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痩せた二人の男


 定刻七時。いつもと同じ駅、同じ便、同じ出口から出た。ネオンの光もいつものように眩くきらめいている。けれど、何かが違う。

はて、何が違うのかと思い足を停めた。

 そうだ。いつもは駅から流れ出た人波が一瞬の内にあちこちへ散らばり去ってゆくのに

今晩は駅の出口のあちこちで人が固まっていた。

「俺は今日は飲むぞ」

若い集団の中ではしゃぐ声が聞こえた。そうだ。今日からこの近くの公園が夜桜観賞のためにライトアップをするはずだ。あらためてあたりを見回すと、明らかに会社関係の団体やら、大学の部活仲間やら、家族連れなどが目についた。皆、大きな荷物を手に提げている。

「あ、すみません」

 後ろを振り返りながら歩いていたので、前を行く人にぶつかってしまった。勢いよくぶつかったわけでもないのに、タイミングが悪かったのだろうか。前行く男はつんのめるように転んでしまった。

「大丈夫ですか」

「ああ、大丈夫です」

 転んだ男はズボンをはたきながらてれくさそうに笑った。それにしても、何と細い男だろう。私とぶつかったくらいで、転ぶのも無理はない。彼は驚くほど痩せていた。腕時計をはめた手首は自分の半分ほどもなく、骨しかないように見えたくらいだ。街を歩いていると、きっとこの子は拒食症だろうと思うくらい細い女性を見かける事がある。腕も脚もそれこそ棒のようにまっすぐで、肉一つついていないかのような肢体だ。私の前の男もズボンやブレザーを脱ぐとそんな棒のような体をしているのではないかと思わせた。

「本当にすみませんでした。お詫びと言っては何ですが、そこの居酒屋でビールでもおごらせてください」

 駅前には最近急に増えてきた簡易テントのような店作りの居酒屋があった。この店のよい所は中が透けて見えるので、込み具合を気にせず入っていけるところだったし、何よりも値段が安かった。

 見ず知らずの男を一緒に飲みに誘う。普段なら決してやらないことだが、後々面倒なことにならないようにビールの一杯くらいおごっておくのもいいかと思ったのと、何より何故この男はこんなに痩せているのかと興味を感じていたからだ。


「おいしいですね」

 男はベトナム春巻きを食べながらビールをごくごくと喉を鳴らして飲んだ。

「どうぞ、焼き鳥も軟骨揚げも遠慮なく食べて下さい。お詫びですから」

「私は、肉も魚も食べられないんですよ」

 男はまた一つ春巻きをつまみ、たれに浸しながら話し始めた。


 男は四十五歳で二人兄弟だと話した。特別に裕福な家でもないが、男の父親は婿養子であったそうだ。

「昔は家に米ではなく、玄米から米をモミすりした後の米糠が3合あれば、男の子供は婿養子にはだすなと言われていたらしいですよ。そのくらい、父の時代の婿養子は肩身が狭く辛かったらしいです」

 男は春巻きの下にしいてある青菜を箸でつつきながら話続けた。

「一家の長にはおかずが一品多いなんて話聞いた事ありませんか。家でもそうでした。但し、一家の長は家の場合父ではなく、祖父でした。お小遣いだって父からではなく、祖父からもらうのですよ。子供の時はそれがどういうことかなど、理解できませんし、そんなものかと当然に思っていましたがね」

 初孫は祖父にとって随分かわいかったようです。自分だけに付け加えられたおかずも他所からいただいたお菓子も祖父は全て初孫に与えたという話をたんたんと続けた。

 男が中学生の時にその祖父は亡くなったという。

「祖父が亡くなったという事以外、子供には何の変わりも無い家庭のはずでした。けれど、変化は突然に訪れました。あの始まりの時の料理は唐揚でした」

 男は見たくもないというように唐揚の皿をそっと私の方に押しやってきた。


「今日のおかずは唐揚か。ラッキー。俺マヨネーズかけて食べるよ」

「嫌な食べ方をするわね」

 母親はそう言いながらも冷蔵庫からマヨネーズを取り出して長男の前においてやった。

「いただきます」

 祖父が亡くなり、家族四人の食卓だった。

長男が唐揚を箸ではさんだ瞬間だった。前に座っていた父親の箸が長男の持つ箸を抑えたのだ。

「何」

 長男は父親が何かの合図でもしたのかと思ったそうですよ。

「マヨネーズがだめってことなの。いいじゃない。人それぞれの好みなのだから」

 そう言って再び唐揚をはさもうとしたら、又前から父親の箸がすっと伸びてきて長男の箸を押さえるのですよ。

「父親の顔は無表情でしたね。怖いくらいに静かな食卓でした」

「お母さんは何も言わなかったのですか」

「お父さん、どうしたのと聞いていましたね。しかし、父親は何も答えない。でも、息子が食べようとすると息子の箸を押さえる。無言で。サイレント劇場を演じているような妙な

食卓でした。そんな食卓がその日から一ヶ月は続きました。そして、長男は肉、魚を一切口にしなくなりました。父親の良心だったのか、白飯とつけもの、汁だけは箸を押さえないのですよ。でも、長男が一膳食べると無言の父親が一言だけしゃべるのです。いつまで食べているのだと」

 私はビールジョッキを持つ手が何やらひんやりとした感じがして、思わずポケットのハンカチをまさぐった。恐ろしく寒々しい話をしながら意外にも前に座る男は静かで落ち着いていた。

「静かな食卓の中で次男の声だけがするんです。父親も次男には今日の学校はどうだったとか、あれこれ聞いていましたしね。聞かれれば当然答えますから。そうすると、静かな食卓が怖い母親も、救われたとばかりに相槌を打ったりするのですね」

 相槌の打ちようのない暗い話だった。

「あなたのお父さんは何故そんなことをしたのだろう」

「もともと、祖父の子供のような長男より自分達になじむ次男がかわいいのはあったと思います。その上、子供は知らなかったが、遺言があったそうです。大きくもない家ですが、長男に譲ると」 

 それにしても痛ましいと、私は思った。私にも子供はいるが、わが子をこのような扱いができるだろうか。

 男は私の表情から考えている事がわかったのであろう。

「米糠三合あれば婿養子にやるなと言う事でしょう。長男は祖父にかわいがられすぎたし、父親はきっと祖父にいじめぬかれすぎたのでしょう」

 割り勘にしますからと、男はもう一杯ビールを注文した。

「あ、それと枝豆も」

 やはり青物を注文する男に私は尋ねた。

「失礼ですがあなたは今お勤めをされているのですか」

「結婚もして、子供もいますよ。ああ、あなたは何故独立した今も私が肉や魚を食べないのかと不思議がられているのですね。中学から大学を卒業する十年間、肉や魚を口にしなかったので、食べようと言う気がなくなったのですよ。それに箸を押さえられたのはさすがに中学生まででした。高校生にもなると体が大きくなりますからね。次男も長男を気遣ってよく肉や魚を食事の後でこっそりと持ってきました。わざと父親よりゆっくり食べて半分残すのですよ。でも、長男はなおさら食べれないのですが」

 本当に辛い思いをなさったのですね。そう言いたかったが私はこらえた。男の痩せすぎた体の細い肩を今はポンポンと軽く叩いて親愛の情を示したいとも思った。

「ところで、私はこの話の中の弟なのですよ」

 静かな男が唇を震わせた。

「えっ」

 私は思わず声を上げた。

「兄は私と同じくらい痩せてますよ。けれど、この間久しぶりに父親の葬儀で顔を合わせましてね。近頃ようやく肉や魚を食べられるようになったと笑っていました。奥さんが大食漢なのだそうです」

 

「お父さん、家族は同じものを食べるのよ。

お父さんがそんなに痩せて、私がこんなに太ってたら、私の外聞が悪いのよ」

 長男の妻はそう言って必ず同じ料理を同じ量だけ、家族の数だけの皿に盛るのだそうです。

「お父さん、どうしてお肉食べないの」

 娘さんにも言われて少しずつ食べているらしいです。

「俺は今、幸せだよ。不思議な事だが、自分が幸せになったら、親父やおふくろやお前に対して持っていた怒りが消えてしまった」

 長男の言葉を伝え聞いて私はよかったことだと本当に思った。目の前の男が当事者の話ではなかったが、不幸な子供時代を送った一人の男の傷ついた心が再生されていることにほっとしたのだ。


「でも、私の怒りは消えていないのです」

 驚くような苦しみを含んだ声だった。

「あなたも、兄がかわいそうだと思うでしょう。でも、私も被害者だったのです。私は兄をかわいがる祖父への反動だったのでしょうか、父親にとてもかわいがられて育ちました。父親が大好きでした。子供ですから母親も当然大好きです。兄だって大好きです。

大好きなお父さんとお母さんが大好きな兄に辛くあたるのです。わけがわかりません。兄が痛ましくて、先ほども話したように兄に食事をわけようとしました。それでも、父親は兄の箸を押さえる。母親は兄を助けない。兄はやせ細ってゆく。兄に持っていった食事を兄はありがとうと言って食べるのですよ。けれど、三度に一回はいいからと食べなくなる。

私こそが食べれなくなったのですよ。父親に泣いて訴えました。何故兄をいじめるのか。いじめられる兄を見る私の気持ちがわからないのかと」

 そんな男の訴えにも父親は無言で聞き流していたそうだ。父親を嫌いになりきれない葛藤がいかばかりに男をさいなんだのか。男の細い手首が語っていた。

 男は私と飲んでいる間、肉も魚も口にしなかった。男は幸せではないのだろうか。胸の中でどうどうめぐりする怒りがうずまいているのだろうか。

「それでは、奇妙な縁でご一緒しましたが、今日はこのへんで失礼します」

 結局は全額私のおごりとなったが、私は別れ際、そっと男の肩をなでた。

「今度、偶然に出会えたら又おごらせてください。私と一緒に「すじコン」でも食べましょう」

「ありがとう」

 軽く手を振って歩きだした男の背中を私は見送り続けた。何だか、その痩せた体の向こうに三人目の痩せた男が見える様な気がして。


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[一言] こんにちは、はじめまして。トップページから参りました。 このお話が初作品なのでしょうか。そうとは思えないくらい読みやすい文章で、面白かったです。この短さでよく纏まっているな、という印象を受け…
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