、また頼むよ。片付け、掃除、洗濯。得意だろ?」と、少し意地の悪そうな笑みを浮かべて、地球儀さんは言った。
「はあ。またですか…別に得意じゃありませんよ」
果たして掃除、洗濯、片付けが得意な生徒が存在するのだろうか?いたとしても、それはやっぱりちょっとばかし特殊な趣味をもっているか…いや、案外存在するのだろうか。お世話焼きの人とか。掃除だけならいるかもしれないけど。綺麗好きな人とか。
「ん、よろしく。洗濯物は後でそこらへんにまとめておくから勝手に取ってって。あ、今渡すか?」
「いや、いいです。明日でお願いします。僕今日一晩ここにいるんで」
「ん?どういうことだ、それは」
「いや、あのですね…定期券をなくしちゃって。帰れないんですよ」
「ふん?そりゃ、またなんで?さっきも同じような質問をした気がするが」
「あー。なんというか、そこは聞かないでもらえますか」
別に隠さなければいけないことじゃないが、できれば話したくなかった。地球儀さんを、変なことに巻きこみたくなかったし、それにそれほど大したことにはならないだろう。あんなこと、今や異常なできごとでもない。少しおかしな少女なんて───。さすがにああいった類のものは初めて遭遇したけれど。
「ふん、またか。まあいい」
「すみません…」
「いいよ。別にお前が私にいちいち事情を説明する筋合いなんてないんだ」
ところで、と、地球儀さんは手にもっていた閉じられた本をポン、と机におきながらいった。
「ところで、此田。地球と世界の違いってわかるか?」
机の上には、大量の積み上げられた本の隙間に地球儀がたっている。地球儀さんと、地球儀。地球儀さんが地球儀を指でいじって、くるくると回している。少し紛らわしい。
「地球と世界の違い?なんですかそれ、なにかの心理テストですか?」
「違う、ただ単純に聞いてるんだよ。言葉の意味合いとして、だ」
「んー、そりゃまた微妙な質問ですね。考えたこともないですよ。まあ、大体同じ意味じゃないですか?例えば、『地球で最強の生物!』と『世界で最強の生物!』っていったら大体同じ意味ですし。ちなみに世界最強生物はカバらしいですよ。真偽のほどはわかりませんけど、テレビでいってました」
「ふむ」
「それがどうしたんです?」
「いや、世界と地球じゃ意味合いは違う、と思ってな」
「…?」
「お前、『世界』って何だと思う?」
「『世界』、ですか…?これまたなんつーか、哲学的、というか、難しい問いですね…。」
いきなり、くるな。いつものことであるけど。僕は少し考える。
『世界』、か…一応は僕は答える。
「…僕を『取り巻いているもの』ですかね。いや、でも、こんなの今考えた思い付きですけど」
「はーん。まあ、概ねそんな感じだろう。此田、お前、それを思いつくのに世界と地球を同列においたのか?いや、ほんと、実はなにも考えてないというか、その場で生きている感じがあるな、お前は」
なんか超絶に失礼なことをいわれた気がするが、僕にも一応自覚のようなものがあったので、なにもいい返さなかった。
「耳が痛いですね…。いや、しかし、そうですね。そう考えると世界と地球は似て非なるもの…ですか?」
「だろうな。まあ、わからんけどね、似ているかどうかも、それさえ。んで、どういうことかわかるか?『世界』の意味。お前は『自分を取り巻いているもの』と答えたが、まあ、ホントそうなのだろう。そういうところだけはお前は正鵠を射ているな。ふん。そう、お前にとっても、私にとっても、世界は自分をとりまいている、ごく限られたものでしかない。『世界』といったら広い語感があるが、実はとてつもなく狭い。どこまでも、主観的で、どこまでも、内向的だ」
地球儀さんは、やはり不機嫌そうな顔でそんなことをいった。
「うーん。でも、地球は、ひろいですよね」
僕はいいながら、手癖にように、そこらの本棚から本を手にしてみる。
「そうだな。地球は広い。それは惑星としても、『世界』といった意味でも、な」
地球。世界。僕等が住んでいる、セカイ。どこまでが、僕等の世界だ?わからなくて、わかったようなふりをして。それが嫌で、そのわからないという事実が嫌で、僕は日頃、逃げているのかもしれない。
「それにしても、地球儀さん。どうしてこんな話を?」
「いや、別に他意はない。ただ、世界地図をさっき見ててな。そこらへんに落ちていたんだ。いや、私の蔵書だよ、一応。それがな、私の名前でもあるところの『地球儀』と見比べて実に平面で、よく全体が見渡せるんだ。いや、紙面上に限った話だよ。だけどな、よくよく考えると…さっきの話にもどるが、私たちはやっぱりその世界地図、───『世界』のほんの一部しかみてないんだ。自分がトリミングしたほんの一部だけ、だ。だって、そうだろう?私たちは自分の目でセカイを見、耳でセカイを聞き、口でセカイを語り、鼻でセカイを嗅ぎ、手でセカイに触り、足でセカイを踏みしめ、頭でセカイを考えているが、そこだけが私達一人ひとりの世界だ。私達だけが知ることのできる世界だ。他に世界など存在せず、私達にはそれぞれの世界しか存在しない」
「そう、…ですね」
「言ってることわかるか?」
「なんとなく、わかります。要は、僕等は、広い世界で、その一人として生きているように思えるけど、実は自分の中のセカイでしか物事を語れないし、生きていけないって、そういう」
「あーそういうことだよ。そんな感じだ。…まあ、地球儀も常に一方面からしかみれないけどな。…此田、お前はそれがわかってるなら───」
彼女は再び、地球儀を回す。くるくる、と。僕はじっとそれを見つめる。彼女は続けていう。
「お前はまだ大丈夫だよ」、と。
僕等の世界───実はとんでもなく狭くて、既に壊れている世界?いや、まだ大丈夫、なのだろう。まだ───まだ、壊れてない。僕の世界は。僕はかみ締めるように、彼女が、地球儀さんが、いったことを反芻する。お前はまだ大丈夫、という言葉を。
本当に、そうだろうか──僕にはそれすらわからない。
「おい、此田」
僕は地球儀さんの声色のトーンが変わっているのに気付づく。ある意味遊びのような問答とは違ったトーン。
「はい」
「今日お前、帰れ」
「?」
「帰れよ。家に」
どういうことだ?
「…な、なんで、ですか?」
「うるさいな。帰れってたら帰れよ」
「え、いや困りますよ、定期券ないんですから。歩いて帰れっていうんですか?」
「ほら」
と、彼女は何かを僕に向かって投げた。
「わ」
空中で散開したその物体は、僕の顔面をめがけて飛んでくる。ので、僕は両手で顔を防いだ。硬質なものが腕に当たって痛い。一瞬後、下を見ると、数枚の小銭が落ちているのが見えた。勘定する。計八百四十円也。
「なんですか、これ」大枠、目安はついていたが、僕は一応聞く。
「電車賃」
でしょうね。だと思いましたよ。
「いや、僕、定期券の紛失のこともありますけど、別に家に帰りたいわけじゃないんですよ。お金借りるのも悪いですし。だから、いいです。僕一晩いるんで、ここに」
「だめだ。帰れ」
「いや、でも…」
「帰れ」
「そうはいっても…」
「帰れっての」
取り付く島もなかった。
はあ。そうですか、じゃあいいですよ、帰ります。別に絶対に帰りたくない特別な理由があるわけでもないし。逆も然りだ。
「あ、おい。後、これもっていけ」
ドサっと、彼女はゴミ袋を二つ僕の前に置いた。僕は「なんですか、それ」といい、袋の中を確認する。すると、いつの間にまとめたのか、中身は彼女の洗濯物だった。…ん?この人、まさか…。いや、そんなこと…。
「あれ、もしかして、これ、地球儀さん?もしかして、もう着替えがないから、とかそういうことではないですよね?それで、急ぎで僕に洗濯しろ、とかそういうことではないですよね?だから帰れって?そういうことじゃないですよね?」僕はまくしたてるように言う。
「ば、馬鹿。そんなことあるわけないだろ。お前の両親が心配するだろうと思ってだな…」
「はあ…いつもいってますけど、僕の両親は今家にいないですよ」
そもそも心配もしない。いたとしても。
「え!そ、そうだったか!そうだったな!いやでも、あれだ。だ、だめだろ、高校生が無断で、学校で一晩、だなんて」
地球儀さんは、少し、いや結構、しどろもどろになりながらそう言った。実際、地球儀さんもそこらへんは女の人で、一度着た洋服を洗濯せずに、もう一度着るというのには抵抗があるようだ。洗濯物のストックがなくなると、地球儀さんは毎回僕を急き立てるように洗濯にいかす。そんなに嫌なら、普通の生活をすればいいのに、と毎度僕は思うことはいうまでもない。
「はあー。わかりましたよ。いきます、いきます」僕は渋渋ながら了解した。
「む」
地球儀さんは少し怒ったように、うなった。取り乱したことを恥じたようだった。意外と変なプライドをもっている。
しかたないな、と僕はゴミ袋を一つずつ、手に持ち、図書室出口へ向かう準備をする。今回はカバンがないので案外楽に運べそうだ。
そして、僕は出口に向かって歩き出す。
「おい、でも、此田」
と、地球儀さんは僕の名前を呼ぶ。再び、彼女の声のトーンが下がったのにぼくは気付く。
「なんですか」
わかっているだろうけど、と。彼女はいう。
「あまり、ここに甘えるなよ」
僕は、その言葉に動きを止める。わかっている、それは。だけど───
「お前が今日家に帰りたくない理由なんて知らないし、今日何があったなんて聞かない。けどな、いつまでも、ここが都合よくあるわけじゃないことはお前もわかってるだろ」
「…………」
「お前はお前の世界を生きろよ。ここにきているのは、お前が、お前とは違う世界を垣間見れるからだ。『本』、という代物でな。だけどな、此田。お前がいくら『本』を読んだとして、その内容がお前の経験になるわけでもない。なるとしたら、それはただの知識だ。お前の世界はちっともかわらない。所詮やっぱり『読書』という行為は異なる世界を垣間見えるだけに過ぎないんだ。…わかるだろ」
僕は、唇を噛む。地球儀さんの言葉は少し、僕には耳が痛すぎた。
「…はい、それはわかってるつもりです」
それでも、やはり僕は彼女のいうことが正しいと思う。
僕は、逃げたいだけ、なんだろう。
「そうか、ならいいんだ…じゃあ、洗濯頼むぞ。明日も来るだろ?」
「…はい。じゃあ、また」
「おう」
僕は図書室をでた。
洗濯物が入ってるゴミ袋が少しだけさっきより重かった気がした。
しかし、それはやはり気のせいなのだろう。