心中屋
ディズがこの世に生を受けた時、すでに世界は病んでいて空は鈍色、空気は濁り、雨は黒く、海は汚染されていた。
貧富の差が激しく、貧しい者は水さえ手に入らずに飢えて人間が死んでいく。そんな世界。
そんな世界で生き延びる為に人を殺す事は呼吸になる。
身を守る為に殺す。
奪う為に殺す。
そして――食べる為に殺す。
初めてディズが喰ったのは実の母親だ。
ディズを女一人で生み、育てた優しい母はディズが5歳の時病にかかり起き上がれなくなった。
ベットの上、眠る母の首を絞めて殺す。ディズが9歳の時の話だ。
あの時の母の顔を今でも覚えている。目を見開き信じられないものを見るような目で彼女はこちらを見ていた。それから実の息子に本来は向けないだろう憎しみの籠った瞳をディズに向ける。
絞められた喉の隙間から苦しそうな声が漏れた。もはや言葉にならない喘ぎに近いそれ、ヒューヒューと喉が鳴っている。
きっと苦しくて、憎くて堪らなかっただろう。可哀想に――可哀想だと心から同情しながらディズは母を絞殺し母の身体を喰った。
だって蜘蛛の子供は母親の身体を喰って成長する。だからその行為はディズにとっては当たり前の生きる為の自然な行為だった。
そうして初めは生きる為にと行った行為は何時しか快楽を伴っていく。
絞殺、射殺、刺殺、圧殺、撲殺――殺す瞬間に向けられるあの目が堪らなく好きで。
焼いて、煮て、磨り潰して、蒸して――人の肉の味が忘れられなくて。
ディズは人を殺すようになった。
世界が病んでいたから、きっと自分も病んでおかしくなってしまったんだろうと思っている。
その少年に出会ったのは26歳の夏の日のことだった。
気まぐれに訪れた研究施設。何の研究かなんて知った事ではない。ただ人を殺したくて溜まらなくて、たまたま目に着いた研究所を襲った。
もし自分がもっと身体能力の低い人間だったなら、死ぬなり捕まるしていただろう。けれどとても不運な事にディズには人殺しの才能があって、その才能のおかげで人を殺しながらこの歳まで生きながらえてしまった。
銃を撃ってもナイフを使っても、武器が無くとも、何をどうすれば人を殺せるのか不思議と分かった。
警報機の鳴り響く中、踊るように人を殺しす。
ディズの金髪の短く刈った髪の毛は返り血にすぐに赤く染まっていった。
顔が勝手に笑みを作っている。今、ディズの元から吊り上った目は更に吊り上り、浮かべる笑顔にそれは細くなり、上がる口角はもしかしたら耳の横まで裂けているかもしれない。
口に一杯の牙が生えてきそうだ。
爪は鋭く、見る者が悲鳴を上げる程の化け物に。
(なっている。きっとなってる)
もしそうならどんなに素敵なことだろうと思うのだ。
血が飛ぶ。
鉄臭い匂い。
腹から内臓が覗く。
途端に溢れる悪臭。
脳が飛び散る。
痙攣しながら倒れる身体。
悲鳴が鮮やかに響く。
鼓膜を突き抜けるほど甲高く。
断末魔が心臓に響く。
腹の底から歓喜する。
ああ、なんて美しいんだろう。
なんて素晴らしいんだろう。
施設の中を人を殺しながら歩く。
逃げる足音が心地よくてディズは耳を澄ませた。
と、不意にさっきまで聞こえていた筈の音が無くなる。
聞こえなくなるとかではない。音が一切無くなってしまったのだ。
それはまるで無声映画でも見ているような現実感の無さだった。
ぬめる血も匂いも、温度も、味も、匂いも、全て感じる。血の赤、床の白、光の色、肉の色、内臓の色もちゃんとあるのに、音だけがない。
世界からそれだけ切って捨てられたみたいに。
一体何が起こっているのかと、見回す。
ガラス張りの部屋、部屋の隅の暗がりに少年がいた。
『39』の札を付けたその少年はただこちらをじぃっと見つめている。
黒い髪に真っ黒な目、身長は130センチぐらいの少年は泣くでもなく笑うでもなく、怯えもしなければ怒りもせずにただじぃっと部屋の隅からこちらを見ていた。
それがディズが初めてサクと出会った時の話だ。
気が付けばあの夏からもう3年と半年たっていた。
寒すぎる冬の空、鈍色のそれも太陽が沈めば黒く染まる。
今日は朝から雪が降っていた。大気の汚れを吸い取ったかのような灰色の雪は水分が多く、地面に落ちると汚らしく溶けて水たまりを幾つも作っていた。
首都ドラジェの3丁目39番地にその店はある。
肉屋『ランヴェルセ』
ランヴェルセはディズがサクと出会ってから始めた精肉店だ。
カランカランカラン。
店の扉に付けたベルが鳴る。
「はいはい、いらっしゃい」
ディズは処理していた肉を一旦冷蔵庫にしまうとキッチンから売り場の方へ向う。
店先には黒いロングコートにシルクハットを深く被った長身の男が立っていた。
「やあ、ディズ」
深く被った帽子のせいで、男の顔は鼻と口しか見えないが口調はとても柔らかくしたしげだった。
「ああ、心中屋さん――お久しぶりです」
その男をディズは心中屋と呼んでいる。本当の名前は知らない。
彼の仕事は結ばれない可哀想な恋人達を死出の旅路へ案内する仕事を行っている。だから彼は対外の者からそう呼ばれているのだ。
もっとも彼の仕事は大半が――。
「今日はサクを借りに来ましたよ。居るかい?」
心中屋はつま先立ちになると奥を覗き込むように少し背伸びをした。
「ああ、今呼んできますね」
少々お待ちくださいとディズは言うと、店の奥に向う。キッチンを抜けるとそこは住居スペースになっている。リビングの白い革張りのソファにサクはいた。
胡坐をかくように座り、ヘッドフォンをつけて瞼を閉じている。
「サク、仕事だ」
ディズは膝を折ってかがむサクに視線を合わせてそう彼に告げた。
初めて会った日から三年と半年立つがサクの容姿はあの日とまるで変っていない。
ガリガリに痩せた身体。肩は尖っていて、足も腕も細い。白い肌と黒い瞳。あいかわずただぼんやりと無表情にそれはいつもどこかを眺めていた。
ディズの言葉にサクが立ち上がる。ヘッドフォンはそのままに売り場の方へ歩いていく。
「やあサク、元気かな?」
サクの姿を見ると心中屋は先ほどディズに声を掛けた時と同じ柔らかく優しい声を出してそう尋ねた。
サクはイエスともノーとも言わず相変わらずただぼんやりとしている。
「さて、では行こうか」
心中屋がそう言って踵を返し、ディズとサクはその後ろに着いていく。店を出ると黒塗りの車が一台止まっていて、心中屋は助手席に、ディズとサクは後部座席に乗り込む。運転は栗色の髪の毛を緩く巻いた綺麗な女性がしていた。
ライトに照らされて、濡れた黒い路面は黒く輝いて見える。それが少し不気味に思うのは今から何が行われるか分かっているからだろうか。
車に乗って30分、一件のアパートの前に車は停車した。
赤い煉瓦の外装に緑色の蔦が巻き付いている。六階建ての建物、その六階の一番端の部屋の扉の前に4人は居た。
冷えた廊下、吐き出す息がさっきから白い。ディズは上着のポケットに手を突っ込み早くこの仕事が終わらないだろうかとそればかり考えた。
帰ったら、暖かいシチューを作って身体の中から暖まりたい。
「失礼」
そう言って、心中屋が扉の鍵穴に何か細く長い金属を刺し込む。カチャカチャと金属の触れ合う固い音がして、ガチャンと錠が外れる音が聞こえた。
「どうぞ」
扉は開き、心中屋はその扉の中にあの女性を通す。女性は駆け出す。その手には鈍く光る刃物が握られていた。
「さぁ、仕事だサク」
ディズはサクのヘッドフォンを外し、自分の耳へとそれを付けた。
大音量のクラッシックミュージックが途端にディズの脳内に流れ込んでくる。
玄関を抜けて突き当りの部屋、男が一人そこには居た。女は何か大声で叫んでいるがディズには何を言ってるのか聞こえていないかった。
それは今、ディズの脳内が大音量の音楽に支配されているからではなく、おそらくこの空間から音が消え去っているからだ。
(ああ、ドラマチックだ)
――と思う。心中屋の仕事は何度も受けているが美しい音楽の中、繰り広げられる惨い光景は胸躍るものがある。
サクは音を喰う。
正確には自分が聞いた音を全て消してしまう能力を持っている。理屈はよく分からない。科学なのか魔法なのか――だってディズは当時只の人殺しで今ははただの肉屋なのだ。
でも、人を殺す上で音が聞こえなくなると言うのは殺れる人間にとっては絶望的な状況だろう。
何故なら、助けが来ないからだ。
そこに誰か第三者がいない限り、その第三者が善人でない限り、悲鳴も物音も、断末魔さえ上げられない被害者は叫びながらもがきながらそれでもただ殺されるしかないのだ。
男は腹に思い切り刃を突き立てられ、口から血を吐いている。女が刃を引き抜き再びまた突き立てる。
何度も、
何度も、
何度も、
その度に飛び散る肉片がまるで赤い花の花弁のようだった。
男は膝をがくりと折ると、糸の切れた人形のように床に倒れ込んだ。
男の体重を一気に受け、床が軋むその振動だけが足の裏に響いてきたが相変わらずディズの耳には美しい音楽しか聞こえていなかった。
女は口を大きく開き天井を見つめていた。肩を揺らし、腹が上下にしている所を見るとおそらく笑っているのだろう。
そして女は血まみれになった刃を自分の首へと押し当てると思い切り腕を引く。皮を裂き、肉が見えおびただしい血液が吹き出し壁を汚していった。
「おつかれさま」
ディズはそう言ってヘッドフォンを外しそれをサクに装着した。
美しい音楽は途端に雑音に満ちていく。自分の呼吸、隣の部屋の会話、足音。
「で?これはいつも通り貰っていいんですよね?」
足元に転がった死体をつま先で蹴る。
「え?ええどうぞ」
心中屋は袖で目元を拭う。相変わらず深く被った帽子のせいで目元が見えないから本当のところは良く分からない、彼は仕事が終わると泣くのだ。
死んだ二人が可哀想だと、自分で手引きして置いて。
しかし憐れむ割りにはその死体には関心がないようで、土に埋めるぐらいならとディズは彼の仕事終わりにいつも出来立ての死体を貰う。
自分の店の商品にするためだ。
「毎度どーも」
女の肉はシチューにするのに丁度いい。ディズは普段から持ち歩いている肉切り包丁で死体を切り刻みながら舌なめずりをした。