転生なんてしたところで、お姫様に意味はない
「じゃあ逃げてしまいましょう」と、彼は言った。
そんなことできるわけがないと私は思ったけれど、伸ばされた手を取ってしまった。
それが、全ての始まり。
***
「フィオ! ぼうっとするんじゃないよ! ちゃんと下準備は終わらせたのかい!?」
酒場の女将の言葉に、私はゆっくりと振り返った。
一つくくりにした灰色がかった茶髪が、一緒にくるりと回り、布巾を握りしめたまま、少し考えて首を傾げる。左手の甲はいつも通り包帯を巻いて隠していた。
「はい。野菜の皮はむき終わっています。料理に使いやすいように、材料ごとに切り分けました。ついでに厨房の掃除と、カウンターは見ての通りに拭き終わり、店の外も軽く――」
「もういい、もういい!」
特に圧をかけたつもりはないのだが、ひと息で説明すると、女将は大きな体を捻らせるように私から逃げた。ふむ、と現状を把握し頷く。
すると、周囲から、わっと歓声が聞こえた。
「女将、いつものことだろ!」
「フィオちゃんは、なんでもさっさとやっちゃうだから。なあ?」
「あ、あたしだってわかってるよ! ただ別に……ちょっと確認しただけだろっ」
「いやー、フィオちゃんの返しは、いつも見てて面白いねぇ」
片手に酒を持った酔っぱらいのお客さんたちが、思い思いに話して笑っている。女将は耳を赤くして、つまらなそうにそっぽを向いていた。
お客たちは私のことを褒めているように聞こえるが、ようはからかわれてもいるのだ。
私は平民として、そして孤児として生まれた。親の記憶もなく十五歳になる現在まで一人きりで生きてきたのだから、大人に揉まれて働く程度はなんでもない。
楽しげな酒場の光景を、不思議な気持ちで目を細めて見る。
(本当に、あれから十五年もたったのね)
――私は、生まれる前の記憶がある。
前世の私はこの国のお姫様だった。
自分の妄想かもしれない、なんて思ったこともあるけれど、聞いたことも、見たこともない単語を知っているのだから、気のせいでは済まされないと思う。
(私の前世……フィオリナは、今の私と同じくらいの年で死んでしまった……)
ふわふわと柔らかい髪に平均よりも少し低い背。可愛らしい容貌といっても間違いはないだろうけど、あくまでも一般的な範囲。そんな彼女に年々似てくる自分の姿は、とても複雑だ。
私の前世、フィオリナが十五歳のときに突如飛び込んだ、二周り以上も年が離れた男との縁談。それは厄介者であったフィオリナを城から追い出すために仕組まれた縁談だった。
フィオリナは泣いて、泣いて、それでも覚悟を決めようとしたとき。
『姫様、俺と逃げませんか?』と、声をかけられた。
声をかけてきた人間はフィオリナの近衛騎士であり、将来が有望とされていた青年――アクトだった。
この国では珍しい銀髪碧眼の美しい青年だったが、話したことなど数えるほど。
なのに、フィオリナはその手を取ってしまった。
二人は城から逃げ、隠れ住むように市井に下った。
その頃のことは、思い出したくない。なぜなら……。
(とにかくフィオリナは……なんっっっにも、できなかったから!)
片付けのために持っていた布巾をぎゅうぎゅうに握りしめ、私は眉間に力を入れた。「フィオちゃん、どうかした?」なんてお客さんに聞かれてしまう始末。
なんでもないです、と返答しつつ、視界の端でテーブルの上から落ちそうになるコップに気づく。どう考えても届かない距離なのに、左手を出そうとして――。
(やめとこう。使うほどのことじゃないわ)
すぐにコップが床に落ちて、水がこぼれて割れてしまう。
「片付けますから、ちょっとどいてくださいねー」と伝えて掃除する。
そして思い出したくないのにやっぱり思い出してしまい、過去の自分に眉間の皺が更に深まる。
アクトと街に隠れ住むようになったフィオリナは、生活の全てをアクトに任せきりになった。なんせ、お姫様として育てられた彼女は家事やお金の不安など、今まで知ることもなく生きてきたわけで。本当に何もできなかったのだ。
もちろんフィオリナだって、努力しようとした。結果、割れた皿が散乱した家でアクトを迎えることになり、あまりの情けなさに死んでしまおうかと思った。
……アクトはいつも笑っていた。『姫様はそんなことをしなくてもいいんです』と。
アクトはフィオリナの恋人だったわけではない。
ただ近衛騎士だったというだけで、彼の人生を台無しにしたことをフィオリナはずっと悔いていた。
結局、二人の生活はたったの一年程度で終わってしまった。
もともと体が強くはなかったこともあり、フィオリナは十六になった年に病に倒れた。死への恐怖よりも、これでアクトを解放することができると安堵したことを覚えている。
『――姫様! 姫様……』
最期に目をつむったとき、聞こえた彼の声が忘れられない。
もうそのときには私の意識もおぼろげになってしまっていたから、ただの気の所為かもしれないけれど。
「アクト陛下、すげえよなあ。即位した途端に、近隣諸国との戦争をあっという間に終わらせちまうし」
「王族の中から、神に選ばれた者だけが即位する……。話には聞くけど、陛下の話を聞くと、マジもんなんだなって思っちまうね」
お客さんの声を聞いて、私の耳がぴくん、と動く。
――アクト陛下。
現在の我が国の国王の名だ。生前、私を逃がしてくれた騎士と同じ名前のその人。
でも私が死んでから、もう百年以上の時間がたっている。
だからアクト本人……な、わけはないが、肖像画を見る限り彼にとても似ていた。
やはりどうしても気になってしまう。
(ま、一国の王様と、今じゃただの平民の私が会えるわけないんだけど)
「ところで陛下といえば、最近、城の清掃係を募集しているらしいな? 賃金も結構いいらしい……えっ、どうしたフィオちゃん!?」
「……その話、本当です?」
思わず食い入るように話に割り込んでしまった。お客さんはびっくりした顔でこくこく、と頷いた。
***
「……なんと選考を通過してしまったわ」
倍率の高さからダメ元だったつもりなのだが、私はお城の中で結果用紙を握りしめ、呆然とする。前世では何もできなかったことが悔しくて、今生ではもっと努力しよう、と誓った。そして家事全般、なんでもできるようになってしまった。
――ものすごいスピードだ……見たこともない速度で掃除をしている!
――少女の周囲だけ、輝きすぎて何も見えないぞ!?
――まさか掃除をしながら庭の手入れまで完璧だと!?
「やりすぎたかもしれない」
ちょっと王様の顔を見る。ただそれだけでよかったんだけど。
「フィオだったっけ? すごかったわね!」
声をかけてきたのは、一緒に選考を通過した女の子だ。明るい声色が可愛らしい、ショートカットの彼女も、これから一緒に働く同僚なのだろう。
「私、ミミっていうの。よろしくね!……あのね、今回平民で通ったのは私とあなただけみたい」
「……そうなんですか?」
「ここだけの話、陛下にお会いできる可能性があるわけでしょ? だから他の人は貴族出身みたいで……」
「なるほど」
たしかに私とミミ以外、合格した少女たちの雰囲気は違う。具体的にいうと、顔には白粉が目立っているし、手を使う作業は嫌がっていたし、とうてい掃除する態度には思えない。それでも彼女たちが合格したのは、家の力もあるのかもしれない。
「……だから、仲良くしてくれたらとっても助かる!」
「でも私、多分すぐにやめますよ」
「ええ!?」
酒場の常連客や女将さんたちから、『駄目だったら戻ってくるんだよ!』と見送られたことを思い出す。
「そんなぁ……」
「冗談です。でも、私たちのような掃除係が陛下にお会いすることなんてできるんですか?」
「それがあるの。あのね、陛下は――」
「皆様、陛下がいらっしゃいましたので、どうかお静かに!」
兵士の言葉とは反対に、周囲の少女たちはにわかにざわめく。
私も慌てて頭を下げたが、正直状況を理解していない。ミミが囁くように、頭を下げたまま先程の続きの言葉を私に教えてくれた。
「――陛下は、女性が城に勤める際には、必ずご確認なさるの。お妃様を探していらっしゃるのかもって、みんな思ってる」
「お妃様……?」
「そう。それに、特にあなたのような灰茶髪の女性のことを気になさることが多いらしくて」
と、まで話し、ぴたりと口を噤む。なぜか。それは想像しなくてもわかった。
「そこの少女、顔を上げよ」
懐かしい声だ。いや、そうなのだろうか。なんせ十五年ぶりだからわからない。
実感だって、湧いていない。
ゆるゆると、顔を上げる。
「……姫様……?」
けれど、自分を呼ぶ彼の声は、絶対に忘れない。
互いに見つめ合い、フィオリナ、と彼が口元で呟く小さな声が、耳にまで届いたような気がした。
城の執務室のソファーに、私はむっとした顔をしたまま座り込んでいた。
陛下はソファーではなく、私の足元に跪いている。そう、私の足元に、だ。
目が霞むほどの男前が私の足にひれ伏し、きらきらと目を輝かせている。異常な光景だった。陛下……いやアクトの背後では、黒髪の、これまた顔の整った男性がちょっと引いた顔をしている。おそらくアクトの側近なのだろう。
「姫様。あなたはフィオリナ姫でいらっしゃいますね……!?」
「違います」
全力で否定しつつ、しまったなと思う。
私に前世の記憶があるのだから、アクトだってそうでもおかしくはないのに、まったく想像が働いていなかった。
予想通り、私は平民として、アクトは王族として生まれ変わっていたらしい。
お互いに生前とまったく似た姿なので、これでわかるなというのは無理がある。
察するに、せっかく王族に生まれ変わったというのに、アクトはずっと私を探していたのだろう。なんという騎士根性なのだろうか。褒めているわけではない。
「……しかも、灰茶髪の女の子をお妃にしたいと勘違いされているだなんて」
ここまでくるとちょっと引く。
「何かおっしゃいましたか? フィオリナ様」
「陛下、私はフィオリナなんて名前じゃありません。勘違いです」
「おっとそんな態度でいいんですか? フィオ、十五歳。街の酒場で働いており、そこから応募ということですね。私はこの国で最高権力を握っております。尻尾を掴んだ今となっては、あなたがどこに逃げようと調べ上げて、地の底まで追いかけていくことができるんですよ……?」
めちゃくちゃ怖いし圧が強い。
「ち、違いますったら!」
「違うというのなら、右手を見せてください」
「……右手、ですか?」
「フィオリナ様でないのなら、今ここで、その手袋を脱ぐことができるはず」
アクトは私がしている黒い手袋を指差す。
「フィオリナ様の右手には、赤いアザがありました。それは生まれ変わったところで逃れられぬ、王家の証です。……フィオリナ様は、その証があったからこそ、王城から逃げねばならなかった。」
私の右手にあったアザは、知らぬ男との縁談となった原因だった。
私は思わず自身の手を隠すように胸元に寄せる。
そんな私の様子を見て、アクトはやはり、とでも言うように顔を歪める。
「姫様、今度こそ、私は……!」
――じゃあ逃げてしまいましょう。
こちらを見上げた彼の姿が、過去、そう言った忠実な騎士の姿と重なる。
何度も、何度も思い出して――そして、後悔した。
何もできないフィオリナに、『大丈夫ですよ』と屈託なく笑う彼を見る度に、私は自身の愚かさを突きつけられる気がした。
どうして私はその手を取ってしまったんだろう、と。
「……もし、私がフィオリナという少女だったならば」
「……!」
唐突に話す私に驚いたように、アクトは目を見開く。
「名乗らないということは、陛下との再会を望んでいないということだと思います。……そして私は、残念ながら陛下が探していらっしゃるフィオリナという少女ではありません」
するりと右手の手袋を外し、白い手の甲をさらす。
そこにあるものは、ただの右手だ。
「……な! そんなわけがない!」
「アザなど、どこにもありません。これが事実です」
そう、はっきりと伝えた。
話しながら、考える。どうして私がこんなところまで来てしまったのかということを。
その答えは、私の心の中にあった。
ただ、私は。自由に生きるアクトの姿をただひと目でも、見たかったんだ。
「……掃除係の仕事、やっぱり今から断れるのかな」
私はアクトのもとから去り、城の廊下を歩いていた。
アクトを自由にしたいと言うのなら、初めから来なきゃよかったのにとずきりと胸が痛くなる。でも、これでよかったかもしれないと思い直した。
前世の未練をきっちり終わらせることができたのだから。
「とりあえず、荷物を取りに……」
そのとき、大きな音が響いた。物が割れるような音。少女の悲鳴。言い争う声。
知らぬうちに、体が動いていた。
「違います、私じゃないです!」
「あなたでしょ? 花瓶を落としたのは。見ていたもの」
「平民はこれだから嫌よね。陛下の気を引きたくて、自分から落としたんじゃない?」
「そ、そんな……」
階段を降りてたどり着くと、ミミは同じ掃除係である女性たちに囲まれて今にも泣き出しそうになっていた。
「何をしているんですか」
「フィオ……?」
私が間に入ったところで、ミミを囲む少女たちはくすくすと笑うままだ。
「あら? 灰茶髪だからと陛下に声をかけてもらっただけなのに、随分ご立派な態度ね?」
すぐに状況は察することができた。この場にいる少女たちは、互いにアクトを狙うライバルでもあるのだ。誰かを蹴落とすために、卑怯なことはいくらでも行う。
それが、王城という場所だから。
「この花瓶の価値は、どれくらいかご存じかしら? あなたたちがこれからもらうお給料では到底払いきれないでしょうねぇ! まあ残念!」
さっさとクビになって、貧乏人は田舎に帰りなさいな! と高らかに笑う。
「フィオ……わ、私、家に、兄弟がたくさんいて、お給金がいいから、ここに来たのに、そんな高いもの、払えない、どうしよう……」
「ま、本当に貧乏人でしたの!?」
ミミが苦しげに目をつむる。その瞳の端には涙が滲んでいた。
震えながら強く握っていたミミのスカートは、すっかり皺になってしまっている。私はミミの姿を無表情で見つめた。そしてすぐに背を向け歩く。
「あ……」
「見捨てられてしまいましたわねぇ!」
からからと笑う声を無視して、落ちていた花瓶を拾った。
そして、小さく願う。力を貸して、と。
「……あなたがた、ちゃんと確認しました?」
「はい?」
「割れてなんていないですよ。ほら」
私は花瓶を持ち上げて、高笑いをしていた少女に渡した。
「そ、そんなはず……! どうして……!?」
「あ、そんなに乱暴に触っていたら」
「へ……? キャアッ!」
ぱきり! と音を立てて、少女が持っていた花瓶が真っ二つに割れてしまう。
「あーあ。弁償、ちゃんとしてくださいね?」
「はァ!? あなたが何かしたんでしょう!?」
おっしゃる通りなわけだが、そこは素知らぬ顔をする。
言わなければ彼女たちには絶対にわからない。
「お前たち、何を騒いでいるんだ!」
あまりの騒ぎに、階段の上から降りてきたのは、アクトの背後にいた黒髪の側近だった。
「助けてくださいませ!」
「私たち何もしていないのに、この者たちが花瓶を割ったと言いがかりをつけきたんですわ!」
これ幸いに、と即座に他の少女たちが叫ぶ。
「違います! 割ったのは、そちらの方です! 私も、フィオも、何もしていません!」
それ以上の声でミミが主張したことには、少し驚いてしまった。
自分が責められていたときには、何も言えない様子だったのに、と。
「何を子どものような言い合いを……。はあ。両方の言い分を確認する。互いの発言に齟齬があれば、覚悟をするように」
少女たちはにやりと口元を緩ませる。あちらの方が人数が多い。数の差で証言が通ると思っているのだろう。ましてやこちらは平民、あちらは下級とはいえ貴族なのだから。
仕方ない、そのときはそのときだとため息をついた、そのときだった。
「――俺には」
次に話した声の主の前で、誰もがぴたりと口を閉じた。
「花瓶は、最後に持っていた者の手の中で割れたように見えたがな」
突如現れたアクトに、少女たちは一瞬で顔色を真っ青に変える。
「陛下! こういった場では、まずは全員の主張を確認すべきです。王一人の判断で処罰を下すことはできないのですよ!」
側近とはきやすい仲なのかもしれない。「なるほど、たしかに」と、アクトは軽く笑って頷く。それでも、少女たちは震えたままだ。王が見ていたことは重い判断材料となるはずなのだから。
「では、そちらの者の証言は俺が直接聞こう」
そちらの者、とアクトに指をさされたのは私だった。
私よりも、ミミが怯えていた。
どうしよう、と私の服を握る彼女に、「大丈夫」と伝える。
「ほ、本当に……? わ、私が、フィオに声をかけたから……!」
「心配しすぎですよ。それに、お金がなくて不安になる気持ちはわかります。助けてほしいときは、これからもきちんと声を上げてください。さっきのあなたみたいに」
ミミの目に滲ませている涙を拭って、にこりと笑う。
ミミは驚いたように目を見開いた。
「話は終わったか? 来い」
「……わかりました」
アクトにつられるように私はその場を去った。
いつまで歩けばいいのだろう。
アクトは私に背を向けたまま、回廊を歩き続ける。
気まずさもあったけれど、ふと懐かしさを感じた。
城は私が生きていた頃と、それほど大きく変わっていない。近衛騎士であったアクトは、いつも私を守っていた。けれど会話なんてしなかった。どこかに行くときも、ただ無言で私の傍にいただけだ。
(ああ、でも、城にいるときにも、何度か話したことはあったっけ)
私は回廊のアーチから覗く鮮やかな庭の景色を、目を細めて見つめる。
「左手を」
「え? きゃっ!」
唐突に振り向いたアクトが、私の左手を持ち上げる。まるで抱きしめるみたいに体を動かぬよう固定されて、抵抗する間もなく左手の手袋を脱がされた。
「……!」
「なるほど、右手ではなく、左手に……。まさかこちらまで反転しているとは。それに、花びらの数が二枚しかない」
アクトは眉をひそめて、私の手を捻り上げるように持つ。
私の左手にあるアザ。
それは、もとは五枚の花びらの形をしていた。
王族のみが持ち、そしてこのアザを持つ者が、王位を継承することを許される。
私はこのアザを持つことから、実の兄に疎まれ、そして望まぬ縁談で、城から追い出されるはずだった。
花びらには、力があった。
花びらの数の内ならば、どんな願いでも叶えることができるという、力が。
「あなたは、一体どれほどの力を使ったんだ! 先程も……いや、あんなものは花びらの数にも入らないはず。それなら、やはり……!」
アクトの悲痛の声が聞こえる。手が痛むほどに握りしめられる。
「あなたが、この転生を願ったのか!」
――そうだ、と自身の心が答えた。
なぜだろう。少しだけあのときのことを思い出した。
私の心はフィオではなく、フィオリナになる。ベッドの上で、こんこんと苦しく咳をしていたあの日に戻っていく。
パンを消し炭にしたり、ぐちゃぐちゃの縫い目のベストを作ってアクトに贈ったりと役立たずの日々だったけれど、もうそんなこともできない。
ベッドに横たわる私は、やつれてしまって、見るに堪えない姿だったのだろう。
どれだけ私が失敗しても『大丈夫です』とアクトはずっと笑っていたのに。アクトはもう笑わない。薄暗い表情で、ときには無理に笑おうとする。
以前の私は、アクトがおかしそうに笑う度に、幸せの欠片を感じていた。もしかしたら、アクトも少しくらい、同じように思ってくれてやしないだろうかと。
そんな馬鹿なことを考えることすら、もうできなかった。
ただただ、彼を開放したかった。私さえいなければ、よかったのに。
『あなたは、いつもご自身のために願いを使おうとしない。何を願おうとも、叶う術があるというのに』
だって、これ以上の幸せはもうないじゃない。
あなたと一緒にいることができるなんて。
でも、そんなことを思っていたから天から罰を受けてしまったのだろう。
『姫様、どうか願いを使ってください。あなたは本来ならこの国の王になるべき人なのです。俺など近づけるはずもなかった。諦めます。もう諦めますから』
耳も遠く、もう彼の声もよく聞こえなかったけれど、願いと、王。その言葉は聞こえた。
ああそうかと、そのとき一つの方法に気づいた。
本当は時間を巻き戻したかった。でも、そんなことは花びらが何枚あっても足りない願いだったから。それなら、次を作ればいい、と。
私とアクトの次を作り、立場を反転させるのだ。
彼が王に、そして私は――ただの平民に。アクトにはたくさんの苦労をさせたから、自分だけ幸せになるなんて、絶対に許さない。
『――姫様! 姫様……』
ちらり、と花びらが散っていく。目をつむり、吹き荒れる花の嵐の中に私は向かう。少しだけ、振り返って。でも、すぐに前を向いて、まっすぐに突き進む。
「ずっと、ずっと待っていたんだ。俺と同じように、あなたが、姫様が生まれ変わるときを……ずっと、待っていたんだ……」
アクトは私の左手を自身の額につけるように背をかがめて、顔を伏せた。
かすれるような小さな声を聞きながら、初めて目が覚めたときのことを考えた。
私は幼く泥だらけの姿で、今にも倒れてしまいそうなほどに空腹だった。苦しくて辛かったけれど、本当に安堵した。
願い通りに私が平民になったということは、アクトは王族として生まれたはず。これでもう彼と私は関わることはないだろう、と。
五枚あった花びらは、二枚に変わっていた。
一つ、次の世を望んだこと。
二つ、アクトを王族にすること。
三つ、私は平民となる、新たな運命を欲したこと。
(そっか、そういうこと……)
ふふ、と笑ってしまった。それからアザに小さな願いを求めることはあっても、花びらが散るほどのことは求めなかった。一人きりで生きたかったから。
今度こそ、誰の迷惑をかけることなく、ただ一人自分の力で、生きたかったから。
……でも、やっぱり、ひと目だけでも会いたくて。
自由に生きている彼を、ただ少しだけでも見たくて、こんなところに来てしまった。
「……掃除係なんて、姫様にできるわけないじゃないですか」
「あれから、私も進歩したもの。昔のままじゃない」
「あなたも生まれ変わっているのなら!……貴族として、今度こそ幸せになっているはずだと、俺は……。くそっ、もっと、しっかりと探すべきだった! いくら探しても見つからないから、てっきり他国にいるのかと、それでも諦めきれなくて」
「…………」
「金の不安がわかると言いましたね。それはこれまでのあなたの生き方からですか? それとも……そんなに、あの頃の俺は不甲斐なかったですか?」
「……えっ?」
話の流れがわからなくて瞬いてしまった。アクトはその爽やかな容貌に似合わぬような、薄暗い瞳を私に向ける。
「姫様は、あんな苦労をするべき人ではないんだ。なのに、俺が不甲斐ないばかりに、必要のないご苦労ばかりをかけてしまい、悔しくて、悔しくてたまらなかった」
「はい?」
むしろ私がアクトに苦労をかけていたのでは? 家事をさせて金も稼がせて、私はただぼんやり家にいただけなんだけれど?
「姫様は、愛されるべき人です!」
「ひいい」
圧が強い従者がとても怖い。
「本来なら、俺は近衛騎士などになれる家柄では、到底ありませんでした。けれど、あなたが取り立ててくれたから。そして、あなたがいたから……!」
過去の私は、アクトのことをもったいない人がいるな、と思って見ていた。
実力はあるのに、家柄に足を引っ張られて、周囲からも孤立していて。
アザができるまでも、できてからも、私は一人ぼっちの姫だった。
誰からも期待されず、ただ部屋にこもって生きているだけ。姫という立場はあっても、権力はない。
――でも、それでも、ただ一人きりくらいなら。
『ねえあなた、私の騎士になってくれない?』
『……ハア?』
幼子の無知な言葉に、アクトは眉をひそめて見上げた。そのときの彼は同僚からの嫌がらせで、顔と体をぼろぼろにして木の下で座り込んでいた。
まだ少年だった彼は鋭い眼光で私を睨んだ。
でも、それ以外の選択肢がなかったのだろう。
アクトは私の近衛騎士となることを了承した。
私は初めてぬいぐるみ以外の友達ができたような気持ちで、お茶会に誘った。アクトは嫌そうな顔をして何も話さず、不味そうにお茶を飲んでいた。むやみに話しかけるのは断ることができない相手に押し付けがましいことだと、私はやっと気がついた。
それから、話しかけることはやめた。アクトももちろん話さなかった。
アクトは、ずっと私の近くで、私を守ってくれた。それがお仕事だから。
いつの頃からだろうか。アクトの眉間の皺も自然と薄くなり、ふと目があったときに――。
一瞬の彼の柔らかな笑顔に、私の心は持っていかれてしまった。
だから、『逃げてしまいましょう』と私に手を差し伸べてくれたとき、本当に嬉しかった。嬉しい気持ちと同時に、彼の忠誠心を利用した自身が情けなくて……。
「あなたは、もう私の騎士じゃないのに……」
「いいえ。俺はあなたの騎士です。……俺には、右手のアザはない。本来なら王になるべき人間ではありません。必ず、あなたに王位をお返しいたします」
抱きしめられ、言葉すらも出てこない。彼の胸に、額を当てて唇を噛みしめる。
「……生まれ変わった程度で、俺から逃げられると思わないでください」
「……ん?」
不穏に響く言葉に、顔を上げて首を傾げた。
にこりとアクトは笑う。それこそ花のように。
「あなたは、俺のお姫様ですから」
「…………」
もしかすると私は、騎士にしてはいけない人間を騎士にしてしまったのかもしれない、と今更ながらに気がついた。
本編に入り切りませんでしたが、『自分に対して決して願い事を使わない』人間だけが花びらに選ばれるという設定でした。
最初はつんつんなのに……な、主従関係からしか得られない栄養があります。
こちらまで読んでくださって、ありがとうございました!




