第5話:2008年 シュンとアイの疎遠
◆メッセージの行き違い◆
「今日も、返事はないか……」
シュンは携帯の画面を眺め、ふっと小さく息をついた。
2007年の“10時間の奇跡”以来、アイとは定期的にメッセージをやり取りしていた。
あの夜、言葉にできなかった気持ちは、テキストの中で少しずつ形になっていった。
──でも、それはすれ違いの始まりでもあった。
シュン【また、会いたい】
アイ【うん、そうだね】
シュン【いつがいい?】
アイ【……うーん、もう少ししたら落ち着くかも】
そんなやり取りが何度も続いた。
アイの返事はいつもどこか曖昧で、はぐらかされているような気がした。
それでも、シュンは何度もメッセージを送った。
アイが送ってくるのは、日常の何気ない写真や、他愛のない話題。
──今日、久々に友達とカフェ行ったよ。
──最近、仕事がすごく忙しくて……。
たまに送られてくる写真には、オフィスのデスクや、カフェのラテアートが写っていた。
シュンは「いいね」と返信しつつ、本当は知りたかった。
──アイの隣に、夫はいるのか?
けれど、それを訊く勇気はなかった。
◆再び閉じる心◆
2008年の春。
シュンは音楽プロデューサーとしての仕事に没頭していた。
プロデュースしていたアーティストが地道に成長し、ようやくメジャーの舞台に立とうとしている。
忙しい日々に追われることで、シュンはアイへの募る想いを誤魔化していた。
それでも、心の奥底では期待していた。
──アイは、いつか俺に会いに来るんじゃないか?
そんな願いは、次第に打ち砕かれていく。
アイからの返信は徐々に減り、言葉も淡白になっていった。
ある日、シュンは思い切って踏み込んだメッセージを送った。
【アイ、俺は君が好きだ】
だが、返事は来なかった。
数日後、ようやく届いたアイからの返信は、たった一言だった。
【いつか会えるといいね】
それは、希望なのか、拒絶なのか。
「いつかって、いつだよ……」
──いつもこうだ。
好きになった相手は、いつか離れていく。
運命の相手だと思ったら、すでにその人にはパートナーがいる。
期待すればするほど、裏切られる。
シュンは携帯を握りしめたまま、ソファに沈み込んだ。
──もう、期待するのはやめようか。
そう思いながら、心の奥底にある諦めきれない想いが、なおも渦巻いていた。
「アイ……俺じゃ、ダメかな……」
◆すれ違うアイの現実◆
一方、シンガポール。
アイは仕事と家庭の狭間で苦しんでいた。
研究所での仕事は順調だった。
だが、夫のリー・ジンとの関係は冷え切っていた。
お互いに多忙な日々を送り、会話をする時間もほとんどない。
久しぶりに向き合えば、口論になるばかりだった。
……
シンガポールの夜。アイは夫と向き合っていた。
「……ねえ、ジン。今度の週末、どこかに出かけない?」
「出かける? 急にどうした?」
ジンは手に持ったワイングラスを傾けながら、眉をひそめた。
「なんか……最近、ちゃんと話せてない気がするから」
「話すことなんてあるか?」
冷たい言葉が、アイの心に突き刺さった。
けれど、ここで引き下がったら何も変わらない。
「私たち、夫婦なのよ?」
ジンはため息をついた。
「今さら何を言い出すんだ。俺は仕事で忙しい。そんな時間は──」
「仕事、仕事って、そればっかり!」
アイの声が、思わず強くなった。
「あなたはいつもキャリアのことばかり。でも私は違う。私はあなたとちゃんと向き合いたいの」
「向き合う? 僕たちは、もう十分向き合っただろう」
ジンは鼻で笑った。
──いつも、私をバカにするように笑う…
「……もう、無理なのかな」
「最初から、無理だったんじゃないか?」
──その一言が、アイの胸に突き刺さった。
ジンは静かに言った。
「僕たちは、結局、同じ方向を向いてなかった。」
お互い夢を追いながら、それでも一緒にいられると思っていた。
けれど、積み重なった時間の中で、ズレは修復できないほどに広がっていた。
「それでも、同じ方向を向くために話あうのが夫婦でしょ?もっと私の話を聞いてよ!」
「お前はいつも自分の話ばかりだ」
「あなたこそ、私の事なんて興味もないじゃない!」
「僕が興味ない?君はそう思っているのか?」
「私は家政婦じゃない……私だって、自分の人生を生きてるの。私には家事を押し付けてばかりよね。私だって自分の好きな時間を使いたいのに、ジンは自分の休日は何もしない。私も同じことをするとすぐ自分の主張を押し付けてくる。自分の研究の方が世の中の為になるとかなんとか…。」
「事実、そうじゃないか。僕は企業の、引いては国家のこれからを担っているプロジェクトに携わっている。君と僕ではプロジェクトの規模が違うんだよ。」
「だから何?それが私たちの家庭の序列に繋がっていると言うの?あなたは日本にいる頃からそうだったわね。高圧的で主張ばかりして、私への愛情は欠片も感じられない言葉の数々。もううんざりだわ。私にも仕事があるし…それに!」
「それに?」
「…もういい!!あなたとは話すことはないわ!!!」
言い争いの末、ジンは彼女の肩を強く掴んだ。
「……痛い」
その瞬間、彼ははっとして手を放した。
「……すまない」
ジンは一瞬だけ視線を落とした。
その瞳の奥に、押し殺されたような光が揺れた──それが怒りだったのか、後悔だったのか、アイにはわからなかった。
だが、それはすぐに消えた。
アイは無言で部屋を出た。
──もし、最初にシュンと出会っていたら…
──その思いに、自分自身が驚いた。
それは、夫との未来に希望を持てなくなり始めている証拠でもあった。
──だけど…本当にそれでいいの?
アイは深く息を吐き、手をギュッと握りしめた。
──やり直せるなら、やり直したい。
アイはそう思い直した。
……
翌朝、久しぶりにジンの好きなコーヒーを淹れた。
「おはよう。コーヒー、飲む?」
少しでも以前のように戻れたら、そう願いながら、笑顔を作る。
ジンは新聞をめくりながら、一瞬だけ彼女を見た。
「……ありがとう」
それだけだった。
アイは虚しさを噛み締めながら、自分のカップに口をつけた。
……
アイは、少しでも距離が縮まることを願いながら、夜には手の込んだ夕食を用意した。
ジンが帰宅すると、テーブルには彼の好きなシンガポール料理が並んでいた。
「たまには、こういうのもいいかなって思って」
「……そうか」
会話は、続かなかった。
夫婦なのに、まるで他人。
アイは、これが現実なのだと突きつけられる。
ジンは黙々と食事を進め、やがて食べ終わると、食器を持ったまま言った。
「もう寝る」
「……うん、おやすみ」
アイは、夫が去っていく背中を見つめながら、思った。
──やっぱり、ダメなのかもしれない。
かつては、お互いに夢を語り合い、支え合っていた。
けれど今は、目の前にいるはずの夫が、どこか遠く感じる。
その夜、シュンからのメッセージが届いた。
【また会いたい】
アイは携帯を握りしめ、しばらく画面を見つめた。
けれど、すぐに閉じた。
──もし今、会ったら、私はもう戻れなくなる。
そう思いながらも、やはり心の奥で浮かぶのはシュンの顔だった。
──なんで、最初にシュンに出会わなかったんだろう・・・。
シュンからのメッセージを見るたび、アイの心は揺れ動いた。
【アイ、俺は君が好きだ】
──嬉しかった。
私も同じだよ。
でも、私は結婚しているの。
【いつか会えるといいね】
そう送るのが精一杯だった。
──ごめん、シュン。
◆埋まらない心の隙間◆
シュンは、アイとの距離が広がるたびに、心にぽっかりと穴が空いていくのを感じていた。
そんな中、知人の紹介で出会った女性・ナツキ。
明るく、気さくで、音楽への理解もある。
彼女からの好意は明らかだった。
何度かの食事を重ね、週末の小旅行も約束する。
週末に海にドライブに行った。
潮風に吹かれながら二人で笑い合い、どこかのカフェでゆっくりコーヒーを飲む。
そういう時間を過ごせば、もしかしたら本当にナツキを好きになれるかもしれない。
「……そろそろ、行こうか。」
そう言った瞬間、携帯のバイブレーションが鳴った。
ポケットから取り出してみると、そこに表示されていたのは アイ からのメッセージだった。
【シュン、元気にしてる?】
それだけの、たった一行。
けれど、シュンの心臓は一瞬にして跳ね上がった。
──なんで今なんだよ……
「どうしたの?」
ナツキが心配そうに覗き込む。
「いや……なんでもないよ。」
シュンはそう言って微笑んだが、アイのことが頭から離れなかった。
「……シュン君さ、今、幸せ?」
不意に投げかけられた問いに、シュンは返事に詰まった。
「幸せ…?」
「うん。なんていうか…私は、シュン君とこうしていると楽しいし、すごく落ち着くんだけど…でも、どこかで感じるんだよね。シュン君の心が、ここにはないって。」
「……ごめん」
ナツキは微笑む。
「やっぱり、そういうことだよね」
「……ごめん。忘れられない人がいる」
ナツキは涙をこらえ、微笑んだ。
「きっと後悔するよ」
そして、そのまま──ふたりは離れていった。
シュンは空を見上げた。
──なんで、最初にアイに出会わなかったんだろう・・・。
その頃、遠く離れたシンガポールでも、アイは同じ言葉を呟いていた。
◆そして、心を閉ざす◆
シュンは相変わらずメッセージを送り続けていた。
「元気にしてる?」などの返信を期待するような文から、深刻さをにじませ、相手に興味をひかせるものまで。
でも一貫してアイからの返信は、シュンとの間に壁を作るような、当たり障りのないものだった。
2008年の終わり。
シュンはメッセージを送るのをやめた。
アイもまた、返す言葉を探すのをやめた。
──取り戻せない距離。
──埋めようのない想い。
ふたりは、それぞれの場所で、胸に孤独を抱えたまま、ただ時間だけが過ぎていった──。
(第6話へつづく)