-8- てまりインコを作りたい
5か月ぶり・・・?
途中な感じで終わっているので、早めに次を書けるといいと思ってます。
次が書けた後に一緒に読んだ方がいいのかもしれない、と先に書かせていただきます。
深咲は教室を出るとまず、本日連絡なしでの欠席者の確認をするために職員室に向かった。
「えぇと。今日無断欠席した子の名前はっと。」
出席簿に欠席の印をつけた名前は「宵野間竜」とあった。
無断欠席の理由を確認するために、連絡先をメモすると国語研究室に移動する。
職員室で電話をかけてもいいのだが、なんとなく職員室よりも国語研究室の方が落ち着くのだ。
職員室からは遠い国語研究室は、国語教諭だけが席を持つ一室である。
深咲は生徒の名前と連絡先を持って入室し、自分の席に腰を下ろした。
すると、向かいの席に座っていた年下の同僚が声をかけてきた。
「青柳せんせ、始業式と最初のHRお疲れ様っした。クラスの様子はどんなんです?」
始業式の日にはクラブ勧誘はすることはあれどクラブ活動は行われていない。
ほとんどの生徒はもう帰っていて国語研究室にわざわざ足を運ぶ人もいないからか、同僚はネクタイとボタンを緩めて、机の上に肘をついてこちらを見ていた。
「昼馬先生、いくらなんでもくつろぎ過ぎじゃないですか?ここは学園内なんですから教師として恥ずかしくない格好をすべきですよ。」
と、一応の注意を入れると昼馬は「すんません」とへらっと笑って謝りネクタイをしめなおした。
彼の名前は昼馬靖和樹という現国の教師で、今年で社会人3年目になる。
霞の森学園に就職してすぐは真面目そうだったのだが、いつからかチャラ男へと変貌していた。
何を間違ってしまったのだろうか…。
昼馬がネクタイをちゃんと締めなおすのを見てから、先ほどの質問の答える。
「クラスの様子ですか?そうですね、なかなかよさそうですよ。あぁ、一人無断欠席の子がいましたけど。」
そう言って名前と連絡先を書いたメモを見せると、昼馬はその名前を見て目を大きくした。
「宵野間竜じゃないっすかっ。青柳せんせのクラスなんすか?」
「えぇ、今日は教室に来ていなかったけど、わたしのクラスの子ね。」
オーバーに驚いて見せる昼馬を不審に思いつつ答えると、昼馬は宵野間について教えてくれた。
彼曰く
宵野間竜とは出席日数ぎりぎりで2年に上がった生徒で、学外で不良とのかかわりがあると噂があるらしい。
髪は脱色しているのか色素が薄く、常に周りに睨みをきかせていると。
話しによると、ザ・問題児 という事だが、そういう生徒ならば前の担任からの引継ぎの時に連絡が来るものなのだが、それはなかった。
どういうことだろうかと不思議に思いつつも、宵野間家に連絡を入れることにした。
向かいの席からいつもはヘラヘラした笑みを浮かべている昼馬が真面目な顔を向けてじっと見ている。
数回のコール音の後、電話はつながった。
「はい、ケホッケホッ……すみません。あの、宵野間です。」
「わたくし霞の森学園の青柳ですが、えぇと、おうちの方はいらっしゃいますか?」
電話に出たのは幼い女の子の声だったので、深咲はそう尋ねた。そういえば、家族欄には母親と妹の名前があったことを思い出す。
「え、えぇと、母はまだ帰っていなくて…。あ、おにいちゃ…」
電話口から「こら、まだ寝てないとダメつっただろ?」とか「ごめんなさぁい」とかいう会話が聞こえてくる。
「すんません、電話変わりました。どちらさんっすか?」
「あ、霞の森学園の青柳です。えーと、宵野間竜くんですか?」
女の子の後に聞こえてきた声が男の子だったので、そう確認をすると、少し遠くから「え、あー……ヤベ。」という声が聞こえてくる。
「あぁーっと、今日から学校……すよね。休みの連絡しなくてすんません。忘れてました。」
電話の相手が宵野間竜かどうかは確認を取れなかったが、おそらくそうなのだろう。
「妹さんが病気だったのかしら。看病をしていたの?えらいわね。今日のところはいいわ。
明日は学校に来れるかしら。無理だったら明日は連絡をくださいね。」
そう言って電話を切ったが、昼馬の言う問題児という雰囲気は感じられなかった。
目の前の昼馬が心配そうな顔でこちらを見ていた。
不真面目で人の事に頓着しなさそうに見える昼馬だが、変な噂のある宵野間へ電話をする深咲を気にしていたらしい。
大丈夫と微笑みかけると、安心したように笑顔を返してくれた。
深咲は連絡先をメモした紙を手回しのシュレッダーでバラバラにすると、裁縫セットを出した。
深咲の受け持つ和裁部には新入部員が入るはずなので、新入部員にも作れそうなものを考えているのだ。
今作ろうとしているのは手鞠風のストラップだ。
深咲が顧問をしている部活名は和裁部である。
和裁というのは着物を縫うことなのだが、仮入部の子たちにいきなり着物を縫ってもらうのは難しい。
かといってビーズや毛糸やフェルトを使ったような洋物ではなく、できれば和物を作っていきたい。
ちなみに、部活動としての最終目的は浴衣や着物を作ることである。
和物のものとして、巾着やお手玉といった一般的なものでも良いのだが、少し違う形のものも作ってみようと挑戦しているのだ。
深咲の家には糸を巻いて作った手鞠がある。実はこの手鞠は誉あきが作ったものと、彼女に教えてもらい深咲が作ったものがある。
深咲と一緒になった味唯は深咲のおかげで手鞠の作り方を知っているのだ。
和裁部の顧問としてだけでなく、味唯が愛してやまない「てまりインコ」を作りたいという個人的な野望も含まれて、作ることに夢中になっているところだ。
だが、さすがにいきなり手鞠を新入部員に作らせるわけにもいかない。
高校生に興味を持ってもらうために、携帯電話にもバッグにもつけられる根付という形を考えている。
そのストラップを作ることで、手鞠に興味を持ってもらい文化祭でみんながいろいろなデザインの手鞠を作って披露できればと思っている。
高校生の感性で本に書いてあるそのままの見本とは違った、それぞれがデザインを考えて作れば面白いのではないかと考えていた。
深咲の知識をフル活用して、味唯の趣味を前面に押し出している感は否めないが、深咲は手鞠ストラップ作りに没頭していた。
・
・
・
「ふぅ…。終わりっとぉ。」
新入部員にも作れるようにとためしに作ってみた手鞠風ストラップだが、その小さな手鞠には目と羽根とくちばしがついていた。
未唯が好きなてまりインコに似せて作ったものだ。
深咲の世界にはてまりインコというキャラクターは存在しないので、いくら味唯の記憶のままに趣味に走ろうとツッコミが入らないので安心である。
深咲が最後にちりめん素材ストラップを小さな手鞠風の飾りにつけ終えて伸びをしていると、机にお茶が置かれた。
「お疲れ様っした。どーぞ、粗茶ですが。」
昼馬がへらっと笑顔を見せながらお茶を出してくれていた。
「あら、ありがとう。」
国語研究室は国語教師たちの休憩室も兼ねているため、コーヒーや紅茶や緑茶が飲めるように水道とポットの置かれた給湯スペースもある。
部屋の主である国語教師それぞれの好みで茶葉やコーヒーメーカーもあるが、普段はティーパックやコーヒースティックを使っていることが多い。
今、昼馬が淹れてくれたのは昼馬や深咲がいつも飲んでいる紅茶やコーヒーではなく緑茶だった。
わたしが手鞠なんて和風のものを作っていたから、合わせて緑茶を入れてくれたのかしら。
そんな風に思いながら、お茶を一口飲む。
緑茶のティーパックも常備してあるのだが、昼馬が急須を持っていたのでわざわざ茶葉でいれたものだということがわかった。
他の教師たちは時間がある時は茶葉を使うこともあるが、昼馬はいつもティーパックやコーヒースティックにお世話になっている人なのでわざわざ茶葉から緑茶をいれるとはと違和感を感じる。
「珍しいわね。茶葉で入れたの?
いつもは急須やティーポットを洗うのが面倒くさいとか言ってティーパックやコーヒースティックを直接カップに入れて飲んでいるでのに。
しかも、コーヒーや紅茶じゃなくって緑茶だなんて…。わたしは好きだけどね、日本茶。」
「たまにはいいじゃないっすか。飲みたくなることもあるんすよー。
それよか、青柳せんせ。今日これから飲みに行きません?」
なぜか誤魔化すようにへらりと笑いながら言われた。
「残念ねー、わたし仕事帰りにはカフェに行くのでご一緒できないわ。
明日からは普通に授業があるんだから昼馬先生も準備があるでしょう?」
「わぁー、今日も青柳先生にふられちゃった。」
それ以降はいつものやり取りになったので、感じた違和感はすぐに忘れてしまうのだった。
・
・
・
いつものように茶京の店で一杯のコーヒーとケーキを食べてから、深咲は家路へとついた。
深咲が作ったばかりのてまりインコのストラップはさっそくカバンにつけている。
家に帰ってからは、クラブの子たちに手鞠風の根付を提案するためにいくつかの見本を作る予定である。
この世界には無かったてまりインコは自身が「味唯」であった証拠の一つである。
このまま深咲として生きていくとしても自分が「味唯」であったことも忘れないように、と。
未唯は死んだのだと思うと、少し暗い気持ちにもなってしまう。
俯き加減になってしまう顔と思いだが、気を強く持ってぐっと前を向く。
落ち込んでいてもしょうがない。
顔をあげると、そこには見知った顔があった。
その女の子は不安そうな、期待しているような顔でキョロキョロと周りを見ていた。
ん?あれは……
「一昼夜さん?こんなところで何をしているの。」
それは、以前ナンパ男に絡まれていた一昼夜舞だった。
「え。あれ…、先生?どうしてこんなところに…?」
「どうして」と問われても、深咲の家の近くである。そして、実は職場の近くでもあるのだが…。
知られる生徒のタイプにもよるが教師が自宅が知られるのは、なんというか複雑な思いがある。
「あぁ、そうか。ここは学園の裏門の近くですものね。」
深咲がどう言おうか迷っている間に舞は勝手に納得してくれていたので、「そうね」と曖昧に返事をする。
「それより一昼夜さんこそ何をしているの?生徒はみんな昼過ぎには帰ったはずですけど。」
「え……。えぇと、それが……知り合いの、家を探していて……?」
どうして現状を話すのに疑問形なのだろうかと不思議に思う。
だがさっきの様子だと確かに何かを探しているようだったから、そうなのだろう。
「知り合いの家…か。このあたりなら結構知っているけど、何てお名前の方?」
「え、あの。あきさんという方なのですけど。」
「あきさん……。誉あき さん?」
「あ、はい。その誉あきさんです!いらっしゃいますか?
えっと、ほら、あれですよ。小学生の低学年の頃たまに遊びに来ていたんですけど。
なにぶん小さいころの記憶なので、今日久しぶりに来たらわからなくなってしまって。」
深咲が名前を出すと両手のひらを合わせて、目をきらめかせてから話し始めた。
どうして……
小さな声でつい呟く。
「どうして、もっと早く……。せめてこの高校に入った時に……。」
「え?」
もっと早くに会いに来ていれば、きっとあきさんも喜んで迎えたはずだ。
会いたいと思ったのなら、受験の時にでもこの家に足を運んでいてくれれば…。
それでも、3年前に亡くなったあきさんには会えなかったけれど…。
「あきさんは3年前に亡くなったの。…人の命は儚いものなの。
いつでも会えるだなんて思っていてはだめなの。
逢えるときに逢いに行かなきゃ逢えなくなってしまうの。
逢いたい人に……逢いたくても…。」
わたしはお母さんにもお父さんにも黎にも、もう逢えないのよ……。さよならも言えていないの。
わたしが言葉を紡ぐのをやめると、「そう、ですよね。」と高校生とは思えないくらい、悟ったような語調で舞が答えた。
妙に身に染みているような雰囲気で、どこか遠くを見つめていた。
「…写真とかあるけど、寄っていく?わたしが今あきさんの住んでいた家に住んでいるの。」
「……是非。」
舞は神妙な顔で頷いて、深咲に付いてきた。
二人で家に入って行き、舞をリビングにある仏壇の前に連れて行くとその前に座り静かに祈っていた。
深咲はお茶を淹れてリビングの机に二つ置く。
ほどなくして舞が机について、ふと縁側から庭を見やる。そして、居住まいを正して目をキラキラとさせて縁側の方をじっと見る。
「先生っ、素敵なお庭ですね!私こういう和風の雰囲気が好きなんですよぉ!」
舞はニコニコと笑って深咲の方を向く。
「わたしも好きなのよ、この場所。古典を主に教えてるっていうのもあるけど、こういう日本らしさが好きなの。
あぁ、和裁部の顧問もしているから和風の小物を時々作るのよ。」
そう言ってこれまでに深咲が作った巾着や手鞠などを見せる。
舞も「このがまぐち、かわいいですね!」とニコニコしながら答えて、思い出したように深咲がさっきまで持っていたカバンにも目を向けた。
「そういえば、外で話している時に気になっていたんですけど。カバンにもかわいいのつけていましたよね。」
「あぁ、これ?これは、仮入部の子たちに体験で作ってもらうのはどうかなってちょっと作ってみたの。」
カバンについていた手鞠風ストラップ(てまりインコ風)を見せながら話を続ける。
「……あぁ、生徒に作ってもらおうと思っているのは羽根とくちばしと目はつけないけどね。」
わたし鳥が好きなのよね、と続けようとすると それまで和風小物に目をキラキラさせていた舞は驚いたように目を見開いて思わずというように呟いた。
「てまり……インコ。」
「え?」
「これって、…てまりインコっていうキャラじゃないですか?」
「え、えぇ?なんで……それを。」
顔を見合わせたまま二人は数分息をつめていた。
・
・
・
「まぁ、つまり先生も元々ここじゃない場所で存在していたって言うことですよね。」
沈黙に耐えられなくなった深咲が目の前のお茶を手に取ってずずっと一飲みするのを見て、舞もお茶をずずっと飲んでからそう切り出した。
深咲はチラリと舞を見て思う。
先ほども高校生とは思えないほどの表情をしていたが、今は完全に女子高生らしい雰囲気がなくなっていた。
そういえば、家の外で話していた時も妙に人生を悟った少し年上の人がするような表情をしていた気がする。
「そうですね。たぶん。…わたしの頭がおかしくなったのでなければ…。」
そう答えると、少し迷ったような表情をしてから舞はゆっくりと話し始めた。
「私ね。今日の朝、目が覚める前は病院のベッドの上にいたんですよ。
まだ小さい娘と息子と、それから旦那に看取られているところでした。
もう、子どもたちはずっと涙を流しているし、旦那もいつもは見せないような表情で私を見ていて…。
そんな家族を置いて逝くなんて、心苦しくて心苦しくて。
私自身は無痛の注射を打たれて体に痛みは感じないけど、心は痛くてねぇ。
目は見えているかというと目を開ける力もないほど体は弱り切っていてね。
なぜか自分の体の上でふわふわしているような状態っていうのかしら。
ああいうのを幽体離脱っていうのかしらねぇ?
そんな自分の最期の場面だっていうのに、急に知らない声が話しかけてきたんですよ。」
舞はそう話し始めた……。
・
・
・
「ねぇ、死にたくないの?」
こんな自分の死の間際に、ばかばかしい質問をしてくる声。
「当たり前でしょう?こんな大事な人たちを置いて逝くなんて、無念すぎるでしょ!」
つい怒り口調になってしまうのは当然だろう。なんて馬鹿なことを聞いてくるんだと、彼女はそう思った。
「へぇ、そう。でも、もう体は限界だし、死んじゃうよ。」
軽い口調でそんなことを言われる。
自分の体の事だ、そんなことは言われなくても分っている。
結婚して、子どもが産まれて、育児をして、子どもたちがどう育っていくのかと見守りたいと思っている…思っていた。
不満なところは多少あれど結婚にまで踏み切った旦那である、まだまだ一緒にいたいと思っていた。
まだ、生きていたいと思うなんて、当たり前だろう。
少しの期待感を持って声のする方を探してみるが、どこにも声の主は見つからない。
「もし、生きたいって思うんだったら~。生きさせてあげようか?」
生きさせてあげる…?これは悪魔の囁きというものだろうか。魂をよこせとかいうアレだろうか。
だいたい、神様にしては口調が軽すぎる。頭も口調と同じくすっからかんに軽そうだし。
口調があまりにも軽いので彼女は信じられない。信じる要素も感じられないと鼻で笑いたい気持ちになる。
「…きみ、めっちゃ失礼だね。頭が軽そうとか、めっちゃ失礼だよね。」
考えていることが筒抜けなことに驚く。
まさか、この声が神様とか無いわよね?
まぁ、神だろうが悪魔だろうが生きさせてくれるというのなら考えてみてもいいかもしれない。
……再び死ぬときに魂を取られて地獄で延々と働かされるとかなら、考えるまでもなくNOだけど。
「そうかしら?事実じゃない。
あなたの話し方はどうも頭の軽そうな人に思えるんだけど。
…で?生きさせてくれるってどういう意味かしら?
先に言っておくけど、おばさんをからかうといいことないからね。」
アラサー・アラフォーと呼ばれる年代は“おばさん”という言葉に敏感なものだが、子どもがいるとその友だちに友だちのお母さんという意味で「おばさん」と呼ばれることも多い。最初は複雑な気持ちにもなっていたが、今ではもう自らおばさんと名乗ることに躊躇いはない。
「んー。からかってないよ。」
きつい口調でそう答えても、声の主は怯むことはなかった。同じように軽い口調で答えた。
表情は見ることはできないが、おそらくチェシャ猫のようにニヤニヤと笑っているのだと思う。
「じゃあ、今すぐ私の体の病気を治してくれるっていうの?」
話しが進まないので、彼女は「生きさせる」というのがどういう意味なのかを尋ねる。
「それは無理~。さっきも言ったでしょ。“体は限界、死ぬよ”って。
ここでの生は無理だけど、別の世界で別の人間として生きさせてあげるってこと。」
「なにそれ、輪廻転生っていうつもり?それは私を生きさせるっていうことになるわけ?」
「…う~ん。ほら、君の記憶のままに別の人間として生きるんだから、君を生きさせることになるでしょ~?」
「記憶のまま…ねぇ。」
どうにもこうにも、胡散臭さしか感じられない…。
そんな彼女の心情を読み取ったのか、声の主はさらに言葉を足してくる。
「…もうここでは生きられないんだし、良い条件だと思うけどねぇ。」
「そんなに勧めてくるのって……。
私がその世界の別の人間になることで、あなたに何か特になることでもあるの?」
等価交換とは言わないが、何か自分に利益がなければこんな取引のようなことはしないだろう。
最初に悪魔の囁きかと思ったように、悪魔なら魂を要求するものだ。
そうではないのならば、この相手にとって何か利益があるのだろうか。
「こっち側の利益? んー、それは教えてあげな~い。
でも、体も失ってこれから君も還っていくのだから、君に失うものは特にないでしょ。」
確かに、もうすでにほとんど失いかけているのだから失うものは無い、のかもしれない。
チューブにつながれた自分の姿を見る。子どもができて若い頃よりはふっくらしていた体は、闘病によって痛々しいほどに細くなっている。
そのあとふと家族の姿を見る。これまで正体不明の声との話に集中してしまっていて気付かなかったが様子がおかしい。
旦那も子どもたちの声が聞こえないし、動きもしない…?
「あ、今時間を止めてるからね。安心してー。止めている間は君はまだ死なないから。」
彼女は心を読んだのか軽い調子でそんな言葉が出てくる声の主にもやもやとした気持ちになってしまう。
「…それはどうも御親切にっ。
話の続きだけど、そうね。でも私が私として家族と生きることができないのならば、このまま天に召されてもいいのだけど。
そんなわけで、私に利点はないということになるわね。」
熱心に勧めてくる割に、声の主側の利益の点は内緒にするという、怪しげな取引に応じる必要はあるのかと思いそう鎌をかけてみる。
「疑り深いんだねぇ。こちら側の利益については答えられないのは決定なので覆せないよ。
じゃあ、君の知っている一度は行ってみたいと思った世界に連れて行くと言ったらどうだろうね。」
「私が一度は行ってみたいと思った世界って、なんのこと?」
「ふふふ。興味を持ったね? 実はね、君に行ってもらおうかと思ってるのは、霞の森町だよ。」
ニンマリ笑ったチェシャ猫の姿を脳内で思い浮かべながら、相手の声を聞いた彼女は思考を一瞬止めてしまっていた…。




