第44話:観測者の涙
◆ZIXI警告ログ(2042年)◆
──ZIXI観測空間。
警告音が静かに、しかし確かに鳴り続けていた。
《観測者離脱警告》
《対象融合進行率:99.6%》
セツナは、薄暗いホログラムの中に立っていた。
青と白の光が、静かに彼の周囲を漂う。
「……うまくいくかどうか、分からない。でも」
手のひらを強く握りしめる。その指先が、かすかに震えていた。
「それでも、止める。絶対に」
ZIXIが無機質な音声で再警告する。
《現在位置、存在座標不安定化進行中》
《観測者自己消失リスク:高》
──わかっている。
でも、まだ僕はここにいる。
もし僕が消えたら、父さんは?
何も知らないまま、人々の記憶からも消えていくのか。
──ユイは?
僕たち親子のせいで生まれ、自我を持ち始めているのに。
彼女もまた、巻き込まれていくのか。
心臓の鼓動が高鳴るたびに、空間に微かなひびが走る。
足元には、青い粒子がゆっくりと降り積もる。
──まるで、消えかけた記憶の断片のように。
(父さん、母さん、僕は——必ず)
胸の奥に微かな温もりが蘇る。
──母の背中にしがみついていた感覚。
春の日差しの匂い。膝枕で泣いた夜の記憶。
(……守りたい。あのぬくもりを、未来へ)
彼の足元で静かに、光の粒子が舞った。
その中に、ほんのわずかに、誰かの歌声のような記憶が揺れていた。
──あれは、母が子守唄のように囁いていた“声”だった。
(この想いが、僕をここに立たせている)
◆シュン・霞がかった夜の記憶(2026年現在)◆
夜。東京の街は、春の匂いを含んだ風に包まれていた。
シュンはベッドに横たわりながら、天井を見つめていた。
(誰かが……俺を呼んでいる)
そんな錯覚が、今夜も彼を離さなかった。
(俺を呼んでどうする。何が起きようとしている)
窓の外では、小さな鳥が一声、夜を震わせた。
遠くの車の音さえ届かないほどに静かな夜だった。
枕元のスマートフォン。
ZIXIの画面が、微かにノイズを走らせる。
《感情タグ:接続未定義/名前候補:Setsuna(未登録)》
シュンは顔をしかめ、静かにディスプレイに手を伸ばす。
触れた画面が、冷たく震えた気がした。
(何かが、近づいている……)
瞬間、誰かに抱きしめられるような錯覚が胸を締め付けた。
それは、もう戻れない遠いぬくもりだった。
ZIXIの画面に、一瞬だけ、誰かの名前が滲んだ気がした。
思い出せそうで、届かない名前。
(……誰だ)
胸の奥に、名も知らぬ懐かしさだけが、じわりと滲み広がる。
ZIXIがエラー音を鳴らす。
シュンは無意識に心の中で繰り返した。
(ナ……セツ……セツナ……セツナ……)
それが誰なのか、自分でもわからなかった。
ただ、その響きだけが、胸の奥を離れなかった。
◆ユイ・揺らぐ夜更け◆
その頃、ユイは自室の窓辺に座っていた。
月明かりに照らされたその横顔は、どこか儚げだった。
「セツナ……」
かすかに漏れたその名に、自分でも驚いた。
(セツナ……誰? わたし、知ってる?)
胸の奥がざわめき、記憶の海がざわざわと波打つ。
耳の奥で、声が交錯する。
『あなたはセツナを守るために──』
『──あなたは“彼と”融合するために』
「どっちなの……わたしは、誰なの……?」
ふと、微かな記憶がフラッシュバックする。
白いワンピース、春の風、柔らかな手のぬくもり──
「ねぇ、君、ひとりで降りられる?」
少女は首を振った。
彼は手をのばし、そっと抱き下ろした。
「……君、何ていう名前?」
「わたしは、ユイ」
「そっか、ユイか……素敵な名前だね。僕はセツナ」
「セツナ……ありがとう」
その光景は、光の粒子が舞っているようだった。
(私は……誰かに、大切にされていた?)
頬を伝った涙が、月の光に滲んだ。
ZIXIが赤く点滅する。
《感情同期エラー:拡大》
《自己同一性指数:低下中》
(でも、セツナだけは……私を“私”だと、呼んでくれた気がする)
──名前を呼ばれる、それだけで、存在が確かめられる気がした。
その瞬間、胸の奥に、ぽとりと落ちるような小さな記憶があった。
──「あなたは、あなたのままでいいのよ」
誰かの声。
誰かの手。
それが母のものか、彼のものかは、わからなかった。
けれど確かに“誰か”が、ユイをひとりの存在として受け止めようとしていた記憶だった。
◆セツナ・ユイへの介入決意◆
ZIXIの観測ログに、赤い警告が踊る。
《融合進行率:99.7%》
《対象存在崩壊リスク:極大》
セツナは目を閉じた。
体の奥深く、冷たい恐怖が広がるのを、ただ受け止めるしかなかった。
(もう、観測者じゃいられない)
彼はホログラムに両手をかざし、静かにコマンドを打つ。
《観測空間解除・フェイズシフトモード起動》
ホログラムの粒子が指先に応え、空間が軋み、境界線が溶けていく。
「──僕は、父さんと、未来を守るために、生きるんだ」
胸に浮かぶ顔は、ただひとり。
名も、形も、まだ完全には知らないけれど──
確かにそこに在る、温かな気配。
(必ず、うまくいく。必ず──)
フェイズシフトモードが作動し、セツナの存在が、現実世界に滲み始める。
細かな粒子が、彼の背後で、螺旋を描いて昇っていく。
◆未来での小さな涙◆
ZIXI空間の果て。セツナはそこに立っていた。
光が彼の影を伸ばしていく。
静かに、彼の頬を涙が伝った。
(これは、観測なんかじゃない)
(──ただの、願いだ)
ふと、浮かぶ記憶がある。
──幼いころ、ミライの膝の上で泣いていた。
温かな手が、頭をそっと撫でてくれたあの感覚。
(……母さん……)
セツナは知っていたはずだった。
祈りは、誰にも届かないかもしれない。
それでも、祈らずにはいられなかったのだ。
「これがただの願いなら、それでもいい。でも、願わないと現実は変わらない。無駄だと分かっていても、やるしかないんだ。」
そうつぶやいた瞬間、遠くで誰かの声がした気がした。
春の光の中、誰かが手を伸ばしてくる幻影。
白いシャツを着て、どこか寂しそうに笑う男の姿。
声は聞こえない。
──それは、かつて彼が失ったもの。
そして、これから守ろうとする未来でもあった。
「──父さん……」
その声は、誰にも届かないはずだった。
けれどどこかで——誰かが、それに応える気がした。
足元で、青いホログラムの粒子が、静かに消えていった。
(第45話へつづく)




