第8話:2011年 揺れる心の交差点
◆ミライのアプローチ◆
2011年、春。
桜が舞う都内のレストラン。
ミライはワイングラスを片手に、向かいの席のシュンを見つめていた。
「今日、時間つくってくれてありがとう。」
「まあな。たまには気分転換も悪くない。」
その声に、どこか柔らかさが滲んでいる。
——こんな風に話せる時間が、ずっと続けばいいのに。
一年以上のプロデュース期間を経て、ミライのメジャーデビューは目前。数々の取材やステージを経験し、彼女は確実にスターへの道を歩んでいた。
けれど、心はいつもひとつの問いに縛られていた。
「ねえ、シュン……もし、私が普通の女の子だったら——ただのファンだったら、どうしてた?」
不意打ちの質問に、シュンはグラスを置き、少し眉をひそめた。
「……どうしてそんなこと聞くんだ?」
「たまには答えてよ、真剣に。」
ミライの瞳は、冗談ではなかった。
「……さあ。考えたこともない。」
その曖昧な返事に、ミライはかすかに笑った。
「やっぱりね。」
その笑顔の奥に、張り詰めたものが見える。
「あなたに出会ってから、ずっと考えてた。プロデューサーとアーティストの関係を壊したくないって。だから、気持ちは言わなかった。でも……」
言葉を切り、ミライはまっすぐシュンを見た。
「私、あなたが好き。」
一瞬、時間が止まったようだった。
「……ミライ……」
「あなたの音楽が、あなたの言葉が、あなた自身が……私の中に、どんどん入り込んでくるの。」
「でも……」
「わかってる。あなたの心には、まだ誰かがいる。それでも、私はここにいる。あなたの隣にいるのは——今は私でしょ?」
シュンは言葉を詰まらせたまま、視線を落とした。
「少しくらい、私にも希望を持たせてよ。」
ミライの声には、かすかに震えがあった。
彼女は笑顔を作りながらも、涙を堪えていた。
——この想いが、ただの片想いでも。
それでも、伝えずにはいられなかった。
◆シュンの葛藤と交際への一歩◆
数日後。事務所のスタジオに、ミライの声だけが響いていた。
シュンはモニター越しにその様子を見ながら、無意識に拳を握っていた。
——アイのことを引きずってるのはわかってる。
でも、ミライがそばにいてくれる時間は、確かに心を救ってくれた。
レコーディングが終わり、ミライがブースから出てくる。
「……お疲れさま。」
「ありがとう。今日は……どうだった?」
「よかったよ。歌声に、迷いがなくなった気がする。」
「それ、褒め言葉として受け取っていいのかな?」
「もちろん。」
ミライは嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、シュンの胸の奥が揺れる。
夜、シュンは一人、帰り道のベンチに座っていた。
桜の花びらが風に舞い、膝の上に落ちてくる。
(俺は……何を怖がってるんだ?)
「もし、アイと再会できたとしても……それが本当に“今”の幸せに繋がるのか?」
携帯を取り出し、以前届いたミライからのメッセージを見返す。
『私は、あなたの隣にいたい。過去じゃなく、今を一緒に生きたい。』
指が震える。
その夜。シュンはミライに電話をかけた。
「今、話せるか?」
「……うん。どうしたの?」
「少し、歩かないか?」
そして、夜の公園で再会した二人。
ベンチに並んで座り、しばらく無言が続いた。
「この前は……気持ち、ちゃんと聞いた。ありがとう。」
「うん……」
「俺も……お前のことを考える時間が増えてる。お前といると、自然でいられるんだ。」
ミライは静かに彼を見つめた。
「俺、ずっと過去に縛られてた。……でも、そろそろ前に進みたい。」
「それって……?」
「俺と付き合ってほしい。」
一瞬、ミライの目が潤んだ。そして、すぐに笑顔が花開く。
「……うん。よろしくね、シュン。」
桜が、二人の頭上でふわりと舞った。
◆交差点ですれ違う奇跡◆
同じ頃、羽田空港。
到着ロビーで深呼吸する女性の姿があった。
アイだ。
一時的な帰国。家族の事情とはいえ、数日だけでも日本に戻れることが、どこか心を弾ませていた。
——思い出すのは、あの“10時間”だった。
何年経っても、その記憶は色褪せなかった。
ふとスマホを取り出す。
そこには、昔シュンがくれた住所を映した画像が残っていた。
「……行ってみようかな。会えるかもしれないし。」
そう呟いて、アイはタクシーに乗り込んだ。
春の東京。
空には淡い雲が浮かび、桜がそっと風に揺れている。
その街角。
アイがタクシーを降り、地図を頼りに歩き始めたその時だった。
ふと前方、交差点の向こう側に見えたのは——
シュンだった。
「シュン……!」
思わず名前を呼ぼうとした、その瞬間。
反対側の歩道から一人の女性が駆け寄ってきた。
「シュン! 待った?」
——その声に、アイの足が止まる。
女性は、シュンの腕に飛びつき、自然な流れで手を繋いだ。
見覚えがある。
テレビで見た、あの女性——ミライ。
二人の姿は、まるで恋人同士のようだった。
アイは咄嗟に近くの街路樹の陰に身を隠す。
心臓が痛いほどに脈打つ。
(……そっか、そうなんだね)
声は出なかった。
そして、静かにスマホを取り出し、画面を見つめる。
震える指先で、短くメッセージを打つ。
『彼女と別れたら、会ってね』
送信。
——画面に表示された「既読」の文字。
返事は、なかった。
アイはそっとスマホをしまい、近くのベンチに腰を下ろす。
期待なんてしていなかった。
それでも、再会を夢見ていた自分がいたことに、気づいてしまった。
胸が締めつけられるような、でもどこか納得したような感情。
それは嫉妬でも怒りでもなく、ただ——静かな「諦め」だった。
「……これで、よかったんだよね。」
アイはそっと空を見上げた。
桜の花びらが、ふわりと風に舞っていた。
けれど——それは、アイにはただの紙切れのように見えた。
儚く、美しいはずの景色が、胸に何ひとつ届かない。
心にぽっかりと空いた空洞だけが、春の光の中に浮かんでいた。
(第9話へつづく)