水鏡の渓谷 〜等々力軍記〜
江戸の空は、秋の薄曇りだった。
弘徳院の山門をくぐると、風が一筋、背を撫でて過ぎていった。
私はふと、足を等々力の方へ向けていた。渓谷の湧水は、あの頃と変わらぬ音を立てていた。
いや、変わったのは私の耳の方かもしれぬ。あれは、十三年前のこと。
世田谷城が落ち、我ら井伊隊は等々力・奥沢方面の掃討を命じられた。
その地に、ひとりの男がいた。幻斎――水鏡先生と呼ばれた、庵に住む僧。
戦を本望とせず、民を守るためにのみ、戦った男。湧水の音が、あの戦の記憶を呼び起こす。
霧の中で、我らは何度も彼に翻弄された。
姿を見せず、ただ戦果だけが残る。今、私はその庵の跡地に立っている。
湧水は絶えず、霧は薄く、竹林は静かだ。あの戦は、勝ちだったのか、負けだったのか。
それすら、今となっては定かでない。ただ、あの男の名だけは、今も胸に残っている。幻斎か…まさに幻だったな。
湧水の音が、弘徳院の庭に響いている。
竹の葉が揺れ、石の間を水が走る。
等々力渓谷での戦、あれは短い戦だった。
だが、兵は次々と消えた。敵の姿は、最後まで見えなかった。
湧水の流れ、崖の罠、霧の矢。
それらは、誰かの意志によって動いていた。
今、私は筆を執る。これは、見えない敵との戦いの記録である。
等々力渓谷における、三時間の戦。順番に紐解いていこう。
世田谷城を受領したのは、慶長十二年五月二十六日、午の刻を少し過ぎた頃だった。
城主はすでに退去しており、井伊隊は無血で城を収めた。
私は軍記筆録の任を受け、直政公の命により随行していた。城門の前で、赤備えの兵が整列していた。
敗残兵掃討軍は、騎馬二十、歩兵百二十。伝令と補給を含めて、総勢百五十。
甲冑は陽に照らされ、槍の穂先が静かに揺れていた。城内は静かだった。
まだ敵が退去したばかりの気配が残っていた。
受領の儀が終わると、直政公側近の木俣守勝はすぐに渓谷への進軍を命じた。
等々力の庵――水月庵と呼ばれる場所に、軍学僧が潜んでいるという報があった。
「幻斎という者が、民を集めている」
そう報告を受けたとき、私は眉をひそめた。幻斎――水鏡先生と呼ばれる、元・軍学僧。
戦を好まず、茶を点て、湧水を読み、民を導く者。「風流な名だ」と、私は笑った。
だが、笑いは長く続かなかった。
等々力渓谷は、地形が異様だった。
崖が裂け、谷沢川が音を立て、霧が昼にも立ち込める。
湧水は足元を濡らし、竹林は音を吸い込む。兵は進めど、敵の姿は見えず。
ただ、罠があった。
崖からの落石、吊橋の断裂、竹の槍が地面から突き出る。「これは、地形を読む者の戦だ」
私は、ようやく幻斎の名を重く感じ始めていた。だが、まだこの時は、勝てると思っていた。
我らには兵があり、火があり、理があった。
幻斎には、庵と民と、水しかなかった。そう、思っていたのだ。
少し刻を戻そう。私は筆録者として、隊列の後方に位置した。
城を出てすぐ、道は谷沢川に沿って下り始める。
湧水が道を横切り、苔が濡れていた。
竹林が密に迫り、崖が進路を裂いている。
地図には一本道と記されていたが、実際には分岐と裂け目が多く、視界は三十歩先が限界だった。
渓谷に入った途端、空気が変わった。
湧水の音が、兵の足音を吸い込む。
霧は昼にも立ち込め、視界は五十歩先も怪しかった。
「敵影、見えず」
先遣の報告は、毎度同じだった。
だが、兵は減っていた。
崖からの落石、吊橋の断裂、竹林の罠。
それらは、まるで“見えぬ手”に操られているようだった。
私は地図を広げた。だが、等々力渓谷は地図に収まらぬ。
湧水の流れは日々変わり、霧は風に逆らい、音は崖に消える。
「これは、地形を読む者の戦だ」
そう呟いたのは、私自身だった。幻斎は姿を見せぬ。
ただ、戦果だけが残る。
ある夜、竹林の奥で火が灯った。
狐の面をつけた者が、複数の方向から現れ、消えた。
兵は混乱し、誤射が起きた。
「幻術か」
そう言った若い足軽に、私は答えなかった。幻斎は、戦を好まぬ者だったはずだ。
だが、これは戦だった。湧水をせき止め、敵陣を水没させる。
崖上からの奇襲、横穴古墳の音響。
それらは、理を超えていた。私は、初めて“敗北”という言葉を意識した。
幻斎の姿は見えぬ。だが、彼の意志は、渓谷全体に満ちていた。
進軍開始から半刻が経過した頃、崖沿いを進んでいた歩兵の一人が、湧水に足を取られて転倒した。
岩肌に膝を打ちつけ、呻き声を上げる。隊列は一時停止した。
湧水の流れが、道の傾斜に沿って不自然に広がっていた。谷沢川の支流が溢れ、足元の苔を濡らしていた。
前方では、騎馬の一頭が吊橋に差しかかっていた。
その瞬間、橋板の一枚が沈み、馬が踏み外した。
騎手の叫び声とともに、馬体は谷底へと消えた。声は霧に吸われ、すぐに静寂が戻る。
私は崖の上に目をやった。
岩肌に、滑車の痕跡のようなものが見えた。
湧水の流れを操作する仕掛けが、そこにあったのかもしれない。
兵は、まだ誰とも戦っていない。
それでも、隊列は乱れ、損耗が始まっていた。
湧水の流れが、谷の奥へと導いていた。
崖の縁をなぞるように、隊列は進んだ。霧は薄れ、竹林の密度が緩んでいく。
湧水の音が、戦の終わりを告げていた。
兵は疲弊し、罠は尽き、霧は薄れ始めていた。我らは渓谷を突破した。
だが、そこに敵の姿はなかった。崖下の水路が開かれていた。
湧水を導く細い道が、谷沢川の流れに沿って伸びていた。
その先には、民がいた。老も、子も、女も、男も。
皆、静かに、整然と、逃げていた。「幻斎の策か」
誰かが言った。
私は頷いた。
兵を止めた。
渓谷の奥に、庵があった。
水月庵――幻斎が住まうとされた場所。私は、庵の前に立った。
湧水が庵の縁を濡らし、霧が再び立ち込めていた。戦の音は、もうなかった。
「幻斎」呼んでも、返事はなかった。
渓谷の奥にひっそりと建つ、草庵。兵は警戒を保ったまま、庵を囲んだ。
私は、庵の中に入った。
畳は乾いていた。
炉には灰が残り、硯には墨がわずかに残っていた。壁に、文が貼られていた。
墨痕鮮やかに、こう記されていた。
「戦は、形にあらず。意志にあり。」
筆跡は、整っていた。
書き置かれたものではなく、誰かに読まれることを前提とした筆致だった。
私は、筆録者としてそれを写した。
庵の裏手に回ると、崖の上に滑車の残骸があった。
長い時を経て、今となっては、鏡の吊り具も、白布も、すでに取り払われていた。
だが、痕跡は残っていた。湧水の流れ、崖の傾斜、鏡の角度。
それらは、戦術として設計されていた。幻斎――その名は記録に残っていない。
だが、意志は確かにあった。
湧水の音が、弘徳院の庭に響いている。
竹の葉が揺れ、石の間を水が走る。私は、筆を置いた。
等々力渓谷での戦は、三時間で終わった。
兵は誰とも戦わずに倒れ、隊列は乱れ、庵に辿り着いた。
敵の姿は、最後まで見えなかった。だが、損耗は確かにあった。
湧水の流れ、崖の罠、霧の矢、鏡の光。
それらは、意志によって動いていた。私は、記録者としてそこにいた。
終始我らを翻弄した等々力渓谷と幻斎。幻斎――確かに幻だったのかもしれない。




